Chapter 5〜パリ


スティーブンはフォーテスキュー艦長の家に留め置かれているダイアナを訪ね、フォーテスキュー夫人に挨拶した。夫人は海軍における地位に敏感だったので、スティーブンがただの軍医と知って、ほとんど無視してダイアナと話し始めた。彼女はダイアナに明らかに敵意を抱いていた。二人は何かで意見が合わず、言い争いをしているようだった。夫人はダイアナに言い負かされて、敵意をスティーブンに向けた。「ねえ軍医さん、プロイセン軍では、軍医は士官の髭を剃らされるって本当ですの?」「ええ、本当です。英国軍はもっとひどくてね、私など何度オーブリー艦長の靴を磨かされたことか。」からかわれていると思い、夫人の顔は怒りで赤くなった。しかし、その時、フォーテスキュー艦長が部屋に入って来た。とたんに、夫人の顔が愛情深い表情に変わるのを見て、スティーブンは驚いた。彼女は夫がダイアナに興味を持つのではないかと心配していたのだ。

スティーブンとダイアナは庭に出て、彼は釈放許可書を渡した。「ありがとう。この家から出られるのは嬉しいわ。でも…私、英国にはいられない。大きなお腹で、未婚で…何を言われるか。でも、田舎に引っ込んで誰にも会わずに過ごしたら、おかしくなってしまうわ。」「形式だけの結婚でも、問題は解決するんだが…」「だめ、別の男の子供がいるのに結婚するなんて、死んでもできないわ。お願い、私をパリに連れて行って。」「敵国に住むつもりかい?」「ナポレオンは敵だけど、パリは敵じゃないわ。パリでは、未亡人が何をしようと何も言われない。それに、この戦争はじきに終わるでしょう?」


最近、ピーター・ウィアー監督がインタビューで、「オブライアンの素晴らしいところは、プロットというよりキャラクターだ」と言っているのを読みました。私はプロットも面白いとは思うのですが、オブライアンの真骨頂がcharacter developmentにあるのは確かかもしれません。ジャックやスティーブンやダイアナといった主要人物はもちろんですが、このフォーテスキュー夫人みたいな「ちょい役」でも、ちゃんと味つけされていて、読むたびに新しい発見があるのですよね。

それにしても、スティーブンがジャックの靴を磨いているところを想像すると…(笑)靴を台無しにしてしまってキリックに怒られたりしそう。

パリの街を、二人はフランス語で話しながら歩いた。パリで買ったドレスを着たダイアナは、街の華やかさに色を添えていた。男たちが彼女を目で追った。二人はかつて住んだ家、遊んだ場所を指差しながら、街を歩き回った。

「友人のアデマール・ラ・モットの所へ案内するよ。彼の家に滞在させてもらうといい。」「マダム・ラ・モットはいい人?」「マダムはいない。彼は結婚するタイプじゃないんだ。一度結婚したが、奥さんは教会に婚姻無効を申請した。…でも、友人としての女性には親切だよ。服のセンスのいい女性には特に。君はきっと気に入るよ。公式の地位にはついていないが、同じ趣味の人間と、秘密結社のようなものがあって…94年に彼がギロチンを逃れたのも、彼らの力なんだ。彼の家族は処刑された。何かあっても、彼の保護はあてにできる。」「あ、ここ、子供の頃にいた所よ。」「オテル・ダルパルジョン?君がここにいたなんて初耳だな。」「子供の頃、3年ぐらいここに住んでいたの。どうして驚いているの?」「僕の従兄のフィッツジェラルド大佐もここに住んでいたんだ。会ったかもしれないね。彼は今、ノルマンディで馬を育てている。パリ暮らしに飽きたら、彼のところへ行くといい。」「まあ、すごい偶然ね。」「ああ。しかし、人生というのは凄い偶然で成り立っているんだ−たいていはそれに気づかないだけで。」


19世紀初頭に、ゲイ・コミュニティがあったとは。さすがパリ。…まあ、今のような大っぴらなものではなかったようですが。こういう人と知り合いなのも、スティーブンらしいなあ、と思います。ずいぶん昔からの知り合いみたいですね。若き日のラ・モットさんがゲイであることに悩んで、若き医学生のスティーブンに相談したりしたこともあったのかなあ…(と、あっという間に妄想に入れる私。)

その頃、ジャックは生まれ故郷のウールコム・ハウスを訪ねていた。彼は憂鬱だった。怪しげな政治家や投資家が屋敷を出入りし、父は相場や金の話ばかりしていた。急進派に鞍替えした理由は何であれ、それが儲かる行動だったことは間違いなく、父はジャックが生まれ育った屋敷のあちこちを派手に改装していた。ジャックは悲しい気分になった。

家に帰ると、郵便が届いていた。中にグラントからの手紙があった。「あの人、大嫌いよ」ソフィーが、彼女にしては珍しく強い口調で言った。グラントが帰国した時、彼女に「オーブリー艦長は死んだ、沈みかけの艦に残ったのは彼の判断の誤りだ」と言ったのだ。「グラントはおかしくなったみたいだ。失業したのは、おれが彼の悪い噂を広めたせいだと言っている。とんでもない−おれは『彼にボートを出す許可を与えた、彼の働きには満足している』と報告したのに。艦を離れたのはおれの命令だったと言わなければ、おれに不利な証言をすると言ってる。命令じゃない、許可を与えただけだ。気の毒に、頭がおかしくなったんだな。…プリングズたちからも来てるな。これは誰だろう…」彼は見覚えのない筆跡の手紙を開いた。

「わが英雄へ お喜びになって。わたくしたちの愛が実を結んだのです!きっと女の子だわ。できるだけ早く、あなたの胸に飛び込みに参ります。奥様がネルソン夫人より理解のある人だといいのですけど。アマンダ・スミス」


な、何て怖ろしい手紙だ…ぶるぶる。(<ちょっと男の思考回路になっている。)

アマンダほど怖ろしくはないけど、グラントの件も心配ですね。グラントって、レパード号では(確かに不遜で嫌なやつではあったけど)意図的に嘘をつく人ではなかったと思う。もしかして、喜望峰に着くまでの過酷な旅でおかしくなってしまって、被害妄想が出ているのでしょうか。

スティーブンは何人かのフランス人から、英国に亡命している王党派に手紙を届けてくれと頼まれたが、すべて断った。罠かもしれないし、今回の訪問は純粋に科学目的だけにしたかったからだ。彼はバルト海にいるポンシクのことを時々考えたが、滞在中は政治的なことに関わるまいと決めていた。

講演の日が来た。彼はいつになく念入りに身だしなみを整え、ダイアナを迎えに行った。ダイアナは最新流行のドレスに身を包み、いつにも増して美しかった。「すごく綺麗だ。」彼は言った。「あなたも素敵よ。」彼女はそう言って、楽しそうに笑い出した。「でも、スティーブン…鏡を見て。」「あ、カツラを忘れた!どうしよう?」「落ち着いて。まだ時間はあるわ。」彼女はホテルの従僕に言いつけて買いに行かせた。「このドレス、いいでしょう?ラ・モットも気に入ったって。ドレスに関して、あんなに目の鋭い人は初めて会ったわ。」

彼女は例のネックレスをばらし、ブルー・ピーターだけを胸に下げていた。「そのダイアモンドが気に入っているんだね。」「ええ。大好きよ。これがどこから来たかなんて関係ない、何があっても手離さないわ。死んだら一緒に埋葬されたい。憶えておいてね、スティーブン…私に何かあったら、これと一緒に埋葬してね。」「憶えておくよ。」

スティーブンは緑色の色眼鏡をかけた。「まあ、その眼鏡、外したほうがいいわ。すごく変よ。」「緊張しているから、これをかけると落ち着くんだ。」「緊張?あなたが緊張するなんて、思ってもみなかったわ。大丈夫、あなたはすごい人だって、みんな言っているわ。」「でも、実を言うと、こんなに大勢の前で講演するのは初めてなんだ。」


あのー…念のため言っておきます。カツラというのはですねえ、当時の男性ファッションの欠かせない一部でありまして、髪が薄いからかぶっているわけではないのです。(いや、まあ、実際薄いんですけどスティーブンの髪は…)

それにしても、ダイアナ、ゲイの友達までできちゃって、ますます現代女性だわ。すぐにでも「Sex And The City」(<ドラマの題名)に出られそう。

講演会場は満員だった。講演の始めに、彼は大きな声で挨拶したが、それが思ったより大きく響いてしまった。彼は驚き、後は小さい声で続けた。演題に興味のある人々は首を伸ばし、興味のない客たちはお喋りを始めた。彼が話しながら時々手を振り回すので、水差しを落とすのではないかと、ダイアナは心配で生きた心地がしなかった。

後の方に座っている男たちが囁き合っていた。「あいつが諜報員だなんて、絶対にありえんな。」「だだの噂だ。囮を送り込んでみたが、反応なしだ。マダムDは、彼は同性愛者だと言っている。ラ・モットの友達だしな。」「あの女は?なんであんな美人が一緒なんだ?」「ただの主治医だ。メイドの話では、彼女を診察していたそうだ−あんな女を前にして、平気な顔で。絶対、ホモだな。ほら、終わるみたいだぞ。ひどい講演だ。」

講演は見事な成功とは言えなかったが、一流の学者が講演下手なのはよくある事なので、本当に講演に興味を持って聞きに来た学者たちは満足した。実際、他の学者に比べたらましな方だった。友人たちが彼に歩み寄り、素晴らしかったと言った。「素晴らしいとは言えないけどね…まあ、何とかできるだけのことはやったよ。」彼は恥ずかしそうに微笑んで言った。


(↓「ファンの寝言」モードに入ってます。嫌な人は飛ばして下さい↓)

7巻に入ってからのスティーブン、やることなすこと、どうしてこう可愛いのでしょうか。「狙ってやっているのか」ってぐらい。…まあ、これを可憐だと思うのは私ぐらいかもって、わかっているのですけど…

それにしても、彼がゲイに間違えられたのはこれで3回目だ。どのあたりに原因があるんでしょうか。

学者たちが彼のところへ来て祝福した。スティーブンは旧知の学者たちと挨拶を交わした。その中の1人が言った−「ポンシクのことは聞いたか?」「彼がどうした?」「バルト海で遭難して、亡くなったそうだ。…カタロニア文学にとって、この上ない損失だよ。」

「ダイアナ、聞いてくれ…僕は英国に帰る。」「もう帰ってしまうの?」「ああ。君のことはボーデロークに頼んである。彼は信用できる医者だから、言う事を聞くんだよ。もし何かあったら、ここに連絡して…住所を憶えて、この紙は燃やすんだ。ビリャズ、僕のことを訊かれたら、ただの昔の知り合いで、何の関係もないと言うんだよ。」ダイアナの顔に怒りが浮かんだ。「もちろん嘘だ。嘘をつくんだよ。」彼女の目が優しくなった。「ええ、そう言うわ。でも、説得力はないわね。」彼女は背筋をしゃんと伸ばして立っていた。その姿を見て、彼の心は揺れた。長い間感じていなかった疼きが沸き上がった。「それじゃ、行くよ。神の祝福を。」「あなたにも。」彼女はキスをした。「ジャックとソフィーによろしく。それから、スティーブン、どうか…どうか気をつけてね。」