Chapter 7 〜 リマとランチ


サラとエミリー、リマの大聖堂で洗礼式。スティーブン、サムとペルーの状況について話す

リマの大聖堂で、純白のドレスに青のサッシュを結んだサラとエミリーに、大司教自らが洗礼を施しました。ミサが終わると、スティーブンと女の子たちはサム神父の居室に招かれ、昼食をご馳走になりました。

大聖堂の荘厳な雰囲気に圧倒されたのか、教会前広場の立派な噴水を見せてもらった時も、何を言われても「はい、神父様、はい、サー」としか言わなかった少女たちですが、昼食でワインを飲み、お腹が満たされるとともに、だんだん緊張が解けてきました。

サムの召使のヒポリートが、その気難しい雰囲気といい、何もかも自分のやり方を押し通す頑固さといい、キリックそっくりだったので、二人はクスクス笑い出し、昼食をガツガツと平らげ、食後には回廊を走り回って遊んでいました。

緊張が解けただけではなく、二人は少々酔っ払っていたようです。こんな子供にワイン飲ませていいんか、と思うけど、昼食には当然のようにワインがついてくるんですよね。船では二人は「少年水兵」に格付けされているけど、少年水兵にはまた当然のようにグロッグが配られているけど…二人は飲んでないよね?…どうだろう。

女の子たちが船からの迎えを待つ間、ペルーの状況についてスティーブンに話すサム。

「現在の世論ですが、独立を望む意見はかなり強いものがあります。特に、新しい総督がスペイン生まれの者を優遇する政策を打ち出してからは。奴隷制廃止を望む声もありますが、チリほどではありません。ここにはチリの10倍もの奴隷がいますし、農園は奴隷労働に依存しているので。しかし、影響力のある人物で奴隷制に反対している人もいます。私の同僚にも二人、熱烈な奴隷制廃止論者がいます。一人はオヒギンス司教総代理、もうひとりはゴメス神父−彼はインカの王族の子孫です。お会いになりますか?」

「サム、君たちの信頼に甘えるわけにはいかない。私は奴隷制だけでなく、国家による他国の支配にも反対している。これは当局には、危険思想と見られるかもしれない。君たちに危険が及ぶかもしれないことは十分承知しておいてくれ。」サムは少し微笑んで言いました。「ドクター・ディア、あなたは正直な人だ。フランスの連中とは大違いです。」

スティーブン、キーパーソンのカタロニア系商人ガジョンゴスと話す。

サムと話した後、スティーブンは近くに住むカタロニア系商人、パスクアル・デ・ガジョンゴスに会いに行きました。彼は海運と海上保険を扱う豪商で、ペルー独立派の中心人物。彼の面会予定リストの中でも最重要人物でした。

「長い間、あなたを待っていました。」ガジョンゴスは言いました。「遅刻をお詫びします。しかし、約束の時間から20分遅れただけですが…」「20分のことを言っているのではない。あなたはもっと早い時期に来るはずでした。その間に、ペルーの状況は変わってしまった。今となっては、チリで活動する方がずっと望みがあるでしょう。」

「申し訳ない。我々の目的を、スペイン政府に密告した者がいたのです…」スティーブンは遅れた理由を説明しました。「私としては、当初の指示通り、ここでできるだけの活動を行うしかありません。ここでまた本国の指示を仰いで、半年を無駄にするわけにはゆかない。どのように状況が変わったか、説明していただけますか?」

「まず、我々の味方だった将軍が落馬事故で死にました。味方につけていた高官のムニョスはスペインへ帰ってしまい、カストロという小賢しい、信念のない、日和見主義の男が後任になりました。カストロは隠れユダヤ教徒なので、日和見主義にならざるを得ないのです。奴隷制廃止論者で強力な味方だった大司教は…あのような立派な方を、『年老いた』とは言いたくありませんが…もう頼りにはできません。新任の総督は野心的で、国王に忠実な男です。」

「フランスの諜報機関は?」「活動していますが、彼らの奴隷制存続の立場がネックになって、あまり成果を上げていません。独立主義者の多くが奴隷制反対ですから。それに、彼らにはキーとなる人物を買収する金がない。しかし、若者の中にはまだフランス革命に夢を抱いている者も多いので、油断はできません。」

「陸軍の状況は?」「若い士官たちには、独立の理想を抱いている者が多くいます。将官クラスは権力争いに明け暮れていますが、影響力のある大物の将軍の中に、説得次第で味方につきそうな人がいます。それに、我々には主要部隊をおさえるだけの資力がある。中でもウルタード将軍は有力です。大貴族の出身で、軍内に絶大な影響力を持っています。誇り高い男なので、説得方法には注意しなければなりませんが…彼と狩りに行かれますか?」「もちろん。」

「教会については…大司教がご病気なので、この教区の最重要人物はオヒギンス司教総代理です。彼は完全に我々の味方です。パンダ神父は彼の右腕で、ローマでもたいへん高く評価されています。ゴメス神父はインディオにたいへん尊敬されています。」「全員とお話したい。金曜にウルタード将軍と狩りをしますが、司教総代理が最優先ですね。」「それがいいでしょう。」

スティーブンがこっち方面のお仕事を始めると、人の名前がどんどん出て来てややこしいですね。それにしても、今回は今までにない大仕事です。なにしろ、一つの国を独立させようというのですから…政治活動に聖職者?とも思いますが、当時は人々への影響力も絶大だし、外せないのでしょうね。

フランクリン号、早くも商船を拿捕している。キリック、ジャックの手当てをする

ところ変わって、こちらはペルー西方沖を巡航中のフランクリン号。早速、アメリカの毛皮貿易船を拿捕して漂駐中。

キャビンでは、キリックがドクターの指示通りに、艦長の頭と脚と目の傷を手当てしていました。頭と脚の傷は順調に治っていたのですが、ドクターの心配通り、目の具合が思わしくないようです。

「こりゃあ、ひどい。血まみれのポーチドエッグみたいす。」目の包帯を取ったキリックが言いました。「目薬にグレゴリーを入れましょう。」「グレゴリーって何だ?」「『グレゴリー印の万能水薬』ですよ。」「それはドクターの指示の中にあったのか?」「体液を調節するから、何にでも効くんでさあ。ボンデンの傷だって、きれいに治っちまったじゃないすか。」「それじゃ、少しだけ…」

あ〜あ。結局、ドクターの命令を100%ちゃんと守るわけではないキリック。目薬にそんな変なもの入れて、大丈夫なんだろうか…(それにしても、「血まみれのポーチドエッグ」って表現グロすぎ…)

「グレゴリー印の万能水薬」とは、ジャックも陸ではおなじみの、「体液(humour)を調整する」という触れ込みの市販薬のようです。昔のヨーロッパでは、4つの体液(血液、粘液、胆汁、黒胆汁)のバランスで性格や健康状態が決まると考えられていたのです。物質の4大要素(空気、水、火、土)といい、昔のヨーロッパ人は何でも4つに分けるのが好きみたい。「血液型性格診断」なんて、その頃にあったらウケたかもね。

フランクリン号、総員点呼をする。

その日は日曜日で、久しぶりに総員点呼が行われました。プリングズに代わって副長代理を勤めるヴィダルと、片目が見えない艦長が足を踏み外さないように控えているボンデン(彼も胸に重傷を負ったが、丈夫な彼は船乗り式の治療でさっさと治ってしまった)と共に、フランクリン号を巡回するジャック。

艦長の足元が少しおぼつかないことと、カヤオからプリングズが「追加人員」としてよこした12人の黒人たち(船乗りとしては役に立たない、と言っていたけど、結局他にいなかったらしい)が、いまだに自分たちの状況がつかめずに不安そうにしていることを除けば、いつもの点呼でした。

…艦長とヴィダルが、捕虜たちの部屋を巡回し、そこにいるべき人がいないのに気づくまでは。「ミスタ・デュトゥールはどこだ?誰か、ミスタ・デュトゥールを呼んで来い!」

デュトゥール、カヤオへ逃亡する。

フランクリン号とアラスター号のランチが、徹底的に捜索されましたが、デュトゥールも、その召使も見つかりませんでした。彼のシーチェストとデスクは残されていましたが、ジャックが返してやった財布は消えていました。

乗員たちは誰も、キリックでさえも、デュトゥールを最後に見たのはいつだったか、はっきり憶えていませんでした。なんとなく、気分が悪いか、勉強するためにキャビンにこもっていると思い込んでいたのです。

彼がどうやって逃げたのか−いくつか可能性は考えられましたが、方法はどうでもよく、問題は今現在、彼がカヤオにいるという事実でした。スティーブンは、デュトゥールがカヤオに行くのは「政治的に好ましくないかもしれない」と言っていた…「ミスタ・ヴィダルを呼べ。」

「ヴィダル、ランチがカヤオまで行った時、指揮をとったのは誰だ?」「私ですが。」ヴィダルは、なぜか顔色を変えました。「ランチの性能は?」「は?」「航行性能だ。よく風上へのぼるか?」「はい、性能のいい、その…艇です。」「よし、それではランチを装備しろ。この風だと、間切ってカヤオまで行くのに2、3日かかるだろう。ボンデン、キリック、プライス、ジョンソン…それに、君のところのベンを連れて行く。」

ジャックはヴィダルのとっさの反応から、デュトゥールを逃がしたのはヴィダルだと確信していました。ベン少年(ヴィダルの甥か従弟でニッパードーリングの仲間)を連れて行くことにしたのは、ヴィダルがおかしな真似をしないようにという予防策でした。ヴィダル自身を連れて行く方がよいが、今のフランクリンには、船の指揮を任せられるだけの経験のあるのはヴィダルしかいないので。

「留守の間、指揮を任せる。このまま東風が続けば−おそらく続くだろうが−船をカヤオに近づけるのは無理だ。万一、風が変わったらカヤオに入港しろ。変わらなければチンチャスでランデブーする。詳しくは命令書にして渡す。」

ジャック、スティーブンに警告しようとランチでカヤオへ向かう

これほどの逆風をついて東へ向かうには、横帆(square sail)の船では無理で、風上へのぼりやすい縦帆艤装(fore-and-aft)の船でなければならず、ジャックがスクーナー艤装(縦帆の2本マスト)のランチを選んだのはそのためでした。とにかく彼は、一刻も早くカヤオに上陸したかったので…

実際、このランチは優秀な艇で、ジャックはひどく心配しながらも、舵を取るのを楽しんでいました。しかし、彼が深く感情を動かされている時にはいつもそうであるように、彼はいつもより背が高く、肩幅も広く見え、親しみやすい表情は消えて威厳が増し、めったなことでは萎縮しないキリックでさえ、艇の上で彼の傷の手当てをする時、無駄口を叩かなくなったぐらいでした。

燐光の輝く夜の海で、大きなクジラが潮を吹き、潜るのを見ながら、ジャックは考えに沈んでいました。スティーブンの今の仕事が何か、具体的に知らないし、デュトゥールのようなおしゃべりで軽率な男がどうしてその邪魔になるのかわからない。でも、もしデュトゥールが陸にいることでスティーブンに危険が及ぶなら…ひとつだけ確かなのは、デュトゥールを海に戻すか、それができないならせめてスティーブンを連れ戻すのが、自分の明らかな義務だということだ…

ランチの上でも、もちろんキリックは1日3回きっちりジャックの傷を手当てしています。不思議なことに、ジャックの目はよくなってきていました。「だから言ったでしょう、グレゴリーは効くって。量を倍にしましょう。」キリックは満足そうに言いました。

ランチ、嵐に襲われる

夜明け、6人は網打ちの名手プライスが捕まえた新鮮なアンチョビーを焼いて朝食にしました。「食べられるうちに食べておこう」ジャックは言いました。「今度、いつ温かい食事を…いや、食事を取れるかわからない。ベン、『風こぶ(wind-gall)』を知っているか?」「いいえ…」「風上の『風こぶ』は雨、風下なら荒天。…両方にある。」

「遥か遠く、海とも空ともつかない曖昧な領域に、虹色の、ほぼ楕円形の、伸ばした手で隠せるほどの大きさの場所があった。その色は、時に淡く、時に驚くほど鮮やかに、スペクトルの端から端まで変化していた。」

予期された風は、突然襲ってくるのではなく、6人がランチを荒天に備える間、だんだん強くなってきました。遥か東、水平線に雪をかぶったアンデス山脈が見える方角から、細かい砂の混じった風が吹き寄せ、彼らの口の中に砂が入り込みました。南半球の真夏が近づいていると言うのに、風はひどく冷たく、無蓋のボートに容赦なく吹きつけました。

カヤオ港への目印となる、トドの群れる小島に辿り着いた頃には、もうそれ以上進むのは無理になり、帆を畳んだランチは島の風下でじっと漂駐しました。「明日には吹き止むだろう」という艦長の予測とは裏腹に、嵐は次の日も、その次の日も吹き続け、ついに艦長は、乗員たちの食事を半分に制限せざるを得なくなりました。

強い逆風をついて這うようにわずかに進んでは、海流と風に押し戻される繰り返し。出航して一週間後の日曜日、7回目にトドの島まで吹き戻された時、百戦錬磨の海の男たちの顔からも、笑顔は完全に消えていました。

フランクリン号と拿捕船も、この風でずっと西方沖まで流されてしまっただろう…