Chapter 1-2〜兆候


翌朝スティーブンが目覚めると、ジャックはローレンス艦長の葬儀に出かけるところだった。彼は悲しそうだった。今朝もソフィーからの手紙が来ていなかった上に、彼に約束されていたフリゲート艦のアカスタ号が、他の艦長のものになってしまったことを聞いたのだ。「本国を長く離れていすぎたんだ。」ジャックは嘆いた。

チェサピーク号のローレンス艦長も、もちろん実在の人物です。彼のいまわの際の言葉は、"tell the men to fire faster…fight‘til she sinks, boys…don't give up the ship."(もっと速く撃てと伝えろ…艦が沈むまで戦え、艦をあきらめるな)と伝えられています。この"Don't give up the ship"という言葉は、後にアメリカ軍のスローガンとして有名になったそうです。

このジャックが出席した葬儀で、ローレンス艦長はイギリス軍によって敵地に葬られているわけです。それはちょっと可哀想だなあ…と思っていました。でも、後でアメリカ軍が遺体を引き取りに来て、ニューヨークに埋葬し直したようですね。よかった。

スティーブンがコルポイズ提督邸に行くと、ダイアナが迎えた。彼女はコルポイズ夫人を手伝って、祝勝舞踏会の準備をしていた。「来てくれてよかった。招待状を直接手渡せるわ。」「招待状?」「舞踏会の招待状よ。舞踏会って知ってる?みんなで踊るのよ。あなた、踊れるわよね?」「自己流だけどね。和平の時、君と踊ったのが最後だ。今度も踊ってくれるだろう?」「私は行けないの。着る服がないもの。」「ハリファクスにもドレスの店ぐらいあるだろう」「ハリファクスのドレス店ですって?」ダイアナは心から楽しそうに笑った。再会して以来、初めて聞いた笑い声で、それは彼の心を奇妙に揺り動かした。「とんでもないわ。コルポイズ夫人の知合いに、パリからの密輸品を扱っている人がいて、今朝品物を持って来たの。その中に素晴らしいブルーのドレスがあって、買いたかったんだけど…なけなしのお金は大事に使わなきゃ。」「金ならあるんだ。ロンドン銀行の手形で引き出したから、ドレスを買うといい。」ダイアナは驚いたが、素直に喜んだ。

彼はポケットを探って書類を取り出した。最初に取り出したのは探している書類ではなかったが、彼はそれを見て微笑み、「これが今朝届いたんだ。」と言って見せた。「フランス学士院から講演の依頼?まあ、スティーブン、あなたってそんなに偉い人だったのね。行けなくて残念ね。あなたが中立国かアメリカの人だって勘違いしたのね。」「いや、多分行くよ。日付はだいぶ先だ。快速船に乗れば間に合う。」「でも、戦争の最中に、どうやってパリに行くの?」「ああ、双方が同意して戦時通行証が下りれば、何の心配もない。自然科学の世界は、戦争をあまり気にしていないからね。でも、話そうと思っていたのはこのことじゃなかった。」

彼は二つ目の封筒をテーブルに置き、少し恥ずかしそうに言った。「これはピン代だ。」「ピンですって?」「女性はピンを買うのにかなりの金額が必要だと聞いている。」「スティーブンったら、あなた、赤くなってるわ。驚いた。あなたが赤くなるなんて、思ってもみなかったわ。気持ちはありがたいけど、まだ125ドルあるから、ピンぐらい買えるわ。一文無しになったら必ずあなたに言うわ。」


スティーブンが講演を依頼されたのは、『ロドリゲス島の絶滅鳥類層について』。これは、4巻で彼がせっせと骨を集めていた「ロドリゲスドードー」ですね。でもでもスティーブン、この状況でフランスに行ったりして、本当に大丈夫なの?(…と、ここを読んだ時、はらはらしていたのでした。)

ここでスティーブンは、フランス学士院での講演について、「ヨーロッパ中の興味深い科学者が集まる」「キュビエ兄弟と会うのが楽しみだ−南極圏の鯨について、フレデリク(・キュビエ)を驚かせる話がある」と言っています。キュビエ兄弟(ジョルジュ(1769〜1832)、フレデリク(1773〜1838))は当時最も尊敬を集めていた自然学者です。有名なのは兄のジョルジュの方で、近代的比較解剖学の基礎を築いた人。彼は「科学界のナポレオン」と呼ばれていたそうです(<この呼称、スティーブンは反対しそうですが)。当時は、世界のあちこちから新発見生物の標本が集められていたので、それを解剖して分類する科学は非常に注目されていたのですね。彼の研究はダーウィンの進化論の基礎になったと言われてますが、彼自身は進化論には強硬に反対していたようです。フレデリクはジョルジュの弟で、やはり比較解剖学者。特に鯨の専門家だったようです。

スティーブンは三番目の書類を出した。「これは身分証明書だ。君は敵国人だが、カナダへの入国を認める、と書いてある。」「ありがとう…そういえば、ボストンから持ち出した書類、喜んでもらえた?」「それが、あまり役に立たなかったみたいだ。選び方を間違えたらしい。僕は諜報員には向いていないね。」「そうね。」ダイアナは笑った。「あなたほど向いていない人はいないでしょうね。頭が良くないからじゃないのよ、あなたは頭いいもの。でも、あなたは鳥に囲まれている方がずっと幸せそうだわ。」

彼が結婚式の時間を確認しようとすると、ダイアナはためらった。「この証明書があるんだから、急ぐことはないんじゃない?あなたと結婚したくないわけじゃないのよ…ただ…」彼女は黙り込んだ。「私が会った男の中で、質問しないのはあなただけよ。苛立って当然の時でも、絶対に急かしたりしないのはあなただけだわ。」彼女はうなだれて地面を見つめた。これほど苦悩し、混乱している彼女を見るのは初めてだった。その時、従僕が呼びに来たので、彼女は立ち去った。


"In your way you are one of the most intelligent men I know, but you would be far happier among your birds." …ダイアナはスティーブンの仕事について何も知らないで言っているのだけど、「鳥に囲まれている方が幸せ」っていうのは、その通りだなあ。ダイアナって、時々すごく印象的なセリフを言いますね。つい引用してしまいます。

木の義足を引き摺ってダイアナを呼びに来た従僕は、スティーブンに敬礼して言った。「ドクター、お元気でいらっしゃいますか?」彼を見て、スティーブンは「君は肢体切断じゃなかったはずだ。」と言った。「違います。ブロックです。右舷当直員、懐かしのサプライズ号です。」「ああ、もちろん」スティーブンは彼の手を握った。「つまり、君の脚は切断せずに治したはずだ。」「ええ。しかし、ベンボウ号で連結弾にやられまして、あいにく軍医がドクター・マチュリンではありませんでしたので、あっさり切られましたです。」従僕は愛情のこもった目でドクター・マチュリンを見つめた。「オーブリー艦長もお元気でしょうね?」「ああ、とても元気だ。」「よろしくお伝え下さい。ジョン・ブロック、艦首楼担当、懐かしのサプライズ号です。」

スティーブンは病院へ行き、そこでチェサピーク号の軍医に会った。「先生は海に出られる前、ご婦人の診察していらしたのですよね?」スティーブンは訊いた。「ええ、産科医をやっておりました。」「先生はその分野に広い知識を持っておられる。そこで伺いたいのですが…妊娠最初期の兆候には、どのようなものがあるでしょうか?」軍医はスティーブンに、兆候を丁寧に説明した。「貴重なご意見、感謝します。」スティーブンは言った。


ジョン・ブロックさんのことは本筋には関係ないのですが、なんか入れておきたかったのですよね。それはここを読んで、軍艦の乗員にとって、自分の艦に信頼できる軍医が乗っているという事は、どんなに心強いことかと、改めて感じたからです。

当時の水兵にとって、戦闘中に負傷して「下に運ばれる」ことは、それはそれは怖ろしいことで、甲板で即死した方がずっとマシだと思われていたようです。無理もないことです。当時の軍艦の軍医には、ちゃんとした医者としての腕と資格を持っている人は少なかった上、多くは酔っ払いで(ベンボウ号の軍医もそうだったようですが)、そういう医者に麻酔なしで腕や脚を切断されるかもしれないのですから。まあ、たとえ軍医がドクター・マチュリンでも、それは怖ろしいことには変わりないでしょうけど…最高の腕の医者が常に全力を尽くしてくれるって分かっていれば、それはずいぶん救いになるんじゃないかなぁ〜と。