Chapter 5 〜 オーボエと少年


ブレスト封鎖の沿岸艦隊に加わったベローナ号。ウェリントン将軍が陸で勝利を収めるまでフランス艦隊をブレスト港に封じ込めておくために、多くの艦を座礁させた悪名高い浅瀬だらけの海で、行ったり来たりを繰り返していました。

私は1章でうっかり「ジャックは引き続きベローナ号を指揮して…」と書いてしまったのですが、17巻でベローナ号を指揮していたのは旗艦艦長のプリングズでしたね。「プリングズに代わってベローナの艦長になったジャックは…」と書くのが正しかった。プリングズファンの方、ごめんなさい。

で、ベローナの艦長を御役ご免になったプリングズが今何をしているかというと…オブライアン氏が書いてくれていないのでわかりません(涙)。でも、もう勅任艦長になったし、前回の任務は全体としては大成功だったし、将来は安泰なものと思われます…というか、そうであってほしい…

ついでに、ここでベローナ号の人員構成についてちょっと触れておきます。艦長以外のベローナのメンバーは17巻とあまり変わっていなくて、副長は引き続きハーディング。(待て、私は彼の名前を一度も書いていなかったかも…)17巻で活躍した人々では、ヒューエルは正式な海尉になっています。リード君は今や航海士で、士官候補生室の大ボスリーダー格。スティーブンの黄熱病を手当てした軍医助手のスミスとマコーレーも引き続き乗艦しています。

士官候補生には新顔が何人かいるようです。リングル号を指揮してウールコムにジャックを迎えに来て、その後トーベイでサボってデートしていたキャラハン君も初登場ですね。年少組では、ゲイガン君(※)という初航海の少年が乗っています。

※Geogheganと書いてゲイガンと読む。2章に登場したCholmondeleyと書いてチャムリーと読む大佐と同様、英国によくある「何でそうなるねん!」な名前。まあ、発音に調べがついただけHabachtsthal(H公爵)よりはマシですが。

ジャックとスティーブン、オーボエの得意な士官候補生ゲイガンのことを話す

ゲイガン士官候補生は、ジャックとスティーブンの間で何度か話題にのぼっていました。少年はオーボエが得意だったからです。当時は音楽は生で聴くしかないので、特に海の上では、楽器を演奏できる人は宝石のように貴重。しかも、ジャックもスティーブンもオーボエが大好きでした。

ジャックはゲイガン少年を、頭も性格もよい少年だけど、船乗りとしてはロープをきれいに巻いたり結んだりするのがどうしても出来ない不器用さが欠点だと思っていました。スティーブンは彼を観察して、彼がロープを正しく巻けないのは左利きだからだと指摘しました。「彼のオーボエは、彼の父親の特製で、すべて左右逆に作ってあるんだ。」

「しかしなあ、軍艦の上ではすべてを正しい方向にしておかなければならないんだ。緊急の時に、ロープの巻き方が逆だったらどうなると思う?」「彼を呼んで、一緒に演奏することはできるか?」「士官候補生を特別扱いすると、うぬぼれてしまって悪い結果になることがある。彼ならその心配はないかもしれないが…考えてみるよ。」

私は右利きなので考えたことがなかったけど、ちょっとやってみたら、左手で「普通の方向(時計回り)」にロープを巻く、あるいは右手で逆方向に巻くのは、両方ともやりにくかった。軍艦ではもちろん全てのものが右利き用になっているから、左利きの人にとっては何もかもが「やりにくい方向」になるのでしょうね。

ジャック、ゲイガン士官候補生を艦長室に呼んで演奏することにする

この航海の間、ジャックはいつも、士官候補生たちの教育を監督していました。

ベローナには教師が乗っていましたが、士官候補生と同じ居住区で生活し、給料も同じぐらいの教師には、彼らをビビらせる「権威」というものがありませんでした。権威のカタマリである艦長が監督している時の方が、生徒が熱心に学ぶので、進歩は格段に速いのでした。

覚えの悪い生徒たちが三角関数と必死で取り組む間、ジャックはゲイガンを観察し、彼が左手で不器用に書いていることと、少女のような可愛い顔をしていることに気づきました。「顔がかわい過ぎて、本人のためにはならないな。自分でそれに気づいたら鼻持ちならないガキになっただろうが、幸い気づいていない。」(男の美貌にはとことん興味のないジャックが気づいたぐらいだから、よっぽど可愛いのでしょう。)

その日のディナーで、ジャックはスティーブンに「ゲイガンを呼んでみよう」と言いました。主計長のペイズリーがヴィオラを弾くので、4人でモーツァルトのオーボエ協奏曲を演奏したい。艦長から言うと命令のようになってしまうので、君から二人に言ってほしい、とジャックはスティーブンに頼みました。

スティーブンが二人に打診すると、幸い、二人ともモーツァルトのオーボエ協奏曲は演奏できるということでした。

モーツァルトのオーボエ協奏曲は、シリーズに出てくる音楽を集めたCDの第二弾「Musical Evenings with the Captain vol.2」に収録されています。美しい曲です。

ジャック、スティーブン、主計長とゲイガン少年、モーツァルトのオーボエ協奏曲を演奏する

「コンサート」を翌日に控えた日の午後、スティーブンと助手がオーロップで薬を作っていると、隣の士官候補生室からオーボエを練習する音が聞こえてきました。その音色から彼がひどく緊張していることを感じたスティーブンは、ゲイガンを訪ねて声をかけるのですが、少年の緊張は余計に募ったように見え、スティーブンが「アヘンチンキを処方すべきだろうか」と思ったほどでした(こらこら)。

ゲイガンは士官候補生の最年少で、およそ役立たずの初航海者。普通は邪魔にされるはずですが、彼は士官候補生の年長組5人−キャラハンや、士官候補生室では神のごとき存在であるウィリアム・リード様(笑)に可愛がられていました。その日の午後、オーボエを手に緊張しまくって艦長室に現れた彼の、一点非の打ち所のない身だしなみは、年上の士官候補生たちの心遣いを反映していました。

艦長、ドクター、主計長、ゲイガンの4人はディナーを取り(士官候補生室では食べられない上等の食事に、ゲイガンは緊張にもかかわらずガツガツと食べました)、その後、キャビンで楽器を取りました。

モーツァルトのオーボエカルテットは、オーボエの独奏から始まるので、ゲイガンが緊張のあまりしくじるのではないかとスティーブンは心配しましたが…少年は素晴らしい音色を奏でました。

四人が深い満足とともに音楽を終えると、ジャックは「よくやった、本当によくやった」と言ってゲイガンの手を握りました。「すばらしい演奏だった。こんなに音楽を楽しんだことはめったにない。」

ゲイガンは顔を真っ赤にしましたが、見るからにほっとしているようでした。そこへ、艦長の書記が急ぎの書類仕事を持ってきたので、コンサートは一曲でお開きになりましたが、その一曲が完璧だったので、みんな満足して艦長室を後にしました。

ゲイガン少年、スカイラーキング中に手をすべらせる

「すばらしい曲だった。」下部甲板へ向かいながら、スティーブンはゲイガンに言いました。「まったくです。艦長とドクターの演奏も素晴らしかったです。でも、あの一曲で終わってよかった。あれで完璧でしたし、ラスト・ドッグに間に合わなくなったら残念ですから。」「…かわいい動物だからな。」「いいえ、ラスト・ドッグ・ウォッチ(後半の折半直:午後6〜8時)のことです。他に仕事がないときは、ぼくたち、上の方で遊ぶんです。スカイラーキングと呼んでいます。」「ああ、それなら見たことがある。」「ドーマーとぼくは、メイン・トゲルン(主檣の下から3番目のマスト)のトラック(檣冠)まで競争することになっているんです。」

ゲイガンが士官候補生室に戻ると、そこにいたのはガールフレンドに手紙を書いていたキャラハンだけでした。緊張が解けた反動で上機嫌のゲイガンは、艦長室の豪華なディナーの内容を詳細に語りました。「食い過ぎてなきゃいいが。食い過ぎた後に動くと、吐くやつがいるんだ。」キャラハンは言いました。

沿岸艦隊に入ったベローナ号のドッグ・ウォッチは、今まで忙しいことが多く、スカイラーキングをしている暇はあまりなかったので、たまにできる時、少年たちはことのほか張り切っていました。ベローナ号には、士官候補生の他にたくさんの少年水兵がいて、スティーブンが艦尾楼で眺めていると、少年たちはサルのように身軽に高いリギングを駆け回っています。

士官候補生は右舷および艦尾甲板の上、少年水兵は左舷と、軍艦の他の全てのことと同様、ここでも身分によって縄張りが分かれているのですが、彼らがお互いにライバル心を抱いているのは明らかでした。一番身軽な士官候補生は、一番身軽な少年水兵よりスゴいワザを見せないといけないのです。

スティーブンが見ていると、ドーマーという太った士官候補生とゲイガンが競い合い、猛烈な勢いでメインマストのシュラウドを登っているのが見えました。ドーマーは太っているとはいえ、経験が長い分だけ技術が高く、ゲイガン少年は追いつくために必死。彼はトゲルン・フトックシュラウド(外に張り出しているシュラウド)に手をかけたところで、両手を滑らせ、そのまままっすぐ落下し、艦尾甲板の砲に激突しました。

「動かすな!」わずかな望みをかけて駆け寄ったスティーブンですが、少年は即死でした。ジャックは彼を抱き上げ、ぼろぼろ涙を流しながら艦長室に運びました。

その日のうちに、少年は水葬に付されました。

ジャック、ゲイガンの両親に書く手紙に悩む

このシリーズには、なぜか「美少年薄命」という傾向があるので、ゲイガンが「女の子みたいに可愛い」というところを読んでから、嫌な予感がしていたのですが…ゲイガンが左利きであったことや、いつもより豪華な食事を取ったこと、艦長との演奏でひどく緊張し、その緊張が解けた直後だったこと…これらが事故の原因に関係していたかどうか、はっきりとはわかりませんが…

いずれにしても、軍艦の上では、戦死や病死はもちろん、こういう事故死もごくありふれたことだったのでしょうね。特に、技術が熱意に追いつかない若い人の事故死は。でも、ゲイガンもジャックもかわいそう…

ジャックは今までにも、士官候補生の戦死や事故死を両親に伝える手紙を何度も書いたことがありました。いつも書くのが辛い、難しい手紙ですが、今回は特に、まったく言葉が浮かんできませんでした。

それでも、悲しんだり悩んだりしてばかりもいられないのが艦長の仕事。翌日は月のない夜だったので、また諜報活動のためにフランスに上陸するスティーブンを送るため、浅瀬だらけの難しい水路を縫ってベローナを陸に近づける仕事に専念するジャック。

ジャック、スティーブンをフランス岸に送り届ける

ベローナは、約束の場所にいたボートから水先案内人とスティーブンのパートナー(彼の古い知人のカタロニア独立活動家で、スペイン海軍諜報部に潜入している)を乗せ、暗闇を待って静かにフランス岸に近づいて行きました。

ベローナ号の艦尾には、新しいダビット(艦尾舷側に突き出した、ボートを吊って上げ下げすることができるクレーン)が装備されていました。これは比較的新しい発明品で、取り付けると戦列艦の艦尾の美しさが多少損なわれてしまう設備なので、正直ジャックもあまり気が進まなかったのですが、今、ジャックは心から、ダビットをつけておいてよかったと思いました。

今まで、ジャックはスティーブンを何度も夜の陸岸に送り届けましたが、そのたびに、暗い中を危なっかしく舷側を降りて行くスティーブンを心配して、おかげでちょっぴり老けてしまったほどだったので…ダビットがあれば、スティーブンをボートに乗せた状態で海面まで吊り下げることができるので、少なくとも、彼が海に落ちる心配だけはしなくてすむ…

「スティーブン、届けてほしい伝言か手紙はないか?」戦闘の前にいつもそうするように、ジャックは訊ねました。「今回は何もない。ぼくの僅かな財産はローレンス弁護士が把握しているし、ぼくが何を望むか、ダイアナは分かっている。」

岸から光で合図があり、ジャックはスティーブンの手を子供のように引いて、暗い甲板を艦尾まで連れて行って、彼をカッターに乗せ、別れの挨拶に力強い手で肩を握りました。ボートが海面まで降ろされ、ボンデンたちが乗り込み、光の合図が続いている岸へと消えてゆきました。

ジャックは深い悲しみを感じていました。もう何度もこうしてスティーブンを岸へ送り出したけれど、悲しみと心配は少なくなることはない…