Chapter 10-1 〜 ドクターの帰還


サプライズ号、バルパライソ沖に停泊中

さて、ところ変わってサプライズ号、チリの港、バルパライソ沖に停泊中。カヤオでフランクリン号と他の拿捕船を全て売却した彼らは、サプライズの船倉に金銀財宝をたっぷり積み込んで、英国に帰る途中です。

で、これはジャックしか知らないことなのですが…サムから渡された手紙によれば、今日はドクターがバルパライソに現れる可能性のある最初の日。ジャックは書記のアダムスをそっと呼んで、言いました。「カッターを出して、郵便を取りに行くふりで上陸してくれ。ドクターがいるかもしれない住所を渡す。もしいたら、すぐ連れて来てくれ。ただし、目立たないように。…これは秘密だが、どうも、ある夫を怒らせたらしい。裁判沙汰にならないように、密かに連れ出さないと…」

9巻のローラ・フィールディングの一件以来、スティーブンのシップメイトたちには「ドクターはああ見えて、陸では『ジブを揚げて(bowse up his jib)』いるらしい」という大間違いな評判が定着しています(当時と今ではシップメイトのメンバーは変わっていますが、どのみちキリックやプライスあたりが噂を広めるから同じ)。スティーブン自身も、この評判を利用して、陸で諜報活動をする時の言い訳に利用しているらしい。

あ、『ジブ』というのは船首に揚げる三角の帆のことです。ジブを揚げる=女遊びをする、という船乗り言葉らしい。ふむ、ふむ。なるほど。

そこへ、測深をしていたリード士官候補生が報告に来ました。「この索では底に届きませんでした。…あの、艦長、艦首左舷方向をご覧下さい。すごく変なボートがいます。バルサ(筏の一種)のようですが、見たこともないようなおかしなやりかたで航行しています。この5分で、3回は裏帆を打っていますし、気の毒に、体にシート(帆脚索)がからまってしまったようです。あのボートの扱いの下手なことといったら、ドクター並みですよ。

痛めている目を手で覆い、片目で遠くのボートをじっと見つめた後、ジャックは言いました。「ミスタ・ノートン、望遠鏡を持ってトップへ登って、紫の帆のバルサを見てくれ。ミスタ・ウィルキンズ、カッターを降ろしてくれ。」

「甲板!」ノートンがトップから叫びました。「あれはドクターです。あっ、海に落ちました…いや、戻ったようです。…あ、舵柄がとれたみたいです。」

ドクター、サプライズ号に帰還する

ドクターの帰還は、乗員全員の心のこもった歓声に迎えられました。

彼の両手を握りしめて「おかえり、ドクター」と言った艦長の言葉に続いて、全員が「おかえりなさい、ドクター、アイ、アイ、ハザー、ハザー!」と、規律もかまわず唱和しました。

うん、ドクターの愛されっぷりは、いつ読んでもほのぼのするなあ。

濡れた服を着替え、ジャックと一緒にキャビンでコーヒーを飲んで、ようやく落ち着いたスティーブン。積もる話はあるのですが、とりあえず、取り急ぎジャックに話さなければならないことがあるようです。

「私がペルーを急いで離れなければならなかった時−ある嫉妬深い軍人が、妻を診察しただけの僕の行動を誤解したせいなのだが…」(<乗員に立ち聞きされることを計算に入れている。)「…別れ際に友人が、ボストンから出航して中国に向かう3隻のアメリカ貿易船団の情報をくれた。」

ガジョンゴスが8章ラストでスティーブンに渡した「別れのプレゼント」の封筒、てっきり現金かと思っていたのですが…金に繋がる情報だったのですね。ガジョンゴスは海運業と海上保険を扱っているので、海運に関していろいろ情報が入るわけです。

「船のスケジュールは狂うものだから、バルパライソに着くまであまり気にかけていなかったのだが…ここに来ていた友人からの手紙で、3隻が予定通りブエノスアイレスを発ったと聞いた。この分だと、ここに書いてある予定通り、ディエゴ・ラミレス島(ホーン岬南方の島)に来るかもしれない。急いで行けば間に合うのではないかと思って、こうして帰って来たんだ。」

「そうだな、間に合いそうだ。」情報を確認したジャックは言いました。「ところでスティーブン、あのバルサと、夥しい荷物をどうしたらいい?」「荷物は細心の注意を払って運び込んでくれ。ボートの方は捨ててかまわない。ロープを1本引くだけで進むと言われたのに、全然進まなくて…もっとも、間違ったロープを引いていたかもしれないな。」

「床が箱だらけで足の踏み場もないから、海に落ちそうになったよ。」「価値の低いものから海に捨てたらよかったのに。」「しっかり縛ってあって、ほどけなかった。それに、一番価値の低いものでも、チチカカ湖の飛べないカイツブリの標本だ。飛べないカイツブリを、僕が捨てると思うかい?」

スティーブンは飛べない鳥が好きですね。飛べない鳥というのは、開発とともに絶滅してしまう可能性が高いので、それだけ貴重なのかもしれません。それにしても、自分が海に落ちてまで標本を守るというのがスティーブンらしいけど。

スティーブン、ジャックたちとディナーをとり、旅の話をする

その後すぐ、スティーブンはジャック、プリングズ、リードと一緒に艦長室でディナーをとり、3人にリマからアリカまでの「標本採集の」旅について話しました。「…それはペルーではヴィエント・ブランコ(白い風)と呼ばれるもので、私の脚はひどい凍傷にかかってしまった。」

「ひどく痛みましたか?」と、心配そうなプリングズ。「いや、全然。感覚が戻ってからも、傷は予想よりはるかに軽かった。膝の下から脚を切断しなければならないかと思ったが、結局、足の指を2本失っただけだ。足の指というのは、親指と小指さえあればバランスを保てるものだ。ダチョウの足の指は2本しかないが、風より早く走る。しかし、指を切断した後はしばらく歩けなかった。」

「どうやって切ったのですか?」と、聞きたくはないけど、訊かずにはいられない、という様子のリードくん。

「もちろん、のみで切った。壊疽が広がるのをそのままにしてはおけない。私が歩けなくなったので、素晴らしい友人のエデュアルドが、インカ椅子というものを作ってくれた。私は後ろ向きに座った姿勢で人の背に負ぶさって旅をすることができた。峡谷にかかる揺れるつり橋も、座ったままで越えた。」

インカ・チェアについては資料がなかったのですが…たまにアメリカ人のお父さんとかが使っている、赤ん坊を後ろ向きに座らせておんぶするキャリアのようなものかしら?いくら小柄で痩せているとはいえ、赤ん坊ならぬ大人の男性をかついでゆくのはたいへんだったでしょう。エデュアルドは、力持ちのインディオを次々に雇って背負わせたそうですが。

それにしても、ノミで自分の足の指を切り落とすって…や、まあ、自分の腹をかっさばいて銃弾を取り出した(3巻および映画)経験もあるドクターにとっては、そのぐらい何てことはないのかもしれません。でも、でも…うにゃ〜。(なぜか感想が猫語に…)

ジャックとスティーブン、ガンルームでディナー

次の日のディナーは、ジャックがガンルームに招待されました。ヴィダルは例のデュトゥールの一件で居づらくなったのか、カヤオで親戚と一緒に船を去っており、代わりにウィルキンズという船乗りがオフィサーに昇進しています。

例によって、ジャックは何も発表したわけではないのに、3隻のアメリカ貿易船のことはなぜか船中に詳しく知れ渡っていて、乗員たちにさらなる活気を与えていました。それでなくても、何しろ今やサプライズはホームワード・バウンド(本国へ帰航中)。みんな上機嫌で、陽気に喋っています。

「帰航中であるだけでも嬉しいものですが、ポケットに拿捕賞金を入れて帰航中ならもっと嬉しいですね!」と、新オフィサーのウィルキンズ。サプライズ号のポケットには、もうすでに金がうなるほど入っているのですが、ここでウィルキンズが言っているのはもちろん、ディエゴ・ラミレス島で待ち伏せる予定の3隻のアメリカ船のこと。

「不運を招くようなことは言わないようにしよう。取らぬクマの皮算用をするのは、厩の戸を閉めてからにしよう。」と、例によってわけのわからない(でも意味はなんとなくわかる)諺で釘をさすジャック。

スティーブンだけは、あまり早くホーン岬に着きたくないと思っていました。アンデスで収集した膨大なコレクションの整理が済んでいないので、ちゃんと収納する前にホーン岬の荒海に揺られたら、全部だめになってしまうかもしれない。「今は(南半球の)夏だが、今年は異常気象なんだ。ツルがリマから北へ飛んでいた。」

「ツルの頭がおかしくなっているとしても、貿易風は正気だから大丈夫」と、ジャックは保証しました。「少なくとも数週間はかかる。」

あ、ひとつ…ここから先を読む時は、世界地図を見ながらがオススメです。

サプライズ号、冷夏のホーン岬付近に到着

その数週間の間に、スティーブンはしっかりコレクションの整理を済ませました。船医助手になった元薬剤師のフェビアンは、助手として有能な上に絵が上手で、すばらしい標本の絵を描いてくれました。

しかし、ホーン岬付近に着くと、夏の終わり(3月頃)とは思えぬほどの凍てつく寒さで、その上ひどい荒天続き。ようやく晴れ間が出て、久しぶりに天測した時、サプライズ号は待ち伏せ地点に早く来すぎたことが判明しました。

アメリカの中国貿易船を捕まえるなら、半月近くも待たなければならないし、こんな天候では商船の動きはまったくあてにならないので、もっと待つかもしれない…

「諦めて本国へ向かった方がよくないか?」スティーブンはジャックに言いました。「それは考えた。しかしそう考えるたびに、生まれつき高貴なおれの性格がこう言うんだ−『おいジャック・オーブリー、義務を果たせ。聞いているか?』…義務って知っているか、スティーブン?」

「聞いたことはある。」「実際に存在するんだ。国王の敵を攻撃する義務のほかにも…アメリカ人が嫌いなわけじゃない、いい船乗りだし、ボストンでは親切にしてくれた…その義務のほかにも、乗員に対する義務がある。みんな、3隻の貿易船を見つけたくて、頑張ってここまで船を運んでくれたんだ。ここで『もう貿易船なんかどうでもいい』なんて言ったら、みんなどう思う?」

「しかし、君が言ったように、アメリカ人はいい船乗りだ。3隻と戦うのは危険ではないのか?」「いや、あの3隻は、軍艦と間違えるような巨大な東インド会社船とは違う。ほとんど砲を積んでいないし、積んでいても砲撃できる人員がいない。何隻いようと、優秀なフリゲート1隻に敵わないよ。」

「そうか。…それなら、待っている間に、少し南へ行ってくれたら嬉しいのだけど。氷山が見られるかもしれない。」「とんでもない。あのレパード号の一件以来、氷山は大嫌いなんだ。どんな小さいやつでも、どんなに沢山のペンギンやアザラシが乗っていてもだ。」

その後半月間、ディエゴ・ラミレス島付近を行ったり来たりしながら、サプライズ号乗員は寒さに耐え、絶え間ない嵐に耐え、一日中服の乾く間も、身体が温まる間もないことにも、ギャレーの火が点けられないので温かい食事も飲み物もないことにも、「3隻の貿易船、さらなる拿捕賞金」のことだけを考えて、ひたすら耐えつづけました。

一方、危ないので甲板に出ることを禁じられたドクターは、舷窓から外の海を見ていて、珍しい光景を見ました。波の谷間を飛ぶアルバトロスが、飛んできた海水の固まりに不意をつかれて、海に沈んだのです。海面からようやく上がってきた鳥の顔には、あきらかに怒りの表情が浮かんでいました。

アルバトロスさえ戸惑う異常気象。海鳥としてのプライドを傷つけられたのでしょうか。鳥の怒った顔ってどんなだろ…それにしても、別に温暖化とかなくても、異常気象ってのは昔からあったのですね。まあ、現代の方が多くなっているのだろうけど。

映画にもホーン岬のシーンがありましたね。やっぱりすごい嵐で、めちゃめちゃ寒そうだったけど…たぶん、あれは冬だったと思います。(たしかファーストシーンが4月だったから、その1ヶ月〜数ヶ月後ぐらいに着いたとして。)

アメリカの中国貿易船団、予定通り現れる。それとは別に2隻の船が現れる

待ちに待った甲斐あって、ほぼ予定通りの日に、貿易船団はディエゴ・ラミレス島に現れました。

その日は海面から立ち上る濃い霧のために視界が悪く、例の貿易船であることを確認するのも一苦労ですが、逆にあちらからもサプライズ号が見えていないようで、警戒する様子もなく島を回ってきています。「プリングズ艦長、乗員を戦闘配置につけてくれ。ただし、音を立てずに。」

静かに戦闘配置につくサプライズ号。ところがその時、ボンデンから、貿易船の他に船がいるようだと報告がありました。「左舷前方、2隻です。…いえ、船(シップ)が1隻とブリッグが1隻です。」

霧の中、ジャックは目をこらしますが、悪い方の目に寒風が当たって涙がたまり、よく見えません。ますます濃くなる霧と相手の位置のせいで、目の鋭いボンデンさえ、大きい方の船の大きさをはかりかねていました。「ただのスループみたいに見えることもあれば、戦列艦みたいに見えることもあるんです。」

バルパライソかフィリピンへ向かうスペインの大型商船だろうか…もしかしたら、アラスター号の噂を聞きつけて征伐しに来たスペインの軍艦かもしれない。そうだったら、スティーブンを呼んで挨拶してもらおう…ジャックは考えますが、謎の2隻は、3隻の貿易船より近い位置にいるにもかかわらず、なかなかはっきり見えてきませんでした。

「Sail Ho!」マストからノートン士官候補生の声が降って来ましたが、すぐに「すみません、氷山でした」と訂正が入りました。いつの間にか、辺りには大小の氷山、流氷がたくさん漂っています。この季節に、こんなに北の方まで氷山が来るのは、ほとんどありえないことなのに…

ブリッグは、霧の中でよく見えない状態のまま、声が届く距離まで近づいてきました。「どこの船だ?ケ・バルコ・エスタ?」ジャックはスペイン語で誰何しました。

ブリッグの乗員は、狂気じみた笑い声を上げました。「ニュージャージーから来た(アメリカ船ということ)、ノアズ・アーク号だ!」その声とともに、ブリッグは追撃砲を激しく撃ち込んで来ました。

そして間もなく、霧に切れ間ができて、大きい方の船がアメリカの38門大型フリゲート船であることが判り…フリゲート船の片舷斉射が、濃い霧を染めました。