Chapter 1〜アッシュグローブ・コテージ


ハンプシャーはポーツマスの港にほど近い丘の上に、ささやかな農場がついているこじんまりとした家が立っていた。アッシュグローブ・コテージ(トネリコの森荘)と呼ばれるこの家には、英国海軍勅任艦長ジャック・オーブリーと妻のソフィーが住んでいた。広くはないがロマンティックなこのコテージは、二人の新婚生活にはぴったりだった。が−

2年の月日が流れ、今ではこの小さな家にオーブリー夫妻と双子の娘のシャーロットファニー、義理の母のウィリアムズ夫人、姪のリトル・セシリア、それに召使が二人住んでいてたいへんに狭苦しく、おまけに雨は漏るわすきま風は吹き込むわという有様だったが、ジャックはこの2年間乗る艦がなくて陸上生活(※給料は半分になる)を強いられているので、借金は完済したもののはっきり言って家計は苦しく、家の修繕もままならない。

そんなジャックの楽しみは、家の敷地内に作った小さな天文台で望遠鏡をいじること。彼の親友のスティーブン・マチュリンが久しぶりに訪れた時も、彼はそこにいた。「スティーブン!」彼はスティーブンの両手を握りしめ、潮焼けが少し褪めてピンク色の顔が喜びで真っ赤になり、スティーブンの顔もつられて少し紅潮した。「久しぶりだなあ!今までどうしてた?」ジャックはスティーブンが医者であると同時に海軍の諜報員でもあることを思い出し、あまり追求しないことにした。ジャックは彼に手製の高性能望遠鏡を見せた。「よくここで港を見てるのか?」「ああ。ソフィーには言わないでくれよ。星を見る分にはいいんだが、おれが船を見てるとソフィーは落ちこむみたいなんだ。」

ジャックはスティーブンを農園に案内した。「今は冬だから大した物はないけれど…」かつて彼がインド洋で夢見た通り、コテージにはささやかな農園がついていて、牛も1頭いた。が、細かいところでは夢とは違っているようだった。例えば、もりもりという音が聞こえそうなほど盛大にキャベツを食い散らかしている夥しい数の芋虫とか、今が冬だと言う事を考慮してもあまりにいじけた薔薇とか。「あれが牛だ」「乳牛か?」「それが…今のところ駄目なんだ。何度か雄牛を連れて来たんだけど、彼女は頑として受け入れないんだな。」「まあ、賢明な態度といえるな。僕が牝牛の立場なら…どんな種類でも、牝に生まれついたとしたら…始終妊娠しっ放しなんてごめんだね。おまけに、苦労して産んだ子供はステーキになってしまうんだから…これは牛に限るけど。あの蜜蜂はどうしてる?」「それが…このごろ見かけないんだ。前にハチミツを取ろうとして以来、あまり近づいていないんだけど…」スティーブンが巣箱を開けると、ハチミツ蛾の幼虫の繭があり、蜂は全滅していた。「ごめん、君の贈り物だから大事にしてたんだけど…」「気にするな、代わりはいくらでもあるから…また上げるよ。」

その時、家の方からウィリアムズ夫人と別の女性が怒鳴り合っている声が聞こえ、オーブリー家の料理人が憤懣やるかたないという様子でこちらへ向かって歩いて来た。「ベッシー、どうしたんだい?」ジャックが声をかけると、彼女は怒りにわなわなと震え、「私は紹介状が頂きたかっただけです!」と怒鳴って去って行った。「これで今年4人目だ。おれは艦では三百人以上の人間を、自分の手にキスするより簡単に統率してたのになあ。この家では…おっと、ごめん、うっかりしてた−のどが渇いただろう?グロッグでも飲もうか。」二人が家に近づくと、2階の窓からソフィーが顔を出した。「スティーブン!よく来てくれたわ!家に入って!」


3巻を読み終わって、ジャックとソフィーはちゃんと結婚できるのか?まだ障害があるんじゃないか?あったらいいなあ(<こらこら)…なんてことを思いつつ勇んで4巻を読み始めたら、1ページ目でいきなりジャックが双子のパパになっていて、ちっぴりショックを受けた私。でも相変わらず、陸ではヘタレなジャック、かわいい。

そして、結婚祝いにミツバチを贈るスティーブン(あの時のミツバチがこんなところに…)。それなのに「スティーブンの贈り物だから…」と大事にしているジャックって、義理堅いというか。「ハチミツを取ろうとした」ってところ、某名作児童文学(orディズニーアニメ)のクマを連想してしまいました(笑)。

そして、唐突に牝牛のキモチになるスティーブン…あなたはやっぱり変。でも好き。

ソフィーは妹のような愛情をこめてスティーブンにキスをして両手を握りしめ、嵐のような質問を浴びせた−どこに行ってたの?元気だった?来てくれて本当に嬉しいわ−今来たばかりなの?ジャックはどうして呼んでくれなかったのかしら?15分も逃しちゃったわ。お腹空いてるかしら?双子を診ていってくれる?…ところで、元気なの?

ジャックに案内されて二階の小さい部屋に入ると、まだ髪の生えていない赤ん坊が二人座っていた。「どっちがどっちだかわからないんだ。多分こっちがシャーロットだと思うんだけど…」スティーブンは赤ん坊たちを一通り診察した。「大丈夫−どこにも異常はないよ。でも、よくいる馬鹿な親みたいに、空中に放り投げたりはしていないだろうね?頭に良くないんだ。女の子は大きくなったら男より知性が必要になるんだから−」「本当か?どうしよう!『高い高い』をするととても喜ぶんで、つい…もう二度としないよ!でもまあ、どうせ女の子だし…」「女の子だからがっかりしているのか?どうして?」「馬鹿げた偏見かもしれないけど−実は男の子が欲しかったんだ。ソフィーには絶対に言えないけど、おれはてっきり男の子だと思って、いろいろ考えていたんだ。7、8歳になったら海に連れて行って、いい教師を乗せて数学や語学を教えて、おれは船のことを何もかも教えてやって−末は提督になるかもしれないって。娘じゃあ、おれが何の役に立つ?持参金だって用意してやれそうもないのに…」「確率から言って、次は男の子だろう。そうすれば計画を実行すればいい」「次が生まれる可能性はなさそうだよ。スティーブン、君は結婚していないから分からないだろうけど…いや、こんな話はすべきじゃなかったな。」

二人は『クラウン亭』に食事に行く。「船乗りっていうのは、陸上生活を長い休暇みたいに考えてしまう傾向があるんだな。だから、普通の男なら当然だと思う結婚生活の細々した困難を、船乗りはことさら耐え難く感じるんだ。」「でも、ウィリアムズ夫人と同居しなきゃならない船乗りはおれだけだ。いや、悪い人じゃないんだけど…おれが結婚について間違った考えを抱いていたのが悪いんだ。艦長をやっていると、寂しいし、偉い男を演じるのも嫌になってきて、休みたくなるんだが…結局それは不可能なんだな。」「じゃあ、もし今、海に出るように命令されたとしたら歓迎するかい?娘の成長を見逃すから嫌だって事はないのか?」「命令を持って来た奴にキスしちまうだろうね。それに、給料の全額をもらう必要もあるんだ。拿捕賞金が入れば娘に持参金を用意してやれるだろうし…」『拿捕賞金』という言葉を口にしただけで、ジャックの顔に生気が戻った。「…ひょっとして、君は何かつかんでるのか?サプライズ号の話を持ってきてくれた時みたいに?」「どうしてそういうストレートな質問をするかなあ?…しっ、階段の方にすごい美人がいる。」「…本当だ。でも、おれはもう女性には用が無いよ。美人であろうと、なかろうと」「情けない事を言うなよ」二人は食事を楽しんだが、ジャックの元気は戻ってこなかった。その日、スティーブンはアッシュグローブ・コテージに泊まった。

翌朝、ソフィーがスティーブンを散歩に連れ出した。「スティーブン、ジャックに艦を世話してあげられないかしら?彼、ここにいると不幸なの。望遠鏡で船を眺めてばかりいるのを見てると辛いわ。」「力になりたいけど、一介の軍医に何が出来る?」僕の『もう一つの仕事』について、ジャックはどれぐらいソフィーに話しているんだろう?「でも、あなたはクラレンス公爵が病気の時に呼ばれたって新聞で読んだわ。あなたから公爵に言ってもらえれば…」ソフィーの無邪気な言葉に、彼はほっとして答えた。「公爵はジャックの事をよくご存知だよ。でも、彼は海軍省とは折り合いが悪いんだ」「国王の息子なのに?」「海軍省にはひどい人間も多くてね。」

二人が家に入り、ジャックが自ら淹れたコーヒーを楽しんでいると、『クラウン亭』から使いが来た。「『レディ・クロンファートより、オーブリー艦長へ…喜望峰へおいでの際、艦に同乗させて頂けると有難く存じます…急なお願い誠に失礼ですが、オーブリー夫人においては、同じ海軍軍人の妻として夫の元へ急ぎたい心をご理解頂けると思います…』このレディは一体何を言っているんだ?おれが艦を持っていたら、もちろん送ってあげてもいいけどね」それを聞いてスティーブンは顔色を変えた。「ジャック、ちょっといいかな…話があるんだ。」彼はジャックを庭に連れ出した。「昨夜、君の質問をはぐらかしてすまなかった。実は僕は、『何かつかんでる』んだ…」


ジャックの最初の子供は双子の女の子。ジャックは男の子が欲しかったみたいなんですが…でもそれは娘が可愛くないってことじゃなくて、女の子に対して、何をどうしていいかわからないってだけなんでしょうね。

「まず、インド洋の現状を説明しなくちゃならない。先日、フランスのフリゲート艦が4隻、封鎖をすりぬけてインド洋のモーリシャス群島に向かった。知っての通り、フランス領のモーリシャス群島−モーリシャス島ラ・レユニオン島はインド洋への恰好の拠点になっている。英国は喜望峰を押さえているが、モーリシャスよりは不利な立地だ。フランスのフリゲート4隻はインド洋の力のバランスを大きく崩してしまった。既に東インド会社船が2隻拿捕され、このままではさらに多くが拿捕されるだろう。貿易は大打撃だ。そこで海軍省は…ジャック、ボーディシア号って知ってるか?」「38門のフリゲートだろう?ラブレスが艦長だ」「海軍省はボーディシアを喜望峰に派遣するつもりだ。喜望峰艦隊から数隻を率いて、旗艦としてモーリシャス群島に赴く。艦隊の任務はモーリシャス島とラ・レユニオン島をフランスから奪う事だ−ラブレスがその任務につく筈だった。」

「ああ、おれも前からモーリシャスは英国領にすべきだと思ってた…」ジャックはそう答えながら、『ラブレスが任務につく筈だった』という一言が頭にひっかかって気もそぞろだった。「ラブレスはこの任務には不適任なんだが、強力なコネを持っていて−でも、持病が悪化して療養が必要になった。僕は群島の総督になる予定のファーカー氏と共に艦隊に同行する予定で、この件に関していろいろ意見を言える立場なんだ。それで『オーブリー艦長が万難を廃して指揮を引き受けてくれるかもしれない』と提案したんだ。ところが、僕の他にも意見を求められた連中がいたらしくて…」スティーブンがあまりに怒った顔をしたので、ジャックの希望はしぼみかけた−が、彼が怒っているのは別の事だった。「…その中に口の軽い馬鹿がいたらしい。君がボーディシアの艦長に任命されて喜望峰へ行く事をさっそく喋り散らして、それをレディ・クロンファートが聞きつけたらしい。(彼女の夫のクロンファート卿は喜望峰駐在のオッター号の艦長だ。)噂好きの婆さんじゃあるまいし、まったく、軍事機密を何だと思っているんだ!」スティーブンは憤懣やるかたないという様子で声を荒げたが、ジャックの頭の中では幸せな言葉がぐるぐる回っていた−『指揮艦−旗艦−艦隊司令官!

「…お陰で、急いで説明しなきゃならなくなった。正式なルートから命令書が来るまで黙ってるつもりだったんだ。僕からこんな風に話すのは恩着せがましくて、友人関係を損ないかねない…」「我々の関係が損なう事はないよ。何があっても。感謝はしない事にするけどね、君が嫌だって言うんなら。でも、すっかり生まれ変わった気分だ。」実際、彼は生まれ変わったように見えた−顔色はピンクに輝き、背は一層高くなり、10歳も若返り…「指揮艦か!」ジャックは空中に舞い上がらんばかりの様子で、目には涙まで浮かんでいた−イングランド人っていうのは、どうしてこうすぐ感極まるんだろう−とスティーブンは密かに思った。「荷造りを始めていいかな?」「駄目に決まってるだろう?ソフィーが君の顔を見たら、何の話をしていたのか一目瞭然だ。僕の仕事がばれてしまう。命令書が届くまでは家に戻るな。」

二人は天文台で待つ事にする。ジャックはスティーブンに「ラブレスの『療養』は君が仕組んだのか」と聞きたい衝動にかられたが、聞かない方が良さそうだと思った。「使者にチップをはずもう。金持ってるか?貸してくれ」「…金?ああ、沢山持っている…筈だが…」スティーブンはあちこちのポケットを探った。「…ロンドンに置いて来たかな?ああ、あった!」スティーブンは綺麗に丸めたぶ厚い札束を引っ張り出した。「銀行の束のままで放っておいたら、グレープス亭の女将がスリ除けに丸めてくれたんだ。これで足りるか?」「…って、一番上だけで百ポンドあるぞ…」その時、降り出した雨の中をソフィーが駆けて来た。「ジャック!基地司令官から手紙よ!ああ、艦を貰えるのかしら?」

命令書の中身が明らかになると、出発の準備で家中大騒ぎになる。混乱の最中、レディ・クロンファートが艦に同乗させて欲しいと頼みに来るが、彼女を見るソフィーの表情が嫉妬でこわばっているのを敏感に察知したジャックは、承諾しつつも慇懃無礼に彼女を追い返した。しかしその後、ジャックがどうしても今夜中に出航すると言い出したので、ソフィーは急に動揺する−どうして今夜?明日でいいじゃないの…なんでそんなに急いで…彼女が涙を零しそうになっているのを見たスティーブンは、そっとコテージを抜け出した。

彼が戻ってくると、ジャックとソフィーは玄関に立って空を見上げていた。「ソフィー、君の言う通り、この風じゃ今夜出航するのは無理だ。でも−明日の夜明けには、君の夫は君の側を離れて、本来の仕事場に戻るんだよ。」


ますます『アンタ何者?』度を強めているスティーブン。そして、ジャックは相変わらず感激屋さん。最後のジャックのセリフ…英語では"You lose your husband to his natural element."と言っているのですが−うまいこと訳せないです…