Chapter 11-2〜デュアメル


予想に反して、司令官室で彼を待っていたのはデュアメルだった。まだ腹具合が悪いので、薬を処方してもらいに来た、と彼は言った。「実は、もう一つ用がある。」デュアメルは声を低くした。「私の『上司』の使いで来たんだが…」

「君も知っての通り、皇帝の勝利は危うくなってきている。私の上司は、非常に高い地位にいるある人物なのだが…彼は、現時点で妥協を見出せれば、無用な流血を避けられると考えている。英国政府に秘密裏にメッセージを伝える方法を模索している。英国政府に信頼され、諜報部のトップに接触できる使者が必要だ…君なら理想的だ。」「誤解があるようだな。私は一介の軍医だ。政府にも諜報機関にも関係ない。それに…仮に私がそのような人物だったとしても…そんな話を証拠もなしに信用すると思うか?自殺行為だ。」「その通りだ。それでは仮に、そのような人物がいたとして…どんな保証を求めると思う?」「仮定の質問には意味がない。」「わかった。率直に状況を説明しよう。」

「君に関する書類がブレストから届いた時、我々の組織は君の正体を確信し、君たちをタンプル塔に収容することにした。先程言った件を、君に依頼するつもりだったんだ。しかし、予期せぬ困難が持ち上がった。グロ大臣の奥方が、すごいブルー・ダイアモンドをつけてパーティに現れたと思ったら、議会でグロ大臣が君の釈放を主張する演説をしたんだ。まずいことに、それでかえって君に注目が集まってしまった。陸軍がグリムショルム島の件と君を結びつけたので、皇帝に知らせた方がいいということになった。あの島が英国の手に渡ったことでは、皇帝はひどくおかんむりだからな。」

スティーブンの顔は蒼ざめていた。「グロ夫人はダイアモンドの出所を話したのか?」「いいや、相続したものだとごまかしていたよ。しかし、言っておくが、君は非常に危険な立場にいる。時間がない。条件を言ってくれ。」「そうだな…全員の釈放と帰国、問題のダイアモンドの返還、ダイアモンドの元の持ち主の保護…」「条件が多いな。」「当然だ。ギロチンに頭を突っ込むも同然だからな。」「わかった。ヴァランセに行って上司に相談する。」「ヴァランセ?」ヴァランセにはタレーラン=ペリゴールの家がある。タレーランが彼の『上司』なのだろう。誠実さの証として、デュアメルはわざともらしたのだ。「君はもう一度陸軍に呼び出されるだろうが、心配ない。夕刻までにここに戻すよう、我々が話をつけてある。」デュアメルはそう言って、差し入れに持ってきた英国の新聞と海軍広報を渡して帰って行った。


シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール Talleyrand-Perigord(1754-1838):実在の大物政治家。ルイ王朝からフランス革命、ナポレオン時代、その後の王政復古まで、政治の第一線を生き抜いた百戦錬磨のツワモノ。

この時、彼はナポレオンと袂を分かち、表向き政治の世界から引退していました。しかし、ナポレオン帝国の崩壊を予見していた彼は、ひそかに皇帝の敵と通じ、彼の失脚を画策していたようです。ナポレオンが失脚してから、彼は外務大臣として復権。ウィーン会議の代表を勤めます。とにかく、非常に面白い人物のようですね。

スティーブンは彼と知り合いのようです。スティーブンに言わせると彼は「偽りの固まり、二枚舌の天才、しかし良い友人であり、ある意味ではとても信頼できる人物。心から敬愛している…」だそうです。

関係ないのですが、このタレーラン氏は『悪魔のように黒く 地獄のように熱く 天使のように潔く 恋愛のように甘い』というコーヒー賛歌を書いた人らしいです。プレイボーイとしても知られ、画家ドラクロワの父親とも言われています。

彼が部屋に戻ると、ジャックが心配そうな顔で迎えた。「デュアメルが薬をもらいに来ただけだよ。暇つぶしにって、これを差し入れてくれた。」彼は海軍広報をジャックに渡した。読み始めたジャックは、いきなり「やったぞ!」と叫んだ。「アヤックス号がメデュース号を沈めた!よかった…アリエル号を座礁させた甲斐があったよ。」

スティーブンは考え込んでいた。ダイアナがこんなことをするとは、まったく予想外だ。彼の釈放のために、命より大事にしていたダイアモンドを手放しただけでなく、自分の身を危険をさらしてくれたのだ。彼女がこれほどの愛を示すことができるとは…「スティーブン、ちょっとこれを見てくれ!」ジャックの叫び声で、彼の思考は中断した。ジャックは海軍広報の結婚欄を指差した。「ハリファックスにて、海兵隊ラシントン大尉、アマンダ・スミス嬢と結婚。…ラシントン大尉に神の祝福を!まったく信じられん…赤ん坊のことは出鱈目だったのかな?」「多分ね。」ジャックの顔に微笑が広がった。「まったく、こんなに心の底からほっとしたのは初めてだ!なんだか、力が湧いてきたよ。」彼は便所に行き、今まで以上の熱心さで石を削り始めた。


はぁ〜〜。よかったねえ、ジャック。(<ちょっと冷たい声で)これに懲りて、今後は身をお慎みあそばせ。

ところで、海軍広報(naval chronicle)ってどのぐらいの頻度で発行されるんでしょう?chronicleだから「年鑑」と訳してしまいそうになるんですが、これを読むと、1年に1度よりもっと頻繁に発行されているような気がするのですが…

翌日、再び陸軍がスティーブンを連れに来た。「不測の事態にならない限り、夕刻までには帰るよ。」彼はそう言って部屋を後にした。

尋問は前回と同じことの繰り返しだった。別の偽証人が呼ばれ、誰も信じていない証言を繰り返した。

夕刻が近づいた頃、将校の1人が言った。「ドクター・マチュリン、あなたが諜報員でないと言うなら…あるご婦人があなたの釈放のために大金を積んでいることをどう説明します?」「逆に、諜報員であるとしたら、そのような愚かな手段を取るはずがないとは思われませんか?」「では、そのご婦人はどうしてそんな事を?」「答えるのは野暮というものです。」「しかし、女性が…それもあれほどの女性が、ドクター・マチュリンに恋をしているなんて事がありえますかね?」将校のひとりが、思わず本音をもらすように言った。「あり得ないことに思えますが…」スティーブンは答えた。「しかし、エウロパもパシパエも、牛に恋をした。不似合いな恋人たちの例は、歴史上いくらでもあります。」

この言葉に、部屋の空気が少し和んだ。何人かの将校が、尊敬に近いような眼差しで彼を見た。しかしその時、部屋に男が入って来て、クラピエ少佐に何か囁いた。少佐は急いで部屋を出て行った。


エウロパ(Europa):フエニキアの王女。白い雄牛の姿となったゼウスに誘拐されてクレタ島に連れていかれ、ラダマンテュス、ミノス、サルペドンを産んだ。ヨーロッパの名のもととなった。
パシパエ(Pasiphae):クレタ王ミノスの妻でアリアドネの母。ポセイドンがミノスに授けた牡牛と交わりミノタウルスを産んだ。

両方ともギリシア神話です。しかし、なぜ牛なんだろ?

このセリフを言った時のスティーブン、なんだかとってもカッコいいと思うのは私だけでしょうか。

5分後に戻って来た時、少佐はもう一人の男を連れていた−その男はジョンソンだった。

「この男だ」ジョンソンはスティーブンを凄まじい憎悪の眼差しで睨んだ。「デュブルーユとポンテ=カネを殺したのは貴様か」辛うじて憎しみを抑えた低い声で、クラピエ少佐が言った。スティーブンは彼に殴られるかと思ったが、少佐は衝動を押さえた。「こいつを『蜂の巣』牢に連れてゆけ」彼は命令した。