Chapter 9〜バルト海からビスケー湾へ


カルルスクルーナでは、ソマレス提督と政治顧問のソーントン氏が、計画の成否を心配して眠れぬ夜を過ごしていた。メルシエ将軍がミニー号で出航したという情報を得てからは、心配は増していた。だからこそ、アリエル号がミニー号と4隻の輸送艦を連れ、成功の信号旗を上げて入港するのを見た提督の喜びは大きかった。彼はいっぺんに若返ったように感じた。「やったぞ。彼ならやってくれると思っていた!」提督は叫んだ。

一方のジャックは、すっかり疲れ切っていた。今までのさまざまな苦労と睡眠不足よりも、彼を疲れさせていたのはスティーブンの名付け親、ラモーン・デュラストレ大佐だった。大佐は賓客として艦長室に迎えられていたのだが、スティーブンは他のカタロニア人と話しに輸送艦へ行ったっきりなので、ジャックが1人で大佐のお喋りに付き合っていた。おまけに大佐は英語が喋れなかったので、ジャックは苦手なフランス語で無理に相手をする羽目になっていた。

旗艦に赴いたジャックとスティーブンと大佐は、提督の大歓迎を受けた。提督は大佐を抱擁し、ディナーに招待した。ディナーは大いに盛り上がった。輸送艦の甲板では、カタロニア人たちがサルダーナを踊っていた。その日の艦隊はお祭り気分だった。


サルダーナとは、カタロニアの伝統的な踊りです。誰でも参加でき、男女関係なく手をつないで輪になって踊ります。日曜日にミサが終わった後で、教会前の広場で踊るのが慣わしです。

そういえば、1巻でスティーブンがカカフエゴ号の情報を得たのも、故郷に帰ってサルダーナを踊っている時でした(8章)。スティーブンが海軍諜報部とかかわりを持つようになったのは、これがきっかけだったのかもしれません。とすると、サルダーナは彼の諜報活動の原点ということに…

アリエル号はこれから、輸送艦のカタロニア人部隊をスペインまで送る予定になっていたが、途中、商船団を英国まで護送することになった。旗艦から帰ると、ジャックが即座に出航するつもりだと言ったので、スティーブンは驚いた。「これからすぐに?金曜日なのに?」「もちろんだ。彼らを一刻も早く帰郷させた方がいいって、君も言っていたじゃないか。金曜日ってことに関しては…もう、その手の凶兆は信じないことにしたんだ。」

アリエル号はハノ湾(スウェーデン南端の湾)で商船団と落ち合った。湾は深い霧に包まれていた。ジャックが甲板に出ると、霧に包まれたマストの上からスティーブンの声が降ってきたので、彼は驚いた。「上がって来いよ、珍しいものが見られるぞ。」「どうしてあんな高いところまで登らせたんだ?」ジャックは当直士官を叱責した。「すみません、トップに登るだけだって言ったので…ヤゲロさんが一緒です。」士官は恐縮して答えた。ジャックは急いで登り、トゲルンヤードに危なっかしく止まっている二人を発見した。彼らは低く立ちこめた霧の上にいて、海と甲板は白いヴェールに覆い隠されていた。そこから、商船団の何百本というマストが突き出している。まるで別世界のようだ。「ほら!すごい光景だろう?」スティーブンが言った。「こんなの、見た事があるかい?」「数百回ぐらいね。」ジャックは不機嫌に答えた。「デイ・ブリンクと呼ばれる現象だ。さあ、スティーブン、ゆっくりこっちへ来るんだ。」ヤードから落ちそうになったスティーブンを、ジャックは腕を伸ばして受け止めた。スティーブンの靴だけが、遥か下の甲板へ落ちて行った。

三人はトップまで降りた。スティーブンは、彼らがマストに登っていた訳を説明した。「実は、ミスタ・ヤゲロはまずい立場になっている。甲板やトップでは、人が多くて相談できなかったんだ。彼が朝方にキャビンに帰ると、ベッドに女性がいたんだ。」「知っている女性か?」「カルルスクルーナで上陸した時、ちょっと話をしただけです。僕は何もしてません」ヤゲロは顔を赤くした。ジャックは女性を即座に追い出すように命令した。彼女は口汚く罵りながら、ボートで近くの港まで送られて行った。「どうして女があの男を追いかけ回すのか、おれにはさっぱりわからん。」ジャックはつぶやいた。


ヤゲロさん、色男もたいへんですね。ジャックはヤゲロさんを嫌っているわけでも嫉妬しているわけでもなく、彼がハンサムだということが本当に理解できないようです。まあ彼は、自分が(わりと)ハンサムだということもまったく理解していないようですし。男の顔に関しては、審美眼というものがないらしい。(…ないのが当たり前という気もするけど…)

一方のスティーブンは、ヤゲロに羨望を感じていることを素直に認めています。彼は「若い頃も今も、僕は女に追いかけ回されたことなんか一度もない」とぼやいていますが…ま、それはその…女に見る目がないってことよね、スティーブン。

13日の金曜日に出航したこと、艦に女性が乗っていたこと、不吉な印が二つも重なったことで、乗員の中には不安に思う者もいた。水先案内人のペルウォームは特に迷信深いたちで、絶対に嵐が来る、アリエル号は風下岸に追いつめられるに違いないと断言し、艦長を苛立たせた。

アリエル号は足の遅い大船団を率い、バルト海から大ベルト海峡を通って、カテガド海峡からスコー岬を廻る困難な航海を続けた。確かにあまり天候には恵まれず、ジャックは甲板に出ずっぱりで指示を与え続けなければならなかった。おまけにクロノメーター(経線儀:海上などで経度の測定に使用するきわめて精密な時計)が壊れてしまった。ジャックはスティーブンの懐中時計を借りて代用にしたが、あまり正確ではなかったので、ただでさえ困難な航路をほとんど手探りで進むような状況だった。それでも、ペルウォームの予言に反して、船団は風下岸に追いつめられることもなく無事にドーバー沖に到着した。ペルウォームは「遅くなった分、大きな嵐が来ますよ。」と不吉な予言を残し、艦を去って行った。

商船団と別れたアリエル号は、4隻の輸送艦と共にイギリス海峡を下った。ポーツマス沖を通る時、ジャックは望遠鏡を持ってマストに登った。アッシュグローブ・コテージの天文台がちらりと見えた。こうして見るわが家はなぜか、地球の裏側にいる時より遠く思えた。


クロノメーターというのは、当時の技術としては最高に正確な時計で、常にグリニッジ標準時に合わせてあります。長期の航海中、毎日正午近くに太陽を観測して、その位置の「正午」とグリニッジ標準時の「正午」の差で、その地点の経度がわかる−ということのようです。…これは私にも、何となく原理がわかるわ。「緯度」をどうやって決めるのかは、今のところさっぱり理解できていないのですけど。(ジョディ・フォスターさん、わたしにも「Sailing For Dummies」を送ってくれ。)

この辺りで気に入った会話:
スティーブン「僕は航海術にはあまり詳しくないが…」ジャック「それは謙遜のしすぎだよ。」

その後は天候が悪くなり、ジャックは対応に忙殺されたが、かえってそれが有り難かった。わが家を見たことで、アマンダやキンバーのことが急に思い出されて、気を紛らわせていないと落ち込みそうだったのだ。

ほとんど視界のきかないような激しい雨が何日も続いた後、アリエル号は英国艦がフランス艦を追跡しているのを目撃した。英国艦はジェイソン号、フランス艦は74門のメデュース号だった。ジャックはジェイソン号に協力するため、4隻の輸送艦と別行動をとることにした。彼は輸送艦にランデブー地点を告げて別れた。大佐とスティーブンを輸送艦に移す時間がないことだけが残念だった。

アリエル号は全速力でメデュース号を追った。まともに対決したら勝ち目のない相手だ。ジャックはアリエル号のスピードを活かし、すれ違いざまに砲撃して、すぐに逃げるつもりだった。メデュース号のマストや帆にダメージを与え、スピードを落とさせることさえできれば、あとはジェイソン号が追いついて海戦に持ち込めるだろう。

アリエル号は11ノットの快速でメデュース号に追いつき、砲撃を浴びせた。アリエル号もメデュース号の砲撃を浴び、フォアトップマストを撃ち落されたが、死傷者はひとりも出さずに射程外に逃げることができた。雨が激しくなる中、追いついてきたジェイソン号とメデューサ号が砲撃戦を始めるのが見えた。チャンスがあったらジェイソン号に加勢するつもりで、ジャックは少し距離を置いて二隻を追った。が、やがて嵐が激しくなり、見失ってしまった。

「そろそろお休みになっては?昨夜も一睡もしていらっしゃらないでしょう。」ハイド副長がジャックに言った。ジャックは何かあったら起こすように命令し、深い眠りについた。


ここで「あれ?」と思ったのですが…ジャック、あれほど必死でアマンダの手紙がソフィーの目に触れないようにしていたのに、家を離れちゃったら何にもならないような気がするのですが。まあ、ソフィーは勝手に開封したりはしないだろうけど…女からの手紙がそんなに頻繁に来ていたら、不審に思われないかなあ?

夜明け前、ジャックは副長のせっぱつまった声で起こされた。「風下に暗礁があります!」甲板に駆け上がったジャックは、怖ろしいことに気づいた−アリエル号は、荒天の連続と不正確な代用クロノメーターのせいで、考えていたのとは大幅に違う位置にいたのだ。ここはフランス岸のグライプス湾、ブレスト港の近く、浅瀬が多いせいであまり使われていない湾だ。夜が明けると、近くに砲台があるのが見えた。

砲台がアリエル号に向って砲撃を始めた。雨が激しいため狙いが不正確なのが幸いだった。ジャックは暗礁を避けながら、慎重にアリエル号を動かし、何とか砲台の射程距離外まで出た。この湾を脱出することさえできれば、近くにはブレスト港を封鎖している英国艦隊がいるはずだ。そこまで辿り着ければ…しかし、暗礁だらけのこの湾で方向転換するには、投錨上手回し(錨を引きずって回頭させる方法)をするしかない。それでも余地はぎりぎりだが、他に方法はない。

ジャックは乗員たちに言った。「これから投錨上手回しをする。いいか、これからは一つの失敗が致命傷になる。命令があるまで何もせず、命令があったら間髪を入れずに従え。」錨が降ろされ、ぎりぎりの、危ない回頭が始まった。測鉛手は暗礁の場所を見定めるため、測鉛をできる限り遠くへ投げようとした。彼の手がすべり、索がロープにひっかかって、測鉛が甲板に飛び込んだ。それは運悪く、ジャックの頭を直撃した。ジャックは一瞬倒れたが、すぐに立ち上がった。しかし、その瞬間、ハイド副長の声が聞こえた−「全員、左舷へ!…ちがう、右舷だった!」アリエル号は岩礁にもろに突っ込んだ。

アリエル号は船底を大きくこすって岩を乗り越えた。動くことはできるが、すでに背骨が折れたも同然の状態だ。「スティーブン、デュラストレ大佐に海兵隊の軍服を着るように言ってくれ。一兵卒のふりをさせるんだ。」ジャックは信号帳と命令書に重しをつけて海に沈め、艦を岸へ向わせた−敵国の岸へ。ジャックはアリエル号を桟橋につけ、フランス軍兵士の集まっている港へ上陸した。


ハイドさん…(涙)

こういう癖って、肝心な時に出ちゃうものなんですね。よかった私は船乗りじゃなくて。え、車のナビゲーションもやらない方がいいって?…アイ、そうですね。