Chapter 10-2 〜 ハッピー・リターン


ガジョンゴスの情報には、アメリカの中国貿易船団に護衛がついているとは書いてなかったので、このフリゲートとブリッグ(アメリカ海軍の軍艦)は、おそらくブエノス・アイレス辺りで偶然3隻に出会い、請われて同道していたのでしょう。

元々の護衛であろうとなかろうと、こうなった以上は同胞の商船を守り、敵の私掠船を拿捕しようとするのは当然のこと。

38門フリゲート艦一隻だけでも、旧式の小型フリゲートのサプライズ号には、とても敵わない相手。しかもブリッグがついているので、サプライズ号の反対舷や船尾に廻り込んで、効果的な砲撃をすることができます。

とにかく、獲物を狙っていたはずが、一転して大変な窮地に追いやられたサプライズ号。

サプライズ号、氷山に向かって逃げる

ジャックは一瞬の判断で、サプライズ号を素早く方向転換し、考えうる唯一の逃げ道に向かいました。

いきなり回頭し、敵フリゲートのすぐ横を通り過ぎながら、すれ違いざまに至近距離から砲撃するサプライズ号。敵は意表をつかれ、すぐには方向転換できずに少々遅れますが、やがて帆を張り増して、平行なコースを少し遅れて追ってきました。

サプライズは、辺りに浮かぶ沢山の氷山のうち一番大きい物、直径2マイルはありそうな巨大な氷の島にまっすぐ向かっていました。氷の島の「岬」を、ぎりぎりで廻り込んで逃げる−それが、この難局を逃れる唯一の道でした。

サプライズ号とアメリカ艦は迎撃砲・追撃砲で撃ち合っていますが、ジャックは砲撃をプリングズに任せ、自ら舵を取って難しいコース取りに集中しました。何しろ、ぎりぎり風上を通らなければならない上、島自体がゆっくりと動いているので…

敵のブリッグが、サプライズの船尾を横切って縦射しようとしています。ジャックはプリングズに「フォアマストを狙え」と指示。しばらくして後ろから歓声が聞こえ、振り向くと、ブリッグのフォアマストが倒れ、コースを外れていました。

敵フリゲートは、このままでは氷の島を回れずにぶつかってしまうことを悟り、追跡を諦めてコースを変えました。その代わり、サプライズが氷山の向こうに行く前に行き足を止めようと、砲撃をしてきます。

ジャックは舵を握り、まっすぐ前を見ていました。砲撃にかまっている暇はない。とにかく今となっては、方向転換はできない−向こうの見えない生垣を飛び越そうと、ギャロップで走る馬のように、ためらわず、スピードを落とさず走り抜けるしかない。

切り立った崖になっている氷の島の「岬」を、今しも通り過ぎようとした時、米フリゲートの斉射の音と、巨大な氷の崩れ落ちる轟音が、ほぼ同時に響き渡り…一瞬後、ミズンマストが倒れました。「斧だ!切り離せ!」

索が切られ、ミズンマストが船を離れた頃には、サプライズは氷山をクリアして広い海に出ていました。サプライズとアメリカ艦の間には、巨大な氷の島が立ちふさがっています。

「おめでとうございます。」プリングズが言いました。「何が起こったんだ?」「ヤンキーの砲撃がミズンに命中したのです。他の砲弾が氷山に当たったのでしょう−あの巨大な氷が落ちてきた時は、もうだめかと思いました。しかし、ぎりぎりで後方に落ちました。全員、水しぶきでずぶ濡れです。」

ジャックは自分の背中もずぶ濡れなのに気づきました。「ミズンは残念だ。しかし、救おうとしたら氷に衝突しただろう。敵は当分追いついてこないだろうから、その間に乗員に食事を取らせよう。」「戻って貿易船を守るのが義務だと思うかもしれません。」「それなら、彼が強い義務感を持っていることを祈ろう。」

アメリカのフリゲート艦、なおも追ってくる

その夜、サプライズ号は氷山と流氷の迷路の中を、棒で氷を突きのけながら手探りで進みました。しかし残念ながら、夜明けには、ピンクやアクアマリンに染まった氷山の向こうに、頑固なアメリカ艦がいました。

一晩中を見張り台で過ごしたジャックは疲れきり、降りる時に凍ったシュラウドで手を滑らせ、珍しく落ちそうになりました。スティーブンと朝食を取っている途中、椅子に座ったまま眠りに落ちてしまうジャック。彼ももう若くないのね…

そこへ飛び跳ねるように入ってきたのは、ジャックと違って若いエネルギー溢れるリード。「プリングズ艦長から伝言です。甲板へおいで下さい。」目をしょぼしょぼさせているジャックをリードが導き、望遠鏡を渡しました。「風上です。」

見ると、アメリカ艦は動きを止め、ボートを降ろしていました。氷の迷路の中で針路を誤り、氷の袋小路に突っ込んで動けなくなったのです。これからボートで、風上へ3マイルも曳航して戻らなくてはならない位置で、サプライズ号の追跡を続けるのは不可能になっていました。

アメリカ艦は風下へ砲を発射し(「信号旗に注目」という合図)、アルファベットで信号旗を揚げ、信号係のリードが「『H,A,P,P,Y R,E,T,U,R,N』(ハッピー・リターン:帰路の無事を祈る)です。」と読み上げました。「何と礼儀正しい。『あなた方も』と返事をしろ。彼らの大統領は誰だっけ?」「ワシントンだと思います。」とプリングズ。「『ミスタ・ワシントンによろしく』は長すぎるなあ。最初のやつだけでいい。」

思いとどまってよかった。そんな挨拶を受けたら、アメリカ人も「はあ?」でしょうね。ワシントンは初代大統領(1789-1797)。当時の大統領は4代目のマディソン。プリングズの子供時代から青年期までワシントンだったので、その印象が強いのでしょうね。それにしてもプリングズって、結構天然系ではないかと思い始めた今日この頃。うーん、天然じゃない登場人物がいなくなっちゃったよ。

サプライズ号、落雷に遭う

ようやく氷の海を脱し、追ってくる敵もいなくなって、応急のミズンマストを立てる手配を始めたかと思ったら、サプライズ号をまたも不幸が襲いました。

今度は落雷。メインマストを直撃して砕いただけではなく、もっと深刻なのは、舵板を失ったことでした。

どうやら、流氷の中を通っていたとき、知らないうちに氷にぶつかって軸棒が外れかけていたのに、今まで舵にほとんど触れる必要がなかったので気づかず、落雷で舵板上部が砕けた事とあいまって、完全に外れてしまったようです。

サプライズ号、舵を失う

知識のないスティーブンでも、舵板がなくフォアマストしかない船はまっすぐ風下へ向かうしかなく、またこの地域の風はほとんど常に真西から吹いていて、またこの緯度では真東に進めば、地球をぐるりと一周してホーン岬に戻るまで陸地は全然ない、ということはわかっていました。(さあ、ここで世界地図−あれば地球儀−を確認。)

しかし、スティーブンが驚いたことには、これほど絶望的な状況なのに、ジャックも他の乗員たちも、意外に楽天的なのでした。

ジャックが楽天的なのは、部下に必要以上の絶望感を与えないよう、無理にでもどーんと構えている、ということもあるのでしょうけど…水兵たちが楽天的なのは、彼ら独特の運命観に影響されたものでした。

実は、サプライズ号乗員のほとんどは、ヴィダルがデュトゥールを逃がしたことを知っていました。そのことによって、よくは分からないがドクターの命に危険が及んだらしいことも承知していました。

落雷の死者は1人だけだったのですが、その1人がたまたま、船に残っていたニッパードーリング教徒でした。その本人に対しては、みんな何の怒りもなく、それどころか好かれていたのですが…雷に打たれて死んだことで、「あいつが『ヨナ』だった、彼がいなくなったから、もうこれ以上悪いことは起こらない」という気持ちが起こり、なんとなく安心感が広がっているのでした。このへん、なかなかスティーブンには分からない感覚なのですが。

サプライズ号はツギハギのミズンとメインを立て、ステアリング・オール(5巻9章参照)を使って、真東よりはやや北よりへ進んでいました。食糧の配給を減らし(雨がよく降るので水は大丈夫)、尽きる前になんとか喜望峰へ辿り着けるように…

船が現れる

そんなある朝。スティーブンは大事な標本にイガがつき始め、またイガを防ぐコショウが一粒も残っていないことに気づき、非常に気を揉んでいました。(他にどんなに大変なことがあろうが、博物学のことは忘れないところがスティーブン。)しかし、なぜか水兵たちも、気もそぞろな様子です。

艦尾甲板に上がると、ここでもみんな難しい顔をして後方を睨みつけていました。「あのアメリカ艦です!」リードが言いました。「あんなに親切な挨拶をくれた後で、また追ってくるなんて…」

スティーブンは、鳥観察用の特別に強力な望遠鏡で、遠くに見える船影を見ました。「ミスタ・リード、フリゲートの砲は一列しかないんだったよね?」「そうです。」「あの船には二列あるようだが…」「そんなはずはありません。フリゲートというのは…え?ちょっと見せて下さい…あれはアメリカ艦じゃない、戦列艦です!」

ジャックはトップから相手を見ていました。「甲板!あれはヘニッジ・ダンダス艦長のベレニス(Berenice)号だ。ニュー・サウス・ウェールズから帰航中の。」彼は笑い、小さい声で付け加えました。「こりゃまた、ベリー・ナイスだ(Bery nicely, too)」

……

ベレニス…ベレニス…ベリーナイス。なんか、まるで日本人のオヤジのようなオヤジギャグだと思ってしまったのは私だけでしょうか(笑)。(英国人でも、V音とB音をごっちゃにしたダジャレを思いつくのですね。)最後にもう一度だけ…ジャックはかわいい。もう言ったっけ?

サプライズ号、ヘニッジ・ダンダス艦長のベレニス号と出会う

ベレニス号の連れているスクーナーがサプライズ号に近づいて来て、誰何しました。「英国海軍雇用船サプライズ号、トム・プリングズ艦長だ。」「書類を持って出頭しろ。」相手をただの私掠船だと思っている士官候補生が横柄に言いました。スクーナーの乗員達は、サプライズのおかしな応急マストを見て、にやにや笑っています。

「さっさと戻って、『オーブリー艦長とからご挨拶申し上げる』とヘニッジ・ダンダス艦長に伝えろ。」ジャックがそう叫ぶと、スクーナーの士官候補生は急に丁重になり、乗員の顔からはたちまちニヤニヤ笑いが消えました。「イエス、サー!あの、申し上げてよろしいですか?フィリップ・オーブリーも乗っています。

オーブリー艦長の名は海軍には響き渡っているし、ダンダス艦長の親友だということも乗員は知っているし…それに、この士官候補生はフィリップの友達なのでしょうね。

不運続きの後、英国軍艦に遭遇するという大幸運に恵まれたサプライズ号。乗員たちは笑い声を上げ、背中を叩きあって喜んでいました。

ジャック、ヘニッジ・ダンダス艦長と語り合う

「あいつの最初の言葉を当てられるぞ」ベレニス号からの迎えを待ちながら、ジャックがスティーブンに言いました。「『神は愛する者にこそ試練を与えたもう』と言うに決まっている。あ、フィリップがいる!何て背が高くなったんだろう!」

この航海に出る直前(13巻4章)、ジャックの年の離れた腹違いの弟フィリップくんは、ジャックの船で海に出たいと言って「もう1年待て」と止められていたのですが…そう、あれからもう3年ぐらい経っているのですね。今やフィリップは立派な士官候補生、もうすぐ航海士になろうかという年頃です。(13〜14歳ぐらいか。リードくんよりは少し下かな?)はあ、子供が大きくなるのは早いね〜。あ、このシリーズ、都合により歴史は1813年で止まっていますが、子供は育つのです(笑)。

ベレニス号の艦尾甲板で、ダンダス艦長が帽子を振っていました。「ジャック!『神は愛する者にこそ試練を与えたもう』だな、ははは!君はよっぽどのお気に入りだ。ひどい有様だな。」「ダンダス艦長」スティーブンが開口一番に言いました。「コショウを少し分けて頂けると、誠に有難いのですが。」

ダンダス、オーブリー、マチュリン、プリングズ、フィリップはベレニス号でディナーをとり、他の3人が退出した後、ジャックとダンダスは旧友同士の積もる話に花を咲かせました。

「おおヘン、フィリップをあんなに立派に育ててくれてありがとう。」「なんのなんの。彼は生まれつきの船乗りだよ。…君もマチュリンも、ひどい目に遭ったようだな。」「そうなんだ。長い航海だった。故郷の様子はどうだ?」

「去年の7月、アッシュグローブに行った。みんな元気だったよ。ダイアナはアイルランドへ出かけていて留守だったが、馬の飼育はとてもうまくいっているようだ。ダイアナのところで、オークスの未亡人のクラリッサに会った。なんて素晴らしい女性だ!」

オークス、あっさり戦死してしまったようですね。やっぱりクラリッサって(以下自粛)。ん?女たらしで悪名高いヘンさん、さっそく未亡人に手ぇ出さなかったでしょうな…少なくとも、出したいとは思ったかもね、この言い方は。

「ジャック、君の航海はどうだった?」「まあ、全体としてみれば、どちらかと言えば失敗だったかな…でも、」彼は喜びの笑い声を上げました。「こうして本国に向かっているのは、とても嬉しい。それに、何と言っても嬉しいのは、こうして生きていることだ。(I am so happy, so very happy, to be alive.) 」


16巻蛇足:サーカムナビゲーション

13巻〜16巻のジャックとスティーブンのように、ぐるりと地球を一周して帰ってくる旅のことをサーカムナビゲーション"circumnavigation"と言います。船乗りの中でも、これを達成した人は"circumnavigator"と呼ばれ、一種の尊敬を受ける存在になるようです。(同じ距離を移動しても、プリングズのように一箇所へ行って引き返して来た人は含まれない。)

現代では、飛行機を使えば比較的簡単にサーカムナビゲートできますが…飛行機を使うのは数に入らないのかな。

でも、この章の「一周してホーン岬に戻るまでは陸地がない」を読んで思ったのですが…世界一周の定義って何でしょうね。もし「全ての経度を横切ること」が条件なら、極端な話、極点で直径1メートルの輪を一周すれば達成されるのですから。(その前に、極点に到達するのが大変ですが。)

「ヨットで世界初の世界一周!」とか言う時の「世界一周」には、ちゃんと色々条件があるようですね。ここではそこまでは突っ込みませんが。

とにかく、これでスティーブンは「世界一周者」の仲間入りを果たしたわけです。(ジャックと他の船乗りたちは、これが初めてかどうかよくわからない。)


さて、16巻はここでおしまい。二人の長く困難な航海はここで終わり、次巻はいよいよ本国へ戻ります。故郷でジャックとスティーブンを(特にスティーブンを)待ち受けるものとは…