Chapter 7〜クロンファート卿とドクター・マカダム


ラ・レユニオン島にて、陸海軍の作戦会議が行われる。ファーカー総督が言った−「艦隊司令官の作戦を支持します。ラ・レユニオン島を手に入れた今、すぐモーリシャス島を攻撃すべきだ。幸運の女神は後は禿げているという事を肝に命じなくてはなりません」会議の後、ジャックはスティーブンに訊いた−「女神がハゲってのは、どういう意味だ?」「古い譬えだ。幸運の女神に出会ったら前髪を掴め−後ろ髪がないから、通り過ぎたら掴む所がないって意味だ」「後はハゲ…あんまり綺麗じゃないけど、ものの譬えってやつだな。それにしても、会議は時間の無駄だ!インド洋に巡航に出ているミネルヴァ号ベローヌ号(フランスのフリゲート艦)が戻る前に決着をつけなきゃならんのに…」

ジャックはスティーブンに作戦を説明する。「…北西のセント・ルイス港と、南東のサウス・イースト港の両方を攻撃する。サウス・イースト港の入り口にイル・デュ・ラ・パスという要塞島があって、まずこれを乗っ取る。厄介な水路だが、クロンファートはあの海を知ってるから大丈夫。敵は我々が北から来ると思っていて、サウス・イーストには軍艦がほとんどいない。この島を奪えば、敵はサウス・イースト港を使えないし、我々は上陸拠点にできる」「素晴らしい。これが成功すれば君は貴族位を授けられそうだって聞いたけど…準男爵になりたいか?」「うーん…おれはバーティ提督と違って、貴族には興味ないんだ。『オーブリー艦長』と呼ばれるのは誇らしいし、『オーブリー提督』になれたら家に看板を立てたいぐらいだけど、『卿』に興味はないな。おれが民主主義者だとは思わないでくれよ…ものの見方は人それぞれってだけだ。」


「幸運の女神には前髪しかない」というのはよく聞きますが、こんなに歴史のあることわざだったとは。私は何の根拠もなく、てっきり日本人がわりと最近考えたことかと思ってました。いや、なんとなく出来過ぎているような気がして。

ジャックのお家は荘園領主だけど、貴族じゃないのですね。ま、上流階級であることは間違いないと思うけど。彼の父親は貴族の位を欲しがりそうな人ですが、もらえるようなことはしなかったようです。あと、当時の英国では「民主主義」はかなり悪いイメージの言葉のようです。

スティーブンは再びモーリシャスに潜入するため、イル・デュ・ラ・パス島へ向かうネレイド号へ移動するが、舷側を登りそこねて海に落ち、危うく溺れかける。肋骨にひびが入り肺炎を起こした彼はネレイドで寝込むはめになったが、それがきっかけでクロンファートと親しくなり、彼の意外な一面を発見した。クロンファートは静養のために艦長室のベッドを明け渡してくれた上、何時間も側に座って話し相手になってくれたり、人魚(ジュゴン)が海に現れた時わざわざ呼びに来てくれたり、よく面倒を見てくれた。彼の目立ちたがりの部分は、大勢の人間やライバルである他の艦長たちに対してだけ現れる事に彼はは気づく。1対1で話す彼は親切な優しい人間だった。彼はジャックがカカフエゴ号を拿捕した時の話を聞きたがり、スティーブンが話し終えるとため息をついた。「素晴らしい。そんな勝利を後に残せるなら、私は幸福に死ねるでしょうに。」

一方、スティーブンとマカダムの仲はやや険悪になる。スティーブンは自分以外の医者を全然信用していないので、患者としてはひどく我儘だったし、何より彼とクロンファートが親しくなったのがマカダムは気に入らないようだった。ある日、酔ったマカダムがアイルランドとカトリックを侮辱する発言をしたので、腹を立てたスティーブンは彼に言った。「全く残念な事だ、ドクター・マカダム−あなたのような優秀な人が、葡萄の汁(酒)などで知性を曇らせるとは。」マカダムは突然酔いが醒めたような顔になり、反撃した−「残念な事だ、ドクター・マチュリン−あなたのような優秀な人が、芥子の汁(アヘン)などで知性を曇らせるとは。

その夜のスティーブンの日記:「マカダムの鋭さには驚いたが、アヘンチンキが僕の知性を曇らせているというのは間違いだ。ダイアナがいた頃に比べれば使用量はずっと少ないし、仕事には全く影響していない。止めようと思えば何時でも止められる。使うのは、嫌悪感があまりに酷くて仕事に影響しそうな時だけだ−自分に対する、他人に対する、人生に対する嫌悪感−それは、僕を海から救い上げてくれた男に心から感謝できない程に大きくなっている。ナポレオンに対する敵愾心はいい刺激にはなっているが、憎しみだけでは充分ではない…」


マチュリン先生…「止めようと思えばいつでも止められる」なんて、典型的なジャンキーの言訳になってるよ(泣)。3巻の大失恋がこたえているのかなあ、やっぱり。

これは読み返したときにちらっと思ったのですが…ひょっとしてもしかして、マカダムさんってクロンファート卿をそういう意味で好きだったのかなあ。

ネレイド号がイル・デュ・ラ・パス島に着いてみると、先に着いていたシリウス号が既に砲台の占拠を完了していた。水路の知識を発揮する機会を失った上に到着が遅れた事でピムに叱責されたクロンファートはひどく落ちこむ。シリウス号はセント・ルイス港の封鎖に戻らねばならず、ピムはクロンファートに島を防衛するよう命令して去って行った。クロンファートは島を拠点に、近辺の敵軍事施設を破壊して回る。スティーブンの宣伝ビラが効を奏し、モーリシャス島の仏在郷軍は戦意喪失していて、抵抗はほとんどなかった。上官がいない時、忠実な部下だけを率いて行動する時のクロンファートは躁状態と言っていいほど張り切っていて、その精神状態の振幅の大きさが、スティーブンとマカダムを途惑わせていた。

ある日−モーリシャス島の本土でロドリゲスドードーの羽を詰めた枕を発見したスティーブンが買取り交渉をしていると、クロンファートの使いが駆け込んで来た−「敵襲です、艦に戻って下さい!」海には5隻の艦が並んでいた−ミネルヴァ号とベローヌ号が、3隻の拿捕船を連れて巡航から帰って来たのだ。


スティーブンは動物ならなんでも好きですが、やはり一番好きなのは鳥みたい。次が哺乳類(特に霊長類)、その次が爬虫類で、昆虫にはあまり興味はないらしい。ジャックはよく「虫(bug)を集めに行くのか?」みたいに言うけど、スティーブンが昆虫採集をするのは主にサー・ジョセフへのおみやげ用のようです。

クロンファートはセント・ルイス港のシリウス号に応援を求める。危機的状況にもかかわらず、彼は意気揚々としていた。シリウス号、イフィゲニア号、マジシェンヌ号が応援に駆けつけ、戦闘準備が整うと、彼はスティーブンに言った−「ドクター、あなたがオーブリー司令官の艦で見た海戦に匹敵するものをご覧に入れますよ。」

艦の大きさと砲の数ではむしろ英国側有利な海戦だったが、ベローヌとミネルヴァはこの湾を知り尽くしていた−浅瀬と珊瑚礁に覆われ、水路を知り尽くしていなければ航行不能なこの湾を。ネレイドは他の3隻を導こうとしたが、湾への進入を焦ったシリウスとイフィゲニアはたちまち座礁し、フランス艦の強力な砲撃に晒された。

スティーブンは酔い潰れたマカダムに代わってネレイド号の負傷兵の治療に当たる。負傷兵はひっきりなしに運び降ろされ、薄暗い中で次から次へとひたすら傷の手当てをするうちに、長い、長い時間が経った。乗員の半数以上が彼の手を通過したように思われた頃、「道を開けろ!艦長だ!」という叫び声が聞こえ、クロンファートが運び降ろされて来た。

クロンファートは破片とぶどう弾を受け、片目が飛び出して顎の骨が砕け、頚動脈はむき出しだった。が、頭ははっきりしていて、副長に「ピム艦長に、乗員をシリウスに移してネレイドに火を放っていいか訊け。爆発時にベローヌを道連れに出来るかもしれない」と言った。ピムの返事はノーだった。ネレイドは座礁したイフィゲニアを庇う形になっている。ネレイドに火を放ったら、イフィゲニアが敵の砲撃に晒される−艦長だけなら移ってよろしい。「部下を見捨てて行けというのか?ピムに『当艦は降伏する』と伝えろ」クロンファートは立ち上がった。「まさか、甲板に行く気ですか?」「ドクター、降伏するならちゃんとやりたいんです。卑怯者になりたくない」「首の包帯には絶対に触れないで下さい。傷が開いたら、あっと言う間に死にますよ。」

ネレイドが降伏を叫んでいるにもかかわらず、ベローヌの砲撃は止まなかった。「軍旗が降ろせないんです」負傷兵がスティーブンに言った。「マストに釘で打ちつけてあるって噂ですが、掌帆長が死んだんで本当のとこは分からんのです。ロープも全部切れちまって、旗まで登ることも出来ないし…卿はマストごと切り倒せって仰ってます。ありがとう、ドクター…フランスの捕虜収容所がお好きでないなら、シリウスに移られた方がいいですよ。ボートが出ます。」軍旗と共にマストが倒れ、ようやく敵の砲撃が止んだ。「ほら、ちゃんとやったぞ。」クロンファートは呟いた。スティーブンは彼の傷がとりあえず危険な状態でないことを確認した。「シリウスに移りたいのです。命令してくれますか?」「そうしたまえ、ドクター・マチュリン…君の無事を祈る。治療をありがとう。」


クロンファート卿、すっかり見直し。軽薄に見えても、部下に好かれるだけのことはあるんだなあ。そして、ジャックにはどうしようもないライバル意識をもっているらしい。若い頃の一件のせいだろうか。かわいそうな人だ…

ピムはスティーブンを親切に迎えたが、スティーブンの彼に対する評価は地に落ちていた。ようやく離礁したイフィゲニアの艦長は、シリウスを諦めて自由に動けるイフィゲニアとマジシェンヌで攻撃をかけるべきだと主張したが、ピムはあくまで自艦を救うことにこだわり、致命的に決断を遅らせた。シリウスを離礁させようという何時間もの無駄な努力、その間マジシェンヌはフランス艦隊の集中攻撃を受けてぼろぼろになり、ピムがようやく諦め、乗員をイフィゲニアに移してシリウスに火を放った時には、まともに浮いている艦はイフィゲニア1隻になっていた。絶望的な戦闘を後に、スティーブンは敗戦を知らせにラ・レユニオン島へ戻る。

「スティーブン、おかえり。どうした?何があったんだ?」「サウス・イースト港攻撃は失敗した。ネレイドは拿捕され、シリウスとマジシェンヌは焼き払われ、今頃はイル・デュ・ラ・パス要塞もイフィゲニアも降伏しているだろう。」「そうか。…これで、敵の艦はベローヌ号、ミネルヴァ号…セント・ルイス港にいるヴィーナス号アストリー号マンシェ号…ネレイド号、イフィゲニア号を加えて7隻か。こっちはボーディシア号1隻。7対1か。でも、もっと不利な戦いをしたことだってあるさ。」


海戦をまとめるのって難しい。海戦なのにジャックはいないし。ジャックがいればこんなに酷いことには…

クロンファートの評価が上がるのに反比例して、ピム艦長の株は急降下。ジャックはピムを評価していたけど…まあ、普通に有能な人なのかもしれないけど、想像力ってものが欠けているんだろうなあ。あと、いざと言う時ぱっと頭を切り替える能力とか。クロンファート、ピム、コーベット…この人たちの苦闘を見ていると、ジャックがいかに「天性の何か」に恵まれているかがわかります。

あ、この話ひょっとして「アマデウス」?(ジャック=モーツァルト クロンファート=サリエリで。)