Chapter 11-3〜オイディプス号


「蜂の巣」牢とは、汚物の溜まった牢で、夥しい数の蝿が飛び回っていることからその名がつけられているようだ。地面の高さに窓があり、その窓のそばに、スティーブンは何時間も立っていた。身体にとまる蝿が冷たく感じられた。窓から日が沈むのが見えた。

あたりは暗くなり、星が輝いていた。彼は口の中に入れている小瓶に触れた。危機の際に祈るのは恥ずべきことだ、と彼は思っていた。しかし今は、心の中に祈りが湧き上がるのを止められなかった。愛する人の無事を、彼は必死で祈っていた。

ようやく足音が聞こえ、ドアの鍵が開けられた。連れて行かれた部屋には、将軍の軍服を着た男とタンプル塔の副司令官が立っていた。「これが君の囚人か?」将軍が訊いた。「ええ、そうです。」副司令官が答えた。「それでは、タンプル塔に連れて帰りたまえ。」


普段、「苦しいときの神頼み」をしない人が祈れば、それは聞き届けられるのですね。

「スティーブン、やっと帰ってきたか!」ジャックが言った。「本当に心配して…」スティーブンは黙るように合図して、しばらくドアに耳をつけて聞いていた。足音が遠ざかると、彼は言った。「ジャック、例の計画、急ぐことはできるか?ジョンソンがパリに来ている。」「本当か?」

便所の脱出口は完成間近だった。ジャックは大きな石を土台から外していた。あとはこの石を持ち上げるだけなのだが、これが難物だった。3人は夜通し悪戦苦闘した。スティーブンとヤゲロの不器用さに、ジャックが爆発寸前になりながら。

スティーブンは二人に詳しい話をしなかったが、夜明けまでにここを逃げなければならないことは明らかだった。デュアメルの申し出は、おそらく真実だろう。しかし、部下を殺されたクラピエ少佐とジョンソンは、何が何でも彼を捕まえようとするはずだ。いざとなれば、タンプル塔を襲撃するだろう。この塔さえ脱出できれば、パリ市内に逃げ込める当てはいくらでもある。何より心配なのはダイアナのことだった。ラ・モットの保護がある限り、大丈夫だろうとは思うが…

3人はやっとのことで大石を動かすことに成功した。ちょうどその時、塞がれていたドアが突然開き、4人の男が入って来た。「こんばんは、みなさん。」先頭の男が言った。


帰ってきたスティーブンに、ジャックは"There you are, Stephen! There you are at last."と言ってます。この"There you are, Stephen!"という言葉、ジャックはよく使うのですよね。スティーブンがどこかから艦に帰って来た時とか、朝起きて甲板に出てきた時とか、パーティで会った時とか…うまく日本語にならないけど、なんか愛情がこもっていて、大好きなセリフです。(しかし、スティーブンが"There you are, Jack!"と言うのは聞いたことがない…)

入って来た男の一人はデュアメルだった。「どうぞ、お入り下さい。」スティーブンは彼らのところへ行こうとしたが、足をすべらせ、開いたばかりの脱出口に落ちかけた。ジャックとデュアメルが駆け寄り、彼の腕を掴んで引っ張り上げた。「何のご用ですか?」スティーブンは、すりむいた脛の血を拭いながら言った。

先頭の男が言った。「ドクター・マチュリン、私を憶えていらっしゃらないでしょうね。ロンドンで一度お目にかかりましたダングラールです。ラ・モットと、ムッシュー・ド・タレーラン=ペリゴールの友人です。」「もちろん憶えています。」スティーブンは答えた。入って来た男の一人は、階級の高い軍人らしかった。もう一人は顔を隠していたが、スティーブンは見覚えがあった。フランス外務省の高官だ。

「あなたの条件はデュアメルに聞きました」ダングラールは言った。「一つを除いて、受け入れます。ブルー・ピーターについては、すぐに取り戻すのは不可能です。最終的にはお渡しするつもりですが…その保証としてこれを。」彼は大きなアメジストの指輪を差し出した。「ダイアモンドの持ち主については、すぐにお引渡しすることができます。彼女はすぐに旅立つことを望んでいます。カレーの港に捕虜交換船が用意してあります。保証として、我々3人も一緒に英国に渡ります。我々の命−少なくとも自由が、あなたがたに委ねられることになる。」「わかりました。もちろん、私の友人たちも一緒ですね?」「オーブリー艦長とあの若いアポロですか?もちろん。」

ダングラールは便所の脱出口を見た。「苦労なさったようですね。しかし、これほど都合のいいものはない。連中はあなたがたがここから逃げたと思うでしょうから、我々には格好のアリバイです。さあ、行きましょうか。」

扉の向こうはらせん階段になっていた。彼らは階段を降り、裏門を抜け、外の道で待っていた2台の馬車に乗った。馬車はダイアナを迎えにラ・モットのホテルへ向った。「彼女は無事ですか?」スティーブンはダングラールに訊いた。「ええ。ジョンソンというアメリカ人の男が訪ねて来ましたが、もちろん会わせませんでしたよ。」「彼女には、我々が解放されたのは彼女のお陰だと言ってあるのでしょうね?」「もちろんです。他に言いようがないでしょう?」

ラ・モットのホテルの中庭で、ダイアナが待っていた。スティーブンが馬車を降りると、彼女か駆け寄って来た。「ダイアナ、本当にありがとう。でも、君にブルー・ピーターを手放させてしまった。」「あんなネックレスなんて、どうでもいいのよ。」ダイアナは言った。「これからは、あなたが私のダイアモンドだわ。スティーブン、足をどうしたの?血だらけじゃないの。」「脛をすりむいただけだ。ダイアナ、ボーデロークから聞いたけど、身体は大丈夫かい?」「スティーブン、私、ちゃんと約束を守ったわ。言われたことは全部守って、大事にしていたのよ。でも、ドクター・ボーデロークが言うには、どうしても救いようがなかったって…」「わかってる。さあ、行こうか。」

馬車はパリを抜け、カレーに向った。スティーブンはジャックに言った。「ダイアナは我々を釈放させるために、大臣の妻にダイアモンドを差し出してくれたんだ。」「本当か?何て親切なんだ。あんなに気に入っていたのに…あんな宝石、ロンドン塔にもないぞ…何てお礼を言ったらいいか。ソフィーも感謝するだろう。」

カレーの港で、英国海軍の捕虜交換艦オイディプス号が彼らを待っていた。ジャックとスティーブンが驚いたことに、艦長はジャックの元部下のウィリアム・バビントンだった。バビントンは事情を察していたので、艦がフランス岸を離れるまで、ジャックたちを知っているそぶりは見せなかった。ジャックたち4人と、デュアメルを除く3人のフランス人はオイディプス号に乗艦した。「総員、抜錨作業にかかれ!」バビントン艦長は、彼の師であるオーブリー艦長そっくりの声で命令した。


捕虜交換艦(cartel)とは、白旗を掲げて交戦中の敵国を往復し、捕虜を交換したり交渉提案を運んだりする艦のことです。もっとも、この時はナポレオンが捕虜の交換を拒否しているので、ドーバー海峡を往復するオイディプス号は戦時通行証を持った学者とか、中立国の人間とかを運ぶ仕事しかないんですけど。

しかし、バビントンくんが艦長とはねー。1巻で初登場した時は、ぶかぶかの軍服を着た小さな男の子だったのに。

オイディプス号がカレーを出航してしばらくして、オーブリー艦長が艦尾甲板に出てきた。「しばらく外の風に当たるよ。船室は暑くてね…二人がやり合っていて…まったく、とっくに結婚してるみたいだ。」艦尾船室の天窓から、ダイアナの声がまる聞こえだった。「まったく、マチュリン、あなたってどうしてそう頑固なのよ!前からそうだわ。」「えーと、艦首像を見に行きましょうか」バビントンがジャックに言った。

バビントンとジャックが艦首に避難した後も、言い争いは続いていた。「スティーブン、ねえ、『その方が都合がいいから』なんて言われて、結婚する女がいると思ってるの?」「だから、何度も言っているが、ジョンソンがパリに来ているんだよ。英国の港は敵国民を入れてくれない。他に方法はないんだ。」スティーブンはうろたえた様子で言った。「わかってないのは君の方だよ、ビリャズ。」「ほら、またそれだわ。どんな女だって…私みたいに落ちぶれた女だってねえ、結婚の申し込みには、もっとこう…何て言ったらいいの?ロマンティックなことを言ってほしいのよ。もし私があなたと結婚するとしても…するわけないけど…絶対に、こんな事務的な、ビジネスライクなプロポーズにイエスと言うもんですか。礼儀の問題よ、マチュリン。まったく…」「でも、本当に…ダイアナ、君を愛しているんだ。」スティーブンは下を向いて、弱々しい声で言った。


スティーブン、「結婚してくれ」とは何度も言っているのに、「愛してる」って言ったのはこれが初めてなのよね。まったく、ほんとに…はぁ。(<言葉にならない)そして、おそらくスティーブンはわかっていないと思うのだけど…相手を愛しているのでなければ、何と言ってプロポーズされようがかまわないと思うのよね。

以下は私の独断ですが…

スティーブンは2巻で初めて会った時から6巻で再会するまで、そばにいる時も離れている時もダイアナを愛し続けていたわけですが、それはかなり、自分の頭の中で理想化した幻を愛していたという部分が大きかったと思うのです。それが、アメリカで再会した時に幻想が壊れて、もう愛していないと思った。いったん気持ちがニュートラルになって、初めて「ただの友達」になった。その時初めて、絶望的な憧れの対象ではない、一人の人間として彼女を見ることができた。そしてそこから、今度は生身の彼女を愛するようになったのだと思います。ロマンティックに解釈しすぎかなあ。

ロマンティックといえば…ダイアナって、現実家に見えて、実は彼女も絶望的なロマンチストですね。大丈夫なんだろうか、こんなロマンチスト同士で…

バビントンとジャックが艦首像を見ていると、バビントンの甥の、トムという幼い士官候補生が来た。「ウィリアムおじさん…じゃなかった、艦長。艦尾船室のおねえさん…えーと、レディが、艦長においでいただきたいそうです。オーブリー艦長も、だそうです、サー。」

二人が急いで艦尾船室へ行くと、ダイアナとスティーブンは仲直りしたようだった。幸せな田舎のカップルのように、二人は手をつないでいた。「ミセス・ビリャズ、ドクター!お会いできて嬉しいです。トム、シャンペンを開けろ!」「バビントン艦長、ドーバーまでどのぐらいかかる?」「2、3時間ってとこです。」「それでは、一秒も無駄にできないな。我々の結婚式を挙げてくれないか。」「喜んで。トム!祈祷書を持って来い。」「ウィリアム、やり方を知っているのか?」ジャックが訊いた。「もちろんです。艦長がいつもおっしゃっていたじゃないですか、『予期せぬことに備えろ』って。水葬の儀式より、こっちの方が優先ですよ。さて、花嫁を引き渡す役は誰がやりますか?」「おれがやる。親戚だからな。これほど光栄なことはないよ。」ジャックが言った。「ドクター、指輪をお持ちですか?」「持っている」スティーブンはアメジストを出した。

バビントンはよく通る海軍士官らしい声で、厳粛に、見事に儀式を進めた。ジャックは耳慣れた、感動的な言葉に耳を傾けていた。「死が二人を分かつまで」というくだりにくると、彼の目が曇った。「スティーブン、誓いますか」「ダイアナ、誓いますか」の言葉を聞いた時、彼は自分の結婚式を鮮明に思い出し、隣にソフィーがいるような気さえした。

「ここに二人を夫婦と宣言します」バビントンはそう言って、祈祷書を閉じた。厳粛な口調だったが、幸福が溢れていた。「おめでとうございます。ミセス・マチュリン、ドクター、世界中の喜びがあなたがたに訪れますように。


7巻では、ラストではじめて題名の真の意味が明かされます。"The Surgeon's Mate"…軍医の伴侶と。

Mateとは、海軍の用語で「助手」の意味があります。例えば「bosun's mate」なら掌帆長(bosun)の助手で「掌帆手」となります。海洋小説を読む人なら、"The Surgeon's Mate"と聞いたら「軍医助手」のことだと思うはずなんですよね。しかし、それに該当する人物はまったく出て来ないので「あれ?」と思うはずです。私はMateとは「友人」、つまりジャックのことかと思いながら読んでいたのですが…トリプル・ミーニングになっているとは。「やられた〜」と思いましたね。

私のメールアドレスが"the_surgeons_mate@yahoo.co.jp"である理由も、これでおわかりになったことと思います…(照)

とにかく、筆舌に尽くしがたい苦労の末に結ばれた二人ですから(苦労したのは主にスティーブンですが)、幸せになってほしいものです。