Chapter 8-2〜グリムショルム島


一晩中努力を続けた結果、ジャックはようやくミニー号を離礁させることに成功した。スティーブンが起きた時には、アリエル号からミニー号にワインとタバコを移す作業が行われていた。

スティーブンとヤゲロは、ミニー号のデンマーク人捕虜たちを個別に尋問し、何人かを買収した結果、いくつかの情報を得た。今回の航海の目的も、フランス人将校たちの正体も、船長以外には知らされていなかったようだ。しかし、ミニー号は何度もグリムショルム島へ行っている。前回行った時は、ハンブルグ・ジャック(旗の種類)を上下逆さに揚げるのが合図だった。今回の合図は変えられているはずだが、新しい信号旗を知っていたのは、殺された船長だけだった。


船の国籍(敵の船であるか味方の船であるか)は、マストに揚げた旗で見分けます。しかし、戦術として、わざと違う国の旗を揚げて敵を欺くこともよく行われていたようです。そこで、相手の正体を確認するために使われるのが、あらかじめ決めてある秘密信号旗(private signal)。

この秘密信号旗が書かれている書類は、絶対に敵の手に渡してはいけないので、海戦で敗れた時などは、艦が拿捕される前に重しをつけて海に沈めます。…ミニー号の場合、書類を沈めるのじゃなくて、知っている人を撃ち殺しちゃったのですけど。

「秘密信号旗の件は心配だな。今は別のものに変えられているはずだ。」ジャックがスティーブンに言った。「そのことなんだが…実は、アルテミジアの事を考えていたんだ。」「フリゲート艦のアルテミジア号?西インド諸島にいるぞ。」「違う、古代ギリシアの女王のことだ。彼女が戦争に敗れて逃げた時に使った手のことを考えていて、思いついたんだが…ミニー号がアリエル号に追われて、必死で逃げているふりで島に近づいたら…信号旗が古くても、慌てるあまり間違えただけだと思われて、見過ごしてくれるんじゃないかな?」ジャックはしばらく考えた。「いい手だ。しかし、島には経験の長い船乗りもいるから、騙すにはよっぽどうまくやらないとな。」

ジャックはミニー号を念入りに偽装した。指揮は、地元出身のベテラン水兵に取らせることにした。ハイド副長は不満そうだった。このような場合、副長が指揮を任されるのが普通だからだ。「気持ちはわかるが、今回は特別な場合なんだ。ミニー号の乗員は、このあたりの普通の水夫のように見せかけなければならない。平水兵なら、どんな格好をしようと安全だ。しかし、士官の場合、変装していて敵の捕虜になったら、スパイとして銃殺される。」「危険は覚悟の上です。そのぐらいやらなければ、昇進の機会はありません。」ジャックはためらった。部下にチャンスを与えることは、艦長としての義務だ。しかし…ハイドは日常業務では有能だが、船乗りとしては優秀とは言えない。右と左を取り違える癖があり、そのせいでアリエル号が立ち往生したこともあったのだ。彼への義務感から、計画とスティーブンの命を危険にさらすわけにいかない。「すまないが、これも任務だ。名を上げるチャンスなら、またいずれ訪れるだろう。」ジャックは言った。

アリエル号は4隻の輸送船と落ち合った。作戦が成功した際に、カタロニア人部隊を連れ出す輸送船だ。ジャックは、ミニー号に乗り込む水兵たちを集め、作戦を念入りに説明した上で送り出した。


ハイドさんは、「砲口に飛び込んで点火孔から這い出てくるぐらいのことをしないと、昇進の機会がない」とジャックに訴えています。まだ艦長まで昇進していない士官にとっては、手柄を立てる機会を得られるかどうかは、切実な問題なんですね。

ジャックはよく、「ラッキー・ジャック・オーブリー」と呼ばれています。わたしなど、「あんな散々な目に遭っていて、どこがラッキーなんだ?」と思ってしまうこともあるのですが…でも、ある意味では、何度も重傷を負ったり死にかけたりして、それでも生きているってこと自体、そういうチャンスに一度も恵まれていない士官から見れば「なんて運がいいんだ」ってことなんでしょうね。たとえ能力があったとしても、たまたま戦闘に遭遇したことがなければ、一生出世はおぼつかないようですし。まあ、チャンスがあったらあったで、「死ぬチャンス」になる可能性も高いのですが。

スティーブンがミニー号に移る前に、ジャックは彼とディナーをとった。テーブルには、提督の差し入れのキャビアや鴨のパイ、シャンパンなど、豪華な品が並んでいた。しかし、ジャックは何ものどを通らなかった。ディナーの雰囲気は、どこかおかしかった。二人はお互いに礼儀正しく、よそよそしく振る舞った。まるで、スティーブンがもう遠くに行ってしまったようだ。

士官候補生が来て、グリムショルム島が視界に入ったと報告した。「もうすぐだな。」ジャックはグラスにシャンパンを注いだ。「乾杯しよう。スティーブン、君への友情に。それから…」グラスが手を滑り落ち、砕けた。「くそっ」ジャックは動揺し、低い声でつぶやいた。「気にするな」スティーブンはブリーチを拭きながら言った。「ジャック、聞いてくれ。成功したら、合図にカタロニアの旗を揚げる。カタロニア国旗は知っているか?」「恥ずかしいが、知らない。」「黄色に赤の縦線が4本だ。もしそれが揚がったら…揚がった時には…アリエル号は同じ旗を揚げて来て、礼砲を撃ってくれ。司令官が乗艦する時には、貴族を迎えるのにふさわしい礼儀で迎えてくれ。」「スティーブン、もし君と一緒に来るなら、ロイヤル・サルートで迎えるよ。」


ロイヤル・サルート(王礼砲、royal salute)とは、21発の礼砲のことです。礼砲というのは、数が多いほど高い敬意を表すのですが、21発というのは一番数が多いものです。

(余談)ところで、これを検索したら「ローヤル・サルート」というスコッチ・ウィスキーのページが沢山ヒットしました(笑)。21発の礼砲にちなんで、21年間熟成させた高級品だそうです。

乾杯のところのジャックのセリフは、"Here's my dear love to you, Stephen" 。my dear love…つい照れて「友情」と訳してしまいましたが、「愛」の方が近いような… あ、ジャックがグラスを割ってうろたえているのは、それが典型的な凶兆だからです。

スティーブンはミニー号に移り、刻一刻と大きくなるグリムショルム島を見つめていた。声明を用意する必要はない。すべては最初の瞬間に−フランスの将校たちが来ているかどうかにかかっている。そこからは状況に合わせて、即興でやるしかない。

ミニー号を2マイルほど先に行かせてから、アリエル号が追いかけ始めた。「砲撃を始めよう。命中しないように、気をつけて撃て」ジャックは掌砲長に言った。ミニー号はハンブルグ・ジャックを逆さに揚げ、必死で逃げているふりで島へ突進していた。もうすぐ、島の砲台の射程距離に入る。ジャックは緊張した。彼らは騙されるだろうか?信号旗が古いのを見過ごし、ミニー号が味方だと信じてくれるだろうか?

グリムショルム島の砲台が、砲撃を開始した。最初の砲弾は、アリエル号を飛び越した。ミニー号でなく、アリエル号を狙っているのだ!ジャックはほっとした。しかし、すぐに喜んでいる場合ではなくなった。砲撃が激しくなり、アリエル号に命中し始めたのだ。アリエル号は方向転換し、全速力で砲台の射程距離から逃げ出した。


ちなみに、ハンブルグ・ジャックとはこういう旗のようです。

ジャックはトップから望遠鏡で島を見つめていた。ミニー号は入港し、ボートで桟橋に向うスティーブンの蒼白い顔が見えた。

上陸しようとした時、スティーブンは例によってバランスを崩し、ボートと桟橋の間に落ちた。「おい、助けてくれ!」桟橋に立っている兵士に向って、彼はカタロニア語で叫んだ。「あんた、カタロニア人なのか?」「もちろんだ!早く助けてくれ。」「驚いたな。」カタロニア人兵士たちが手を差し伸べ、彼を引っ張り上げた。「ありがとう…デュラストレ大佐はどこに?」スティーブンは、懐かしい姿がそこに立ってるのに気づいた。「パードリ!」「エステーヴ!」二人は駆け寄り、抱擁した。

ジャックには二人の姿が見えていたが、何をしているのかわからなかった。挨拶しているのか?捕まえているのか?男たちは建物に入り、後は何もわからなくなった。日が落ちた。ジャックは眠れぬまま、夜中にマストに登り、トップに座ったまま夜を明かした。

夜明け、ジャックは望遠鏡で旗竿を見つめていた。数人の男が現れ、旗を揚げた−黄色に4本の赤い縦縞。ジャックの心に喜びが沸き上がった。旗を揚げた男たちは帽子を投げ上げ、手に手を取って踊りだした。歓声が聞こえたような気がした。

ジャックは甲板に降り、マストにカタロニアの旗を揚げて艦を島に向わせた。再び島の射程範囲に入る時、アリエル号の乗員は緊張していた。やがて、21発の礼砲が海に響き渡った。アリエル号の最後の礼砲が終わると同時に、グリムショルム島の砲台から轟音が上がった。それが返礼であること−暖かい歓迎の印であることに、アリエルの乗員が気づくのにはしばらくかかった。


パードリ(Padri)=カタロニア語で名付け親の意
エステーヴ(Esteve)=スティーブンのカタロニア式の呼び方。
ちなみに、スティーブンはスペイン語(カスティリア語)ではエステバン、フランス語ではエティエンヌ。フランス語だけ極端に違いますね。

カタロニア国旗はこれ。スティーブンの説明そのまんまですね。うーむ、派手な旗だ…