Chapter 9〜決闘


翌朝、ジャックはブロークに挨拶した。「お早うフィリップ。昨日は素晴らしい砲撃を見せてもらったよ。」「コンスティテューション号と比べてどうだった?」「計っていた訳じゃないから正確にはわからないが、コンスティテューションも速かったな。それに正確だった。シャノン号が勝つと思うが、いい勝負だろうな。チェサピーク号については、君の方がよく知っているだろう。実弾を使わない訓練しか見た事がないが、けっこう速そうだった。」「今日、それを試してみようと思う。」ブロークは言った。

ブロークの給仕がコーヒーを持って来た。キリックと違って礼儀正しい給仕だが、コーヒーは最低だった。キリックのコーヒーが懐かしい。ジャワ号以来、まともなコーヒーを飲んでいなかった。アメリカ人は親切だったが、あの薄いコーヒーは我慢できなかった。スティーブンが起きて来て、彼のカップを物欲しそうに眺めた。彼はコーヒーにありつけなかったのだ。「これは不味いぞ」ジャックは言った。

「ジャック、艦長は結婚式を挙げる権限があるってダイアナに聞いたけど、本当か?」ジャックはうなずいた。ブローク艦長が来て、ダイアナの容態を訊ねた。「峠は越しました。あとは4倍の濃さに淹れたコーヒーを飲めば回復するでしょう。」スティーブンは答えた。「それと、もしお時間があれば…我々の結婚式を挙げてくれませんか?」


ジャックが戦術について考えているところは省略したのに、コーヒーについて考えているところは飛ばせないのはなぜだろう。アメリカのコーヒーって、この頃からアメリカンだったのですね。私も薄いコーヒーには耐えられないクチなので、ジャックの気持ちはよくわかる。そして、ダイアナを利用してちゃっかりコーヒーを手に入れるスティーブン(笑)。このぐらい利用してもいいわよね。

ブローク艦長は途惑った。どうやら冗談ではないようだ。しかし、マチュリンの冷静な、事務的な態度には、お祝いを言うのもためらわれた。ブロークは自分の結婚式の時の、風下岸に追いつめられたような絶望的な気持ちを思い出した。「ええ、それは喜んで。」彼は答えた。「しかし、私はその操船…いえ、儀式を執り行ったことがありませんので、決まり事を調べてみませんと」スティーブンが去ると、彼はジャックに囁いた。「君の友達は本気なのか?彼はカトリックだから、教会で挙げなければ無意味なはずだ。ハリファクスまで待てばいいじゃないか。」「彼女の国籍の問題があるらしい。」「そうか…まあ、それは後で調べるとして…ジャック、まずこの手紙を読んでほしいんだ。チェサピーク号のローレンス宛に書いたんだ。君は彼を知っているから、意見が聞きたい。この文章で、彼を動かすことができるだろうか?アメリカの捕虜に持って行かせるつもりだ。」それは、チェサピーク号とシャノン号の一対一の決闘を申し込んだ手紙だった。ジャックは読み、これなら効果があるだろう、と言った。

手紙を乗せた船が港へ入ってゆくのを、シャノン号の士官全員が固唾を呑んで見守っていた。しかし、船が着く前に、チェサピーク号が出港準備を始め、錨を上げているのが見えた。「私の挑戦に答えたわけではなく、君を連れ戻したいらしいな」ブロークはジャックに言った。

ブロークはマストヘッドに登り、ジャックも片手だけでトップまで登った。ブロークとウォリス海尉が彼を手助けした。「片手だけではご不自由でしょうね。」とウォリスが言うと、ジャックは「平気だ。ネルソンは片腕だけでナイルの海戦を戦ったんだから」と答えた。彼は望遠鏡を構え、チェサピーク号が湾から出てくるのを見つめた。「祈りが聞き届けられたな。」ジャックはブロークに言った。「ああ。しかし、こういう事を祈ってもよかったかな?」


結婚式で、風下岸に追いつめられた…って気持ちも、非常によくわかります、ブローク艦長。…いや、わかっちゃまずいか。

シャノン号は実在艦で、フィリップ・ブロークももちろん実在の艦長です。(彼にジャック・オーブリーという名の遠縁の幼馴染がいたことは、残念ながら記録には残っていませんが。)実在のブロークさんも、金持ちで気の弱い奥さんと結婚していたそうです。でも実際には、彼は奥さんのルイーザを愛していたようです。彼が奥さんに送った手紙が残っているのですが、とても愛情に溢れた手紙だったそうです。 もちろんこれは小説ですから、実在のフィリップ・ブロークと登場人物のフィリップ・ブロークが多少違っていても当たり前なのですが。 虚実の境目が、微妙だわ。

ブロークはダイアナの寝ているキャビンに行った。「こんにちは、艦長のブロークと申します。申し訳ありませんが、これから戦闘態勢に入りますので、艦首艙にお移り願いたいのです。」「もちろんかまいませんわ。」ダイアナはブロークの腕をとり、優雅に船底に降りて行った。水兵たちが彼女を目で追った。艦首艙の片隅に囲ったスペースがあり、吊り寝台があった。無数のネズミとゴキブリが這い回っている。「思ったよりひどいな。水兵をよこしてネズミを退治させます。」「まあ、どうかお気遣いなく。ネズミぐらい平気です。それより、ブローク艦長」彼女はブロークの手を取った。「勝利をお祈りします。勝つと信じておりますわ。」

ブロークは艦長室に戻った。「ジャック、ミセス・ビリャズがあれほど美しい人だと、どうして言わなかった。」「たしかに美人だな。」「美人なんてもんじゃない。今まで見た中で一番美しい女性だ。あの優雅さ!あの勇気!ネズミで一杯の艦首艙に、文句ひとつ言わずに入っていったぞ。何て素敵な人だ。ご友人が結婚したがるのも無理はない。彼女を従姉妹と呼べるのは光栄だ。」「ああ、ダイアナはサラブレッドの心を持っているな。動きもサラブレッドみたいだし。」ブロークの妻のことを思い出しながら、ジャックは言った。


それにしてもダイアナはモテモテ(?)ですね。(スティーブンって、実は並外れて女の好みがうるさいだけでは…という気もしてきた。)ダイアナが乗船した時、ブローク艦長はよく見ていなかったのですね。それとも、彼女が船酔いでのびていたからよくわからなかったのかな?

ジャックはブロークに剣とピストルを借りた。「腕は大丈夫か?」「マチュリンに固定してもらう。左腕の調子がいいから大丈夫だ。」ジャックはソフィーに手紙を書き、ブロークと交換した。「愛する人 これからチェサピーク号と戦闘に入る。これほど嬉しいことはない。でも、もし戦死したら、君と子供たちへの限りない愛の印にこの手紙を…」

艦首艙では、ダイアナがスティーブンの持って来たスープを飲んでいた。缶にゴキブリが落ちてきて、彼女は飲むのをやめた。二人は寝台に並んで座っていた。ダイアナはスティーブンの腕に自分の腕を回した。彼女らしくない仕草に、スティーブンは驚いた。「勝ち目はどのぐらい?」「僕は専門家じゃないからよくわからないけど、五分五分のようだ。」「私たち、捕まったらどうなるの?」「絞首刑になるだろうな。」「ジョンソンはあの船に乗っているわ。」「そうかもしれないね。」彼は小型ピストルを出して、弾と共に彼女に渡した。「ほら、これでネズミを撃っているといい。気が紛れる。」「まあ、いい考えね」ダイアナはピストルを装填した。「もう怖くないわ。」瞳が猛禽のように光った。スティーブンは再会してから初めて、かつて愛した女の面影を見たような気がした。彼は落ち着かない気持ちで救護室へ向った。

ジャックが来た。反対しても無駄だとわかっていたので、スティーブンは何も言わずに腕を固定した。


ネズミはともかく、梁からゴキブリが落ちてくるっていうのは嫌だなあ…これで文句ひとつ言わないダイアナは、やっぱり偉いのかも。

他の巻にも、スティーブンがダイアナのことを、彼が昔飼っていた雌のハヤブサに喩えているところがありました。スティーブンは猛禽類が好き。

チェサピーク号が近づいた。ブローク艦長は全員を集めて言った。「彼らは、英国人が戦い方を忘れたと言っている。シャノン号の英国人は忘れていない事を見せてやろうじゃないか。」

ボストン港から20マイルほど離れた外海で、二隻は相対した。チェサピークは有利な位置を放棄し、艦を真直ぐシャノンの横へ持ってきた−ネルソンのやり方で。艦尾甲板に立つローレンスの姿がはっきりと見える。ローレンスは帽子を取って挨拶した−同時に、シャノンの砲が火を噴いた。続いて、チェサピークの凄まじい一斉射撃。次の瞬間からは、すさまじい轟音と硝煙があたりを覆いつくした。

ジャックは艦尾の砲列を担当していたが、ほとんどする事はなかった。シャノン号の砲手たちは、煙の中で振子水平器を見ながら、見事な速さと正確さで砲を発射しつづけている。シャノンの砲撃がチェサピークを上回っているのは明らかだ。凄まじい殺戮だった。チェサピーク号の排水口から血が吹き出していた。

2隻が舷を接すると、ブロークが叫んだ−「斬り込み隊、かかれ!」彼は剣を抜いて敵艦に飛び移り、ジャックが後に続いた。チェサピークの艦尾甲板には、もう誰もいなかった−死体の他には。シャノンの最初の砲撃が、艦尾甲板を薙ぎ払っていたのだ。しかし、トップからの銃撃は続いていた。「トップにぶどう弾を撃ち込め!」ワット副長がシャノンに向って叫んだ。ジャックは水兵たちを率いて艦首へ走り、最後の抵抗を続けているチェサピークの水兵たちを降伏させた。見覚えのある顔が見える−英国の脱走兵か?彼らは捕まれば絞首刑だ。

「艦長!」シャノンの水兵が叫んだ。降伏した捕虜たちが武器を取り、ブロークに襲い掛かったのだ。彼は銃で殴られ、倒れた。ブロークに向って斬り込み刀を振り上げた男を、ジャックは左手に渾身の力を込めて殴り飛ばした。次の瞬間、ブロークの部下たちが残りの捕虜たちを全て倒していた。シャノンの砲がチェサピークのトップを沈黙させた。彼らは昇降口を封鎖し、生き残った敵を閉じ込めた。抵抗は止んだ。

「フィリップ、大丈夫か?」ジャックの声に、ブロークはうなずいた。彼の頭は骨が露出し、血が吹き出している。ワット副長がアメリカの軍旗を降ろしていたが、途中で揚げ索を絡ませ、上げてしまった。シャノン号からの最後の砲撃が、ワットと数人の部下を殺した。

ジャックはブロークの耳元で言った−「フィリップ、見ろ。この艦は君のものだ。勝ったんだ。おめでとう。」ブロークの血塗れの顔に笑みが浮かんだ。彼は囁くように言った−「ありがとう、ジャック。」


6巻は、ここで終わり。この巻は、2つの海戦をはさんで、その間はスパイ小説−という構成になっておりますが、この2つは実際の海戦をモデルにしています。私はそんなことは全然知らずに読んでいたのですが、詳しい方なら、ジャックたちが漂流していてジャワ号に救出されたり、アスクレピア病院の窓からシャノン号が見えた時点で、その先の展開がピンとくるのでしょうね。

実際の海戦の日付は、ジャワ号対コンスティテューション号が1812年12月29日、シャノン号対チェサピーク号が1813年6月1日。チェサピーク号+ボストンで5ヶ月経っているのですね。そんなに長い感じはしないのですが。

しかし…実はこのシリーズ、物語が実際の時の流れに沿っているのはこのあたりまでで、6巻より先はどう考えても時間の流れがひずんでいるのです。1813年から1815年までの間に10年ぐらい経っている、という摩訶不思議な現象が起きてしまいますので…まあ、時間の流れに関しては、あまり深く考えずに読むのが吉かと。