Chapter 1-1〜マルタ島の陽光


9巻は、地中海に浮かぶ風光明媚な島、英国領マルタ島はバレッタから始まります。

8巻のイオニア海の話が「巻と巻の間」に全て片付き、いきなりマルタ島に話が飛んでいるのは、まあいつものことだから気にしないとして…私が面食らったのは、この巻の明るさでした。

「反逆(背信・裏切り)の港」というこの題名といい、なんとなく暗いトーンの表紙といい(相変わらずキレイなジェフ・ハントの絵ですが)、比較的暗い話を予想していたのです。ところが開巻から、地中海の陽光さんさんと降り注ぐ美しいバレッタの街と、ホテルのテラスで陽気にがはがはと笑っているジャックの描写から始まったので。

ジャック、マルタ島バレッタで待機の身。トム・プリングズ、コマンダー(海尉艦長)に昇進する。

さて、なぜジャックたちがマルタ島にいるかというと、ウースター号に続いてサプライズ号までもが、ここのドックで修理中だからです。つまりジャックは一時的に艦なし艦長になっていて、暇を持て余し、同じ境遇の艦長たちと昼間から酒を飲んでお喋りをしている、というわけ。

そんな境遇なのに、なぜジャックが上機嫌かと言うと…元々明るい性格だから、すばらしい天気だからということもあるのですが、何といっても、長年の念願叶ってトム・プリングズをコマンダーに昇進させることができたからです。

もちろん、ジャック以上に上機嫌なのは当のご本人。辞令は届いたばかりなので、上機嫌というよりまだ夢見心地で、自分の肩に乗っているエポレット(肩章)をちらちらと見たり、そっと触ったりしてはにやにやしています。(と言っても、彼もまた「艦なし艦長」なんですけど。まだ昇進に浮かれているので、それ以上のことを気にする段階には至っていないようです。)

プリングズ、顔にひどい傷を負っている。

しかし、この幸福には大きな犠牲が伴っていました。

プリングズは8巻最後の戦闘で顔に傷を負いました。映画のプリングズくんにも傷がありましたが、原作ではあんな「男前が上がる」程度の傷ではなく、「僅かにそれたトルコ人のサーベルが彼の額と鼻のほとんどをそぎ落とした(a glancing blow from a Turkish sabre had sliced off most of his forehead and nose)」のを、ドクター・マチュリンが「鼻と額をいつにも増した丁寧さで縫い合わせ、熱の高い間は毎夜毎夜枕元に座って(sewn back his nose and forehead with even more than his usual care, sitting by his cot night after night during his days of fever)」治したのですが、それでも、初めて会う人は一瞬ぎょっとするぐらいの、無邪気な笑顔が怖い顔に見えてしまうほどの酷い傷になってしまっています。

プリングズ自身は「コマンダーに昇進するためならこの10倍の怪我をしたってかまわない」と思っているようなのですが、女性読者としては、ちょっと悲しいかなー。

ジャック、反逆者のムスターファに勝利したことでサルタンから授けられたChelengkを仲間に見せる。

はて、Chelengkとは何ぞや?まずはこちらをご覧下さい。

Chelengkとは、トルコのサルタンが武勇を称えて贈る最高の栄誉のしるし、つまり勲章のようなものです。ふつうの勲章と違うのは、ダイアモンドがふんだんに使われた美しい宝飾品であるということです。上記の海事博物館のリンクは、ネルソンがナイルの海戦の時にサルタンから授けられたChelengk…のコピーです。(本物は残念ながら盗まれてしまい、とうとう見つからなかったそうです。)

ジャックがサルタンから授けられたChelengkも基本的にこれと同じような物と思われ、ジャックもネルソンと同じく三角帽に誇らしげに飾っています。ジャックのは小さなダイヤがびっしり並び、それぞれに大きなダイヤが一つついた4,5インチのネックレスを2つ繋いだもので、帽子が動くたびにじゃらじゃらと揺れ、日光を反射してきらきらと輝いています。

しかし、こんなもんを堂々とつけて自慢して歩いて大丈夫なのかなあ、それこそ盗まれないのかしら、とキリックならずとも心配してしまいます。もちろん、キリックは必死でしまいこもうとしているのですが、今日はこれからパーティなので、ジャックはキリックの反対を押し切って(多分)つけてきたようです。

スティーブンは不機嫌。

この美しい勲章を授かることになった海戦を、仲間にせがまれてまた再現しているノリノリのジャック。まだ喜びに恍惚状態で、あまり喋らず、ただもううっとり・ニコニコしているプリングズ…に対して、スティーブンは不機嫌です。こういう美しい日にひとりご機嫌ななめっていうのも、彼らしいのですが…

彼がイラついている原因は、いろいろあるのですが…食事に手違いがあってお腹がすいているとか、虫にさされたとか、禁煙を試みているところだとか(せんせ、あなたはタバコより先にやめるべきものがあるのでは)、ある極めて単純かつ男性的な理由とか(<いやその、後で説明します…)

ま、そういう積もり積もった生理的理由はともかく、彼の不機嫌の理由のひとつになっているのは、久しぶりに来たマルタがたいそう無残な状況になっていたからです。諜報員の目から見ての話ですが。

ソーントン提督の死以来(そう、彼は亡くなったようです。こういう所でちらっとさりげなく登場人物のその後が語られたりするので要注意)、Commander-in-Chief(地方司令官)には新しい有能な人が来たのですが、無能なハート提督が代理をやっている間に軍事機密がだだ漏れ状態になってしまった上、ソーントン提督が個人的に押さえていた情報源はみんなハートを嫌って逃げてしまい、バレッタには敵のスパイがうようよしている始末。

今も、はっきり意識の表面には上っていないものの、彼の深層心理の奥底には「誰かに見られている」といういやな感じが存在し、それが落ち着かない、苛々した感情の一因になっています。…なぜなら、実際に、彼を見つめる目があったからです。

フランスのスパイが塔からスティーブンを見ている。

バレッタの街には、騎士団の時代に海賊の侵略に備えるために作られた物見の塔が数多く残っています。そのひとつ、「薬剤師の塔(Apothecary's Tower)」は今は打ち捨てられてコウモリの巣になっています。

その塔の上で、ホテルのテラスをスパイグラスでじっと見下ろしている男が二人。一人はルシュール(Lesueur)というフランスの大物スパイ。もう一人は地元民らしく、ジュゼッペと呼ばれています。

「彼の名はマチュリン、スティーブン・マチュリンだ。(His name is Maturin, Stephen Maturin.)」ルシュールはジュゼッペに言います。「英国海軍の軍医だが、諜報員でもある…」

この「マチュリン、スティーブン・マチュリン」という言い方に、ちょっとにっこりしてしまいました。なぜなら、スティーブンの大後輩(?)のあの有名なスパイは名前を聞かれた時、必ずこういうふうに答えるからです−「My name is Bond, James Bond.」これって作者は意識しているのかな。偶然かもしれませんが…でも、きっと意識してるな。だって、この巻は…(以下ネタバレ自粛)

フランスの諜報員ルシュール、ローラ・フィールディングをスティーブンに近づける。

「…奴にはしてやられた。奴のせいで、こちらの仲間がたくさん死んだ。(※)」「今夜、始末しましょうか?」「ジュゼッペ、お前がナイフ使いの達人なのはよく知っているが、ここでそういうやり方はまずい。英国海軍の軍医が突然消えたら騒ぎになる。それに、死人からは何も学べない。生きているドクター・マチュリンからなら、山ほど情報が引き出せるだろう。だから、奴にはミセス・フィールディングを近づけることにした。彼女が奴から何を引き出してくれるか楽しみだ。」「ミセス・フィールディングって誰ですか?」

つづく。

※主に、5巻でスティーブンが作りフランス諜報部に流した偽書類の効果。