Chapter 3〜喜望峰


ケープ(喜望峰)に到着すると、ジャックは旗艦レゾナブル号にいる基地司令官、バーティ提督の元へ出頭した。「『ラッキー・ジャック・オーブリー』の運が続いているといいが。ここでは幸運が必要だからな。君が英国を出た時より状況は悪くなっている。さらに2隻の東インド会社船がフランス艦に拿捕された。すぐに手を打たねばならん。」提督はジャックに状況をざっと説明した。「モーリシャスの港を永遠に封鎖し続けるのは不可能だ。フランス艦を全部叩き潰すか、でなければ連中の港を奪うしかない。ロドリゲス島にインドから来た陸軍が待機している。困難な作戦だが、これに成功すれば準男爵位ものだ。オーブリー、貴族位に興味はあるか?私はあるね。妻が『レディ』と呼ばれたがっている。」

スティーブンはアフリカ大陸での最初の日を、山で鳥と植物を観察して過ごし、満足して街に帰って来た。居酒屋で彼は一人の医者と知り合う。ドクター・マカダムは有名な精神科医で、今はオッター号の(クロンファート卿づきの)軍医をしていた。スティーブンとマカダムは精神が肉体に及ぼす影響について有意義な議論をしたが、最初から凄い勢いで酒を呷っていたマカダムはついに酔いつぶれ、スティーブンが手押し車に乗せて艦まで送って行く羽目になる。

マカダムをどうやって艦まで送ったら良いのか、スティーブンが港で途方に暮れていると、懐かしい声した。「ドクターじゃないですか!おれのこと憶えてます?」「ボンデン!もちろん憶えているよ!元気だったか?」今はネレイド号に乗っているボンデンが、ボートでマカダムとスティーブンを艦に送ってくれる事になった。スティーブンはボートを漕ぐボンデンの動作が妙にぎこちないのに気付く。「どうかしたのか?君じゃなければ、鞭打ち刑を受けたのかと思うところだが…」「鞭打ちですよ。50回。」「君が?!」スティーブンは驚く。ボンデンが規律違反を犯す所なんて見たことがないし、50回と言うのは相当な重罪でも重過ぎる罰だ。「ネレイドみたいな艦だと、ヘマをしたかどうかの問題じゃないんです。たまたまマズい所にいたってだけで鞭打ちになるんです。」「それは…酷いな。ボーディシアに寄って行くか?軟膏を塗ってやるよ。」「大丈夫です。実はさっき行ったんですよ。ドクターにお願いがあって…おれたち−おれとかキリックとか、ソフィーやサプライズの古い仲間ですけど−西インド諸島にいたんですけど、艦長が海に出たって聞いて、また一緒に乗せてもらいたいと思って…丁度ネレイドがケープに行く所だったんで乗って来たんです。ところが着いてみると、コーベット艦長が人手不足だからって放してくれないんです。人手不足にもなりますよ、陸に近づくたびに脱走者が出るんですから」「どうも、ネレイドはいい状態じゃないようだね」「その通りです。このままじゃ暴動が起きます…おれ、艦長のとこに行きたいのももちろんですけど…嫌な事が起こる前にネレイドを離れたいんですよ。ドクターから艦長に言って頂ければと思って、おれが代表して手紙を書いたんです。後で読んで下さい。」「もちろん言っておくけど、艦長に直接言っても聞いてくれるんじゃないか?君みたいな有能な艇長がいないのは残念だって言ってたぞ。」ボンデンは嬉しそうににこにこした。「艦隊司令官になられるって時に、お忙しいのに迷惑をかけたくないんです。ドクターから言って頂けると、ほんとに有難いです。」

ジャックは陸軍との会議に出席するため、ケープタウンに行っていた。道は長く暑く埃っぽく、会議はだらだらと長く、ジャックが本当に艦隊司令官になれるかどうか提督の態度がはっきりせず、彼はすっかり疲れ切って艦に帰って来た。翌朝、朝食とコーヒーでジャックの機嫌が直った所で、スティーブンはボンデンの件を彼に伝えた。「ああ、もちろんいいとも。ボンデンみたいな男は同じ重さの金の価値がある。」「コーベットはその価値に気付いていないようだな。ボンデンを50回の鞭打ち刑にしたそうだ。」「ボンデンを鞭打っただって?!」ジャックは怒りでみるみる真っ赤になった。「おれの艇長を鞭打っただと?まったく、何て…」その時、士官候補生がおずおずと、オッター号のボートが来たと知らせに来た。

驚くほどハンサムで若々しい外見のクロンファート卿は、軍服を一分の隙も無く着こなして現れた。「クロンファート、また会えて嬉しいよ。だが申し訳ない、奥方は乗せて来られなかったんだ。プリマスでちょっと連絡の手違いがあって…」「いえ」クロンファートは複雑な表情をして答えた。「お気持ちだけでも有難い事です…感謝します」彼は先約があると言って、早々に帰って行った。

クロンファートが去ると、入れ違いに旗艦からの使者が来た。使者が赤いテープで封印された公式の命令書を持っている事に気づいて、ジャックの心は弾む。「提督は昨夜気分が悪くなられまして…しかし、早い方が良かろうと言う事で、床についたまま私に命令書を口述なさいました。」「それでは、君は中身を知っているのか?」「ええ。私から最初にお祝いを言わせて頂いてよろしいですか?艦隊司令官就任、おめでとうございます。


「海洋モノに出てくる軍医(船医)って、スティーブン以外全員呑んだくれなのは何故だろう」と思っていたのですが、いろいろ読むと、どうも当時の軍医ってあまりいい職業じゃなかったみたいですね。教養のある人が軍艦の軍医なんかになるには、よっぽどの訳ありで陸にいられなくなっているとか…。スティーブンはかなりの例外?まあ、スティーブンはスティーブンでヤク中すれすれだけど。

あ、それと、ボンデンが「代表して手紙を書いた」っていうのが何となく嬉しかったり。3巻でスティーブンが教えた字が役立ってますね。ボンデンが鞭打ち刑になったと聞いて「おれの艇長を!」って怒るジャックもなかなか素敵です。ソフィー&サプライズの仲間の絆は強いのだ。

命令書の内容は簡潔だった。「コモドー(艦隊司令官)・オーブリーは、レゾナブル号に移動し司令官旗を揚げ、下記の艦を指揮下において即時出航し、フランス艦を発見し破壊すべし−ロドリゲス島駐屯の陸軍と協力し、ラ・レユニオン島及びモーリシャス島を占領すべし−政治的な問題に関してはファーカー氏、あるいはドクター・マチュリンに相談されたし…」

ジャックは掌帆長を呼び、至急ブロード・ペンダント(司令官旗)を作るよう命令した。「ブロード・ペンダントですね、承知しました!」掌帆長は笑みを押し隠した−実は、艦長が艦隊司令官になりそうだと察知していたボーディシア号の乗員たちは、とっくの昔に司令官旗を作り上げて隠していたのだ。掌帆長がすぐに旗を持って来ると、ジャックはますます嬉しくなってスティーブンを呼んだ。「スティーブン、ちょっと新しい物を見せてやろうか?」「新しい物?何だ?」スティーブンはきょろきょろと艦長室を見回した。「これだよ!」「この布かい?これならずっと前から掌帆長の部屋にあったけど…掌帆長組合の旗か何かだと思ってた。……あ、いや、でも、なかなか綺麗な布だ。」

ジャックは彼の指揮下に入る艦長たち−ピム、コーベット、クロンファート−をボーディシア号に呼んで祝杯を上げた。彼はボンデンたちを移動させる件について早速コーベットと話をつけ、艇長になったボンデンの漕ぐボートに乗って彼らの艦を順に視察した。

シリウス号は総じて規律正しく効率的に運営されている艦で、ジャックは満足した。ネレイド号は塵一つなく、どこを見ても完璧だが、平水兵の経験のあるジャックは、水兵たちの暗い顔や目配せを見ただけで、この艦が酷く悪い状態にある事が分かって憂鬱になる。クロンファートのオッター号は、艦も士官も豪華に飾り立てられ、ジャックは軍艦には相応しくないと感じたが、ネレイドとは対照的にこの艦の水兵たちは明るい顔をしていて、彼らの艦長を心から好いている様子だった。


艦と艦長の名前が続けさまに出てきてわかりにくいと思うので、ちょっと整理:
・ボーディシア号=38門フリゲート艦。オーブリー艦長。
・レゾナブル号=64門戦列艦。エリオット艦長。一番大きいが築50年のボロ。
・ネレイド号=36門フリゲート艦。コーベット艦長(暴君)。地獄のような艦で暴動寸前。
・シリウス号=36門フリゲート艦。ピム艦長(普通に有能)。
・オッター号=18門スループ艦。クロンファート艦長(貴族。ジャックに複雑なコンプレックスを抱いているらしい)。

いよいよ「お山の大将」たちを部下にもつことになったジャック。それもひと癖ある人ばっかりで…その難しさは、スター揃いのプロスポーツチームの監督のようなものか(<違うかも…)。ジャックの人心掌握能力が試されます。

ジャックが戻ると、スティーブンが艦長室に来た。「ジャック、さっきはすまなかった、昇進したんだって?おめでとう!」「…だからさっきそう言って…」「いや、コモドーって言葉とその旗の関係がよく分からなかったんだ。説明してくれるかい?」「スティーブン、おれが説明したら、ちゃんと聴いてくれるか?」「イエス、サー!」「今まで君に海軍の事を説明して、まともに聴いてくれた事があるか?さっきもファーカーさんにコーターデッキとハーフデッキの違いを説明してたけど、ずいぶんいい加減な説明で…まあいいや。おれは正確に言うと昇進したんじゃないんだ。地位も先任順位も変わらない。でも、この作戦が終わるまでは、おれは准将と同等の地位になる。准将の給料は出ないがね。そして艦隊全体の指揮を執る。」「それは良かった。君は命令を受ける立場には向いていないからなあ。」「ああ。でも、ここだけの話、この地位になると作戦の成否は他の連中の働きに左右される。だから、本当の指導力ってやつが試されるんだ。」「他の連中ってのは艦長たちの事かい?確かに彼らは成功の鍵だ。彼らをどう思うか率直に話してくれないか?知っておきたいんだ。」

ジャックとスティーブンは長年一緒に航海しているが、艦長であるジャックが軍医であるスティーブンと艦の他の士官の噂話をした事はただの一度もなかった。しかし、スティーブンは今や艦隊司令官であるジャックの政治顧問だし、他の艦長たちは艦の仲間という訳ではないからかまわないだろう−「まず提督から始めよう。バーティ提督をどう思う?」「今回の件ではおれを全面的に支援してくれている。−でも、おれがヘマをしたらあっさり更迭されるだろうな。あるいは彼が利益を得るのに邪魔になれば…そういう人なんだ。」「コーベット艦長は?」「能力と勇敢さは認めるが、彼はまるで奴隷監督だ。彼の艦は酷い状態だ。でも、ネレイド号なしでは戦うのは無理なんだ」「シリウス号の艦長は?」「ピム?ああ、ピムが3人いたらなあ!彼は天才じゃないが、おれ好みの奴だ。でも、何とかしてコーベットとクロンファートとも馴染まないと。相互理解のない艦隊なんて、ずっと港にいたほうがマシなんだ。クロンファートとは例の奥方の件もあるし、どうやってうまくやればいいのか…招待を断られたんだ。上官の招待を断るなんて、海軍じゃまず考えられないことだ。でも彼はモーリシャス付近の海路に詳しいし、オッターは喫水が浅いから島に近づく事が出来るし、どうしても外せない。」「オッターには僕を時々上陸させてもらう事になるだろうな。ジャック、今の状態で勝ち目はどれぐらいだと思う?」「純粋に艦と砲の数で言えば、こちらが不利だな。それに敵には港がある。こっちの港は3千マイル離れている−5対3でフランス有利って所かな?でも、敵の艦長たちの能力も考えに入れる必要がある。遠くからでも敵の艦隊を見られればわかるんだが…」「艦を見ただけで能力がわかるのか?」「当たり前じゃないか。脚を切り落とすやり方を見れば軍医の能力が分かるようなもんだ。」「何でいつも『脚を切り落とす』なんだ?偉大にして繊細な医術の極致が、君らにかかっちゃ『脚を切り落とす』でおしまいだ。オッターの軍医が聞いたら嘆くだろうな。まあ、それはともかく…5対3と言ったか?」「そんなところだ。ま、何のかんの言っても、艦の修理やら荷物の積み込みやらで、どんなに頑張っても日曜までは出航できそうもない。だから…とりあえず、音楽でもどうだい?」


ブロード・ペンダントに関するジャックとスティーブンの漫才も気に入ってます。スティーブン、今や「政治顧問」だと言うのに、こういうところは相変わらず。

また横道にそれますが、政治顧問といえば、「ホーンブロワー」のドラマに「外交交渉担当」の役人が乗ってくるシーンがあって、「軍医が外交担当と通訳と諜報員を兼ねているジャックの艦は便利だな〜」と思ったのでした。

ところで…私がこの本の専門用語とか説明するのは、スティーブンが帆船について説明するようなもの−と、時々思うわけです。それともジャックが医学について説明するようなものか。そこまでひどくないか。