Chapter 7 〜 オーブリー艦長の水泳


またちょっと間が空いてしまってごめんなさい。

前章は、クラリッサ・オークスの長い告白で終わったわけですが…まあ、本人としては告白と言うより、思いつくまま話をしただけなんでしょう。彼女は過去を知られることを嫌がっていたみたいだけど…質問しないだけでなく、どんな話を聞いても批判したり、怒ったり、同情したり、忠告したりしないで、ただ淡々と聞いてくれて、しかも秘密を守れると信用できる人なら…色々ぶっちゃけてしまいたくなるのも、自然なことなのかもしれません。意外と「聞き上手」なスティーブン。「自分の意志とは関係なく、女性と『いいお友達』になってしまう」と前に書いたけど、それは彼の職業柄もあるのかな。

それと…ちょっと嫌な話だけど、家庭内の性的虐待っていうのは、この時代には本当に多かったのだろうなあ、と。まあ、現代でも十分多いわけですけど。当時は法的規制も社会的制裁もないし、被害女性には何の対抗手段もないし(経済的に自立できないし、公表しても自分が傷つくだけ)、ある意味やり放題だもの。この時代を舞台にした小説で、ここまではっきり描いているものは他に読んだ事がありませんが…

この過去が、クラリッサの特異な(?)人格のどの部分に影響を与えているか…あるいは、どの部分に影響を与えていないか…ということは、興味深いのですが、それは後の章でスティーブンが分析してくれるので、ここでは別のことを。

「マザー・アボットの店」は、セント・ジェームズ街近くの裏通りにあります。つまり、スティーブンとジャックとサー・ジョセフのクラブ「ブラックス」(11巻参照)の近くで、ブラックスの真向かいにあるレッドワードとレイのクラブ「バトンズ」のすぐ裏。公爵やらガーター勲爵士やらが出入りしていたことを考えると、ここらのクラブメンバー御用達の高級娼館であったと思われます。

だから、「レッドワードとレイという客を知っているか?」というのは、それほど唐突な質問でもないのです。特に、その店が「男の子も揃えてます」ということで有名だったりしたら。…そっち方面のサービスって、どこの店でもやってるってわけではなかったのでは?…どうだろ?(<自信なし)まあ、「大当たり」だったのは大ラッキーではありますが。

念のため−「大当たり」というのは、今まで正体不明だったレッドワードとレイのボス(二人よりずっと高い地位で、二人の国外逃亡を助け、その後も重要な情報を流し続けている)が判明したことです。

高級娼婦は客の秘密は絶対守るものだから、客も安心して喋るのですね。ある意味、医者と似ている。クラリッサが既に辞めていて、かつての客の秘密を守る義務を感じていないことが、スティーブンにとってラッキーだったわけですが。

アボット母さんの店に関連して、くだらないけどちょっと気になったこと。

友達が上階へ行っている間、女主人とお茶を飲んだことならあります。
その友達って、まさかジャックではないよね?(だったら嫌だ。)
あるいは…あるいは…サー・ジョセフではないよね?(だったらもっと嫌…)

鎖とか革とか
この二人(レッドワードとレイ)の趣味って…幅広いのね。

スティーブン、サー・ジョセフに手紙を書く

さて、その夜…スティーブンは、アナムーカ島の「お別れパーティ」への出席を断り、大急ぎでサー・ジョセフに手紙を書き、徹夜で暗号化しました。夜明けの潮で、サプライズ号はモアフ島へ、デイジー号はシドニーへ出航するので、手紙をデイジー号に託すために。(シドニー→バタヴィア→インド→陸路でヨーロッパ…が一番早いルートなので。)

「マイディア・ジョセフ−(おお、ファーストネームで呼んでいる…)この手紙が一刻も早くあなたに届くことを、心から望みます。

百万に一つの幸運に恵まれたようです…ガーター勲章を受けていて、少し足の悪い公爵を思い出して下さい…情報源について説明すると、数年前にミスター・カレーの頭を二連銃で吹き飛ばしたレディで、ブラックスのメンバーのハリー・エセックスが絞首刑から流刑に減刑した女性です…


スティーブンは今までの航海のこと、彼女が艦に乗った経緯をざっと説明し、レイたちと例の公爵について彼女が語ったことを思い出せる限り詳しく書きました。

「この手紙の写しを彼女にも持たせます。結婚しているとはいえ、刑期の前に帰国したことで困った事になるかもしれません。彼女の保護をお願いできますか?…最後に、マイディアJ、同封の手紙を妻に渡して頂けたら幸いです…」

ミスター・カレーとは誰か、どういういきさつで頭を吹っ飛ばされることになったのか、説明はないのですが…でも、ドクターが「銃の使い方は分かりますか?」と訊いた時にクラリッサが変な顔をしていた理由は分かりました。夫が信じているような「無実の罪」ではなく、立派な殺人罪のようですが、なぜかそのことでクラリッサを悪く思う気にはならない…

出航の時、サプライズ号は抜錨作業に失敗する。艦長、激怒する

スティーブンが手紙の暗号化に苦労している間、ジャックたち他の乗員は海岸のお別れパーティでカバ酒を飲み、ご馳走を食べ、島の女性のダンスや(女性同士の)ボクシング試合に声援を送り、島の男性とボクシングやレスリングをして惨敗し(<ボンデンとデイビス)…楽しく過ごしました。で、艦に戻ってきた時は上機嫌だった艦長ですが…出航の時、彼をカンカンに怒らせることが起きました。

早朝、スティーブンが暗号化を終えた手紙をまとめていると、いつになく激しい艦長の怒鳴り声が聞こえてきました。「寝ているのか!」

抜錨作業というのは、ちゃんとやらないとスムースに行かない難しい作業のようですが…何千回も抜錨をこなしているベテラン揃いのサプライズ号がしくじるなんて、考えられない事。ところが、今回は見事に失敗し、「もう少しで潮を逃すところだった。」(<海軍的には究極の罪)しかも、他の船(デイジー号)が見ている前で!当然、艦長は怒り心頭。

失敗の原因は、乗員が酔っていたから−ではなく、息が合っていなかったから。息が合わない原因は、最近の班同士の対立で…その対立の原因は、班を率いる士官同士が対立しているからで…その対立の原因は…

艦長、プリングズと他の士官たちを艦長室に呼ぶ

手紙をのせたデイジー号と別れ、アナムーカ島が水平線の向こうに消えた後、艦長はプリングズを艦長室に呼びました。「トム、この艦は崩壊しかけている。どんなに乗員が優秀でも、ガンルームに敵意があれば艦はバラバラになる。知っているだろう。」「はい。」「ガンルームに礼儀を取り戻させるため、新しいメンバーを加える。オークスを海尉心得に昇進させる。」

「それはだめです!」プリングズは顔を真っ赤にして叫びました。「それでは、ミセス・オークスが一緒に食事することになってしまいます。彼女に好意を寄せている士官がいるのです。」「知っている。」「いえ、それが、もっと深刻なことなのです。ひどく深刻な…生きるか死ぬかの…くそ深刻な…(bloody serious - cut-your-throat serious - fucking serious...)」「何だって?文字通りの意味で言ったのではないだろうな?」「いいえ、私の言葉が汚いだけです。すみません。しかし、彼女が毎日食事に現れるとなると…」

しばしの沈黙の後、ジャックは言いました。「『知らぬは夫ばかり』だな。夫というのは艦と結婚している夫、つまり艦長の私のことだが…トム、知らせてくれてありがとう。」

ジャックが「文字通り」と言ったのは、もちろん"fucking"という言葉のこと。プリングズが汚い言葉を使うなんて、珍しい。しかも艦長の前で。多分、思わず出たと言うより、ストレートに告げ口をするのを避けるためにいろんな意味をこめてこの言葉を使ったのでしょう。

続いて艦長は、抜錨を監督していたデイビッジとウエストを呼び出し、厳しく叱責しました。「個人的な対立だけなら何も言わん。しかし、士官が対立しているのを部下に見せれば、部下同士の対立に繋がる。敵意を持っていても、人前では隠せ。戦闘の時に今朝のような体たらくになったらどうする?言っておくが、モアフの一件が片付くまでに態度を改めなければ、優秀な水兵を昇進させて貴様らと取り替えるからな。」

ジャック、水泳する。

翌朝。イライラした気分を抱えたまま、ジャックは水泳をしました。青空の下、快適な温度の海を半マイルほど泳いでリフレッシュしても、イマイチ気持ちが晴れないジャック。

船の近くまで戻った時、ミセス・オークスが艦尾に立っていることに気づいて、彼はあわてました。「しまった、裸を見られたかも。」とっさに海に潜り、ぎりぎりまで息を止めて潜水したまま泳ぐジャック(恥じらいがかわいい)。まあ、オークスがすかさず妻の視線を遮ったし、キリックがタオルを持って待ち構えていたので、心配なかったのですが…

朝食の席で、ジャックはスティーブンにさっきの出来事を話しました。「危うく彼女に、不愉快な光景を見せてしまうところだったよ。」

スティーブンは、前に彼女を自分のキャビンで診察した時のことを思い出していました。ジャックは露知らぬことながら、彼女はその「不愉快な光景」を舷窓越しに見たことがあったのでした。彼がボートからサプライズ号を点検し、海に潜っていた時に。

クラリッサは彼を客観的に観察し、落ち着き払ってコメントしたものでした−「オーブリー艦長は、立派な男性的な身体をしていると言われるでしょうね…アイルランドでも。でも、ずいぶん傷がありますね。」「もう数え切れないほど手当てしました。全て、名誉ある身体の前面の傷です…背後にもありますが。」

ジャックの全裸を客観的にしげしげと観察し、冷静に感想を述べるクラリッサ。うらやまし…じゃなくて、素敵(なんとなく)。でも、なぜ「アイルランドでも」なんだろ。アイルランドは男性美の基準が違うのか?

それはアナムーカ島での会話の前で、彼女の男性に対する態度が、普通と違っている事に初めて気づいたのはあの時だった…と彼は思い返しましたが、もちろん口には出しませんでした。

「ミセス・オークスと言えば…しばらくマーティンのビオラを聞いていないな。本人にもしばらく会っていない。」「ビオラが壊れたそうだ。」

総員点呼。艦内は緊張状態

翌日は日曜日。総員点呼と礼拝の日でした。

総員点呼は艦長が乗員の様子をチェックするいい機会ですが、逆に乗員が艦長の機嫌を推し量るいい機会でもありました…機嫌はすこぶる悪いことを確認し、落ち着かない気分のサプライズ号。

艦内をくまなく見回る間、彼の顔に微笑が浮かんだのはたった一度、リードが怪我から回復して仕事に戻っているのを見た時だけ。ジェミー・ダックスのところへ来て、サラとエミリーの背がぐんと伸びていることに気づいて「シャーロットとファニーも、このぐらい大きくなっているかなあ」と思った時でさえ、艦の雰囲気を敏感に感じとって怯えている様子の二人に、艦長の顔は曇るのでした…

その頃シックバースでは、マーティンがスティーブンに謝っていました。アナムーカ島でスティーブンの誘いを断った理由について、今まで嘘をついていたからと…

「実は、ミセス・オークスに…何と言うか、気持ちが傾いていて…なるべく彼女と一緒にいないほうがいいと思った。ビオラを壊したのも、それが理由だ。それで…どうか、これを受け取ってくれ。」彼はスティーブンに、珍しい昆虫の入った箱を差し出しました。「ありがとう。サー・ジョセフが喜ぶだろう。」

スティーブン、クラリッサと話をする

その日、艦長室のディナーにはプリングズとスティーブンとオークス夫妻が招待されていました。(マーティンも招待されたのですが、彼はクラリッサを避けるために「体調が悪い」と嘘をついて断っていました。)

ディナーで、オークスは(前もってグロッグで景気をつけてきたらしく)妙に上機嫌。クラリッサがハラハラと見守っているのにも気づかず、海軍ジョークを連発して艦長と副長に受けていました。クラリッサとオークスを観察していたスティーブンは、二人が何かの形で「わかり合った」(たぶん、肉体的な裏付けを含めて)のではないか−と、考えていました。

ディナーの後、スティーブンが艦尾甲板に出ると、クラリッサが艦尾に独りでぽつんと座っていました。

「ドクター、いらしてくれて嬉しいわ。とても寂しくなっていたところです。変ですね。子供の頃は一人でいることは平気でしたし、流刑地では一人になりたくてたまらなかったのに。私は嫌われるのが本当に嫌いで、たぶんそのせいです。サラもエミリーもリードも、前はとてもいい友達でしたのに…どうして嫌われたのか分からないのです。」「子供は気まぐれなものです。」「そうですね。でも、がっかりしました…」

「艦長の生活というのは、寂しいものでしょうね。もちろん、オーブリー艦長にはあなたがいらっしゃるから別ですけど…他の方は、狭い船に押し込められて、話相手もなくて。奥さんや愛人を乗せて航海する人はいますの?」「長期航海で妻を乗せるのは、聞いたことがありません。愛人を乗せることは上層部だけでなく、部下にも批判されます。乗員の尊敬を失うことになります。」

「でも、船乗りは貞節さで知られているとは思えませんが…」「陸ではね。海の上となると話は別で、独自のルールがあるのです。」「本当に?本当に?」彼女は首をふり、ため息をつきました。「でも、お気づきかと思いますけど…私、男性のことはほとんど何もわかっていないのです。普通の意味での男性、普通の日常生活を送っている男性…夜でなく、昼間の男性のことは。」