Chapter 3-1 〜 拳闘試合


ボンデン、スティーブンに拳闘のルールについて説明する

拳闘試合の日が近づいて、「こぶしを硬くするために」、酢やら酒やらを混ぜたものに浸けているボンデンに、スティーブンが「今はグローブをするものだと思っていたが」と言うと、「紳士に教えるときはそうです。でも、本物の拳闘試合ではグローブなんてしません。」とボンデンは笑いました。「本物の拳闘試合は、以前から見てみたいと思っていた。どういうふうに行われるか、教えてくれないか。」

以下、ボンデンの話から、当時の拳闘試合(mill)と現代のボクシングの違いについて説明します。

目を突いたり、蹴ったり、ベルトの下を打ったりしてはいけないということは現代と同じですが、大きく違うのは、グローブをしないことのほかに、ラウンドと試合の終わりかたのようです。

ボクシングではラウンドは2分か3分に決まっていますが、当時の拳闘では、時間ではなく「どちらかがダウンした時」に終わります。(つまり、ダウンしなければ延々と続く。)そして試合自体も、4ラウンドとか15ラウンドとかあらかじめ決まっているわけではなく、終わるのは「次のラウンドの始まりに、どちらかがリングの中心の『スクラッチ』と呼ばれる位置に来て立つ事ができなくなるまで」というルール。ボクシングで言えば「判定」はなく、KOまたはTKOのみ…ですね。

したがって試合時間は、理論的には、野球やクリケットのように「永遠に」続くこともありうるわけですが、ボンデンによれば、どちらかが新人なら3〜4ラウンド、15分ぐらいで片がつくことが多いそうです。しかし、プロの拳闘士で、大金がかかっているとか、遺恨試合とかになると、とてつもなく長くかかることもあり、ボンデン自身、地中海艦隊のチャンピオンシップでは68ラウンド(!)1時間26分を戦ってチャンピオンになったそうです。うーん、よく死なないものだ。(実際、死ぬことも多かったのでしょう。グローブと時間制限のある現代のボクシングだって死ぬことがあるぐらいですから…)

「バレット・ボンデン、おどろいたよ。剣で戦う時のように、5分か10分で終わるものだと思っていた。」スティーブンは言いました。

それから、相手の髪の毛をつかむことは禁止されていなかったようです。なので、ほとんどの拳闘士はつかまれないように髪を短く刈り込んでいるのですが、ボンデンは10年以上伸ばしている自慢のピグテイルを切る気はなく、まとめて頭に巻いて、キリックに包帯でがっちりおさえてもらうと言っています。

ブリジッド、ジョージに鼻血を出させる

そこへ、ブリジッドがあわてた様子で駆け込んで来ました。「パパ!はやく来て!ジョージが血だらけになっちゃった!」彼女はアイルランド語で、「拳拳闘士のマネをしてちょっと押しただけなのに…」と言いました。「ああ、ジョージが死んじゃったらどうしよう…」

二人が戻ると、ダイアナが言いました。「ブリジッド、そんなに心配しなくても大丈夫よ。ちょっと鼻血が出ただけよ。シャツを脱がせて水につけたから大丈夫−血には冷水よ、覚えておきなさい。ジョージは台所でシラバブを食べているわ。スティーブン、ジャックが怒っていたわよ。一緒に湖へ行くんじゃなかったの?」「すっかり忘れていた。ありがとう」

英語では、人に鼻血を出させることを「彼の赤ワインをこぼす(tap his claret)」と言うのですね。はじめ読んだ時、ジョージがワイン飲んでいるのかと思った。それにしてもブリジッドちゃん、「拳闘士の真似をしてちょっと押しただけ」で、どうやったら鼻血が出るんだろう。(なんか、この二人の将来を表しているような…<妄想。)

そしてダイアナ、ちょっとだけ母親らしくなってます。しかし、そんなこと教えるにはちょっと早いんじゃないだろうか…

ジャック、囲い込みの委員会に出席できなくなることを怖れている

シモンズ・リーの湖へ朝の散歩に出かけた二人は、途中でグリフィスに会いました。「艦隊から連絡はありましたか?」と、意味ありげに質問するグリフィス。ボンデンの拳闘試合のこと、囲い込みの委員会のことをさりげなく話題にして、両方について「出席しますか?」と訊くのですが、 ジャックは警戒して、はっきり答えませんでした。

数日後の朝、また湖に来た時、「何かあって、委員会に出席できなくなることを怖れている」と、ジャックはスティーブンに言いました。委員会は二日後の金曜日に迫っていて、ジャックは今日の夜、ボンデンの試合を見た後にロンドンへ出発する予定。何かのアクシデントで、彼が委員会に出席できなければ、シモンズ・リーの囲い込みは確実になってしまうので…

「この囲い込みには、人が悪事も辞さないような大金がかかっているのか?」スティーブンが訊きました。「大金以上のものがかかっている。ここで大きな農園を持ち、多くの借地人や労働者を抱えるとなると、地域全体を自分の意のままに動かせる。地主は軍艦の艦長と同じぐらいの独裁者で、しかも艦長のような危険や責任はない。…それに、囲い込みをして農地の生産性を上げるのが国のためだと考えている人もいる。」「ストランラー提督は、結果が国のためになるのならルールを曲げるのをいとわない人か?」「提督のことは、それほどよく知らないので分からない。」

ジャックたち、ボンデンの試合を見に行く

その日、早めのディナーの後、男たち(ジャック、スティーブン、ヘニッジ、フィリップ)は「ディッピング・パン」と呼ばれる広場にボンデンの拳闘試合を見に行きました。(ここで言う男たち(men)にはフィリップも入っています。彼は14歳ぐらいだけど、艦に乗った時点から大人だものね。ジョージはさすがにまだ子供(boy)なので、入っていません。)

4人が行ってしまった後、居間に残されたレディース。ダイアナが「男って、本当に拳闘が好きね。」と言いました。「スティーブンが海に出ている間滞在させてもらっていたヴィリャズ大佐も、もう弱々しい老人なのに、有名な拳闘士の試合があると40マイルも馬車で出かけていたわ。」

「40マイルは遠いわね。でも…」とソフィー。「今夜から明日、ジャックが行かなければならない距離を思うと…早く終わってくれればいいと思うわ。」長旅が控えているのに拳闘なんか見て、疲れなければいいけど、とソフィーは心配しているのですね。

「郵便馬車に乗っているだけよ。」とダイアナ。「羽根椅子はついていないかもしれないけれど。ちなみに、私は羽根椅子は大嫌い。オシリの下には固いものがないと。」「ダイったら!」ソフィーは赤くなり、心配そうにクラリッサを見ました。

当時の上流婦人にとっては、お尻(bottom)と言うだけで、たいへんお下品だったのですね。でも、じゃあ何て言えばいいんだ?…そういえば(関係ないけど)、私が中学生ぐらいの時に、「オシリ」という言葉がどうしても恥ずかしくて言えないのに「ケツ」は平気な女の子がいましたっけ。まさかソフィーが「ケツ(英語ならArse)」なんて言うはずないけどね。

もちろん、オシリでもケツでも、クラリッサが動じるわけもなく、平気な顔で針仕事を続けていました。

ジャックに至急帰艦命令が来る。ダイアナ、機転を利かせる

女たちがそんな話をしていると、ウールコムハウスの中庭に馬車が来ました。乗っているのは、ベローナ号のテンダー、リングル号の士官候補生キャラハン。ソフィーは普段着に着替えてしまっていたので、5分ほどダイアナに相手をしておいてほしいと頼んで、急いで着替えに行きました。

「ミスタ・キャラハン、こんばんは。」「こんばんは、奥様。オーブリー艦長に命令書をお持ちしました。すぐに艦へ戻るようにという命令です。トーベイでリングル号がお待ちしております。」

「まあ、残念だけど、オーブリー艦長は大事な政府のお仕事でロンドンへ出かけていらっしゃるの。その包みを私に下さいな。戻られたらすぐにお渡しますわ。さあ、一刻も早くリングル号へお戻りになった方がよろしいわよ。」

戸惑い顔のキャラハンが、追っ払われるように馬車で去った後、ソフィーが出てきました。「ダイアナ、どうしてあんなことを?ジャックは拳闘を見に行っただけよ。」「ソフィー、すぐに艦に戻るようにという命令なのよ。委員会に出席できなくなって、コモンズを失うことになったらジャックは悲しむわ。」「でも、嘘をついたと知ったら…」「今すぐ、ジャックに伝言するのよ。家に帰らずに街へ行って、そこで馬車を雇って直接ロンドンへ向かうように。」

「でも、伝言を持って行く人がいないわ。男の召使は全員、拳闘を見に行ってしまったし、女の子をやるわけにいかないわ。乱暴な連中やジプシーがうろうろしているし、パブは早朝からビールの大盤振る舞いをしているのよ。」

「私が行きます。」クラリッサが言いました。「あなた方が行くより目立たないでしょう。誰か見つけて、ドクターを呼んでもらいます。」

ソフィーは反対しましたが、しばらくして、他に手はないと悟り、承知しました。「せめてグリム(犬)を連れて行ってね。あの乱暴な男たちが怖くないの?」「全然。腕力を別にすれば、男が女より怖いということはありません。それに、『牡犬は牝犬を噛まない』というルールもあります。私たちの方には、そんなルールはありませんから。」

クラリッサって怖い…怖くてカッコいい。男の頭をニ連猟銃で吹っ飛ばした過去を持つ女(ソフィーは知らないけど)の言葉だと思うと、しみじみ重みがありますね。

ボンデンたちの拳闘試合、五分五分の死闘になる

さて。その頃ディッピング・パンでは、ボンデンと、グリフィス側の代表エヴァンスが拳闘試合をしていました。草地の上にロープを張っただけのリングを取り囲む両サイドの応援団は、声をからして声援を送っています。

二人の体格はほぼ互角、ボンデンの方が少し背が高く、エヴァンスの方が少し横幅が広いという感じでした。二人ともケンカにはなれている、筋骨逞しい大男でしたが、拳闘に関してはプロというわけではないので、双方ともトレーニング不足がだんだんこたえてきます。

当時の拳闘というのは、ベルト下を打ってはいけない、目をついてはいけないというルールはあるけれど、相手を投げたり、引っ張って倒したり、そのうえに(偶然を装って)倒れこんだり、ということはあるそうで。…まあ、ボクシングにプロレスを混ぜたようなものか?

二人は、ほぼ互角に死闘を繰り広げ、双方ヨレヨレ、血まみれ。40分を経過する頃には、どちらもほぼ限界だったのですが…ある時、エヴァンスがボンデンをロープに追い詰めて、運の悪いことに、そこでボンデンの自慢のピグテイルをまとめていた紐が切れました。(包帯は許可されなかったので紐で巻いていた。)エヴァンスはピグテイルを両手で掴み、コーナーポストに彼を叩きつけ、直後に自分も倒れました。

次のラウンド開始が告げられた時、エヴァンスはなんとかスクラッチまで来ることができたのですが、ボンデンは完全に意識を失ったままでした。エヴァンスの勝利が告げられ、ボンデンの応援団からは「反則だ!」という罵声が飛び、あちこちで小競り合いが始まっています。

「大丈夫、脳震盪は起こしているが、頭蓋骨折はしていない。」ボンデンを診察したスティーブンは言いました。「しばらく昏睡状態が続くかもしれないが…早く家に連れて帰って、暗いところに寝かせないと。」

キリックたちが担架を持ってきて、彼をゆっくり運びながら、ジャックたちは喧嘩をはじめた群集を後にウールコムハウスへ向かいました。スティーブンは訊きました。「あれは反則じゃないのか?」「反則ではない。かろうじて、だが…」ダンダスが答えました。「あれはミセス・オークスじゃないのか?」ダンダスが、大きな犬を連れて歩いてくる彼女を見つけました。

ミセス・オークス、スティーブンたちに事情を知らせる。ジャック、家に戻らず直接ロンドンへ出発する

彼女の挙動から、諜報員の本能が目覚めて「何かあったのだ」と悟ったスティーブンは、呼ばれる前に彼女のところへ行きました。彼女は簡潔に状況を説明しました。

スティーブンはジャックに向かって叫びました。「ジャック、ジャッド氏と君が予約した馬車は、手違いでウールトンへ行ってしまったそうだ。ジャッド氏は君にすぐ来て欲しいそうだ。」

ジャックは普段、決して遠回しなヒントに鋭い方ではないのですが…スティーブンのことは誰より理解しているので、彼の顔から「何かあった」と言うことを、たちまち悟りました。「何てこった。すぐ行く。」ジャックは調子を合わせて言いました。「ミセス・オークス、知らせに来てくれてありがとう。ソフィーによろしく伝えてくれ。」

馬車を拾うために村の中心部へ向かうジャックに、スティーブンは少しだけついて行って、歩きながら事情を説明しました。「ダイアナは素晴らしい女性だ。」ジャックは言いました。「ミセス・オークスも。…ソフィーだって、時間をかければ、同じ事を思いついていたと思うよ。彼女はしっかりしているし、度胸がないわけじゃないんだ。でも、ダイアナほど回転が速くないんだな。委員会に出席できなくてコモンズを失ってしまったら、大変なことだ。それに比べたら、今の戦況でブレストの封鎖に3〜4日遅れても…

「それにしても、こんなに悪い前兆(ボンデンが負けたこと)がなければよかったのになあ。ボンデンは大丈夫なのか?」「ああ。」「よかった。もうひとつだけ…ストランラー提督は、おれを委員会に出席させないために帰艦命令を出したのだと思うか?」「グリフィスならやりそうなことだが、提督には会ったことがないから何とも言えない。」「そうだな。それでは金曜日に会おう。」「神と聖パトリックの祝福を。」

機転と度胸ですっかり株を上げたダイアナとクラリッサ。でも、ジャックがソフィーをかばって、持ち上げているのが可愛い(笑)。