Chapter 11-1〜尋問


塔に来てしばらく経ったある日、ルソーが陸軍将校を連れて来た。「ドクター・マチュリン、ご同行願います。」塔の副司令官は「囚人を連れ出すのは規則に反している」と抗議したが、やがて妥協した。「閉門までに必ず連れて帰って下さい。書類にサインを。」

彼らを乗せた馬車がパリの街を走っている時、無蓋の馬車が通りかかった。馬車にはダイアナが乗っていた。スティーブンはとっさに顔を隠し、指の間から彼女を見た。ダイアナはこちらには気づいていなかった。馬車が通りすぎるのを見送った後で、彼は自分がひどく動揺しているのに気づいた。心臓は早鐘を打ち、膝が震えている。

馬車は陸軍基地に到着した。幸い、彼らはスティーブンを別室で2時間ほど待たせたので、その間に落ち着きを取り戻すことができた。彼は三方に置かれたテーブルに陸軍将校が並んでいる部屋に連れて行かれ、中央に置いたベンチに座らされた。「ドクター・マチュリン、我々は君の正体を知っている。フランスにいる君の仲間のことを訊く前に、いくつか質問がある。」中央に座っている大佐が言った。「戦争捕虜として許されている範囲でなら、お答えします。」彼は答えた。上官である大佐が場を仕切ってはいるが、ここで本当に力を持っているのはクラピエ少佐だ、とスティーブンはすぐに気づいた。


尋問の前に、何の説明もなく何時間も待たせると言うのは、尋問を受ける人の不安を高めるための伝統的な手法だそうです。この場合は逆効果だったみたいですけど…

覚悟を決めて落ち着いていたのに、ダイアナの顔をみたら急に動揺してしまうスティーブン。ダイアナは彼の心の奥底の「生への執着」と密接に結びついているのではないでしょうか。

「君は戦争捕虜としてここにいるわけではない。君の行動について説明してもらおう。君がジャワ号の軍医だった時のことから始めようか。」「違います。ジャワ号の軍医はフォックス氏です。」「ではなぜ、この軍医の特徴が君にぴったり当てはまるのだ?『5フィート6インチ、痩せ型、黒髪、右手の3本の指の爪が剥がれている』…」

スティーブンは気づいた−フランス側が握っているのは、サン・サルバドル港から来た情報だけだ。つまり、その後のボストンでの動きは知られていない。彼がポンテ=カネとデュブルーユを殺したことで、アメリカからの情報は断たれているのだ。彼は下を向いて、目に浮かんでいるかもしれない安堵の表情を隠し、「何も言う事はありません」と答えた。

「バルト海の件に移ろう。グリムショルム島でのメルシエ将軍殺害に関して、申し開きする事は?」「何も話す事はありません。バルト海にいたことは認めますが、英国海軍士官として、アリエル号の任務については答えられません。」「君はアリエル号の乗員名簿に載っていない。どうして君が乗艦していたのか、説明できるかね?」「鳥を観察するため、客として乗艦しました。」「スパイとしてだ」大佐はつぶやいた。「どんな鳥を?」クラピエ少佐が訊いた。「ケワタガモです。」「ふざけるな」大佐が叫んだ。「ケワタガモだと?憲兵隊長を呼んで来い。こいつに礼儀を教えてやれ。」「本当にそういう鳥がいるんです」大佐の横に座っている中尉が囁いた。「彼はふざけているわけではありません。」「けつを蹴っ飛ばしてやれ」怒りがおさまらない様子で、大佐はつぶやいた。

「それでは、鳥を観察するためにわざわざバルト海まで行ったと言うのですか?」「そうです。自然学者として、私は多少知られている身です。」「自然学者だと?」大佐が言った。「一介の自然学者を釈放させるために、あんな莫大な金額のものを差し出す奴がいるか。十万ルイ…いや、十万ナポレオンだぞ。スパイに決まっている。」


スティーブンの身長を記述する時、いつもはっきりと「5フィート6インチ(168cm)」と書いているのは、実はここが根拠です。フランス陸軍諜報部の報告書ですから、正確なんではないかと。フルに引用しますと…「5フィート6インチ、痩せ型、黒髪、色の薄い目、くすんだ顔色、右手の3本の指の爪が剥がれている、両手ともやや不自由、南部訛りの完璧なフランス語を話す。」爪が剥がれている原因はわかってんのかしら。

サン・サルバドルはブラジルの港。ジャワ号が敗れた時、捕虜になったジャックとスティーブンを乗せたコンスティテューション号が入港したところですね。6巻4章を参照。

ルイとかナポレオンとかいうのは、当時のフランスの貨幣単位です。ブルボン王朝時代は「ルイ」で、最近「ナポレオン」に変わったので、つい昔の名前で呼んでしまうのですね。しかし、権力者の名前なんかを貨幣単位にしたら、権力者が変わったらいちいち変えなくちゃいけなくて面倒くさいでしょうに。…って、権力者自身は、そんなにすぐに変わるつもりはないんでしょうが。

その後、スティーブンがパリで反ナポレオン活動をしていたという証人が引き出された。証言がでっち上げであることは、双方とも承知の上だった。偽の証拠で処刑することも出来るという脅しなのだ。スティーブンは証人を連れて来た男に見覚えがあった。諜報員だ。その男は少佐の耳に何か囁いたが、少佐は「いや、それにはタンプル塔の許可を得ないと。今のところ、彼は…のものだ。」と答えた。自分が誰のものなのか、スティーブンは名前を聞き損ねた。

尋問の最後に少佐が言った。「ドクター・マチュリン、よく考えておくことです。あなたが考えているより、我々は情報を得ている。次の尋問で正直な返答をしないなら、あなたとあなたの友人たちにとって、酷い結果になるでしょう。」

中尉がスティーブンを別室に連れて行った。「あなたの講演を聞きました。」中尉は言った。「素晴らしかった。あなたのような方が、このような立場に追い込まれているのは残念でなりません。ご自分とご友人の身のために、妥協なっさて下さい。」

部屋から見える中庭に、兵士たちが後ろ手に縛られた男を引きずって来るのが見えた。男の顔は痣だらけで腫れ上がっていたが、スティーブンは彼に見覚えがあった。フランスで働いている英国の二重スパイだ。兵士たちは彼を杭に縛りつけ、頭に銃弾を撃ち込んだ。「妥協なさらないなら…」中尉が続けた。「あなたは銃殺されます。ほんの少し妥協なされば、ヴェルダンの収容所に送られるだけですみます。」「ご親切にありがとう。しかし、私は何も知らないのですから、妥協のしようがありません。」スティーブンは答えた。


前章とはうって変わって、11章はシリアスな展開…

「どうだった?」スティーブンが戻ると、ジャックが心配そうに訊いた。「通常の尋問だったよ。心配ない。」乱暴された跡がないかどうか、ジャックは彼の顔を探ったが、何も答えたくないという表情が浮かんでいるだけだった。

スティーブンは寝床に横たわり、考えをまとめようとした。敵は今のところ、勘だけで動いているようだ。しかし、大佐が口を滑らせた「莫大な金額」とは何のことだろう?彼の釈放のために賄賂を差し出した人間がいるのか?彼のパリの友人には、そんな大金を持っている人間はいないし、もちろん英国諜報部がそのような愚かな手を使うはずはない。彼が有罪だと、敵に強調するようなものだ。

彼はいつの間にか眠ったらしく、気がつくと、ジャックが彼を揺り起こしていた。「やつらがまた来たぞ。」スティーブンは小さな薬瓶を口の中にすべりこませ、ルソーたちについて降りて行った。


いざとなれば情報をもらさずに自害できるように、口の中に毒薬を仕込むなんて…えらく古風ですが、実際、昔の話なのだからしょうがないか。