Chapter 5〜ボストン


「ドクター、お変わりありませんわね!」「あなたも。その後の航海は無事に?」「ええ。赤ん坊は、ホーン岬の嵐の中で生まれましたのよ。ヘラパスはよくやってくれましたわ。ええ、彼も元気です。」二人は思い出話に花を咲かせながら、ルイーザの家まで歩いて行った。

ルイーザが彼を古い友人として扱っているのが不思議だった。彼女がフランスに渡した偽書類は、怖ろしい程の効果を上げたが、今では真相が明らかになっているはずなのに。ドクターは利用されただけだと思っているのかもしれない…全てはオーブリー艦長の差し金だと。書類がドクターから渡された事を、ヘラパスが話していないという可能性もある…「危ない!」彼女は馬車に轢かれそうになっていた彼を引き戻した。「まあ、気をつけてお歩きになって。」

「…でも、ダイアナ・ビリャズとお知り合いだと、なぜ言って下さらなかったの!」「話に出ませんでしたから。あなたは彼女と知り合いなんですね?」「もちろん。いい友人ですわ。彼女の恋人のハリー・ジョンソンと同郷で、長い知り合いですの。二人は水曜にボストンに来る予定です。彼に会わせたいわ。彼も鳥が好きなんですよ。」


ここの思い出話の中で、衝撃の事実が明らかに…なんと、あのバビントン君の犬、フレンドリー諸島の原住民に食べられてしまったそうです。飼い主に似てお調子者だったけど、ドクターを助けてくれたこともあったのにねえ。原住民は代価として乙女を差し出したそうですが…犬の代わりが乙女?(こわっ。)でも、もらっても困るよね。

ジプシー女のミセス・ボズウェルはボタニー・ベイで再婚し、ペギーちゃんは大勢恋人がいるそうです。それはよかった。しかし、5巻と6巻の間に、いろんなことがあったのねぇ。

ヘラパスは小さな家で二人を待っていた。彼は、幾分後ろめたそうな様子でスティーブンに挨拶した。ルイーザは赤ん坊のキャロラインを見せた。赤ん坊はけたたましい声で泣き続けた。ルイーザはお茶を入れに行き、彼はマイケルと話した。「李白の詩を翻訳しているところです。これが出版されれば、その利益で医学校に行けるかもしれません−ドクターが勧めて下さったように。父がドクターを食事にご招待したいそうです。受けて下さいますか?」

ルイーザが黒人の召使にお茶を運ばせて持って戻ってきた。「お口に合うといいのですが…」スティーブンは海鳥の糞の溶け込んだ雨水だけで生き延びたことがあるが、このお茶はそれより、ほんの少しだけマシな味だった。


そりゃ、どういうお茶やねん!(<前にも言った気がする突っ込み。)ボストンの紅茶って不味いのかな。そういえば「ボストン茶会事件」ってのがありましたっけ。お茶のあまりのマズさに怒って海に捨てたという…(<違います。)

この二人、夫婦かと思ったら結婚してはいないのですね。というか、ルイーザはウォーガン氏と離婚できていないようです。二人はヘラパスのお父さん(貿易商、元王党派、お金持ち。5巻6章参照)のわずかな仕送りで生活しています。貧しそうな割には黒人の召使が3人もいるのね…と思ったら、この人たちはお父さんがメリーランド州の親戚から借りた奴隷のようです。

ここで気になったのは、ドクター視点での赤ん坊の代名詞が"she"ではなく"it"なんですよね。ドクターって、動物は好きだけど、子供は嫌いなのねぇ。

ヘラパスの父、ジョージ・ヘラパス氏は、大柄で自信に溢れた人物だった。彼はスティーブンに、マイケルが世話になったことを感謝し、息子がこんなに立派な方と知り合えたのは幸運だ、と言った。食事の間、同席していたマイケルはほとんど口をきかず、銀食器をこっそりポケットにしまっていた。乾杯の時、ヘラパス氏は「国王に乾杯」と言った。

ヘラパス氏はスティーブンと二人で話がしたい様子で、食事が終わるとマイケルと他の客をさっさと帰した。彼はマイケルのことを相談した。彼はルイーザが気に入らず、早く息子と別れさせたがっていたが、孫のために少しずつ金を渡していた。スティーブンはマイケルを医学校にやることを勧めた。

スティーブンは彼に、ハリー・ジョンソンという人を知っているか訊ねた。「ボルチモア出身のハリー・ジョンソンですか?彼は大金持ちで、おそらくこの国で一番の奴隷所有者です。有力な友人が大勢いるようで、国務長官の相談役です。南部一の女たらしでね。正直に言うと、彼がルイーザを連れて行ってくれたらいいと思っているのですよ。」

ヘラパス氏と元王党派の仲間は、この戦争に反対している連邦主義者と手を組んでいる−スティーブンに情報を渡したいので、ぜひ仲間と会って欲しい、と彼は言った。スティーブンは、この家は見張られている可能性もあるので、目立たない店で会った方がいいと答えた。


ここでヘラパスのお父さんは、メリーランド州(ボルチモアのあるところ)出身者のことをクソミソにけなしています。私、ボルチモアはてっきり北部だと思っていたのですが、メリーランド州は南部と北部の境目にある州で、この時はまだ奴隷州(奴隷制度を認めている州)だったのですね。(南北戦争の時は、首都ワシントンを孤立させないために、北部が何とか引き止めたようですが。)もちろんボストンのあるマサチューセッツ州は自由州(奴隷制度を禁止している州)。南北戦争まではまだ半世紀近くあるので、この時の政治的状況はまた違うのでしょうけど、すでに南部と北部には感情的対立があったようです。

ヘラパス氏はアスクレピアまでスティーブンを送り、ジャックと面会した。彼は息子の命を救ってくれたことを感謝した。ヘラパス氏は貿易商で何隻も船を所有しており、自らも何度も航海していた。二人は船と航海の話で意気投合した。

ヘラパス氏が帰ると、スティーブンは珍しくジャックに告白した。「明日、ダイアナがボストンに来るんだ。実は迷っている…こちらから会いに行けば、迷惑かもしれないし…彼女から何か言ってくるまで待っているべきかどうか…」「そうか。」ジャックは何と言っていいかわからなかったので、「ソフィーに手紙を書いてくれたこと、彼女にはとても感謝している。」とだけ言った。


ヘラパス氏は、妹がアスクレピアに入院していて、新月のたびに見舞いに来ているそうです−彼女は「人狼」なので。 この病院、いろんな人がいるのねえ…

その夜、スティーブンはルイーザに呼び出されて彼女の家に行った。ルイーザは「私はヨーロッパで自由のために働いていた」と打ち明け、自分が流刑になった経緯をすべて『告白』した。「…死んだ士官の部屋から発見されたと称して、艦長がヘラパスに写しを取らせた書類がありましたでしょう?…きっとお忘れね、あなたは鳥ばかり見ていらっしゃったもの…あれ、真っ赤な偽物だったのです。私、あの書類を盗んでアメリカに持ち帰ったのです。でも、あれを渡した後、大変なことになってしまって…仲間が絞首刑になり、ジョンソンは危うく立場を失うところでした。」「ダイアナの知人のジョンソンですか?」「ええ。彼はもうすぐボストンに来ます。ダイアナと彼は、いつもフランションズ・ホテルの二階を全室借り切るんです。あなたを彼に会わせたいわ。」スティーブンは「私も是非お会いしたい」と答え、家を辞した。

スティーブンはフランションズ・ホテルに立ち寄った。豪華なホテルで、フランス人が多く宿泊しているようだ。彼がホテルを見ていると、ポンテ=カネが出て来て、二階にいる男に声をかけていた。スティーブンは急いで人ごみにまぎれ、ヘラパス氏たちとの会合に赴いた。予想通り、会合では大した情報は得られなかった。


自由のために戦っているとか言っても、奴隷がいることは気にしないのね…と、私は考えてしまいますが。まあでも、何でもかんでも現在の視点でもって批判するのはいけないわね。当時には当時の価値観があるのだから。うーん、でも、この時代で奴隷を所有している人って、どうしても嫌悪を感じてしまう。ルイーザさん、悪い人じゃないんだけどね…特に、ドクターのことはとことん信用しているあたり。そこが諜報員としては弱点なんだけど。

帰り道で、スティーブンはルイーザのことを考えた。彼をジョンソンに会わせたがっているのは、アメリカのスパイとしてスカウトするつもりだろう。スティーブンは二重スパイを演じる気はなかった。周りの人間全てを騙すことになってしまう…これ以上の欺瞞には耐えられない。しかし、ジョンソンには会わねばならないだろう。ルイーザはスティーブンを信頼し、必然的にオーブリー艦長が悪者になっている。アメリカ海軍がアリス・B・ソーヤー号の件をでっち上げて彼の交換を遅らせているのは、おそらくそのせいだ。

アメリカはどこまでやるつもりだろう?彼の偽書類で被害を受けたのは、主にフランス諜報部で、アメリカ諜報部は面目を失っただけだ。ボナパルトの諜報網は、復讐や情報を得るためなら手段を選ばないだろう…彼の手には、何年も前にフランスの尋問を受けた時の傷が未だに残っている。フランスとアメリカは同盟国ではあるが、国の成り立ちはまるで逆だ…


だいたいにおいて、このシリーズでは「ナポレオンのフランス帝国」が悪役で、アメリカは敵国であっても好意的に描かれています。

映画の「Master and Commander:The Far Side of The World」では、原作ではアメリカ艦である敵役の艦がフランス艦に変えられています。このことを批判する人も多いけど、最初の映画化の敵役としては、むしろフランス艦の方が自然だと思うなあ、私は。シリーズ全体としては、ナポレオンのフランスが敵になっていることは確かなんだし。

病室に帰ると、ジャックはいつものように、窓から望遠鏡で港を眺めていた。ジャックは「ハリファックスから英国海軍のアンドリュー氏が来て交渉をしてくれている」と言い、彼から預かった手紙を渡した。それはハリファックスの英国諜報部からで、フランス諜報部の大物ジャン・デュブルーユがアメリカに来ているという知らせだった。

「港を観察して分かった事をアンドリューに話したんだ。チェサピーク号が入港している事とか…話し忘れた事があるんで、手紙を書こうと思う。」「とんでもない、何も書くな」スティーブンは言った。「話す事にも気をつけてくれ。君は諜報員だと思われている。それで交換が遅くなっているんだ。容態が悪いふりをして、面会は拒絶しろ。ドクター・チョートに話しておく。でも、心配はいらない…この話はいずれ立ち消えになるさ。」「おれの『インテリジェンス』を疑っているのか?そりゃあ、すぐに立ち消えになるだろうな、は、は、は」「冗談を言う元気があって何よりだ。それじゃ、もう寝るよ。明日は僕もインテリジェンスが必要なんでね。」


intelligence:【1】 知能、知性、知力【2】 諜報、諜報機関

どうして私は、ジャックのくだらない冗談を絶対に飛ばせないんだろう。うーん、ダジャレを思いついた時のジャックの、いかにも嬉しそうな様子が、あまりに愛らしくてね…

しかしスティーブン、ひょっとしてジャックにえらい迷惑をかけていないか?でも敵に、「スパイはオーブリー艦長じゃないですよ。実は私なんです」って言うわけにもいかないしね。

この巻は、このあたりから本格的にスパイ小説の様相を呈してきて、登場人物が多くてややこしいのです。ちなみに、こういう昔のスパイもののことを、"Cloak and Dagger"(外套と短剣)と言うそうですね。