Chapter 7-2〜霧の中


スティーブンは走り出した。フランス人たちがピストルを出すのが見えた。背後で口笛が響き、さらに2人の男が現れた。霧のたちこめた街路には、教会帰りの家族が大勢歩いている−この人ごみで撃つつもりか?1人がかまわず発砲し、スティーブンの横にいた子供に当たった。父親がステッキを振り上げてフランス人に駆け寄る隙に、スティーブンは逃げ出した。

彼は霧の中を、教会かパブか、とにかく灯りのついている建物を探して走った。しかしそこは商業地域で、日曜の今日はがらんとしていた。彼は追っ手を一旦引き離し、御者だけが残っている彼らの馬車のところへ戻った。彼は馬車に飛び乗り、御者の頭にピストルをつきつけて、「馬車を出せ!」と怒鳴った。馬車は走り出した。

前方にポンテ=カネの率いるグループが現れた。「スピードを上げろ!」スティーブンは御者の首にピストルをつきつけた。彼は馬車を大通りに導くつもりだった。「右だ!」角を曲がる時に馬車が大きく揺れ、一瞬、銃口が御者の首を離れた。御者はスティーブンに体当たりして、馬車から突き落とした。

スティーブンはすぐに立ち上がり、駆け出したが、脚がいうことをきかなかった。馬車から落ちた時、縁石で頭を打ったのだ。霧の向こうに、怒鳴り声が聞こえる。彼はフランションズ・ホテルの横にいた。ホテルの一部が改装工事中で、職人の使うロープが垂れている。彼はロープを伝って登り、二階のバルコニーに伏せた。息が苦しく、心臓は早鐘を打ち、目の焦点が合わない。下からフランス人の声が聞こえる。ロープに気づかれるのも時間の問題だ。


念のため…当時のピストルは1度に1発しか撃てませんから、ピストルを持っていても発砲したばかりの人間には駆け寄っても安全です。今そんなことをしたら確実に死にますが。(だから斬り込みの時はピストルを何丁も持って行くのですね。ただし、撃った後のピストルは棍棒として使われるようですが。)

彼はダイアナの部屋まで這い、窓を叩いた。「ダイアナ、早くしてくれ」「誰なの?」「馬鹿なことを言わないで、さっさと開けろ」ダイアナは窓を開けた。彼は部屋にすべり込んで、静かに鎧戸を下ろし、彼女のベッドにもぐり込んだ。鎧戸の外から声が聞こえた。「…いや、ここはジョンソンの女の部屋だ。他を調べよう。」

しばらくして、ドアにノックがあり、ホテルの女主人の声がした。「ビリャズさん、申し訳ありませんが、泥棒がこのホテルに逃げ込んだそうなんです。続き部屋を調べてもかまいませんか?」「いいわよ。」ダイアナはスティーブンをベッドの足元の方に隠し、ドアを開けた。女主人は続き部屋を調べて、誰もいないことを確認して出て行った。

「酒が必要みたいね。」ダイアナは彼にバーボンを注いだ。「マチュリン、一体どうしたの?人妻に手を出して、怒った夫から逃げてるの?らしくないけど、あなたも男ですものね。あなたの声を聞いた時、嬉しかったわ。見捨てられたのかと思っていたの。」「ポンテ=カネたちから逃げているんだ。僕を殺すつもりらしい。ポンテ=カネとデュブルーユはここに住んでいるのか?」「ええ。このホテルはフランス人だらけよ。」「ダイアナ、頼みがある。ウォーガンに気づかれずにヘラパスと会うことはできるか?」「簡単よ。ルイーザはジョンソンと一緒に別荘に行っているもの。」「それなら、ヘラパスに会って、彼と一緒にアンドリューという英国の役人を探してくれ。この部屋に掃除は来るのか?」「いいえ。ジョンソンは自分の奴隷にやらせるから…彼の部屋はここから続き部屋になっていて、廊下に面したドアはないの。これが鍵よ。」

ダイアナは馬車を呼び、手早く支度した。二人は抱き合った。「君の勇気を疑ったことはなかったよ。霧が深いから、気をつけて行ってくれ。神の祝福を。」スティーブンは窓から、彼女の馬車が消えるのを見守った。


ダイアナの注いでくれたウイスキーを飲んで、スティーブンは「これはウイスキーの一種か?」と訊いて、ダイアナは「バーボンと呼ばれるものよ」と答えてます。スティーブンが馴染んでいるのはもちろんアイリッシュかスコッチ・ウイスキーだと思うのですが、その主な原料は大麦。バーボンの主原料はとうもろこし。味はかなり違うかも。私はウイスキーは全体的にあまり好きじゃなくて、スコッチとバーボンをそれぞれ数種類しか飲んだことがないのですが、どちらかというとバーボンの味の方が好きかな。

彼は腰を下ろした。肋骨が痛み、頭はもっとひどく痛んでいた。肋骨2本にひびが入っている。頭を打った影響で、もうすぐ吐き気がしてくるだろう−彼の頭の医者としての部分が、冷静に分析していた。

彼は鍵を取ってジョンソンの部屋に入った。続き部屋の隅にはバスルームがあり、彼はそこでしばらく吐いた。回復すると、彼はジョンソンの書斎を調べた。金庫、フランス語の書類、ルイーザの手紙。スティーブンに関する記述−「ポンテ=カネによると、マチュリンは引退後はアメリカに住みたいと言っていたそうだ」−公式書類や書簡。大した物はないようだ。部屋の中にロールトップデスクがあり、鍵が掛かっていた。メスでこじ開けると、中には素晴らしいダイアモンドのネックレスがあった−ジョンソンがダイアナに贈ったネックレスだ。その隣に、スティーブンに宛てられた手紙があり、封が開けられていた。

「スティーブン、ホテルに来ていたのに私に会ってくれなかったのね。どうしてなの?はっきりした返事ができなかったけど、私はいつでも喜んであなたと結婚するわ。インドで断らなければよかった。あいつはルイーザを連れて田舎に行くから、日曜に会いに来て。ダイアナ」彼の頭がその手紙の意味をよく把握できないうちに、ドアの鍵が開けられる音が聞こえた。


えー、一応便宜上「バスルーム」と書きましたが、もちろん現代のバスルームのようなものではないです。でも、"privy"(トイレ)と"hip-bath"(腰湯)があると書いてあったので、まあバスルームと言ってもいいかと思って。ちなみに、hip-bathとはこんな感じのモノのようです。(これはビクトリア朝のものですが。)これに腰掛けるようにして入って、召使がお湯を運んでくるのですね。

スティーブンは扉の陰に隠れた。入ってきたのはポンテ=カネだった。ジョンソンの不在に、書類を調べに来たのだ。彼は真直ぐ書斎に行き、道具を出して金庫をこじ開け、本を取り出した。彼はデスクに座り、本を写し始めた。彼はダイアナの手紙に目を止め、「あのあばずれ女め」と呟いた。ポンテ=カネは気配を感じて視線を上げた。彼が振り返ると同時に、スティーブンは彼の頭に文鎮を振り下ろし、メスで頚動脈を切断した。

スティーブンは死体をバスルームの腰湯に入れた後、デスクの上の本を読んだ。それはジョンソンの備忘録で、彼の活動の全てが、暗号化もされずに書かれているようだった。「…この間のような事がないように、英国人捕虜は全員送還した。…月曜に、マチュリンにさらなる圧力をかけてみようと思う…それでも拒否するようなら、デュブルーユに引き渡す…」これはダイアナの手紙を読む前に書いたのだろうか?

その時、ドアが開く音が聞こえ、「ジャン=ポール、そこにいるのか?」というフランス語が聞こえた。デュブルーユだ。今度は選択の余地はなかった。スティーブンはピストルを構え、彼の胸に銃弾を撃ち込んだ。

スティーブンは二つの死体をバスルームに隠した。ひどく胸がむかついた。殺さなければ殺される状況だったとは分かっていても…デュブルーユは、彼の同僚たちを拷問死させた張本人だとわかっていても。これからどうする?彼は心身ともに疲れ果て、まともに考えることができなかった。ホテルのロビーにはフランス人が大勢いる。ここからどうやって出て行けばいいのか?


えーと…ここのところは、私にもいささかショッキングだったので、コメントは差し控えさせていただきます。でも、私は完全なる正当防衛だと思ってますけどね。

ダイアナがマイケル・ヘラパスと一緒に戻ってきた。彼女は心配に蒼ざめていた。「スティーブン、本当にごめんなさい。アンドリューさんはもうハリファックスに帰ってしまったの。捕虜のほとんど全員を連れて。」「ロビーにフランス人は?」「たくさんいるわ。でも、ポンテ=カネとデュブルーユはいなかったわ。」

スティーブンはジャックへ手紙を書いた。「ジャック−ここで追いつめられて、フランス人を二人殺してしまった。階下には大勢のフランス人がいて、出て行けない−彼らは今朝、僕を殺そうとした。ダイアナをここから連れ出さなければならない−できれば、書類と僕自身も。ジャック、何か方法を考えてくれ。」「…ミスター・ヘラパス、申し訳ないが、これをオーブリー艦長に届けてくれないか?」「もちろん、喜んで。」ヘラパスは去った。

「スティーブン、あなたすごく顔色が悪いわ。何か食べた?」「いや、何も」「食事を持ってこさせるわ。とりあえず、横になって…何か飲んで。私も飲むわ。」「食事はいい」彼は言われたとおり横になった。頭が割れるように痛んでいた。「私がお酒を飲むのには反対なんでしょう?」「ウイスキーは肌に良くない。」「本当?でも、私が飲むのは気が立っている時と、落ち込んでいる時だけよ。もっとも、アメリカに来てから落ち込みっぱなしだけど。」「ダイアナ、アメリカに頼れる人はいるか?匿ってもらえそうな人は?」「1人もいないわ。どうして?」「昨日、手紙をくれただろう?とても優しい手紙を…あれは僕に届かなかったんだ。ジョンソンの机の中にあった。」「まあ!」ダイアナは蒼ざめた。「ジョンソンが帰る前に逃げなくては。ジャックが何とかしてくれるかもしれない。それが駄目でも…まだ方法はあるさ。」どんな方法が?スティーブンの頭痛はひどく、考えを集中させることができなかった。

「かまわないわ」ダイアナは彼の手を取った。「あなたさえそばにいれば。」


完全にすれ違っているこの二人の気持ち。スティーブンにしてみれば、恋心がなくなっているからこそ、彼女のベッドに飛び込んだりできるわけで。(あ、いや、隠れるためですが。)その時スティーブンはベッドの足元の方にもぐり込んで、ダイアナのつま先が彼の肩に当っている状態(デカいベッドなのです)。この二人がベッドの中で、横に並ぶのでも重なるのでもなく(…失礼)、タテになっている姿は、深刻なシーンなのに、想像するとなんとなく可笑しいような。