Chapter 10-2〜「駆落ち」


スティーブン、隠れて侵入してきた二人の男の話を聞く

ドアの鍵をピッキングして入ってきた二人のうち、一人はローラから聞いていたルシュールの人相にぴったりでした。もう一人はスティーブンの知っている顔で、マルタ島の英国総督府のスタッフのうちでも上層部にいるブーレイという男でした。これほど高い地位に裏切り者がいたとは…とショックを受けるスティーブン。

「彼女はまだパーティから帰っていないようだな。」「待つか。どうせ夜中には帰ってくる。」「ベッポを呼ぶか?」「いや…奴は殺しを楽しみすぎる。手早く、きれいにやらなければ」「それならパオロだな。真面目だし、強い。肉屋で働いていたんだ。」「寝ているところを見つけられれば理想的だったのだが…」

ルシュールとブーレイがこともなげに恐い話をしているのを、スティーブンはカーテンの陰に隠れたまま聞いていました。ピストルとメスで二人を殺すことも考えたのですが、ブーレイのような地位の高い裏切者を尋問もせずに殺してしまうのは惜しいと思い、やばいことにならない限りは殺さないでおこうと考えていました。

…いや、スティーブンの方もけっこう恐いが…

ジャック、新たな命令を受ける

さて、その頃ジャックは、港湾司令官代理から新しい任務の命令を受けていました。

アフリカ北岸の港ザンブラの領事エリオット氏から連絡があった。当地の権力者マスカラの太守より、英国政府に対し莫大な額の金の要求があり、払わなければ処刑すると脅迫された。サプライズ号はザンブラへ赴き、エリオット領事と相談の上しかるべき処置をとること。太守と対面の際は要求の拒否を通告し、撤回しなければマスカラの船を攻撃し、交易を遮断すると伝えること。必要なら当地より領事を避難させること。任務終了後はジブラルタルへ向うこと−

「政治的側面についてはドクター・マチュリンに相談するように。それと、サプライズ号と一緒にハート提督のポラックス号も派遣される。戦列艦がついていれは示威になるというだけの理由だ。この任務はあくまで君が遂行し、ハート提督には関わらせないように。すぐに出航できるかね?」「はい。水を積んでいませんが、ザンブラ湾には良い給水地点があります。あの湾のことは隅から隅まで知っています。海尉時代に艦があそこで座礁して、長く留まったことがありまして…」

やっと出てきた「マスカラの太守」。ザンブラ湾は例によって架空の地名ですが、現在のアルジェリアあたりにあります。「マスカラ」はアルジェリアの実在の地名。ワインの産地ですが、睫毛につけるアレとは関係ないようです。

ローラ帰ってくる。スティーブン、彼女を連れて逃げる決心をする

長い長い時間が経った後、とうとうルシュールは待っていられなくなり、「後でパオロを来させよう」と言って引き上げて行きました。そのすぐ後、ローラが帰ってきました。

「ローラ」「スティーブン!」彼に駆けより、抱きしめるローラ。「帰って来てくれて嬉しいわ!」「ポントはどこ?」彼女はたちまち悲しい顔になり、涙をこぼしながら、「今朝、急に死んでしまったの。手伝ってもらって庭に埋めたのよ。」「メイドは?」「里帰りしているわ。何だか様子が変で、怯えているみたいで…」

「聞いてくれ。君のご主人が、三ヶ月近く前に収容所を脱走した。今はニンフ号に保護されている。」「彼は元気なの?」「元気だよ。」「ああ、よかった…よかった!神様、感謝します…でも、どうして…」「聞いて。フランスのエージェントが、このニュースが君に知られる前に君を殺そうとしている。そのためにポントを殺し、メイドを追い払ったんだ。連中はさっきまでいたし、また戻ってくるだろう。バレッタに、君を匿ってくれるような信用できる友達はいる?使用人が大勢いるような家で…」「いいえ、いないわ。」スティーブンにも、マルタ島には避難のアテはありませんでした。

「さあ、ファルデッタを着るんだ。すぐに乗艦しなくては。」

二人は手に手を取って、激しい雨の降るバレッタの街を、ひたひたと迫る足音に追われながら、酔っ払った兵士にからまれながら、埠頭目指して走るのでした。

庭の盛り土は、やっぱりポントの墓だったのですね。かわいそうに…

ジャックが艦に帰ると、艦長室にローラがいる

ジャックが艦に戻ると、彼を迎えたキリック・ボンデン・モウェットの三人も、当番水兵たちも、妙にニヤニヤしていました。「ドクターは戻っているか?」「はい、艦長室にいらっしゃいます。」この言葉にジャックは驚きます。親しい友人であるにもかかわらず、スティーブンは彼の招待なくして艦長室に入ったことはなかったので…

もちろん、艦長室に入ってみると、もっと驚くことが待っていました。スティーブンの横に、服はずぶ濡れ、髪の毛はくしゃくしゃ、でも輝くような笑顔のローラがいたからです。彼女は今夜の恐ろしい経験の後、やっと安全な場所に逃げ込み、二百人の逞しいボディガードに囲まれてすっかり安心し、この二ヶ月間、死んだのではないかと心配していた愛する夫が戻ってくるというニュースにも実感がこみあげてきて、幸せに太陽のように輝いていました。

「ジャック、黙って入ってすまない。ミセス・フィールディングに、君がジブラルタルまでお連れすると勝手に約束してしまったんだが…」スティーブンのやつれた、疲れきった顔を一目見て、緊急事態の信号を感じ取ったジャックは−「よくやった。奥様、乗艦頂けて光栄です。キリック、おれの荷物をプリングズの部屋に運べ。ここはミセス・フィールディングにお泊り頂く。奥様、すぐにお着替え下さい。風邪をひいてしまいます。トーステッド・チーズはお好きですか?」

今までスティーブンの行動をすっかり誤解していたジャックですが、わかる時は一目で以心伝心なのね〜。さすがはこの二人。

ジャックとスティーブンは二人きりで話すために、プリングズの昇進以来空室になっていた小さいキャビンに入りました。「スティーブン、これでよかったか?」「完璧だよ。ありがとう、ジャック。」そこへキリックが来て、「ドクターのアレ(ダイアナのプレゼント)をお貸ししてもいいですか?」「ああ、そうしてくれ」ジャックはダイアナのことを思い出し、「スティーブン!これをダイアナに説明するのは大変だぞ」「疑われるかな?」「当たり前だ。考えてもみろ、君はマルタ一の美女を夜中に艦に連れてきたんだぞ。ホテルに泥棒が入った時にも見られているし−」

実際、ジャックが正しかったことはすぐにわかりました。サプライズ号乗員たちも、たちまちバレッタに広まった噂も、「ミセス・フィールディングは、実はオーブリー艦長ではなくドクター・マチュリンといい仲で、夫が帰ってくると聞いてその前に愛人と駆落ちした」と信じ込んでいました。スティーブンとしては、諜報活動の面ではそう思われていた方が都合がいいのですが、個人的には…

ローラの方は、夫に会って話さえできれば疑いを晴らすことはできると確信しているのですが、スティーブンの方は…???さーて、大丈夫でしょうか。

サプライズ号、ローラを乗せて6日間の航海をする。サプライズ乗員、オシャレする

次の朝からスティーブンは、艦長を除くサプライズ乗員全員から、下品なニヤニヤ笑い、あるいは「見直した」って感じのある種の尊敬の眼差し、ごく少数の真面目な人からは非難の目−などを浴びることになり、僕はこれに値するようなことはなんにもしてないのになあ、とため息をつくことになりました。

この件以来、スティーブンはシップメイトたちに「ああ見えて実は色男」という、大間違いの評判を得ることになったのですが。「陸ではサテュロス(酒と女が好きなギリシア神話の神様)」とか呼ばれたりして…あはは。

しかし、船乗りというのは総じてモラルにうるさいわけではなく、また少数の道徳的な人も「悪いのは彼女じゃなくドクターだ」と思っているらしく(<ひどい)、スティーブンはともかくローラに対しては、非難の目はかけらもなく、上から下まで賛美一辺倒なのでした。

実際、艦長が甲板でお客の相手をしている間、士官は全員、きれいにヒゲを剃り、海軍服装規定の見本のようなぱりっとした軍服を着込んで、しゃちほこばって艦尾甲板に並んでいる始末。色気づくのはいささか早いカラミーくんやウィリアムソンくんまで、めったに洗わない顔を洗って、清潔なシャツを着ています。乗員みんなが、普段は上陸用に取ってあるオシャレな服を引っ張り出し、汚い言葉を使わなくなり…

ひょっとしたら、美しい、しかし絶対に手の届かないレディがひとり、(馴れ合いにならないように一定期間交替で)軍艦に乗ってくれれば、規律は飛躍的に向上するのではないか−とスティーブンが思ったほど。

ザンブラ湾に着くまで6日間。天気にも恵まれ、船脚ののろいポラックス号に合わせているため作業にも余裕のあるサプライズ号。元々ハッピーシップなのがローラの存在によってさらにハッピーになり、夜にはフォクスルで歌ったり踊ったり、あるいはローラがマンドリンに合わせて歌うのを聞いたり。彼女が「着ていく服がないので」とガンルームのディナーの招待を断ると、3人の士官が妻や妹のおみやげに買っていた絹布を差し、縫帆手たちがドレスに仕立てたり。乗員たちにとって、その6日間は休暇とは言えぬものの、かつて経験したどんな航海より、夢のような心浮き立つ6日間でした。

その間のサプライズ号の上で、汚い格好をしているのはただ一人…そう、もちろんドクターです。「3日分の無精ひげと、汚い古いカツラが、何よりもローラに関する彼の無実を証明している」−と、ジャックは思ったりします。ほんと、スティーブンって、そういうところは分かりやすいというか、なんというか(笑)