Chapter 7-1〜敵地


スティーブンは病院に帰り、ジョンソンと何を話したのかとジャックに訊いた。「ああ、礼儀正しい人だな。アリス・B・ソーヤー号のことは不幸な手違いで、すぐに誤解はとけるだろうって言っていたよ。君の事を、ラテン語やギリシア語にも堪能な知識人だって褒めるから、フランス語やカタロニア語もペラペラだって教えてあげた。彼はフランス語が苦手だそうだ。フランス語の手紙を見せて、さっぱり分からないって言うから、読むのを手伝ってあげたんだ。…なあ、Pongって、橋のことだよな?え、違う?…スティーブン、おれ、何かまずいことを言ったかな?大事なことは黙っていたつもりなんだが。」「…いや、大丈夫だ。今日の港の様子は?」「シャノン号が港を覗きに来てる。」ジャックは望遠鏡を取った。「マストにブロークがいるな。見るか?」スティーブンは望遠鏡を覗いた。「全然わからない。こんな距離でわかるなんて、彼をよく知っているのか?」「ああ、従兄弟みたいなもんだ。」

「おれの母が死んだ時、彼の家でしばらく過ごしたんだ。2人で川にボートを浮かべて遊んだよ。すぐにひっくり返るボートで、おれは1日に何回も彼を水から助けていた。おれが『1回助けたら半ペニーくれよ』って言ったら、彼は『君は泳げるんだから、泳げない者を救うのはキリスト教徒としての義務だ』って言ったもんだ。信心深い、真面目な男なんだ。艦長になってからも、娼婦を艦に上げるのは許さないし、士官候補生のラム酒を減らしている。」「それは君もじゃないか。」「おれは艦の規律を乱さないためにやっているんだ。でも彼は、酒や女は神に対する罪だと思っている。金持ちの娘と結婚したんだが、奥さんは気鬱症で、結婚してからの彼はあまり幸せそうじゃなかったな。でも、艦長としてはとても優秀なやつだ。」


ジャック、橋は"pont"よ。このぐらいは私でも知っている。スティーブンは"Pong"は"Peacock"(クジャク)だと言っているけど、クジャクは"poan"なんですよね。"Pong"というフランス語は辞書にないんです。…??? スティーブンは、ジャックが記憶違いをしていることを前提で言っているのかな。(あ、念のため…ジョンソンは、ジャックがフランス語が出来るかどうか確認するためにこんなことをしたのです。ジャックにあの偽書類が作れた筈はないことを、深く深く納得したことでしょう。)

ジャックは自分を褒められるより、スティーブンを褒められると喜んで、相手を「いい人だ」と(いくらかは)思ってしまう癖があるようで。弱点ですな。

溺れる人を救助するのは、ジャックの得意中の得意ですが、その原点はここだったのね。「半ペニーくれ」って言うのもジャックらしいけど、「義務だ」って言われたら素直に納得して、それからずっとその言葉に従ってきたんなら、それもジャックらしいと思います。

看護婦が夕食を運んできた。「あら、ドクター、お部屋にいらっしゃるのかと思いましたわ。お客様をお通ししましたのに」「客?」「外国人の紳士ですわ。」スティーブンはすぐに部屋に行ったが、客は帰った後だった。部屋には探られた痕跡があった。

スティーブンは病室に戻った。「ジャック、どうもまずいことになっている。前に、君が諜報活動を疑われていると言ったが、今は僕が疑われているようだ。アメリカは証拠なしには動かないだろうが、ここにはフランスの諜報員が来ている。不愉快なことになるかもしれない。」「でも、アメリカでは君に手を出せないだろう?ここはスペインじゃないんだから。」「多分ね。でも念のために、ヘラパス氏が来たら、小型ピストルを二挺頼んでくれ。ポーターに誰も通さないように言っておいた。僕はチョートからこれを借りた。」彼は両刃のメスを見せた。「ずいぶん小さいな。」「こんなものでも、使い方次第では効果抜群なんだ。人間の身体は、悲しいほど脆いものでね。」スティーブンはじっとジャックの顔を見た。話さない方がよかったかもしれない−熱が戻ってしまっている。


フランスの諜報員のことを話しているのに、「ここはフランスじゃない」ではなくて、「ここはスペインじゃない」って言うってことは…やっぱりジャックは、メノルカ島での一件が忘れられないものと思われます。

にしてもスティーブン…怖いって。医療器具をそんなことに使っていいのかしら?

翌日、スティーブンはジョンソンとの待ち合わせ場所に向っていた。ルイーザとすれ違ったが、彼女は恐怖と敵意の入り混じった目で彼を睨み、店に入ってしまった。近くを歩いていた捕虜の英国海尉が(2人はたまたま、ケインアベルという名だった)、彼女を目で追っていた。

フランションズ・ホテルの前には、何台か馬車が止まっていた。その1台から、ポンテ=カネが飛び出してきて、「医者はいませんか!」と叫んだ。彼はスティーブンに駆け寄り、腕を掴んで「病人です!お願いします!血が!急いで!」と叫びながら、スティーブンを馬車に押し込もうとした。さらに2人が馬車から飛び出し、スティーブンを取り囲んだ。ポンテ=カネは「急いで!」と叫びながら、小声のフランス語で指示を与えていた−「そっちの腕を−早く殴れ−押し込むんだ」スティーブンは全力で腕を振り解き、道に伏せて叫んだ。「泥棒だ!引ったくりだ!助けてくれ!」

3人のフランス人は彼を引っ張り上げ、馬車に放り込もうとしたが、スティーブンの叫び声に、周りに人だかりができていた。ケインとアベルが駆けつけ、ステッキを振り回してフランス人たちを撃退した。3人は馬車に飛び込んで逃げて行った。「大丈夫ですか、ドクター?何か盗まれました?」ケインとアベルが彼を助け起こした。「上着が破れただけだ。ありがとう。」

ジョンソンに会うと、スティーブンは彼に怒りをぶつけた。ジョンソンは謝罪したが、自分の立場ではフランス諜報部を抑えることはできない、と言った。「しかし、私のエージェントであれば、もちろんしっかり保護します。相談役の話、受けていただけますか?」彼は言った。


捕虜といっても、捕虜宣誓(相手国に対し、一定期間武器を取らないことを誓うこと)すれば、交換されるまでけっこう自由に街中を歩けるのです。ジャックは捕虜宣誓してないんです。どっちみち怪我のせいで病院から出られないけど。

この海尉たちが「ケインとアベル」っていう名前なのは、とくに意味はないようです。ジェフリー・アーチャーと同じで、ちょっと使ってみたかっただけ…かな?

飛ばしてしまいましたが、ここでまたヘラパスくんの漢詩の訳が出てきます。白居易の「花非花」。

花非花、霧非霧 <花にして花に非ず、霧にして霧に非ず>
夜半來、天明去 <夜半に來たりて、天明に去る>
來如春夢幾多時 <來たること春夢の如く幾多の時ぞ>
去似朝雲無覓處 <去るは朝雲に似て覓(もと)むる處無し>
Flower:is it a flower?
Mist:is it a mist?
Coming at midnight
Leaving with the dawn.
She is there:the sweetness of a passing springtime
She is gone:the morning haze-no trace at all.

こうして並べてみると、実に味わい深い英訳だなあ。スティーブンは「異性間の関係を端的に表現している」と賞賛してます。

病室に帰った彼を見て、ジャックは驚いた。「スティーブン、どうした?粉でもかぶったみたいだぞ。」「ポンテ=カネたちに拉致されそうになった。でも大丈夫だ。」「何だって?怪我はないか?」「上着が破れただけだ。ヘラパス氏はピストルを調達してくれたか?」「ああ。ここにある。…ほら、上着を縫ってやるよ。」ジャックは裁縫箱を取った。

「船乗りの裁縫が上手いのには感心するよ。」「女にやってもらえるまで待ってたら、カカシみたいになっちまう。なあ、スティーブン…今の状況はどうなってるんだ?これからどうする?」「フランスは僕のことを嗅ぎつけている。チャンスがあったら殺すつもりだろう。しかし、ジョンソンの保護をあてにできるかもしれない。」「君がダイアナの友人だから?」「とんでもない。ダイアナは彼を憎んでいて、アメリカから出たがっている。だから、僕と結婚して英国籍を取り戻し、一緒に英国に帰ろうと言ったんだ。ジョンソンがそれを知ったら、僕と決闘するか、フランスに投げ与えるだろうな。」ジャックは結婚の話に仰天したが、目を丸くしただけで何も言わなかった。

「ジョンソンは僕に圧力をかけて情報を引き出せると思っているんだ。それで少しは時間が稼げるから、その間に、できるだけ知人や役人や新聞記者に会って、注目を集めておくつもりだ。そうすれば安全だからな。」「君を狙ってるフランス人はどうする?」「次にジョンソンと会うまでは動かないと思う。でも、いざとなってもこのピストルで身を守れる。」ジャックは糸を切り、上着を返して、窓から夕暮れの港を見つめた。「ああ、スティーブン…こんな汚い、醜い、卑劣なゴタゴタから、早く君を連れ出したいと思うよ。まったく、さっさと海に出れたらなあ。」


ここでジャックは、「卑劣な」という意味で"underhanded"(下手投げという意味もある)という言葉を使うのですが、この言葉はやっぱりクリケットから来ているのでしょうか。(クリケットでは下手投げは反則になる。)野球の下手投げピッチャーの立場は…

ジャックが裁縫しているところ、見てみたいなぁ。まさか映画にはそんなシーンはないでしょうが。しかし、この裁縫箱はどこから?看護婦にもらったのかしら。

この時のジャックの立場には辛いものがありますね。心配で頭もハゲる思いだろうなあ(ハゲてませんが)

翌日の日曜日は霧が深かった。スティーブンは教会で結婚式の段取りをつけた後、アンドリュー氏の家へ向った。彼は霧の中で方向を見失い、港に出てしまった。彼はそこで出会った黒人に道を訊き、しばらく2人でうろうろと迷った後、やっと知っているパブを見つけた。「コーヒーでも飲んでいかないか?」「でも、おれ、黒人ですから」「それがどうしたんだ?」「ブラザー、あんた、よそから来た人なんだね。」黒人は楽しそうに笑いながら霧の中に歩み去った。

当時は北部でも、白人用のパブに黒人は入れなかったのかな。

ネイティブ・アメリカンのポーターさんといい、このブラザーといい、スティーブンがこういう人たちとすぐ仲良くなりますね。それは、彼のわけへだてのない態度のせいもあるのでしょうが、やはりスティーブン自身もアウトサイダーだということを(アイルランド人でカタロニア人で混血でカトリックで私生児だから)、彼らが感じるからではないかと思います。

スティーブンはアンドリュー氏の家に行ったが、彼は留守のようだった。その時、霧の中から黒い馬車が現れた−ポンテ=カネの馬車だ。フランス語の「やつはそこにいるぞ!」という声が聞こえ、馬車から男たちが飛び出してきた。