Chapter 4〜捕虜


ジャワ号の生き残った乗員は、捕虜としてコンスティテューションに移された。沈みかけたジャワ号には火が放たれた。多くの負傷者のため、索類収納庫が大きな病室に姿を変えていた。スティーブンはコンスティテューション号の軍医エバンス氏と共に働きながら、彼の腕と、敵味方を区別せぬ献身に尊敬の念を抱いた。2人はランバート艦長を救えると思い、高熱と壊疽の現れたジャックはほとんど諦めかけていた。予想に反し、ランバートは死に、ジャックは生き延びた。捕虜はサン・サルバドル港で上陸し、そこから交換されることになったが、ジャックは動かせる状態ではなかった。コンスティテューション号はジャックとスティーブンを乗せたまま、アメリカへ向って出航した。

レパード号、ラ・フレシェ号、ジャワ号と、英国を出て以来、ふたりが乗る船乗るは次々と災難に遭いますね。いつまで続くこの不運。

ジャックの腕の傷はたいへんなことになっているみたいです。当時はなにしろ、抗生物質ってものがありませんから、傷自体よりも、感染症がたいへんなんですね。抗生物質も麻酔もない時代の医者はたいへんだ。以前に「グラディエーター」のファン・フィクションを訳していたのですけど、それに出てきたローマ軍の医療現場と、これに出てくる19世紀の軍艦の医療現場と、大して変わっていないような気が。医学って、帝政ローマ時代から19世紀まで、あんまり進歩していなかったのかしら…

アメリカ海軍の士官たちはとても親切だった。彼らはジャワ号士官の持ち物が紛失したり奪われたりしないように、全て回収して持ち主に返してくれた。その中には、スティーブンの日記帳もあった。

日記は、アヘンチンキと並ぶ彼の依存症と言ってよかった。諜報員が日記をつけるなど、愚かなことだ−たとえ、専門家でも解読できない厳重な暗号を使っていても。それに、諜報関係の事は厳重な暗号にしてあっても、個人的な記述は暗号化が甘く、カタロニア語に堪能な専門家が時間をかければ、解読されてしまうかもしれない。軍事的には害はなくても、当然誰にも読まれたくはない−特に、ダイアナに対する想いが大半を占めているとあれば。ジャワ号が降伏した時、艦の秘密書類と同じように重しをつけて沈めるべきだった。手術をいくつも抱えていなければ、そうしただろう。

サン・サルバドル港で、彼はアメリカ軍の艦隊司令官のところへ日記を取りに行った。「それは軍事機密に関係のあるものなのかね」艦隊司令官は訊ねた。これは医学と博物学に関する個人的もので、海軍にはまったく関係ない、と彼は答えた。日記のあちこちに人間や動物の解剖図があるのも助けになった。「なぜ文が暗号にしてあるんですか?」「個人的な事を他人に読まれたくないのももちろんですが、医者として患者の秘密を守る目的もあります。博物学者としては、他の学者に発見者の栄誉を奪われたくないという欲がありましてね。」スティーブンは説明した。艦隊司令官は納得し、日記を返してくれたが、彼の隣に立っていた民間人は納得していないようだった。

日記は返してもらえたが、スティーブンは落ち着かなかった。彼が患者について行きたいと言ったとき、あっさり許可されたのも罠のように思えた。コンスティテューション号には2人のフランス人民間人が乗っていた。その1人ポンテ=カネの顔を、スティーブンはたしかにどこかで見た事があった。


スティーブンの日記というのは、文章の中によく出てきますが、ダイアナに対する想いを書いた部分っていうのはあまり出て来てなかったような。詩もあるらしい。それはちょっと読んでみたいなあ〜。

スティーブンは、一度平文で書いてそれを暗号化するのではなく、直接暗号で書くことができるのです。それに、気分によって英語、フランス語、カタロニア語、スペイン語の四ヶ国語を使い分け、それにラテン語も加えているという…どういう頭の構造をしているんだか。たしかに、普通の医者や学者が、絶対解読できないような暗号で日記を書いていること自体、思い切り怪しいですよね。

スティーブンはポンテ=カネをどこで見たか思い出した。和平の時、ツーロン港でクリスティ=パリエール艦長に招待されたレストランで彼と話していた男だ。あの時、彼はジャックとスティーブンをじろじろと見ていた。

ジャックの腕を切断すべきがどうか、スティーブンは一時迷った。もうすぐ寒い海域に入るので大丈夫だろう、とエバンスは言った。しかし、ジャックの容態は思わしくなかった。「JAが65歳になった時の顔を見てしまった」と、スティーブンは日記に書いた。粉砕骨折した右腕の激痛以上に、彼を苦しめているのは敗北だった。ジャックは、勝利に浮かれている乗員たちとはなるべく顔を合わせないようにしていた。歩けるようになると、彼は甲板に出ては空しく海を眺め、英国艦の姿を探していた。

「あれがケープ・フィアーです」エバンスが指差した。「これからは寒さが厳しくなります。冬用の衣類をお持ちですか?」「いいえ。持ち物は全て海に沈みました。」コレクションのことが頭をよぎり、スティーブンの胸は痛んだ。「でも、どうせボストンに着けば数日で交換になるでしょう?」スティーブンが言うと、エバンスは困った顔をした。「さあ。捕虜交換は、遅れることもありますし…」


クリスティ=パリエール艦長との食事は、2巻4章。スティーブンはその時何を食べていたかまで思い出しています。鶏のワイン煮、野ウサギの背肉…よっぽど美味しかったのでしょうね。

そう、スティーブンの貴重なコレクションはラ・フレシェの船火事で全て海の底へ沈んだんでした。でも、そのコレクションの保存用アルコールが船火事の一因になったのかも…ウォンバットちゃんたちが喜望峰で降ろされていたのは不幸中の幸い。それでもスティーブン、日記は持ち出していたのね…

艦がボストンに近づき、乗員は浮かれていた。それに反比例して、オーブリー艦長は沈み込んでいた。彼はボストン港を封鎖しているはずの英国艦隊を探して、吹きすさぶ寒風の中を1日中甲板に立っていた。身体は冷え切り、腕のあまりの痛みに、時々手摺にすがらなくてはならなかった。親切に手を貸そうとするアメリカ人を、ジャックは罵倒して追い払った。やがて、彼に同情する者もいなくなった。元々、同情する者は少なかった。彼はあのレパード号の艦長だったからだ。医者たちは彼に甲板に出ないよう命令し、交替で見張ったが、彼は何度も抜け出した。彼が肺炎で倒れたとき、気にかける者はほとんどいなかった。

「残念ですが、オーブリー艦長の交換は遅れるようです」エバンスがスティーブンに言った。「なぜです?」「噂ですが、彼がレパード号の艦長だったからのようです」「しかし、彼はチェサピーク号の事件とは関係ない。」「その事件ではなく…」エバンスは言葉を濁した。その時、そばで寝ていたジャックがぱっと起き上がり、「針路風上!」と叫んで、また倒れた。脈を取ると、とてもしっかりした鼓動が感じられ、医者たちはほっとした。

「これから、どうすればいいでしょう?」スティーブンがエバンスに訊いた。「病院はお薦めできません。あの湿気は肺炎患者には…私の義兄のドクター・チョートが、アスクレピアという病院をやっています。そこなら環境もいい。ただ、義兄は変わり者でね。戦争やインディアンの迫害や奴隷制に絶対反対で、ペイピスト(カトリック教徒)のアイルランド女性ばかりを雇っている。ボストンでは評判が悪くて、患者は家族に遠ざけられた精神病患者ばかりです。正直に申し上げておいた方がいいと思いましたので…」スティーブンは、是非そこに入院させたいと言い、エバンスは責任者の艦隊司令官に頼みに行った。

艦隊司令官はすぐに許可をくれ、エバンスは彼から現金と手紙を預かって帰ってきた。「『オーブリー艦長へ どうかこれをお受け取り下さい…当座のお役に立てれば幸いです。』何とご親切な。友人に代わって、喜んでお受けします。」スティーブンが言った。「我々はみな、戦争のもたらす運不運に翻弄される身の上です。どうか私からも受け取って下さい。」エバンスも金を差し出した。無一文のスティーブンは、心から感謝して受け取った。


ジャックって、夢の中でも艦を指揮しているのかなあ。突然がばっと起き上がって叫ぶジャックも可愛いけど、それに全く動じないスティーブンとエバンスさんもなかなかいい感じです。あ、やっとでましたね題名由来。

ジャックはアスクレピア病院の、港の見える部屋に落ち着いた。アスクレピアは快適な環境で、スティーブンは満足した。精神病患者が、監禁もされずに自由に歩き回っているのはいささか珍しかったが。ジャックの肺炎は治った。腕はまだ痛かったが、カナダでの陸軍の勝利を聞いた彼はかなり元気を取り戻し、ボストン名物のクラムチャウダーや豆料理やタラを凄い勢いで平らげていた。

彼はソフィーに手紙を書いた。「僕はいつもネルソンの真似をしたいと思っていた(結婚生活以外はね)。今、彼みたいに左手で書いているんだよ…捕虜交換で帰るバルワーに預ける。理由は分からないけど、僕の交換は遅くなっている…ここは変わった病院で、みんなが好きなように病室を出入りしているんだ。僕の病室によく入ってくる患者は、メキシコの皇帝だと名乗っている…でも、みんな見かけほど狂っている訳じゃない。芝居なんだ。みんな、僕も冗談で英国海軍の艦長だと名乗っているだけだと思っている…」

その時、3人の男が彼の病室に入って来た。「海軍省のブレントンと申します」1人が言った。「ようこそ」ジャックはにっこりと答えた。「私はジョン・オーブリー、ローマ法王の息子です。」


(結婚生活以外は)と、わざわざ付け加えるジャック、気を遣ってますね。でも本当(笑)?

ジャックの体重、漂流中に4ストーン(25.4kg!)減ったそうですが、もう3ストーンぐらいは戻してそう。フランスと違ってボストンの食事って、大して美味しそうじゃないですけどね。私は一度だけボストンに行ったことがあって、名物のシーフードを食べましたが、あんまり美味しくなかった…。

危険性のない軽症の精神病患者が、病院の中を自由に歩き回るぐらい今では普通でしょうが、当時の精神病院は檻に入れて鎖でつないで鞭で打ったりしていたらしい。(映画の「アマデウス」の最初に出てくる病院みたいに。)それって絶対悪化すると思うが…

スティーブンが冬用衣料を買って帰ってくると、ジャックは沈んでいた。また英国艦がアメリカに負けたのだ。「他にも不愉快な事があったんだ。米国海軍省の人間が来たんだが、いきなり入ってくるから、てっきりここの患者だと思って、ふざけた返答をしてしまった。」「何を訊かれた?」「レパード号は開戦前に、アメリカ商船アリス・B・ソーヤー号を砲撃したかと訊かれた。」「そんな事はしていないじゃないか」「そうだ。でも証拠はないし、彼らはとにかくレパード号を憎んでいるんだよ。おれの交換が遅れているのも、そのせいらしい。」

その時、看護婦が来て「ドクターにご婦人の面会です」と言った。開いたドアから、楽しそうな女性の笑い声が聞こえ、2人は思わずにっこりした。「あれはルイーザ・ウォーガンだ。あの笑い声はすぐわかる。おれは面会する元気はないから、適当に断っておいてくれ。」ジャックは言った。


ルイーザさんは待合室で患者さんとお話していて、それで笑っているのです。ジャック、気にしなくても、彼女はあなたに会いに来たわけではないみたいよ。