Chapter 10-2〜囚われの男と乙女


若いヤゲロはすぐに食中毒から回復したが、ジャックは重症だった。スティーブンは外から医者を呼ぶことを要望した。「あなたも医者でしょう?」副司令官は言った。「オーブリー艦長は英国では影響の大きい重要人物です。父親は議員だ。彼に万一のことがあったら、私ひとりでは責任を持てません。ドクター・ラレーを呼んでもらいたい。」「皇帝の主治医ですか?!」「医学校時代の友人です。学士院で講演した時も来てくれた。」これははったりだが、事実でもあった。「しかし、彼の都合が悪いのなら、この近くの医者でもよろしい。」

来たのはドクター・ファブルという若い医者だった。彼はドクター・マチュリンのような高名な学者に会えて感激していた。スティーブンはパリ中の有名な医者と学者の名を上げて、よろしく伝えてくれと頼んだ。「あなたはドクター・ボーデロークとはお知り合いではありませんか?」「ええ、妻の親戚です。」「実は、私の患者を彼に預けたのです。アメリカ人の婦人です。容態を聞いておいてくれませんか?」

スティーブンの狙い通り、ファブルはパリ中の知り合いに、彼らが捕虜になっていることを広めてくれた。これで少なくとも、密かに暗殺される心配はないだろう。次にファブルが来た時、彼はボーデロークから伝言を預かってきた−患者は流産の危険がある。妊娠初期に、長期に渡ってひどい船酔いにさらされたのがよくなかったのだろう…


実は私、この7巻を読む前に、海外掲示板でとある「ネタバレ」を目にしてしまっていました。それは「7巻では、スティーブンがフランス軍に捕まる」というネタバレです。でも「何章でどうやって捕まるのか」は知らなかったので、彼がパリに講演に行こうとした時は「大丈夫なの?パリで捕まるんじゃないのか?」と心配し、グリムショルム島に行ったときは「ここで捕まるのかしら?それでは任務は失敗ということ?」と気をもみ、ジャックがメデューサ号を追いかけ始めると「そんなもの放っておきなさい!」とやきもきし…心配のあまり、ほとんど本を置くこともできず、1日12時間ぐらい読書してました。382ページもある7巻を3日で読み終わったのは、実はそういうわけだったのです。

ネタバレしたお陰で、余計にハラハラしながら読むことができるなんて…こういうこともあるんですね。

翌朝届けられたマダム・レイドゥーの朝食は、素晴らしく美味しかった。熱く濃いコーヒーを飲み、美味しいクロワッサンを食べたスティーブンは気力が回復し、どんな緊急事態にも、厳しい尋問にも対処できるような気がした。

しかし、彼が拍子抜けしたことに、それからは何も起こらなかった。彼らはマダム・レイドゥーの美味しい食事を一日三回食べ、ほとんど平穏な日常生活と言ってもいいような日々を送っていた。食中毒から回復したジャックは、汚い部屋を海軍式の清潔さに近づけようという努力を始めた。あとの二人は、嫌々ながらも掃除を手伝った。

スティーブンはよくダイアナのことを考えた。初めて会った頃の彼女の姿が、なぜか鮮明に思い出された。彼女にはもう恋人がいるだろうか?あり得ることだ。彼女に恋人がいなかったことはめったにないし、ここはパリだ。なぜか、スティーブンはそのことを考えたくなかった。

部屋が清潔になると、ジャックは脱走の方法を考え始めた。まず、窓から逃げるのは無理そうだった。彼の部屋には塞がれた扉が一つあったが、これはどこに続いているかわからない。別の部屋に出るだけかもしれない。一番可能性がありそうなのは便所だった。便所の穴を広げて、人が通れる大きさにすることができれば、そこから堀に降りられる。堀と外壁を越えるのは簡単だろう。

あいにく、便所の床はとても頑丈に出来ていて、崩すには時間がかかりそうだった。彼らは交替で石を削ったが、釘や食事用のナイフでは、作業はなかなか進まなかった。スティーブンはまだ体調が万全でないジャックを心配し、彼とヤゲロが交替でやると言った。しかし、ジャックはすぐに二人の不器用さに苛々しはじめ、結局、彼がひとりで奮闘することになった。


ジャックって、常に何かをしていないと気がすまない性質なのね。それも「本を読む」とか「思索にふける」とかじゃだめで、綿密に計画を立てて進める生産的なことで、しかも身体を使うことじゃなきゃだめみたい。海軍士官としての仕事が習い性となっているのか、それとも生まれつきなのか。

一方のスティーブン。ダイアナへの気持ちは、かなり元へ戻っていると解釈していいんでじゃないでしょうか。

そんなある日。ジャックは便所で努力を続け、スティーブンは部屋の中で考えに沈んでいた。ヤゲロは窓辺に座り、前の囚人が残していったフルートを吹いていた。その時、通りの向こうのアパートメントの窓に、若い女性が現れた。ヤゲロはにっこりして、彼女に手を振った。女性はほほえみを返した。

スティーブンはその様子を観察していた。「そこを動くな」便所から出てきたジャックに、彼は言った。「窓に近づくな。君の姿を見られたら台無しだ。どうやら、古典的なシチュエーションらしいぞ−囚われの男と乙女だ。」「何で見られちゃいけないんだ?」「兄弟、僕はロマンティックな姿をしていない。すまないが…君もだ。」「それはわかってるよ。」アパートの女性は空をながめたり、窓辺に吊るした鳥篭のハトに餌をやったり、鉢植えに水をやったりしながら、何時間も窓辺を離れようとしなかった。

昼食を運んで来たルソーが、塔の解体工事が本格的に始まったと言った。「旦那方も、もうすぐコンシェルジェリー監獄に移送されるでしょう。」彼は窓の外を見た。「マダム・レイドゥーだ。鉢植えに水をやっていますね。」「あれが水生植物だといいが。そうでなきゃ、あんなに水をやったら溺れてしまう」スティーブンはそう言いながら、ナプキンに挟まれたメモを読んだ。「アイロンや繕いものが必要な服がありましたら、いつでもお申し付け下さい。B.レイドゥー」


「便所で努力を続け」って変だなあ。でも、他に書きようが…(笑)

「ロマンティックな姿じゃない」なんて、スティーブン、またご謙遜を(笑)。でも、ジャックはわりとハンサムじゃなかったっけ?窓越しに一目惚れされるほどじゃないんだね、きっと。

コンシェルジェリー監獄は、最初タンプル塔に幽閉されていたマリー・アントワネットが、ルイ16世の処刑後に移されたところ。ご存知の通り、その後彼女もギロチンで処刑されました。つまり、タンプル塔→コンシェルジェリー監獄って、すごく縁起が悪いルートなんですね。しかもルソーに言わせると、コンシェルジェリー監獄は設備や環境もタンプル塔よりずっと悪いそうです。ちなみに、コンシェルジェリー監獄の方は今でも残っていて、見学できるようです。

その日から、ヤゲロは掃除も脱出口の作業も免除され、ただひたすら窓辺で愛想を振りまく任務に専念した。ジャックとスティーブンはなるべく窓から離れているようにした。ヤゲロとマダム・レイドゥーは道をはさんで見つめあい、身振り手振りで会話をしていた。

「道具が必要だ。」ジャックは言った。「急がないと、脱出口が出来る前に他へ移されてしまう。のみとてこ棒とロープだ。ヤゲロ、彼女に頼んでくれ。」「それはまだ早いような気がします」ヤゲロは渋った。「操船など気にするな、ただ真直ぐ突っ込め。一秒も無駄にするな。」「一度の試みに全てを賭けるのですか?」「そうだ。」

数時間後、ヤゲロは蒼い顔をして戻って来て、首を振った。彼女の窓は鎧戸が下ろされていた。「気にするな。何とかなるさ−君は最善を尽くした。」ジャックは慰めた。「違うんです」ヤゲロは涙を浮かべた。「彼女に会えないのが寂しくて…もう会わないって言われたんです。」それを聞いて、ジャックとスティーブンもがっくりと肩を落とした。二人が惜しんでいるのはマダム・レイドゥー自身ではなく、彼女の料理と、預けたままになってしまった衣類だったが…ひどく落ち込んでいる様子のヤゲロの前で、そんな事を言うわけにはいかなかった。

しかし、驚いたことに、朝食と共に届けられた彼らの服には、のみとてこ棒とロープが隠されていた。ヤゲロが窓辺に駆けつけると、彼女の窓は開いていた。彼女が現れ、にっこりと微笑んだ。彼女は鳥篭からハトを出し、キスをして空に放した。


実は今まで、そもそもなんでヤゲロさんがこの任務に同行しているのか、よくわからなかったのです。だって、デンマーク語の通訳をする以外には、役に立つような事はことは何もしていないじゃないですか。でも、意外なところで役に立ってくれました(笑)。美男って大変でもあるけど、便利でもあるんですね。

しかしヤゲロさん、これほどモテモテだと、かえって自分から女性を好きになるのに心理的障害があるのではないか…と思っていたのですが、レイドゥー未亡人のことは好きになっちゃったみたいですね。…まあ、状況に酔っているだけという気もするけど。

しかし、大変な事態に陥っているというのに、どうしてこう明るいんだろう、この章は。