Chapter 10〜蛙と牛


「最近、君のことばかり考えている」ジャックはソフィーに手紙を書いていた。「…今まで忙しかったけど、ついに艦隊の準備が整った。キーティング中佐の陸軍も準備万端だが、彼はインドから将軍が来るという噂を気にしている。さんざん苦労して準備を整えたあげく、おいしい所だけさらわれてしまってはたまらないだろう。この手紙は君しか読まないし、読むのは全て終わってからだから書くけど…実は明後日、攻撃に移るんだ。」彼はチェロを弾いているスティーブンの方をちらりと見た。彼はこの手の情報漏洩にはうるさいのだ。

その時、士官候補生が来て、艦隊を視認したと報告した。敵艦ではありえない。ということは、東インド会社船か、あるいは−ジャックの胸に冷たいものが広がった−英国艦隊かもしれない。彼は望遠鏡を持ってマストに登った。16隻、17隻…大艦隊だ。ジャックの希望は一瞬で消え去った。モーリシャス戦役の勝利を確実にするために来た、英国の大艦隊。彼の頭の上に降り立って、仕事を根こそぎ奪いに来たのだ。


意外な展開でガッカリのジャック。しかし…長いこと努力して仕事を進めて、ようやく形になりそうになった時、上司がしゃしゃり出てきて、最後のほんの僅かな部分だけちょこっとやって、手柄は全部独り占め…これって、軍隊に限らず、普通の企業でもありそうな話です。頭にくるだろうな〜。

ジャックが重い足取りでマストから降りると、プリングズが来ていた。(グローパー号が破壊された後、彼は連絡艦エマ号の艦長になっていた。)ジャックの落ち込んだ顔にもかまわず、プリングズは満面の笑みを浮かべていた。「バーティ提督の使いで来ました。これを届けに。」彼はジャックに、命令書と共に海軍年鑑を差し出した。プリングズは年鑑を読み上げた。「アッシュグローブ・コテージにて、ボーディシア号オーブリー艦長夫人、長男を出産。おめでとうございます!」「よこせ!」ジャックは年鑑をひったくって読んだ。「なんてこった。驚いた…キリック、シャンペンを開けろ!ドクターを呼べ!まったく、すごいぞ。ははは!」ジャックの心には幸せが溢れ、先刻の失望など吹っ飛んでしまっていた。「トム、本当にありがとう…スティーブン!ソフィーが男の子を産んだぞ!」頭の中で計算し、出航前日にできた子供だと気づいて、ジャックは少し赤くなった。

命令書には予想通り、バーティ提督が指揮を引き継ぐので、ロドリゲズ島まで出頭するように、と書かれていたが、ジャックはもう気にならなかった。しかしキーティングは、噂どおりインドから将軍が来たと聞いて怒り心頭だった。

ジャックは年鑑と一緒に届いたソフィーの手紙を読んだ後、スティーブンをつかまえて延々と子供の話をした。スティーブンは我慢強く聞いていた。「…君にはわからないかな、スティーブン、息子を持つっていうのは、未来を広げることだ。」「娘だってそうじゃないのか?」「いや、全然違う。娘ってのは、いつかどこかの駄目男と結婚して…とにかく、違うんだ。」「提督の命令のことは気にならないのか?」「もちろん、失望したが…命令は命令だ。仕方がない。」「キーティングは怒っているぞ。」「キーティングは息子の誕生を聞いたばかりじゃないからな。」「彼にはもう息子が5人いる。娘なら喜ぶだろうが…本当に、僕には理解できない情熱だよ。」


6章でソフィーの手紙がめちゃくちゃになって届いたのは、この伏線だったのです(微笑)。「びっくりするほど元気」というのは、「妊娠しているのに、びっくりするほど元気」という意味だったようです。出航前日にできたってことは、ソフィーの頼みを聞いて出航を一晩延ばしてなかったら、息子には恵まれなかったってことですね。よかったねジャック♪ちなみにこの巻では出てこないけど、息子の名前はジョージ(George)くんです。ジョージ・オーブリー。

ボーディシア号の乗組員たちも、キーティング同様怒っていた。自分たちの艦長が不当な仕打ちをされたのも悔しいが、何より、大艦隊が割り込んできたことで拿捕賞金の取り分が少なくなってしまったのだ。再びただの艦長になったジャックは、ボーディシア号のブロード・ペンダントを降ろした。彼がバーティ提督の旗艦に出頭しようと「一番いい軍服を出せ」と言うと、キリックは不機嫌に「一番いい軍服なんてもうありませんよ。斬り込みに着て行って血だらけにしてしまったでしょうが」と答えた。

バーティ提督は、指揮権を奪われたオーブリーが怒りに燃えているのを予想していた。ところが、出頭してきたオーブリーは怒っている様子はなく、上機嫌で、提督と艦長たちに現在の戦況を丁寧に説明した。バーティは彼の腹を探ろうと「突然大艦隊が現れたのに驚いていないのか?」と訊いたが、「艦が多いほど、死傷者は少なくてすみますから」という答えが帰ってきただけだった。いたって陽気なジャックを見てバーティは不安になり、何か隠しているのではないかと疑った。

バーティ提督は、オーブリーの様子を探ろうと、彼の親戚であるボーディシア号の主計長を呼んだ。彼は報告した−「最近、ドクター・マチュリンと話す機会が多いのですが、思ったより単純で腹を探りやすい男です。彼が口をすべらせたところによると、オーブリーの父親、議員でもあるオーブリー将軍は、海軍省に強力なコネをつかんでいるらしい。近々海軍委員会のメンバーになるって噂です。オーブリーが余裕綽々なのは、きっとそのせいですよ。」提督は納得し、考えこんだ。有力な縁故のある人間は、慎重に扱わなければ…


あはははは…スティーブン、常になにか企んでますね。戦争が終わったと思ったら、今度はジャックのために味方の軍内でニセ情報流し。「単純で口の軽い」男と思わせるなんて、なかなかの演技力です。彼にしてみれば、これぐらいの工作は簡単すぎて面白くないそうですが。

バーティ提督と陸軍は、ジャックとキーティングの立てた作戦通りモーリシャス島を攻撃した。陸ではスティーブンの宣伝ビラの効果によって、在郷軍はほとんど戦意喪失しており、フランス正規軍だけではとても英国軍に太刀打ちできなかったた。海では英国艦隊が数で圧倒していた。攻撃はあっさりと、英国軍の勝利に終わった。

モーリシャス島では、降伏文書の調印式が進行中だった。スティーブンは軍病院に向った。捕虜になっていたクロンファート卿が入院しているのだ。彼は病院でマカダムに会った。「患者の容態は?」「目は少しよくなった。心配なのは首なんだ。寝ている間に包帯をいじってしまう。」「今はとにかく休養が肝心だ。ところで、オーブリー艦長がレディ・クロンファートの手紙を預かっていて、自分で届けたいと言っているんだが…面会しても大丈夫だろうか?」「何とも言えない。最近、彼はほとんど口をきかないんだ。」

病院にはネレイド号の負傷兵がたくさん入院していた。かろうじて動ける者は全員ベッドを抜け出し、勝利の瞬間の港を見物しに行っていた。港に停泊しているネレイド号に英国旗が上がると、彼らは歓声を上げた。

スティーブンはジャックと落ち合った。「クロンファートはどうだった?」「容態の急変がなければ、何とか持ちこたえそうだが…君と会える状態じゃないかもしれない。僕が様子を見る間、外で待っていてくれ。」ジャックは調印式の話をした。「君が式に招かれなかったんで、総督はバーティ提督を叱り飛ばしていたよ。君の働きは多くの人命を救った、英国への報告書には君の事を特記すべきだって。提督はあわてて、報告書を書き直しに飛び出して行った。」「報告書は誰が運ぶんだ?」「提督の親戚かな。めったにないほどおいしい仕事なんだ。この知らせを持って本国へ帰れば、確実に昇進が待っている。その幸運な男に、ソフィーへ手紙を預けるつもりなんだ。」「我々の次の行き先は?」「ジャワあたりかな。オランダ軍と対決しに…」スティーブンはジャックを待たせ、病院へ戻った。

スティーブンが戻ると、マカダムは酔っていた、「偉大なるマチュリン先生、あんたの患者を見てみろ。」彼は叫んだ。血に染まったベッドに、クロンファートの死体が横たわっていた−首の包帯が引き剥がされている。マカダムは泣きじゃくりながら言った。「彼は歓声で目覚めて『何の歓声だ?』と訊いた。おれが『フランスに勝った、もうすぐオーブリーが来て、あなたにネレイド号を取り戻してくれる』と言ったら、『嫌だ、ジャック・オーブリーからなんて絶対に嫌だ』と叫んで…目を離した隙に、自分でこんなことを…あんたのジャック・オーブリーが、彼を滅ぼした。ジャック・オーブリーが彼を死なせたんだ。」

スティーブンはジャックの所へ戻り、「彼は死んだ」とだけ言った。「そうか…安らかに逝ったのか?」スティーブンはうなずいた。彼は友人を見つめた。背高く逞しい、健康と幸福に溢れた姿。スティーブンは考えた−「蛙が破裂したとしても、それで牛を責める事はできない。牛は何も知らないのだから。」スティーブンは「ジャック、今は勝利を満喫する気分にはなれないんだ。祝賀会で会おう。」と言って立ち去った。


あるひ かえるが うしを みました。 かえるは うしのように おおきく なりたいと おもいました。 それで かえるは おなかを どんどん ふくらませました… ついに かえるの おなかは こわれて しんで しまいました。(イソップ童話より)

アマデウスとサリエリかと思ったら、牛と蛙でしたか…かわいそうなクロンファートさん。

祝賀会では、お偉方の退屈なスピーチが続いた。バーティ提督のスピーチの間、ジャックはぼんやりとアッシュグローブ・コテージの天文台の事を考えていたが、提督が熱をこめて声を張り上げたので、注意を引かれた。「…提督たるもの、任務のために心に染まない命令を下さなくてはならないこともあるものです。しかしこの命令は、総督のお許しを頂いて、喜びをもって下したいと思います。ジャック・オーブリー艦長はボーディシア号を率い、可及的速やかに本国へ向い、戦勝報告書を海軍省へ届けるべし。それではみなさん、乾杯しましょう。ラッキー・ジャック・オーブリーに、英国までの航路、彼がよい風に恵まれますように!」

スティーブンのちょっとした工作が功を奏したのか、ジャックもおいしい任務をもらえて、よかったよかった。息子も生まれたし、英国には帰れるし、ジャックにとってはハッピーエンドでした。