Chapter 2〜舞踏会


提督邸の祝勝舞踏会は盛況だった。客たちが勝利の美酒に酔い、心から楽しんでいる中で、ジャックだけが憂鬱そうだった。彼は舞踏会で従兄の陸軍大佐に会った。大佐は英国で舞踏会に出席し、ソフィーと踊った、と彼に語った。理不尽な考えだとは分かっていても、手紙も書かずにダンスを楽しんでいるソフィーの姿が目に浮かび、ジャックは不機嫌になるのをおさえられなかった。

ダイアナはスティーブンと踊った。「スティーブン、あなたすごく上手だわ。ああ、何て楽しいのかしら。」しかしスティーブンには、ダイアナの楽しげな表情の陰に、不安と憂鬱が潜んでいるのに気づいていた。

ジャックが不機嫌に佇んでいると、女性の声が聞こえた。「あのハンサムな方はどなたですの?」自分の事を言っているのだと気づき、ジャックは仰天した。声の主はアマンダ・スミスという令嬢だった。コルポイズ夫人が彼女をジャックに紹介した。彼女は特に美人ではなかったが、生き生きとした楽しそうな表情を浮かべていて、胸が大きかった。ジャックは彼女をダンスに誘った。


ジャックの女性の好みって、わかりやすいですね。というか、特に好みはなくて、近づいてくる女性は誰でも受け入れちゃうところがあるみたい。「好みがうるさい」の正反対というか…

「ブルーのドレスに、すごいダイアモンドをつけていらっしゃる方はどなた?」アマンダが訊いた。「ダイアナ・ビリャズ、妻の従妹です。」「彼女と踊っている小男は誰ですの?変わった方ですね。あの二人、もう何度も一緒に踊っているわ。」「ドクター・マチュリンですよ。二人は婚約しているんです。」「まさか、あれほどの美人が、ただの軍医なんかの妻に身を落とすことはありませんわよね?」「スティーブン・マチュリンの妻になるのが『身を落とす』ことになるような女性には会ったことがありませんよ。彼と私はもう何年も一緒に航海しています。彼は親友で、心から尊敬しています。」「…もちろん、おっしゃる通りですわ。きっとあの方には、外見ではわからない良さがおありなのね。ただ、彼女があまりにも優雅でいらっしゃるから…私、いつも女性の美しさを賛美してしまいますの。」彼はあわてて、自分も女性の美しさを賛美している、自分のパートナーがその好例であることを嬉しく思う、と答えた。

アマンダはジャックの航海の話を聞きたがった。彼女はなかなか海軍に詳しく、ネルソン提督を崇拝していると言った。ジャックは彼女に好感を持った。「ネルソン卿に、お会いになったことはあります?」「ええ、まだ海尉の頃、食事を共にする光栄に浴したことがあります。卿はこうおっしゃいました−『操船など気にするな、ただ真直ぐ突っ込め。』」「何て素晴らしい方なんでしょう。『操船など気にするな、ただ真直ぐ突っ込め。』私の今の気持ちにぴったりですわ。勇気のある人間なら、みんなそうあるべきですわよね。私、レディ・ハミルトンのお気持ちがよくわかりますわ。」アマンダは言った。


ネルソンとレディ・ハミルトンの恋(今風に言えばダブル不倫)はあまりにも有名ですが…当時の上流社会ではスキャンダルと受け止められていたと思うのですが、アマンダ嬢みたいに、「ああいう風になりたい」って憧れる人もいたのかな。でも、レディ・ハミルトンの名前が出た瞬間に、ジャックは走って逃げるべきだったと思うけど(笑)。ちなみにアマンダさん、令嬢と言っても、もう30越えているんですよね。一番危ないタイプ。

「ねえマチュリン、ジャックとスミス嬢、さっきからずっと一緒ね。友達として忠告してあげるべきじゃないの?」「べきじゃないね。」「そうでしょうね。でも、あの女ときたら本当に頭にくるわ。可哀想なオーブリーを誘惑するなんて、盲人の帽子から小銭をくすねるようなものだわ。ジャックったら、よりによってアマンダ・スミスみたいなハズレを選ばなくても…」「ハズレ?」「私が若い頃、インドで知り合いだったの。彼女、男を必死で探し回ってたけど、うまくいかなかったみたいで、今や彼女の評判は…まあ、私と大して変わらないわね。ジャックは気をつけた方がいいわ。彼、金を持ってるって評判だから。賭けてもいいけど、彼はあの女の腕の中で夜を明かすことになるわ。そうなったら、相当まずいことになるわよ。教えてあげればいいのに。」「お断りだ。」「そうだと思ったわ。そこまで面倒見切れないものね。まあ、ただの浮気でしょうし。」

"seducing poor Aubrey is like taking pennies from a blind man's hat."(あ、また引用してしまった)…ってダイアナ、あんたも2巻で誘惑してたじゃないの。…つまり、それほど簡単だってことなのね(泣)。ジャックは女を見る目がないからなあ。ソフィーみたいな女性が向こうから近づいてきてくれたのは、一世一代の幸運だったと感謝すべきでしょう。

このシーンのダイアナとスティーブンの会話、「男女の友達」っぽくてなんとなく好きです。まあ、元々ダイアナはスティーブンに対してこういう感じでずけずけと言いたいことを言っていますけど、今はスティーブンの方のオブセッションも消えているので、出逢って9年後でようやく完全に「お友達」になったというか…。意外と、結婚するには理想的な関係だったりして。

オーブリー艦長はダイアナの予想通り、スミス嬢のベッドで眠りについた。夜明け、彼女が泣いていることに気づき、ジャックは動転した。「二度とこんなことをしてはいけませんわ」彼女はヒステリックな笑い声を上げ、彼をぎょっとさせた。彼女はジャックのネッククロースを結び、「レディ・ハミルトンもネルソンにこうしてあげたわ」などとぶつぶつ呟き、繰り返し言った。「操船などかまうな、ただ真直ぐ突っ込め、ですわ。あはは、は、は!」

宿の部屋に帰ってきたジャックは、スティーブンに「朝の散歩をしてきた」と言った。「外に人はいたか?」「意外に多かったな。知り合いの士官にも何人か会った。」そこに郵便の責任者から伝言が届いた。ソフィーの手紙は届いていたのだが、手違いで別の場所にしまわれていたのだ。ジャックは喜んで事務所に行こうとするが、スティーブンが引きとめた。「ちょっと待て。その前に君の腕を吊るし直す−ほら、腫れているじゃないか、無理に動かしたな。それから、顔を洗った方がいい。もう明るいから、人が見たら、何かの戦闘でもしてきたのかと思うだろう。」ジャックは鏡を見た。スミス嬢の寝室は暗かったので、見えなかったのだ−彼の顔には一面に口紅がついていた。

ジャックはそれ以来、スミス嬢を夜に訪れたりはしなかった。しかし、昼は彼女を防ぎようがなかった。スミス嬢は堂々とジャックにくっついて歩き、彼が怪我を理由に宿屋に避難すると、見舞いに来て本を読み聞かせた。彼女は会う人ごとに、どんなに鈍い人でもピンとくるほど「ネルソン提督とレディ・ハミルトン」の話を聞かせた。ジャックは何度もこう思ってしまった−ネルソン卿がレディ・ハミルトンに出逢わないでくれていたら、どんなによかったか。


あ゛〜〜…ジャック、やってしまったわね。ここで女性票を大幅に失ったわよ。ほんっと、ばかなんだから…スティーブンも、止めてやれよ〜。

三人はシャノン号の戦勝報告書を運ぶ郵便船で英国に帰ることになっていた。ジャックは一刻も早くハリファクスを離れたかったが、ブロークの容態が安定しないため、報告書の作成は遅れていた。

そんなある日、ダイアナがスティーブンを訪ねて来た。「もうすぐ出航みたい。長官たちが報告書を書いてしまったみたいよ。」「ダイアナ、そんなにすぐ船が出るなら、その前に教会に行かないか?」彼がそう言うと、ダイアナの顔色が変わった。彼女は部屋をうろうろと歩き回った後、話しはじめた。

「スティーブン、愛してるわ。誰か男の慈悲にすがるつもりなら、あなたにすがるでしょう。でも…あなた、私と結婚したくなんかないんでしょう?再会した時、すぐ気づくべきだった…あの男に怯えて、あんなにおかしくなっていなければ。だめ、嘘はつかないで。親切で言ってくれているのはわかるけど。それに…他の男の子供がお腹にいるのに、結婚するなんてできないわ。ねえ、お酒をちょうだい。告白って疲れるわ。」

「前から言おうと思っていたんだが、酒は禁止だ。煙草も。」「知っていたの?」「ああ。…それと、君は誤解している。それはかつてのように哀願したりはしないけど、あれはまだ若さが残っていた頃の話だ。この歳になったら、むやみに感情を表に出したりはしない。でも、本質的な思いは変わっていない。」

彼女は諦めたような、悲しい笑顔を向け、彼はたじろいだ。彼は青い色眼鏡をかけて目を隠した。「仮に君の言う通りだったとしても…そんなことはないんだが…現実的な問題がある。形だけの結婚でも、君は英国国籍を取り戻せる。それに、もっと大事なのは、子供に名前を与えられるってことだ。ダイアナ、考えてごらん、私生児の境遇を。境遇そのものが侮辱なんだ。あらゆる法律において、私生児はひどく不利な立場におかれている。生まれた時から罰せられているんだ。人生のあらゆる局面で、非難に直面する。君も知っているだろうが、僕自身私生児だ。だから、ちゃんとわかって言っているんだ。子供をそんな目に遭わせるのは、残酷きわまりないことだ。」

「あなたの言う通りだわ。」 彼女は心を動かされ、彼の手を握りしめた。「…だからこそ、お願いがあるのよ。私が頼れる友達はあなただけだから。あの男の子供を産むなんて耐えられないの。きっと怪物だわ。…あなたは医者だから、そういうことは知っているでしょう。」「ほら、今の言葉こそ、君の判断力が鈍っている証拠だ。そうでもなければ、僕にそんなことを言い出すはずがない。僕の使命は命を守ることにあるんだ。奪うことじゃない。」「スティーブン、どうか私を見捨てないで。」彼女は小さい、すがるような声でつぶやいた。「スティーブン、スティーブン…」「ダイアナ、僕と結婚するんだ。」彼女は首を振った。二人とも、相手が気を変えることはないとわかっていた。二人が惨めな沈黙の中、じっと座っていると、ドアが開き、若い士官が駆け込んできた。

「奥様、ドクター、ここにいらしたんですね。よかった!郵便船が出航します。すぐに来て下さい。」彼は窓の外を指さした。「デリジェンス号です。ほら、もうブルー・ピーター(出航旗)を揚げてますよ。」


映画のメイキング本の写真を見ると、スティーブンが眼鏡をかけているシーンがあるようですね。原作では、彼が近視(あるいは遠視)であるという記述はなく、普段は眼鏡をかけていません。唯一、出てくるのがこの「青い色のついた眼鏡」なんですが、これは視力矯正というより、「目の表情を隠すため」にかけているようです。

スティーブンは全体的に「印象に残らない外見」をしているけど、その中で唯一印象的なのが「奇妙なほど色の薄い目」だと書かれています。そして、ポーカーフェイスがお得意な彼が唯一心をのぞかせてしまうのもこの目の表情なんですよね。だから、「まだ君を愛している」という嘘をダイアナに気づかれないように、目を隠している…でも、ダイアナは騙されない。切ないシーンだなあ。