Chapter 8 〜 ドクター・マチュリンの手紙


オーブリー艦長、鞭打ち刑を宣告する

ジャック・オーブリーが指揮する艦で、鞭打ち刑が行われることはごくまれでした。特に、このサプライズ号では−ほとんど全員が腕のいい水兵で、乗員同士の仲もよく、ケンカも少なかったこの船では、本当に長い間、鞭が袋から出されることはありませんでした。

しかし、先日の抜錨作業失敗では、他の船の前で艦の恥をさらしたことで、艦長はまだ怒り心頭で、士官と共に失敗の原因を作った反抗的・職務怠慢な水兵たちについては、厳しく罰するつもりでした。

とういうわけで、この月曜日、艦の全員(ドクター、ミセス・オークス、サラとエミリーを除く)が見守る中で、軍規違反者への刑罰が言い渡された時、職務放棄、上官への反抗などの罪で鞭打ち刑を宣告された者は7人にのぼり、グロッグ配給停止を受けた者は数え切れぬほどでした。

一人が12回、あとの6人がそれぞれ6回の鞭打ちを受ける間、ドクターは彼のキャビンでミセス・オークスを診察していました。甲板から聞こえてくる叫び声や鞭の音にも、クラリッサは顔色ひとつ変えませんでした。

スティーブンとクラリッサ、話をする

「艦長はいつも何回ぐらい鞭打ちをしますの?」「12回より多く宣告したことはありません。彼の艦では、鞭打ち刑はとても少ないのです。」「12回?ニュー・サウス・ウェールズでは変に思われるでしょうね。あのひどい牧師(マーズデン)など、鞭打ちは100回単位でしか数えませんでした。ドクター・レッドファーンはあの牧師をひどく嫌っていました。」「知っています。私もです。」

「あなたはドクター・レッドファーンに似ていらっしゃるわ。本当にいい人でした。彼が私に、妊娠もしていないし病気にも罹っていないと言ってくれた時、どんなにほっとしたか。私は両方になっていてもおかしくなかったのです。何度もレイプされましたから。」「本当にお気の毒です。」「他の女の子にとっては酷いことでしょうけど、私にはほとんど意味のないことです。そういう結果にさえならなければ。」

「あなたの今までの経験が、やさしい感情を残らず消してしまって、気難しい内向的な人間にしてしまわなかったのは素晴らしいことです。」「やさしい感情の方は、子供の頃からなかったかもしれません。私は犬も猫も子供も嫌いでしたし、人形やペットのウサギをかわいがったこともありませんし、激しく怒ることもありますから…でも、気難しくはありませんし、内向的でもありません。 人に親切にしたいと思っていますし、人と一緒に楽しく過ごすのは好きです。愛情を感じることのできない怪物でもありません。ただ、そういう気持ちを…下品にならずにどう言えばいのかしら? 肉体的なことと結びつけることができないのです。まったく正反対のことに思えます。」

クラリッサは、おそらく少女の頃の不幸な経験とそれに対する防御反応によって、恋愛やセックスや人間関係に関する感覚が少し…普通でないところがあります。でも私は、彼女に妙に共感できるところがあるのですよね。特に、セックスに関するミもフタもない語り方とか…(スティーブン以外の男が聞いたら、ショックを受ける内容でしたけど。)

彼女は、社会的な常識を身につける機会を奪われたがゆえに、すごく本能的に世の中を見ているようなところがあるのかもしれません。とことんクールでリアリストかと思えば、ものすごくイノセントなところもあるし…いろいろ面白い人です。

オーブリー艦長、地獄の特訓をする

その後の航海では、オーブリー艦長は艦の規律を叩き直すべく、乗員を毎日極限までこき使っていました。

トップマストを外してまた設置するという大変な作業を、班ごとに時間を競わせる訓練の他にも、ボートを上げ降ろしする訓練(これもけっこう大変な作業)、剣術訓練、展帆訓練、そしてもちろん砲撃訓練。ジャックにしては珍しく、砲撃訓練は実弾発射なしで、砲を出し入れする作業を繰り返すだけ−火薬を節約する目的の他にも、今の艦長は、砲をぶっ放すことで乗員にストレス解消させる気はさらさらなかったのでした。

毎日毎日、乗員を体力の限界まで追い込む艦長。食事の時、ガンルームのメンバーは相変わらず口をきかなかったのですが、それは敵意からではなく、ただただ疲労のためでした。ミセス・オークスをめぐる嫉妬からきた敵意は残っているものの、毎日一緒にへとへとに疲れているうちに、仲間意識も徐々に戻ってきているようで。

スティーブン、ダイアナに手紙を書く

その間、地獄の特訓とはまるで関係のないスティーブンは、マーティンと一緒に釣りに行ったり、ダイアナに手紙を書いたりしていました。

「マイディア・ダイアナ…

ジャックは乗員を任務に集中させることで、今の状況を打開したいと考えているようだ。この問題は、ミセス・オークスに惹かれている士官たちの対立と、自分の上官に味方する水兵たちの対立からきているとジャックは思っている。でも、事はそう単純ではないんだ。僕の見たところ、乗員の感情は少なくとも6種類に分かれている。

まず、夫以外の士官と寝たことでクラリッサを非難している組(これが多数派だ)。そして、自分の上官以外の士官と寝たことで彼女を非難している組。無条件でオークスを応援している組(ほとんどは彼の班の者だ)。妻を殴ったことでオークスを非難している組。自分の上官を無条件で(彼がクラリッサに対してどういう立場でも)応援する組。そして、今でもクラリッサを敬愛している組だ。

これをジャックに言うのは正しくないし、たとえ言っても役に立つとは思えない。『彼女にとっては、性行為というのは取る足らないことだ』なんて、彼にどうやって理解させたらいいのか。我々が日常の挨拶としてしているキスでさえ、日本人にとっては、人前ですることはとんでもない行為だ。ピント(※)によれば、彼らにとってのキスは、我々にとっての性行為と同じぐらい、暗闇に隠れて行うべき行為なのだ。」


(当時の日本人って、そもそもキスをしたかしら?人前でしなかったことは確かですが。それはともかく、この文章は、このシリーズで「日本」という言葉が出てきた数少ない文のひとつです。マチュリン先生が江戸時代の日本を訪れていたら、どんな感じだったかな〜。怪しい異人…)

「その特異な生い立ちのせいで、彼女にとってキスと性交は、無意味だということにおいて同じなのだ。それに、彼女はまったく快楽を感じない。彼女がベッドへ男を許したのは、人の好さ、同情心、人に好かれたいという強い気持ちからで、まったく純真な心からのことだった。『醜い、気の毒な男が、足に刺さった棘を抜いてくれと言ったら、抜いてあげるでしょう。たとえそれが快いことでなくても。』彼女は言った。

結果として、好かれるどころか、望みを叶えてやった男たちからは(多かれ少なかれ)憎まれ、その他の男達には軽蔑されることになったので、彼女は驚いていた。

僕は何度も、男の独占欲について、強い嫉妬心(彼女にはまるで理解できない感情だ)について彼女に長々と説明した。それに、船の上では、何をしてもすぐに知れ渡ってしまうということも…彼女は信じてくれたようで、もうセックスはしないと言った。でも、それでどうなるかはわからない。彼女は容易には消せない火をつけてしまった。今のところ、ガンルームは疲労困憊で他に何もできない状態だが、押さえ込まれた情熱はどこかで爆発するかもしれない…」


男の嫉妬は怖いのだ。

しかし、スティーブンは、本当にこの手紙をダイアナに出すつもりで書いているのかな?ジャックのソフィーへの手紙は、ソフィーが読んでいるところが想像できるし、また実際に読んでいるのですが…スティーブンのダイアナへの手紙は、前の航海の時(8〜10巻)も結局届かなかったようだし。何より、ダイアナがこれを読んでいるところは、何となく想像できないのですが。

ダイアナ向けに書いているにしては、言葉遣いが難しすぎるような気もするし。いや、ダイアナが馬鹿だと言っているわけではないのですが…あんまりややこしいことを書いていると、読むのが面倒になって放り出しそうな気がする。それに、クラリッサのことをこんなに熱心に書いていたら、誤解されないかしら。

スティーブンは、親しい人に宛てて思ったことをそのまま書くような手紙を書き慣れていないのだろうな。で、どのぐらい心をさらけ出すべきか、加減がわからないというか。

それと…この巻を読んで、クラリッサに比べたら、ダイアナなんてお嬢様育ちのロマンチストだなあ、とか思っていました。そういうところがあるから、スティーブンは好きなのだろうけど。クラリッサだと、友達にはなれても恋愛対象にはならないかも…

※フェルナン・メンデス・ピント(1510?-1583):ポルトガル人冒険家。アジア全域を旅行したとして「東方遍歴記」を著したが、内容の信憑性は疑わしい。ほとんどはホラ話とも言われている。こんなに古い、しかも怪しい著作をマチュリン先生が引用するぐらいだから、当時の英国においては、本当に日本の情報って少なかったのだろうな。

オーブリー艦長、乗員に久しぶりに休みを与える

モアフ島まであと数日と迫った、ある日曜日の午後。ジャックはようやく乗員に半日の休みを与えたので、疲労困憊の乗員たちは、艦のあちこちで昼寝をきめこんでいました。

艦長はディナーにスティーブン、プリングズ、マーティン、リードを招きました。食事の後、一行がコーヒーを持って艦尾甲板に出ると、クラリッサが一人で座っていました。

艦長は彼女に声をかけ、一行はしばらくにこやかに会話を交わしましたが…プリングズとマーティン、特にマーティンは、クラリッサと話すことにまだ居心地が悪そうでした。

「そういえば、あなたは砲撃をご覧になったことがありませんね。」話が砲撃のことになった時、ジャックがクラリッサに言いました。「いつも下にいらっしゃったから…明日、実射訓練を行う予定です。もし、よろしかったら、ご覧になりませんか?もっとも、エレガントなご婦人には、鳥撃ち銃の音でも近くで聞くのはお嫌いな方もいらっしゃいますが…」「まあ、私は銃声を嫌がるようなエレガントな女性ではありませんわ。是非、見学させていただきたいです。」

オーブリー艦長、クラリッサに砲撃訓練を見学させる

月曜日に実射訓練が行われると言うことは、すでに艦中に知れ渡っていたので、日曜の夕方には、乗員たちは準備に余念がありませんでした。自分の班の砲を磨き、用具を手入れし、砲弾のデコボコをならし…

ターゲット・プラクティスで他の班に負けたくないという対抗意識も、もちろんあったのですが、彼らの熱心さ何よりも、「艦長に見直されたい」という思いからでした。何のかんの言って、乗員たちは艦長を深く敬愛していたので、彼に軽蔑されたままなのは耐えられなかったのです。

とういうわけで、月曜の夕方に「Beat to quarters」の声が響いた時には、全員が準備万端整えていました。実射訓練は久しぶりながら、熱意でカバーして、艦長を満足させる砲撃を見せるサプライズ号。

初めて砲撃を間近で見たクラリッサは、その凄まじさに感動していました。「ああ、何て素晴らしいの!何て見事なの!ドクター・マチュリンがここにいらっしゃればいいのに…本当に、すごい…」砲が命中してターゲットがばらばらになると、彼女は子供のように興奮して歓声を上げました。

興奮に顔を輝かせている彼女を見て、ジャックは「今までで一番きれいに見える」と思い、彼女への好感度がかなり上昇しました。「こんなにすごいものだとは知りませんでした。海戦のときは、さぞかし凄まじい光景でしょうね!審判の日のような。」

オーブリー艦長、モアフ島の任務を乗員に説明する

砲撃訓練の後、久々に艦と乗員に満足感を覚えた艦長は、長い間見られなかったにこやかな表情で、整列した乗員たちの前に立ちました。

「諸君。これで砲の準備は整った。二、三日中に実戦で使うことになるかもしれない。今、我々が向かっているモアフ島で、英国船とその乗員が捕らえられている…」艦長はモアフ島の状況、トゥルーラブ号のこと、私掠船フランクリン号のことをはじめて乗員に説明しました。(ただし、実務的な説明が中心で、北と南のどちらに肩入れするかとか、そういう政治的な話は抜きで。)

「…フランクリン号を油断させるためには、捕鯨船に偽装して近づくのが一番だ。君たちの中には、捕鯨船の経験のある者がいるはずだ。最も経験のある者たちが率先して、この船を薄汚れた、みすぼらしい、海に出て3年経っている、人手不足で平和な捕鯨船に変えるのだ。」