Chapter 2 〜 コモンズと囲い込み


スティーブン、ウールコムハウスに泊まり、翌朝ジャックと散歩する

いつも不眠症気味のスティーブンですが、この夜は珍しく、トランプをしながらウトウトしはじめ、早々とベッドにもぐりこんでぐっすり眠りました。早朝に目覚め、ぐっすり眠ったという満足感と、隣で眠るダイアナの寝息と、鳥の鳴き声に包まれて心からリラックスするスティーブン。

ひとのうちでこれほどリラックスするというのもなあ(笑)。そういえば彼、17巻でアッシュグローブでもぐっすり眠ってましたね。ジャックのうちには、彼をリラックスさせる何かがあるのでしょうか。

朝食室に降りると、ジャックが一人で朝食を取っていました。彼はスティーブンを誘い、銃を持って朝の散歩に出かけました。

猟犬を連れて、時々ウサギや鳥を撃ったりしながら、気持ちのいい秋の朝のコモンズ(共有地)の風景を楽しむ二人。「ウールコム・コモンズ」は父の代に「囲い込み」されてしまったのですが、ウールハンプトンには他に「シモンズ・リー(Simmons Lea)」というコモンズがあり、そこはウールコムよりずっと広くて美しく、野生の動物や鳥や牧草に恵まれ、小さな湖もある所で、二人が向かっているのはそこでした。

しかしシモンズ・リーも、近隣の地主たちの間で「囲い込み」の話が進んでいるそうです。

コモンズと囲い込みについて

英国のコモンズ(commons)という概念は、日本の農地制度と全然違うので、理解するのも説明するのもちょっと骨なのですが…なんとかやってみます。

コモンズとは、公共の土地という意味ではなく、実際には誰かが(この場合はジャックと他の何人かの地主)が共同所有している土地です。しかし、伝統的に、その周辺で土地を借りて農業をする人々が、自分の牛や馬に牧草を食べさせたり、魚を釣ったり、必要な薪や材木や屋根のカヤを集めたりする権利を保有していました。(これらの権利を持つ人々をコモナー(commoner)と言う。)

世界史で「囲い込み」を習った時は、単なる共同の牧草地かと思っていたのですが…実際には、その中に森があったり湖があったり川が流れていたりする、広大な自然(人の手の入った自然)なんですね。

狭い土地しか借りていない人々が家畜を飼ったり農業をするのは困難で、コモンズの資源があればこそ生計が成り立っているということがありました。しかし、借地権もコモンズを使用する権利も、ほとんど「先祖代々、なんとなく」継がれてきて、はっきりした契約は結ばれていない場合が多かったのです。

コモンズの所有権をはっきりさせ、きっちり区分けして、牧草地は畑に変え、沼地なんかは排水して、もっと生産性の高い農地にするというのが18〜19世紀の「囲い込み」です。たしかに、今まで個々に農業をやっていたコモナーたちが広く生産性の高い農場に雇われて働くことで、全体として前より豊かになることもあったようです。しかし、それは地主たちが彼らに対して公平であった場合の話。そうでない場合、コモナーは追い出されるか、安い給料で使われてますます貧しくなることも多かったようです。

そういう経済的理由の他にも、「コモンズ」には感情的価値もあったと思います。私は英国人でも農民でもないけど、それは分かるなあ。mere(小さな湖)、lea(草地)、meadow(牧草地)、dell(谷)、fen(沼地)、village green(村の牧草地)などの、よくイギリスの地名についている、コモンズと結びついた美しい単語を読むと、イギリスの美しい村々、人の営みと自然が調和した昔ながらの田園風景が思い浮かぶのです。それに比べて、drain(排水する)、enclose(囲い込む)などの単語の醜悪なこと。

なんか、前巻に続いて講釈たれてますね、私(笑)。まあ、奴隷貿易と違って囲い込みにはメリットもあったみたいで、一概に悪いとも言い切れないようですが…この場合、ジャックもスティーブンも囲い込み反対派なので、私も反対派でゆきます。

「囲い込みの功罪」、という話を読んでいると、最近よく言われている「貿易の不公平」というのを連想します。「囲い込み」を世界レベルにスケールアップすると「グローバリゼーション」になるみたいな。スケールメリットで生産性を上げることで、みんなが得をするはずなのに、実際には金持ちはより金持ちに、貧しい人はより貧しくなる、という話。いや、別に私、反グローバリゼーション活動家じゃないですけど。

ジャック、囲い込みの話をする

「ほら、ちょうどあそこをポニーに乗って通るグリフィスが、囲い込み推進の中心人物だ。海軍の艦長だが、以前、艦に反乱が起こりそうになり、任務をいくつか拒否して、以来ずっと陸にいる。この近くに土地をたくさん持っていて、農場経営の方が好きらしい。しかし…偏見かもしれないが、流刑地式のやり方で見かけだけ規律を保っている艦と、全員が進んで自分の仕事をする真に規律のいい艦との区別がつかない男に、うまくいっている農場と、流刑植民地のような農場の違いが分かるはずはない。…ごきげんよう、サー。」ジャックはグリフィスに挨拶しました。グリフィスはにこりともせずに挨拶を返し、歩み去りました。

囲い込みをするかしないかは、地主の多数決(人数ではなく、そのコモンズに対する権利の所有割合の多数決)で決まるようです。権利の半分以上の持ち主が賛成なら、下院での委員会の開催を申請し、その委員会が許可したら、囲い込みが成立。この場合、グリフィスたち賛成派が持つシェアは半分を超えているので、このままでは許可されてしまいます。

「おれたちがアフリカ沖でうだっている間に、グリフィスたちは賛成票を集めて下院に請願書を出してしまった。もうすぐ委員会だ。普通なら許可されるが、阻止するつもりだ。」「どうやって?」「おれの地位によって。」「グリフィスは君より先任の勅任艦長じゃなかったか?」「そうだが、彼は荘園領主(Lord of the Manor)じゃない。」「領主?そんな権限がまだ存在するのか?大昔のことかと思っていた。」

「それは、昔と違って実際の権力はほとんどないが、荘園領主には今でも一定の権威がある。そりゃ、村人の結婚初夜に花嫁と寝たりはしないけど、ディッピング・パンの祭の開催を宣言するのも、フットボールのシーズン最初の球を蹴るのも、クリケットの最初の球を投げるのもおれだ…海に出ていない時は。」(始球式ですね。)

「君がさっき言った『一人一票』というのは、民主主義っぽくないか?」「ああ、おれは大きな規模での民主主義はナンセンスだと思っている。しかし、人を絞首刑にするかどうか決める時、陪審員は一人一票だ。囲い込みも命に関わることなんだ。グリフィスたちが父を説得してウールコムを囲い込みさせた後、海から帰って来て初めて気づいた。シモンズ・リーほどじゃないが、ウールコムもいい所だった。それが切り開かれて、平地にならされ、湿地は排水され、柵で囲まれて…小さな農家は潰れ、コモナーたちは収入も人生の喜びも半減して、子供の頃一緒に遊んだ少年たちが、農場主に頭が上がらないみじめな雇われ労働者になっているのを見るのは辛かった。シモンズ・リーは、絶対にそんなことにはさせない。昔ながらの生活には欠点もあるが、ここでは…おれは自分のよく知っていることしか言わないが…少なくともここでは、それが人間らしい暮らしだったんだ。みんな、この暮らしに骨の髄まで馴染んでいるんだ。」

「僕も心から賛成だ。」スティーブンは言いました。

スティーブン、愛馬のララを見つける。子供たち、速達が来たことを知らせに来る

コモンズの牧草地で、スティーブンの愛馬のララが、友だちのヤギと一緒に草を食んでいました。彼を見つけて、喜んで駆けて来たかと思うと、肩に頭を乗せて、愛情をこめて顔をスリスリするララ。

ララとヤギを連れて家に向かいながら、ジャックは話を続けました。「借地契約書を持っているコモナーが、土地の取り分をもらえることもあるが、ほとんどの場合は家畜を飼うには狭すぎるし、囲い込みの費用分担を求められることもあって、たいていは払えなくて二束三文で売ってしまう。借地人に配慮して囲い込みをする人もいるが、グリフィスたちはそうじゃない。得られるだけ得て、雇い人が『ナマイキになる』ことを避けたいと思っている…コモンズがなくなれば、生意気さもなくなると思っている。」

まずいことに、グリフィスの伯父のストランラー卿は、ブレスト封鎖艦隊を率いる提督…つまり、ジャックの上官なのでした。ジャックは今、「議会出席のため」の休暇中なのですが、今にも呼び戻されそうです。

二人がそんなことを話しながら歩いていると、ジョージが近くの藪から飛び出してきました。すぐ後にブリジッドがついて来ています。「サー!プリマスから速達が来ています。カズン・ダイアナが持って来ます。」「パパ!湯気の出ている馬に乗った人が来て、すごくのどがかわいていて、手紙を持っていたの。ママが大きな馬車で持ってくるわ。わたしたち、いけがきとハリエニシダをくぐって来たの。」

「馬車が来る!おお、パパ・ディア、パディーンと上に乗っていい?」ブリジッドは遠くの鳥に気を取られている父親の上着のすそを引っ張って言いました。「ママがいいと言ったらね。ママが馬車の『マスター・アンド・コマンダー』だ。

「マスター」も「コマンダー」も、海軍的には「キャプテン」より下の職位・階級を表しますが、一般人にすればやっぱり、マスターは「主人」、コマンダーは「指揮官」。くっつけると「主人にして指揮官」という、男らしく勇ましいイメージです。(映画の題が「マスター・アンド・コマンダー」なのは、そういう理由かと。)スティーブンも、そういう意味でいったのかな(笑)?

大きな通りに出ると馬車がいて、ダイアナが手紙を振っていました。「ジャック、速達よ。ブリジッド、この手紙をあなたの従兄に渡してあげて。」「サー、わたしのイトコなんですか?」ブリジッドはジャックに言いました。「とってもうれしいわ。」

正確には、ブリジッドにとってジャックは「母のイトコの配偶者」という関係。ブリジッドとジョージはsecond cousin(またいとこ)、ジョージとダイアナはfirst cousin once removed(いとこの子 or 親のいとこ)−英語だとみんなまとめてcousinになるのよね。日本語では「いとこ」をあまり呼びかけの言葉としては使いませんが…「Cousin Diana」を「ダイアナおばさん」なんて訳したら、本人怒りそうだからなあ(笑)。

ヘニッジ・ダンダスとフィリップ、ウールコムハウスに来る

速達はヘニッジ・ダンダスからでした。ベレニス号が商船と衝突してマストが折れてしまったので、ドック入りする間、フィリップを連れて訪ねて来るそうです。ジャックは喜びますが、またも急なお客とあって、ソフィーは内心ため息。

ヘニッジとフィリップが来たのと同じ日に、ダイアナに馬を貸しているチャムリー大佐が来ました。大佐は、これから所用で旅行するので引き続き馬たちを預かっていてほしいとダイアナに頼み、すぐに帰るのですが…それでも女性たちには、彼がダイアナをこの上なく賛美しているのが分かりました。

オーブリー家とマチュリン家とクラリッサとダンダス、ウールコムハウスで楽しい休暇を過ごす

それからの日々、ダンダスとジャックは狩りをしながら、尽きない海軍の話に花を咲かせました。二人はスティーブンも誘いましたが、必要以外の狩りを好まない彼はめったに行かず、生来の性格に合った一人の時間を楽しんでいました。

このあたりには珍しい鳥も多く、珍種のトガリネズミもいるので、例によって観察と標本採集にいそしむ彼ですが…トガリネズミをとっかかりにして娘に動植物の観察を教えるという試みは、今のところ失敗に終わっていました。なにしろ、ブリジッドとジョージの二人はフィリップお兄ちゃん(ほんとは叔父さんだけど)に夢中で、あまり父には付き合ってくれなかったので。

まあ、しょうがないですね…小さな子供というのは、大人より中学生ぐらいの「お兄ちゃん」に遊んでもらうのが一番嬉しいものだから。それに、フィリップはここで生まれ育ったので、このだだっ広い屋敷を知り尽くしていて、いろいろな部屋に探検に連れて行ってくれたり、納屋にロープを張ってシュラウドの登り方を教えてくれたり、ブランコを高く押してくれたり、ファイブスを指導してくれたり…たしかにトガリネズミを観察するより楽しそうです。

ダイアナはといえば、もちろんドライブ三昧で、時々みんなを連れて町へ行きましたが、馬が嫌いなソフィーはあまり参加しませんでした。スティーブンが一緒に行くこともありましたが、たいがいはクラリッサと一緒に行っていました。

トガリネズミの魅力に気づくにはブリジッドはまだ若すぎる、と諦めたスティーブンは、たいがい一人で自然観察に出かけていました。コモンズを歩いた後、村に3軒あるパブのうち2軒に順番に寄るのが、彼の習慣になっていました。(もう一つはグリフィスの雇い人や借地人が贔屓にしている店なので行かない。)

パブで会う村人たちは、彼に親切でした。彼は「キャプテン・ジャック」の友だちだし、時々病人を診てくれるので…村人たちはもちろんシモンズ・リーの囲い込みに大反対。グリフィス一派とは対立していて、「われらの味方キャプテン・ジャック」を熱烈に支持しています。「うす汚ねえ暮らしですが、仕事を恵んでくれと農場主にヘコヘコして回るよりマシです。コモンズがあれば、少なくとも半分は独立した人間ですが、なけりゃ農場主の犬です。だからおれたちはキャプテン・ジャックが好きなんです。」彼らの一人が言いました。

委員会の開催日が近づくにつて、村の「キャプテン・ジャック派」と「グリフィス派」の対立は高まり、ある日、グリフィス派の溜まり場のパブにボンデンたちが入ろうとしたら、手荒に追い出され、ケンカ騒ぎになるという事件が起きました。ちょうどジャックが通りかかり、「こんなところで騒ぎを起こすな、決着をつけたいならちゃんとした拳闘試合をしろ」と、その場をおさめたのですが…

そういうわけで、ボンデンとグリフィス派の代表が拳闘試合をすることになったのでした。