シューンブルン宮殿
14世紀当時のシューンブルン宮殿周辺は、狩猟用の森と放牧地が広がり「カッターブルク」と呼ばれる館が建っていた。館がハプスブルク家に渡ったのは、1569年狩猟愛好家であった皇帝マクシミリアン2世が館と周辺の土地を買い取り館を拡張し、ハプスブルク家の狩猟場と農園となる。1605年ハンガリー軍によって破壊されるがマティアス皇帝によって修復された。マティアス皇帝が狩りの途中で発見した美しい泉(シェーナー・ブルンネン)が、シューンブルンの名前の由来となり、今も残されている。1683年、オスマントルコ軍によって、完全に焼き払われ、1695年レオポルト1世が狩猟と夏季のための豪華な離宮建設を決定する。第1案は現在グロリエッテの立つ丘を建設地とする壮大なもので、国庫の許容範囲を上回るために、第1案よりはるかに小規模な第2案による宮殿建設が開始されます。その後、1740年女帝マリア・テレジアは、シューンブルン宮殿を居住性に優れた快適な宮殿とすることを決意し、完成する。幾多の政治の舞台となり、1916年フランツ・ヨーゼフ皇帝が宮殿の一室で息を引き取り、1918年オーストリア最後の皇帝カール1世は、宮殿の青のサロンで国事放棄の宣言に署名し650年にわたるハプスブルク王朝の歴史に終止符が打たれた。第二次世界大戦の空襲は、シューンブルン宮殿にも多大な被害をもたらしたが、1955年には修復工事が完了している。

シューンブルン宮殿1441室のうち、公開されているのは40室。
グランド・ツアー     40室
インペリアル・ツアー  22室
宮殿右翼、前庭側から見学コースがはじまります。

館内撮影禁止です。

*見学案内図*

青の階段

警護の間

ビリヤード室

謁見を許された人々の控室。

胡桃の間

胡桃の壁板が使われていることから、胡桃の間と呼ばれている。
フランツ・ヨーゼフ皇帝の机があり皇帝愛用の品々がおかれています。

皇帝フランツ・ヨーゼフの執務室

褐色の布で覆われた壁には、エリザベート皇后の肖像画がかけられています。
この部屋で皇帝は、毎朝5時から仕事机に向かい、
食事は仕事机に運ばれ、ひたすら執務に心を傾けていたと召使が回想しています。

皇帝フランツ・ヨーゼフの寝室

厳格な時間に基づく皇帝の毎日は、この寝室から始まります。
鉄製のベッドと祈祷台が置かれています。
1916年11月21日、86歳のフランツ・ヨーゼフ皇帝は
このベッドで息を引き取った。

西側テラスの小部屋

宮殿右翼の西の角部屋で、ここから私有庭園側になります。

キャビネット(階段の小部屋

エリザベート皇后の書斎だった部屋です。
奥にある、らせん階段は地階にあるエリザベートの私室へと続き
そこから誰にも見られることなく外出することができた。

化粧室

皇后エリザベートの化粧室。
踵に届くほど長い髪の手入れには、数時間かかったそうです。

皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベート皇后共同の寝室

ブルーを基調に内装され、紫檀の重厚な家具が置かれています。
婚礼の行われた1854年に整えられた部屋ですが、
この寝室が利用されたのは、最初の数年のみだけでした。

エリザベート皇后のサロン

壁には明るいグレーの布が張られ、家具調度類は赤い花模様でつくられています。
鏡の前にある特性の時計は、文字盤が逆につくられているため
鏡に打った文字盤から、性格な時刻が読み取れるようにできています。
この部屋からは私有庭園が見渡せます。

マリー・アントワネットの部屋

エリザベート存命中、この部屋は家族的なダイニングルームとして使われていました。
当時の食卓調度が再現されています。

子供部屋

マリア・テレジア女帝の子供たちの肖像が飾られています。
女性用ビューローは1793年処刑されたマリー・アントワネットの遺品として
パリからシューンブルンにもたらされたものです。

朝食室

宮殿右翼の隅、庭園に面した部屋です。
壁には、マリア・テレジアとその娘たちが自ら刺繍したテーブルセンターなどを収めた
円形のパネルが飾られています。

黄色のサロン

椅子に張られた黄色のダマスク織りからこの名で呼ばれています。
この部屋から庭園側の部屋となります

鏡の間

金と白を基調とするロココの装飾と鏡を配したこの部屋は、公式の謁見や行事に利用され
ここで、6才のモーツァルトによる御前演奏が行われました。

ローザの間

大きいローザの間、第一のローザの間、第二のローザの間、これら3つの部屋の呼称は、
部屋に飾られた風景画を製作した画家ヨーゼフ・ローザにちなむものです。
スイスのアールガウにある廃墟「ハビヒツブルク」が描かれています。
「ハビヒツブルク」は、後に「ハプスブルク」と呼ばれる王朝のはじまりの居城です。

大ギャラリー

長さ40メートル、幅約10メートルの大ギャラリーは、正面大階段と前庭を見下ろす
バルコニーに面しています。
大きな窓とこれに向かい合う鏡の数々、天井を飾るフレスコ画、
白と金の壁板やクリスタル製のシャンデリアで飾られ、
王朝時代には舞踏会、レセプション、晩餐会などが催されました。
第二次大戦中天井のフレスコ画に爆弾が貫通し被害を受けています。

小ギャラリー

大ギャラリーと平行し、中央部分で結ばれています。
小規模な催しに利用される小ギャラリーからは、庭園と丘の上にあるグロリエッテが見えます。

丸い中国の小部屋・楕円形の中国の小部屋

小ギャラリーの庭園に向かって右側にある円形、左側が楕円形の小部屋です。
白い板壁に大小様々な漆塗りのプレートが嵌められ、象嵌細工の床が見事です。
小部屋は政治的会談のために使われ、装飾された壁の後ろにある秘密の螺旋階段は
マリア・テレジアの助言者である宰相カウニッツの部屋へ通じていたそうです。

馬車行列の間

フランツ・シュテファンとマリア・テレジアによる謁見のための待合室です。
スペイン乗馬学校の敷地で催した馬車行列の絵が飾られていることが、部屋の名の由来です。

ここから宮殿左翼部分になります。

家族的セレモニーの間

1760年のヨーゼフ皇太子とイザベラ妃の婚礼を描いた、5つの絵画が飾られています。
イザベラ妃のウィーンへの輿入れ、アウグスティーナ教会での結婚式、ホーフブルク王宮での祝宴
皇帝一家と宮廷人を迎えたオペラ上演を描いた絵には、幼いモーツァルトが描かれています。
これらの絵画に囲まれるように、マリア・テレジアの等身大の肖像画があります。

駿馬の間

馬をモチーフとする絵画が飾られていることから、駿馬の間と名づけられた部屋です。
19世紀には、この部屋が帝国軍最高指揮官と宮廷高官の昼食室にあてられていました。
1852年に描かれた絵画を手がかりに、復元されています。

ここから先は、グランド・ツアーのみの入場となります。

青いサロン

ライスペーパーと呼ばれる中国製の稲ワラ紙の壁紙に、中国の日常生活が描かれています。
象嵌細工を施したテーブルと、漆塗りのクローゼットや日本の陶磁器が置かれています。
1918年11月11日、この部屋でオーストリア最後の皇帝カール1世が、国事関与放棄の署名をしています。

漆の間

マリア・テレジアの夫、ロートリンゲン公フランツ・シュテファン(皇帝フランツ1世)の
執務室であった部屋です。
日本の風景が描かれた漆板は、胡桃材の板壁にはめ込まれ、金箔の枠で縁取られています。
部屋の中央にフランツ・シュテファン公の肖像画と皇帝夫妻の2人の息子の肖像画が、飾られています。

ナポレオンの部屋

1810年、ハプスブルク家とナポレオンの友好関係を確立するため
フランツ1世の娘マリー・ルイーズとナポレオンの婚礼が行われ
この部屋は、ウィーン滞在中のナポレオンの寝室だったものと考えられています。
ナポレオンの敗北と退位の後、2才でウィーンの宮廷に引き取られたナポレオンの息子が、この部屋に住んでいます。
ライヒシュタット公の称号を与えられ、シューンブルンで育ちましたが、21歳で世を去りました。
ゴブラン織りのタペストリーで壁は覆われ、象嵌細工の床に小さなベッドと祈祷台、漆の屏風が置かれています。

磁器の間

マリアテレジアが書斎兼遊戯室として使われていた部屋です。
壁面を飾る白と青で磁器のように見えるモチーフは、
皇帝フランツ1世とその娘たち自らが手がけたものです。
木彫りの枠に納められたこれらの淡彩画には、青い顔料で花や果物、東アジアの風景が描かれています。
宮殿左翼、庭園側の角部屋です。

百万の間

1767年、マリア・テレジアのもとで完成したこの部屋は
、100万フローリン以上を支出したことから百万の間と呼ばれています。
板壁には、中米産の紫檀が用いられ、ペルシャの細密画が金箔の枠で縁取られ、
ムガール朝インドの宮廷生活が描かれています。
細密画は、第二次大戦中ザルツブルクの岩塩抗に隠されていました。

ゴブランの間

18世紀にブリュッセルで製作されたゴブラン織りのタペストリーが飾られています。
タペストリーには、アントワープの市場と港が織り出されています。
象嵌細工の床に置かれた6脚の椅子の背もたれとクッションもゴブラン織りで
12ヶ月を表す陽気なシーンが織り込まれています。
夏に本来の寝室が暑いと、女帝のベッドを置き臨時の寝室として使われていました。

ソフィー女大公の書斎

フランツ・ヨーゼフ皇帝の母、ゾフィー大公妃の書斎だった部屋です。

赤いサロン

深紅色のダマスク織りが張られた壁に、代々のハプスブルク皇帝の肖像画が飾られています。

東側テラスの小部屋

宮殿左翼、前庭に面した小さな角部屋です


寝室

真紅のビロードに、金銀の刺繍を施した絹の天蓋と幕に囲まれる豪華なベッドが置かれています。
マリア・テレジア女帝の婚礼に際して製作されたもので、ホーフ・ブルク王宮に置かれていたものです。
このベッドは、皇帝夫妻の実際の睡眠用ではなく、むしろ公的な目的に用いられ、
マリア・テレジア女帝は、新生児を抱きながらベッドの上で訪問者と謁見していた。
1830年、この部屋でフランツ・ヨーゼフ1世が生まれています。

執務室及び寝室・コーナーのサロン

この部屋と隣接するサロンは、フランツ・ヨーゼフ皇帝の父、フランツ・カール大公の部屋だったものです。
フランツ・シュテファン皇帝とマリア・テレジアと皇帝夫妻の子供たちの肖像画があります。
すでに亡くなった3人の子供とこれから生まれる末の2人は描かれていません。
家族の肖像画と並んで、扉の右側にマリア・テレジアの母エリザベート・クリスティーネ、
左側に女帝の教育係りであり大切な助言者のフックス伯爵夫人の肖像画が飾られています。

狩猟の間

狩猟服を着けたカール6世とエリザベート・クリスティーネ妃の肖像画が見られます。

ヘルメス・ヴィラ
庭にヘルメス像があることから、ヘルメス・ヴィラと呼ばれるこの館は、1880年皇帝フランツ・ヨーゼフがウィーンに寄り付かない皇妃エリザベートの為に建てたものです。広大な森の中にあり、高台に立つと遠くにうねったドナウ河が見える瀟洒な館です。サロンの天井には、当時まだ無名だったクリムトの描いた女神と天使の像があります。エリザベートのプライベートな居室には、古代ギリシアの神々や英雄が描かれており彼女の寝室の壁に描かれたシェークスピアの「真夏の夜の夢」は、森の精や神話に出て来る牧人たちが、じっとこちらをのぞいているかの様です。

館内撮影禁止。入り口で荷物を預けて見学します。ガイドツアーはなし。

シュテファン寺院
12世紀に建築が開始され、第二次世界大戦では爆撃を受け、屋根はすっかり崩れ落ち塔は炎に包まれ、19世紀後半に一応の完工をみるものの、北塔は未完のまま現在の姿になっています。南塔の高さ72mにある監視所まで、344段のらせん階段で登ると、ウィーンの町並みが一望出来、カラフルな瓦を使ってハプスブルク家の紋章が描かれている屋根を間近で見ることが出来ます。北塔へは、エレベーターで上がることが出来ます。

スペイン式宮廷儀礼
ハプスブルク家では、亡くなるとスペイン式宮廷儀礼で、遺体を開き、内蔵を取り出し銅製の壺に入れて、シュテファン寺院のカタコンベに保管されます。心臓は、銀製の壺に入れて王宮内のアウグスティン教会に保管し、遺体はカプツィーナ教会に安置されます。カタコンベには、他に1713年ウィーンで大流行したペストで出た16000人以上の死者を、棺で埋葬しきれずに穴が掘られそのまま埋められた墓室があります。

カプツィーナ教会

*見学案内図*

1633年以降のハプスブルク家の棺を納める墓室カプツィーナ・グルフトが教会の地下にあります。12人の皇帝、15人の皇后を含め138人の皇族の、装飾を凝らした棺がひんやりとした空間に並んでいます。シュテファン寺院で葬儀が執り行われると、棺はカプツィーナ教会へ運ばれ型通りの質問がなされます。
「そなたは何者だ。ここにはいりたいという者はだれか」
故人に代わって侍従頭が返答する「われはオーストリア皇帝にして、ハンガリー国王なり…」
「その者は知らん」
侍従頭は跪き「わたしは、愚かな罪人です。神のご慈悲を」
「では、はいるがよかろう」

ハプスブルク家の中で、ここに埋葬されていないのは、カール5世、マリー・アントワネット、ナポレオン2世、フランツ・フェルディナントとその妻、カール1世である。またハプスブルク家と血縁のないフックス伯爵夫人(マリア・テレジアの家庭教師)が、マリア・テレジアの希望でここに埋葬されています。マリア・テレジアと夫フランツ1世の棺は、ダブルサイズで一緒に納まっています。フランツ・ヨーゼフ皇帝、エリザベート皇后、ルドルフ皇太子の棺には、沢山の献花がされていました。

マイヤーリンク
ここは1889年1月に、皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベートの息子で、皇位継承者であったルドルフ皇太子30歳)と男爵令嬢、マリー・ヴェッツェラ(17歳)が情死した場所です。もともとハプスブルク家の狩猟の館だったが、事件の後かつての館は取り壊され、後に修道院と小さな礼拝堂が建てられています。礼拝堂と隣り合った別棟に、わずかばかりの遺品が並べられ、当時の新聞の切り抜きが貼ってあります。ひげをたたえたフランツ・ヨーゼフの苦渋に満ちた肖像画が印象的です。情死説、政治的暗殺説など、ことの真相は明らかではものの、この事件以来悲劇の地≠ニなり、映画や小説となって伝えられています。静かな農村地帯で、おそらく事件が無ければ観光客に意識されることなどなかったのでしょう。
館内は撮影禁止です。

ハイリゲンクロイツ

ハプスブルク家以前にオーストリアを統治していたバーベンベルク家のレオポルト3世によって、1133年に設立されたシトー派の修道院でオーストリア国内で最も古い修道院の一つです。現在も厳しい規律のもとで約60人の修道僧が生活を共にしています。シトー派修道院は谷あいに建設され、数十年の間隔で建設される為、時代ごとの様式の違いが見られる.。豪華な色ガラスなど華美なものは一切排除され、回廊のステンドグラスも白黒のみで作られています。18世紀に描かれた壁画には、ある戦闘の後、胴の巻いていた帯を外したたところ、着衣の上下が血に染まって真っ赤だったが、帯のところだけ白かったという伝説が描かれており、それがオーストリアの国旗である赤白赤の由来となっている。ゴシック様式の教会は、聖十字架(ハイリゲンクロイツ)があり、荘厳かつ幻想的です。

カイザーヴィラKaiservilla

黄色の壁面に緑の鎧戸がある2階建の館で、丘陵地に向かってなだらかに傾斜する広い庭にうずくまるように建っています。エリザベートがヨーロッパ各国の大使に命じて集めた、女性のポートレイトで作った衝立や、裏庭には、ヨーロッパで最初のプール≠ェあります。1853年「皇帝の一目ぼれ」という、運命的な出会いをしたこの地に建つカイザーヴィラは、ウィーンの宮廷生活を嫌うエリザベートにとっても、狩猟好きのフランツ・ヨ−ゼフにとっても居心地のよい別荘だったようです。フランツ・ヨーゼフが狩りで仕留めた、おびただしい数の獲物の角やら剥製が壁という壁にあり、驚かされますが、こじんまりとして、プライベートな雰囲気が感じられる館です。
館内は撮影禁止で、係の人に従いながら1時間ほどかけて見学します。説明はドイツ語のみです。
10月から4月末まではCloseになります。

王宮

ホーフブルク王宮は幾世紀にわたり、歴史の舞台となり、ウィーン市民の運命を左右してきた。王宮は5回にわたり、軍事的あるいは、政治的な攻略目標となっている。ハプスブルク家は、14世紀から20世紀に至るまで、ホーフブルク王宮の城主であった。大規模で複雑な構造の王宮は、各時代の様々な建築からなる複合体で、1度も、最終的に完成されたことがない。王宮で最も古い部分は、中世に、塹壕を備えた4棟のゴシック様式のスイス宮(旧王宮)が出来、16世紀には、シュタールブルク(現在の厩舎)、スイス門を背にして王宮広場(現在の中庭)正面にルネッサンス様式のアマリア宮(アマリエンブルク)が建てられた。17世紀に、スイス宮とアマリア宮を結ぶレオポルト棟を左側に、18世紀になり、これと向かい合う右側に帝国官房棟(ライヒス・カンツラー)、旧王宮に接して舞踏ホールの翼(レドゥーテンザール)とが建てられ、その後、舞踏会ホールの先に冬の乗馬学校が出来、シュタールブルク(厩舎)と接続。貴賓室と呼ばれる翼に王宮図書館(現国立図書館)が完成し、アウグスティーナ教会が王宮と結ばれます。フランツ・ヨーゼフ皇帝の時代に、旧王宮劇場のあった場所にミヒャエル棟を完成させて、帝国官房棟と、シュタールブルクまでが接続されます。さらに、今世紀になって、城壁のあった部分に新王宮の一部が完成し、現在の姿となります。

スイス宮の地階には厨房があり、レオポルト棟には菓子製造所、地下3階からなる宮廷ワインケラーがあり、
帝国官房棟の地下にあった銀器保管室は現在、宮廷食卓調度・銀器コレクションとして一般公開され
ています。また、同じ階には宮廷洗濯所もあった。

館内は撮影禁止です。

皇帝の部屋Kaiserappartments

*見学案内図*


帝国官房棟
帝国官房棟の名称は、重要な政務機関である官房府が置かれていたことから呼ばれています。1723年から建築が始まり、1726〜1730年に主要部分が建設されています。王朝末期には、最も重要な式部局を併置した応急管理局、宮廷の警察と裁判所にあたる最高式部官官房、神聖ローマ帝国文書室、などがあった。地階にあった銀器保管室は現在、宮廷食卓調度・銀器コレクションとして一般公開されています。

皇帝の階段
見事な人口大理石と金箔の花瓶で飾られた豪華な皇帝の階段は、
2階(実際には3階)のアパートメントに通じている。
階段を上がりミヒャエル門の上を通り、居室へとつづく。

会食室

「軍人ディナー」が、定期的に催されていた部屋で、金箔をほどこした飾りのある白い壁板に、
ブリュッセルで製作された、ギリシャ神話などがモチーフのタペストリーが飾られています。
厳密なランクに従って食卓に並び、式武官が指揮棒を3回鳴らすと、
皇帝が姿を現す習しである。

サークルルーム

16世紀にベルギーで作られた、ダビデ王の生涯が描かれている
タペストリーが3つの壁を覆い、金と漆を塗った家具がおかれています。

喫煙サロン

ドイツ王、神聖ローマ皇帝として帝国を統治したマクシミリアンT世の胸像があります。

親衛隊の間

直接皇帝に仕える衛兵たち(王宮親衛隊)が、昼夜当直にあたっていた部屋です。
衛兵は、毎日兵舎から王宮へ通い、正午に衛兵交替が行われていたそうです。
装飾もシンプルで、壁際に長いすが配されています。

謁見の間

謁見を許された人たちが、順番を待った部屋です。
壁に沿って置かれたベンチは、謁見を待つ女性のためのもので、
男性は立って待つことが義務づけられていました。
王宮近衛部隊の近衛兵が警護にあたり、宮廷監視官が名簿を点検し身分順に整理し、
侍従武官は礼儀正しく順番を待つ人々の話し相手を務める。
正方形の大きなホールの3つの壁には、皇帝フランツT世のさまざまな場面を描いた
大規模な壁画が飾られています。ホールの隅にある胸像もフランツT世です。

謁見室

ダマスト織りの赤い絹を張った壁には、フランツ・ヨーゼフ皇帝の肖像画が飾られ、
今も、当時の演壇が置かれています。
テーブルには、1910年6月3日の謁見者名簿がみられます。

会議の間

オーストリアの大臣会議、オーストリア=ハンガリー二重帝国の合同大臣会議が開かれた間。
壁に張られた青いダマスト布と同じ布を張られた椅子が、会議の机と共に置かれています。
ハンガリーにおける戦闘の場面を描いた絵画と、
後方の壁には、空色の軍服を着けた若き皇帝の小さな肖像画があります。

皇帝の執務室

執務中のフランツ・ヨーゼフ皇帝が目を上げると、ウィーンターハルターの描いた、
長い髪を胸の前に垂らしたエリザベート皇后の肖像画が見られるように、事務机が置かれています。
後方にも、同じ画家の、やはり長い髪を垂らしたエリザベート皇后の肖像画があり、
さらに事務机の上には、皇后の小さな肖像画、マリア・ヨゼファ大公女の写真、
カール皇帝とツィタ皇后と子供たちの写真がおかれてあります。
かつては、窓際に事務机を置いて2枚の皇后の肖像画は距離を置いて正面に飾られていた様です。
皇帝がその功績に敬服していたラデツキー将軍の胸像とサーベルが飾られています。

衣装保管室と近習

帝国内各国の最高軍事司令官としての皇帝が、様々な式典で着用する数多くの軍服が
保管されていた部屋です。
部屋付き近習は3人、食事を運び外出に付き従う近習が4人、扉番2人、召使2人、侍女3人が、
交替で皇帝の身辺の世話をしていた。
壁紙を張った扉は、執務室へ通じています。

皇帝の寝室

フランツ・ヨーゼフ皇帝の寝室は、エリザベート皇后との共同の寝室が無くなった後に
初めて使われるようになり、以来ここには、褐色に塗られた鉄製のベッドが置かれています。
当時、鉄製のベッドは、衛生的で運搬しやすく、進歩的でモダンな家具と考えられていたようです。
1880年以降、宮殿の水道管設置など施設の近代化工事が始まり
ベッドの隣には、蓋付きの洗面用机があります。
室内には、馬に乗ったエリザベート皇后の銅版画が飾られていて、
ひとつは狩猟の場面、もうひとつは、1853年のクリスマスに、フランツ・ヨーゼフ皇帝から
エリザベート皇后へ贈られたもので、シュタルンベルク湖畔にある
ポッセンホーフェン城の前で馬に乗るエリザベート公女を描いたものです。
壁際の戸棚や、テーブルの上には、若き皇帝夫妻を描いた陶器画や、
フランツ・ヨーゼフ皇帝の両親、フランツ・カール大公とソフィー大公女と、
エリザベート公女の素焼きの胸像が置かれています。
枕もとにある祈祷台には、「洗礼のキリスト」の小さな絵画(コピー・オリジナルは美術史美術館)
が飾られています。

大サロン

真紅の壁紙に真紅絨毯、壁紙と同じ布を張った多くの椅子が置かれた中で、ひときわ目をひく
ウィンターハルターの製作した、エリザベート皇后の肖像画が飾られています。
エリザベート皇后は、パリで活躍していたシャルル・F・ワースが仕立てた
白いチュールの夜会服を身にまとい、星型のダイアモンドで髪を飾り、
こちらを振り向く姿が描かれている。
向かいの壁には、同じくウィンターハルターの製作した、フランツ・ヨーゼフ皇帝が、
式典用の軍服を着用した肖像画がかざられています。
オーストリアの紋章を配した金箔の額縁も、豪華です。

小サロン

男性の会食者が、ディナーの後このサロンに集まりたばこを吸う喫煙室です。
女性の前では、たばこを吸わないのが、当時のエチケットだったそうです。
現在は、皇帝の弟フェルディナンド・マクシミリアン大公のための記念室となっています。
マクシミリアン大公は、ラテンアメリカにおけるフランスの外交の一環を担ってメキシコ皇帝となり
メキシコ革命で銃殺されています。
中央壁面には、海戦を描いた絵画があり、この戦いで国家的英雄になったテゲトーフ海軍少将(のちに副提督)が、
海戦の3年後、メキシコ革命で銃殺されたマクシミリアン大公の遺骸を引き取る任務を与えられたのですが
テゲトーフが海戦の時に乗っていた旗艦の名前が
「フェルディナンド・マクシミリアン大公」であったことは奇妙な符合です。
室内には、大理石で造られたテゲトーフの胸像があります。
右手壁面には、マクシミリアン大公の妻、シャルロッテの肖像画がかざられています。



アマリア宮

1575年以来、皇帝ルドルフU世の為に建設された棟で、後の皇帝ヨーゼフT世の皇后ウィルヘルミネ・アマリアが、寡婦として世を去るま1742年までここに住んだことから、アマリア宮と呼ばれるようになりました。中庭側の回廊は、壁で覆われています。

1854年、新婚の皇帝夫妻のために、第二ロココ様式で改装されています。エリザベート皇后は、1898年に亡くなるまで、ここをウィーンでの住まいとしましたが、宮廷から逃避し続けた皇后は数ヶ月にわたり旅をすることが多く、ハプスブルク王朝末期の1916〜1918年は、カール皇帝が住んでいました。

エリザベート皇后の居間

金の縁取りと模様が施された白い壁板に大きな7つの鏡がはめられ、2つのストーブと
赤い布張りの応接セット、祭壇、皇后専用の机が置かれています。
夜になると、ここに鉄製のベッドが運び込まれ、毎朝かたづけられ、
皇后の居間兼寝室として使われていました。

皇后の化粧室

本来衣装室として使われ、それ以前は皇帝夫妻の寝室だった部屋です。
エリザベート皇后は、その類い稀な美貌とスリムな肉体を保つための運動器具がしつらえてあります。
左手後方の開け放された扉の奥に、大きな銅製のバスタブを据えた浴室が見えます。
乗馬、馬車、愛馬や愛犬、コルフ島に建てたアキレイオン(アキレスの城)などの水彩画が飾られ、
皇后が注いだ情熱が伝わってきます。

大サロン

中央の長い壁に、ローマ郊外のネミ湖、ローマの廃墟が配された風景画が飾られています。
左手には、ハプスブルク城の廃墟が描かれた風景画が見られます
壁に寄せて置いてある小さなテーブルの上に、ヘルマン・クロッツが製作した
フランツ・ヨーゼフ皇帝とエリザベート皇后の素焼きの彫像が飾られています。
エリザベート皇后の気品溢れる姿は絶賛を集め、繰り返しコピーされており
ブダペストのエリザベート教会には、等身大の彫像が置かれています。
サロン右手にクロスのかかった小さなテーブルでは、
フランツ・ヨーゼフ皇帝とエリザベート皇后が、朝食をとっていたそうです。

小サロン

ウィーンの画家ゲオルク・ラープによる、ハンガリー女王としての
エリザベート皇后の肖像画が飾られています。
ガラス戸棚の中には、
エリザベート皇后の小さな胸像や彫像、手袋、扇、ロザリオなど身の回りの品と共に
黒いタフタのドレスを身につけたエリザベート皇后の小さな写真がおかれています。
このドレスは1898年9月10日、皇后がジュネーブで暗殺された当日身につけていたもので
現在、ブダペストの国立博物館に展示されています。
オーストリア領内で催された狩猟のシーンの絵画には、皇帝が栗毛の馬にのり狩りをする姿が描かれています。

大きな控えの間

18世紀の内装が完全に保存されています。
金箔をほどこした飾りのある白い壁板には、
劇を演じるマリア・テレジア女帝の子供たちを描いた絵画が飾られています。
鷲の階段へ続く扉から、エリザベート皇后は出入りをしていました。
現在では、この階段が大統領官邸の一部となっているため、扉は閉鎖されています。
扉番の小部屋には、ヘルマン・クロッツが製作した等身大のエリザベート皇后像が置かれています。

アレクサンダー・アパートメント

アパートメントの名称は「会議は踊る、されど会議は進まず」
と評した1814年11月から1815年1月に行われたウィーン会議に集まった王侯貴族の中で
ロシア皇帝アレクサンダーT世が、フランツ皇帝の貴賓として王宮に宿泊した
ことにちなんでつけられたものです。
ハプスブルク王朝最後のカール皇帝が、ここを住居としていました。
軍服姿のカール皇帝の肖像画があり、隣にはツィタ皇后の肖像画がイーゼルに置かれ
カールT世が退位の証書を書いた小さな事務机が残されています。

レセプションの間

1777年に皇帝ヨーゼフU世がフランスを訪問した際に、
ルイ16世とマリー・アントワネット王妃から贈られた真紅のゴブラン織りの壁掛けが
白壁をおおうようにかけられています。
それぞれのゴブラン織りには、名高い絵画が織り込まれ、壁の模様と調和が感じられます。
ソファ、椅子、ついたてなどにも、ゴブラン織りが使われています。

会食室

テーブルには、フランツ・ヨーゼフ皇帝時代のファミリーディナーのセットが再現されています。
小規模な会食には銀器が、祝宴には金器が使用されていたそうです。
大規模な祝宴は、舞踏会ホール、フェスト・ザール翼にある式典の間(ツェレモーエン・ザール)
など大型の広間で催されています。
国賓をむかえての晩餐会など、特別な機会には、金メッキの銀器が使われていたそうです。
ファミリーディナーには、数十のブーケが飾られていますが、
大規模な祝宴の場合、ブーケの数は数千にもなり、
この為に、1990年頃のシューンブルン庭園の専用花壇で栽培されていたそうです。
大小いくつものグラスが並べられ、テーブルの中央に置かれた容器には、
チョコレートやボンボンが入れられていました。
壁には、18世紀のベルギーで製作されたタペストリーが飾られています。

小サロン

最後の部屋には、マイヤーリンクで自殺したルドルフ皇太子と、
その死後に皇太子となりサラエボで暗殺されたフェルディナンド大公
ルドルフ皇太子の妻シュテファニー皇太子妃の肖像画が掲げられたいます。
ハプスブルク家の悲劇そのもののような部屋です。

レオポルト棟
レオポルト棟は、1660〜1666年に市の城壁に沿って建設されたが、1668年の大火で壊滅的な被害を受け、1680年までに再建されています。1875年にアマリア宮側が増築され現在、大統領官邸への入り口となっています。さらに旧王宮へと続く部分は、1802〜1806年に改築・拡張され大理石の広間と式典用広間がある。フランツ・ヨーゼフ皇帝の統治50周年を記念する1898年には、新王宮へ続く部分が増築され、戴冠式の間を含む2つの広間、階段ホール、ウィーンターガルテンと呼ばれる回廊が設けられています。

スイス宮

スイスの傭兵が門衛を務めていたことが、名称の由来です。塔の部分は、回廊になっていたが、18世紀の改修で回廊部分に壁が加えられています。幾度も改築され、何人もの皇帝の住居とされてきたが、19世紀に賓客の居室に改装されています。

王宮礼拝堂Hofburgkapelle

13世紀末、アルブレヒト公によって建設され、1447〜49年にフリードリッヒV世によって
拡張されますが、18世紀に行われたスイス宮の増改築により、
宮殿の背後に隠れることになり、入り口のわずかな壁のみが残されています。
現在は、スイス宮を出てヨーゼフ広場に向かうわずかな通りから、
突き出した礼拝堂の一部を見ることが出来ます。
内部は、網形ヴォールトの天井に3つのグラス窓に囲まれた祭壇と、
礼拝堂左側祭壇の聖母像が見られます。
右側は、3階式の高廊になっています。
スイス門を通り広場の右に、王宮礼拝堂に通じる階段があります。

宝物館

神聖ローマ帝国からのハプスブルク家の財宝が公開されています。
フェルディナントT世(1503〜64)の収集品を基礎とする王室コレクションで
神聖ローマ帝国皇帝位を象徴する、十字架をのせた金の玉、カール大帝の王冠
皇帝が儀式に際して着用したマント、宝石をちりばめられたオーストリア皇帝の王杖など
ハプスブルク帝国の勢力を物語る、きらびやかな財宝の数々が展示されています。

シュタールブルク(厩舎)

1552年にマクシミリアン大公が、スペインから戻った為、その住居として建てられたものです。
1564年以降皇帝となったマクシミリアンは、この建物を厩舎および馬具庫に当てていました。
中庭部分には、各階とも回廊があったが、17世紀に壁で覆われ、
その後1956年には、2階の壁が再び取り除かれ、最上階には、
1660年頃から1778年まで皇帝の絵画コレクションが展示されていました。
コレクションは当時ヨーロッパ最大規模で、一般のも公開されていたそうです。
その後コレクションはベルヴェデーレ上宮に移されています。
また、1745年以来、宮廷薬局があつたが、1993年に閉鎖されました。
地階は、18世紀以来、厩舎となり、スペイン乗馬学校の白馬たちが住んでいます。

国立図書館

1735年に完成されて以降、繰り返し改修・増築され、18世紀後半には長さの違う左右の付属棟が建てられます。ハプスブルク歴代皇帝の図書コレクションに、帝国軍の総司令官オイゲン公の膨大な蔵書が付け加えられています。この図書館は、完成直後から閲覧室として使われています。

新王宮

1871年から建設が始まり、当初フォルクス庭園側にも新王宮と同一の建物が建てられ両翼を構成し、リンク大通りを軸として、大規模なカイザーフォーラムとなる予定だったが長引く建築期間、度重なる設計変更などに立腹したフランツ・ヨーゼフ皇帝が、工事の続行を、望まなかった為に実現しなかったそうです。現在は、エフェソス博物館、武器博物館、古楽器博物館として、一般公開されています。

軍事史博物館

1848年から56年にかけて建てられた王家の兵器庫が、31棟を有し巨大な城塞を形成しています。その内の1棟が軍事史博物館として公開されています。玄関ホールを入ると、正面に大階段があり、中央にフランツ・ヨーゼフの彫像がある。階段を上がるとネオ・ゴシック様式の壮麗な空間、名誉の間があります。
ハプスブルク家が11世紀から収集してきた兵器や軍服が陳列されています。なかでも、第一次世界大戦の引き金となったサラエヴォ事件で暗殺されたフェルディナント皇太子の軍服と乗っていたオープンカーの展示が生々しい。

ベルヴェデーレ宮殿

1683年、オスマン・トルコ軍との戦いで、輝かしい勝利を収めたフランス出身のオイゲン公(サヴォワ・カリニョン公オイゲン)の夏の館として1714〜16年に下宮が建てられ、1721〜23年に上宮が建設されたものです。下宮はオイゲン公の住居、上宮は会議や祝典に使用されていました。上宮と下宮の間には美しいフランス様式の庭園があり、庭園と下宮を見下ろす小高い丘に上宮が建っています。上宮から下宮越しにウィーンの町並みを眺めると左にカール教会、右にサレジオ教会のドームが見え、遠くにシュテファン寺院の鐘楼が見え、ベルヴェデーレ「美しい眺め」と名づけられたかが実感できます。1736年にオイゲン公が亡くなると、宮廷が下宮・上宮を買い上げ数年間は美術品のコレクションが置かれていました。その後、宮廷オルガン弾きのアントン・ブルックナーが1895年から翌年亡くなるまでこの宮殿に住み、フランツ・フェルディナント皇太子夫妻が1894〜1914年に暗殺されるまでここの住人であった。現在はオーストリア・ギャラリーとして公開されており、下宮はバロツク美術館、上宮は19・20世紀絵画館になっています。グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカなど分離派の作品が多く展示されています。
館内は撮影禁止です。

グリンツィング

『ホイリゲ』と呼ばれる新酒を飲ませてくれる酒場です。自前の畑のぶどうから作ったいわば「自家製一番絞り」がビールさながらのジョッキで運ばれてきます。各『ホイリゲ』の軒先に松の束がぶらさげてあるのが「新酒あります」のサインで新酒は9月に摘み取られ2ヶ月寝かせて11月11日が解禁になり、翌年の解禁日までふるまわれます。

ゼツェッション
「金色のキャベツ頭」金属でできた金色の葉のドームを当てこすって当時こう呼ばれていた。堅苦しい芸術連盟や歴史主義から分離(ゼツェッション)しようと、グスタフ・クリムトをリーダーとする美術アカデミーに学んでいた若い画家、建築家、装飾デザイナーらによって結成されたグループが、分離派の作品発表の場として建てた展覧会場です。青銅の扉はクリムトの作品。地下には、クリムトが製作した壁画「ベートーヴェン・フリース」があります。正面入り口の上には、分離派のスローガン「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」と刻まれています。