Chapter 4 〜 ブレスト封鎖艦隊


トーベイに着いたジャックたち、リングル号を見つけて艦隊へ向かう

その翌日の朝早く、ダイアナの馬車はトーベイに着きましたが、残念ながら、ブレスト封鎖艦隊に向かう船は夜明けの潮で出てしまったばかりでした。ジャックとダンダスは艦隊に向かう艦を探し回るのですが、なじみのシップメイトはそこら中をうろうろしているものの、交通手段は見つからず。

もう今日はここに泊まるしかないと諦めかけたところで、小奇麗なレストランで女の子と食事しているリングル号のキャラハン士官候補生を見つけます。「できるだけ早く戻れ」という命令を無視して、デートのために出航を遅らせていたのです。艦長に見つかってしまったキャラハンはうろたえて弁解しようとしますが、ジャックはみなまで言わせず、すぐに出航準備をさせるのでした。

ジャックとスティーブンとキリックとボンデンを乗せたリングル号は、朝の引き潮の終わりを捕まえて、大慌てで出航しました。

「ダイアナが帰り道にヘニッジをあまりいじめないといいなあ。」その夜、ジャックがスティーブンに言いました。「そうは見えないだろうが、あれで繊細なやつで、けなされるととても気に病むんだ。いちど父親に『この恥知らずの色狂いのごくつぶしの放蕩者』と呼ばれた時は、その夜いっぱい落ち込んでいたよ。」(そこまで言われて一晩しか落ち込まないって、到底繊細とはいえないんじゃないかな。しかし、ヘンさんって…)

「ダイアナは人を道徳的に非難したりしない。彼女が嫌うのは、男でも女でも、退屈な人間−それと、スタイルのない人間だ。」「でも、彼女の操縦を批判したり、自分がやるほうがいいとか言ったら…」「そんなに馬鹿ではないだろう。」「でも、おれが橋のことを言ったとき…」「あれは、ひどくわざとらしくて、遠回しで、如才ない言い方だった。天使でも怒っただろう。ジャック、ぼくの記憶がもっと良ければ、敬愛するジェフリー・チョーサーの詩を君に暗唱してやるんだが。女性というものは、煮えたぎるような欲望−支配したいというあくなき欲望を持っているいう詩だ。他に、彼は結婚の悲惨さについての詩も書いている…」

しかし、彼がそう言った時には、ジャックはもうすやすやと寝てしまっていました。

たしか、ここだけじゃなくて他の巻にもあったと思いますが、スティーブンがジェフリー・チョーサーの話をするのを読むと、「ロック・ユー!」を思い出して、思わずにやにやしてしまいます。チョーサーが実際に「ロック・ユー!」で描かれたような人だったかどうかは分かりませんが(いや、まあ、絶対に違うとは思うけど)、上記のスティーブンの引用は、ポールが演じたチョーサーが書きそうなことだなあと。

リングル号、艦隊に到着。ボンデン、ジャックとスティーブンを旗艦に送る

ジャックは夜通しぐっすり眠り、翌朝の夜明けに起こされた時には、艦隊が視界に入っていました。リングル号は艦隊に到着し、さっそく、ジャックとスティーブンは旗艦のクイーン・シャーロット号に呼び出されました。

そのままリングル号で旗艦に乗り付けてもよさそうなもんですが、艦長たるもの、ちゃんと形式にのって自艦から自艦のバージ(艦長艇)に乗って出頭しなければならないようなので、リングル号はシャーロット号の横を素通りして、ベローナ号へ向かいました。「ボンデンはバージの指揮を取れるかな?」ジャックがスティーブンに訊きました。「多分。10分くれるか?」

その10分の間に、スティーブンはボンデンを診察しました。「気分はどうだ?」「まあまあってとこです。ありがとうございます。」スティーブンは、髪を剃った頭の、まだ痛々しい傷を診ました。

「運が悪かったな。」「まったくです。おれのピグテイルは海軍一だったのに…でも、これでケツにシワが増えました。」「バージを旗艦まで指揮できるか?」「もちろんっす。艦長を艇長なしで行かせるんすか?とんでもねえ。」「ケツに皺っていうのは、どういう意味だい?」「セブンダイアルズ(ロンドンの下町)ではみんな、ひとつ賢くなるたびにケツにシワが増えるって言うんですよ。ディッピング・パンでおれは、あんな倒れ方をするぐらいなら丸ハゲの方がマシだって学びました。シワができても、甲斐があるってもんです。」

それ、「脳みそにシワ」ではないのかな…?私らが子供の頃には、「脳みそにシワの多い人ほど賢い」とか言っていたものですが、最近はあまり聞きませんね。

ベローナに戻って数分もしないうちに、ジャックとスティーブンは慌しくバージに乗り込み、包帯の上から自分の髪で作ったカツラをつけたボンデンは、立派に二人を旗艦に送り届けました。

ジャックとスティーブン、旗艦に出頭する。スティーブン、シャーロット号の軍医に相談する

ジャックの後から、ボンデンの無言の指示をうけた水兵に助けられて、何とかみっともなくない上がり方をしたスティーブンは、シャーロット号の軍医に挨拶しました。「ミスタ・シャーマン、お会いできて幸いです。あなたの論文を興味深く読んでいたところです。それに、ご意見を伺いたい症例があるのです。」

実はこのシャーマン軍医、傷を治すためにウジを利用するという研究をしている人だそうです。スティーブンは大いに興味を持っているようですが、シャーロット号のシップメイトたちはこの話を嫌がっているようです。まあ、気持ちはわかるけどね。

何でこの話を書いたかというと、映画「グラディエーター」に、肩の深い傷にたかるウジを払おうとしたマキシマスに、後で剣闘士仲間になるジュバが「ウジは傷をきれいにするから放っておけ」と言うシーンがあったからです。19世紀に研究している人がいたということは、あれはけっこう科学的根拠があったのかな。まあ、詳しくはあんまり調べる気にならないのですが。(私ほんと、虫ネタ駄目なんです…だったら書くなって。)

「チョーサー」と「傷にウジ」で、ポールとラッセルの「他の映画ネタ」を並べてみたかっただけです(笑)。

水兵のメンタルヘルスにも詳しいシャーマン軍医にスティーブンがボンデンの症状を相談している間に、ジャックはストランラー提督の前に出頭しました。

ストランラー提督、囲い込みが失敗したことを知ってジャックにイヤミを言う

「オーブリー、いったいどういうわけで、これほど遅くなったのだ?」提督は不機嫌にジャックを迎えましたが、ジャックが委員会に出席し、その結果囲い込みが不許可になったことを聞くと、ますます不機嫌になりました。

「軍務の話に戻ろう。君が国会出席のためにしょっちゅう艦を空けるために、ベローナ号の規律は緩みきっとる。元々、規律も能力も高いとは言えない艦だったが、今や簡単な操船さえ失敗する始末だ。代理艦長のジェンキンズが、操船技術にかけては自分の祖母にも劣ることは知っているが、士官たちは君が選んだのだろう。君自身にしても、優れた船乗りだと言う人間はいないだろうが、少なくとも今までは実際に艦を動かすことのできる部下に恵まれていた。その運にも見放されたようだな。

「自艦をその目で見れば、いくら君でも分かるだろう。そこらじゅうアイリッシュ・ペナント(端止めしていないほつれた索)だらけ、ヘッドからは悪臭が漂っている。しかし、君はその方が好きなのかもしれんな。ベローナは沿岸艦隊へやることにした。あの浅瀬だらけの難しい水路を往復すれば、少しは学ぶところがあるだろう。それに、ブレスト港のフランス艦隊が君の艦を見たら、与し易しとみて出てくるかもしれん。…ところで、君の軍医はドクター・マチュリンと言ったな。会いたいと伝えてくれ。」

やっぱり思った通り、ストランラー提督はジャックが委員会に出席できないように呼び戻したようですね。たとえ敵であっても、ジャックを嫌っている人でも、彼が優れた船乗りでないと言う人こそめったにいないと思いますが。提督もそれは百も承知で、ただ囲い込みで儲け損ねた腹立ち紛れに、イヤミを言いたかったのでしょう。ジャックは、あっぱれな自制心を発揮して、ただ黙って聞いていました。

ストランラー提督、スティーブンに囲い込みの利点を説いてオーブリーを説得してくれるよう頼み、また心臓の不調を相談する

「ドクター・マチュリン、再びお目にかかれて幸いです。バースにウィリアム王子を見舞った時お会いしましたが、憶えていらっしゃらないでしょうな。あの時、私はひどい胸の痛みに襲われて、そのまま死ぬのかと思いましたが、あなたがくれた薬でたちまち治まりました。王子は『このドクター・マチュリンは潮が引く前ならどんな患者でも治せる』とおっしゃった。お呼びしたのは、ひとつにはあの時の薬をうちの軍医に教えてやってほしいからです。今でも時々痛みがくるのですが、無知なシャーマンは何もできないのです。」

「ミロード(卿)、シャーマン氏は非常に優れた医学者です。船乗りの精神については誰よりも詳しく、王の治療に呼ばれたことも…」「ああ、精神科医として有名なことは知っている。しかし、肉体的な痛みを治せないのなら、何の役に立ちましょう?私も部下たちも、精神は何ともない。

「それから、あなたはオーブリー艦長とは親しいのですよね。あなたのような知性と教養あふれる方なら、オーブリーに多大な影響を与えていることと思いますが…」「オーブリー艦長は、私をはるかに凌ぐ知性をお持ちです。ロイヤル・ソサエティで論文を読んだ時は、数学者や天文学者の喝采を…」「お呼びしたもうひとつの理由と言うのが、実は、囲い込みのことなのです。」

ジャックの知性の話はあっさり無視した提督は、囲い込みの利点について演説を始めました。囲い込みがいかに国全体の農業の生産性を上げるか、戦争中の国にとってそれがいかに重要か、この戦争はもうすぐ終わりそうだが、外国人は信用できないからいつまた戦争になるかわからない、今のシステムでは軍隊と国民を養うだけの農産物を産出できない、戦時には感傷は無用だ、勝利は素晴らしいことだが、戦争が終われば指揮艦は払底し、海軍士官がどんなに不安定な立場になるか、そういう時には有力者の友人がどんなに役に立つか、などなど…

とても長くて、まわりくどく、ところどころ矛盾した演説でしたが、要は囲い込みに賛成するよう、ドクターからオーブリーを説得してくれないか?というムダなお願いなのでした。スティーブンは、はっきり返事を求められてはいないのを幸い、ただ黙って聞いていました。

ジャックとスティーブン、「イエロー・アドミラル」について話す

その夜、ベローナ号のグレートキャビンで、スティーブンはジャックに言いました。「提督に何も言い返さなかった君の自制心には感服するよ。」

「海軍に入って最初に学ぶことは、上官には何を言っても無駄どころか、こちらの損にしかならないということだ。言い返せない相手を罵るのは卑怯なことだが、囲い込みのことがよっぽど腹に据えかねたのだろう。」「そうだな。」

「ジャック、提督は将来のことについて、遠回しに何か言っていた…それは、君が前に言っていた『黄色提督』の話と繋がるようだ。どういうことか、もういちど説明してくれないか?」

ここでもう一度、イエロー・アドミラルのついての説明が出てくるのですが、何度も書いたので省略。17巻の1章を見て下さい。

「…これを『イエロード(黄色くされる)』と言う。そうなったら、海軍士官は不幸なまま死ぬしかないんだ。」「しかし、君は勅任艦長リストのトップに行くまで、まだ何年もあるのだろう?まだその心配をしなくてもいいんじゃないか?」「そうだが、その数年間が問題なんだ。その間に海軍省がゆっくり決断する。この間に手柄を立てるか、何よりまずい事をしないのが肝心だ。特に今は、戦争が終わりそうな時期だから、指揮艦はとても貴重だ。スティーブン、おれはどんなに小さい艦でも、4ポンド砲2門と旋回砲しか載せていないスループ艦のモスキート号でも、ミズンに青い旗を掲げることさえできたら、喜んで指揮する。そのためには何でもするよ。」

「『何でも』には、シモンズ・リーを諦めることも含まれるのかい?」「もちろん含まれない。なんてことを言うんだ、スティーブン。」「もしその懸念が現実になっても、君の海でのキャリアが終わるわけじゃない。ぼくはチリに何人か友人がいる。チリが独立したら、海軍を指導してくれる経験ある指揮官が必要だ。…ところで、月のない夜はいつか分かるか?上陸しなければならない用事がある。」

スループ艦モスキート号というのは、「とても小さい艦」というジャックの喩えかと思っていたのですが、本当にそういう艦があったそうですね。スパロー(すずめ)号でも、かなり変だと思ったのに、モスキート(蚊)号とは…あんまり乗りたくない。

しばらくしてから、ジャックが訊きました。「そのチリの人たちというのは、どのぐらい本気なんだ?」「この上ないほど本気だ。オヒギンズ(※)とその友人たちに近い人々で、独立に献身している。」

「月のない夜は8日後だ。」

※ベルナルド・オヒギンズ(Bernardo O'Higgins):1778-1842.アイルランド人の父と先住民の母を持つチリの軍人、独立活動家。1818年にスペインとの戦いに勝利しチリを独立させた「チリの解放者」で初代の元首となったが、1823年に保守派のクーデーターによりペルーに亡命した。