『日本・世界の再生』・歴史に学ぶ
WR0172 ハプスブルグの起こりとスイス −ハプスブルグ家の起こりが実は今日のスイスにあるというのは意外に知られていない(8/5)
スイス在住:野嶋 篤


司馬遼太郎の小説に「覇王の家」と言う作品がある。その冒頭に作家がこの約300年近く続いた徳川時代を築いた同家発祥の地、三河の小高い山に踏み込み、思いを馳せるくだりがある。痩せた土地で必要に迫られて平地に下っていったに違いない徳川の先代、松平のことが語られている。
洋の東西を問わず、覇権を握る勢力はその発祥の初めから巨大な勢力ではなかったというのは、あまりにも自明のことである。あの600年にわたりヨーロッパで一大帝国の地位を欲しいままにしてきたハプスブルグ家も実はその起こりは決して華々しいものではなく、余りよく知られていない、というのが実態であろう。
ハプスブルグ家の起こりが実は今日のスイスにあるというのは、意外に知られていないようである。
ハプスブルグ家は、元々は、ロットリンゲン(シャルルマーニュの息子ルイ一世の死後、ヴェルダン条約(紀元843年)でフランク王国が3つに分かれた内の一つで、北海に面した地方からライン川沿いに南に下り、今日のスイスを含みイタリアまで広がった)王国内の小さな伯爵家に過ぎなかった。しかし、ほんの短い間に、後にヨーロッパの歴史上重要な役割を果たす家系、血統を生み出すところとなったのである。
ロットリンゲン王国の中でも、一種のノーマン・ランドに継続的で確固たる権力が存在しなかったので、ハプスブルグの男たちは、この地方の獲得に情熱を掻き立てられたようである。紀元千年頃に、このハプスブルグ家は、アルザスとシュヴァーベン、中でもアルガウ地方のアール河とロイス河が合流する辺りに、小さな領地を所有していたのである。
いずれにしろ、その後、この地に根拠地を置くことになったのである。古代ローマの都市Vindonissa 付近で、バーゼルとチューリッヒの中間のアール河を通過する辺りで、ライン河沿いの諸国、フランドル地方からグラウビュンデンの峠を越えてイタリアへ抜けるルート上に本拠地を置くことになったのである。これは、古代ローマの時代から、河川での航行が重要な交通手段であったことと決して切り離せない関係にあったであろう。
11世紀初めには、 Radbot伯爵と彼の従兄弟でストラスブールの司祭 Wernerが神聖ローマ皇帝のために働き、その間、新たな領土(封土)を取得し、アルガウの領地も拡張していったようである。
紀元1025年にアール河に阻まれた丘陵地の稜線の先端にあるHabicht (オオタカの意味)と呼ばれた場所を拠所に選んだのは、このRadbot 伯であるらしい。ここに砦と住居を兼ねたBurg (居城)を築いたのである。今日、定説となっているのかどうか、定かではないが、このHabicht (「オオタカ」の意)とBurg (居城)の言葉が結びつき、縮まって Habsburg の呼称が生まれたと言われている。
いったい本当にこの岩場が「オオタカ」(Habicht)と呼ばれていたものなのか、それともハプスブルグ家がその「強さ」の象徴として「タカ」を紋章に取り入れたことから、初期の居城が築かれた場所が「オオタカ」(Habicht)と呼ばれていたと言う伝説になっていったのか、今では確かめる術がないのかも知れない。
キリスト教世界では、「タカ」は聖ヨハネを意味し、ロマネスク様式の教会では、しばしばタンパンにキリスト像を取り巻く形で、4人の福音者がシンボル化されて登場するが、その内のタカが福音者ヨハネである。イエス・キリストが最も愛した弟子ヨハネがシンボル化されたタカは、ロマネスク芸術の中では、「昇天のしるし」であり、「節制のシンボル」そして、「永久の現実をしっかり見据えること」を意味している。
この「タカ」の意味を想像するだけでも随分と面白い。
13世紀に入り、神聖ローマ皇帝、ホーヘンシュタウフェン家のフレデリック2世の死後の『大空位時代』(紀元1250年〜1273年)を経て、ハプスブルグ家は、同家として初めてロドルフ4世を神聖ローマ皇帝として送り出したのである。皇帝名はロドルフ1世。
ちょうど、この時代にハプスブルグ家は、今日の中央スイス、Vierweldstaettersee (四森林州湖)周辺へとその直接の支配を広げていくのである。
時代はいよいよかの有名な『ウィリアム・テルの時代』である。
13世紀に入り、ようやく南北ヨーロッパを結ぶ交通の要所として、サン・ゴタール峠が本格的に開通し、それまでグラウビュンデン地方から大回りしてイタリア方面へ抜ける街道を利用しなければならなかったことを考えると、南北ヨーロッパの交通史上の革命的な出来事となったのである。
この四森林州湖周辺のウリ、シュヴィッツ、ウンテルヴァルテンの住民は、神聖ローマ帝国の支配下に組み込まれていたものの、険しい山間の地であり、ハプスブルグ家が直接に支配の手を伸ばしてくるまでは、相対的に「自由」を享受していたのである。そこへ、ハプスブルグ家出身のロドルフ1世が神聖ローマ皇帝に就き、今までとは事情が変わってきたのである。今まで享受してきた「自由」、サン・ゴタールの利権を巡って、中央スイスの住民たちは、ハプスブルグ家の強権と対峙することを余儀なくされたのである。
1291年、皇帝ロドルフ1世が死ぬと、事態は一層深刻になり、とうとう同じ年、ウリ、シュヴィッツ、ウンテルヴァルテンの3つの地方の代表が、名高いリュトゥリの丘に集まり、ハプスブルグの支配に抗して闘うことを誓約した同盟を結ぶのである。これが、今日のスイス連邦の始まりである。
その後、1308年に3州は、誓約の再確認し同盟の絆を強め、1315年には、初めてハプスブルグ家側との本格的な戦い(いくさ)を繰り広げ、重要な勝利を収めることになる。これが、スイス誓約同盟の本格的な始まりである。
ハプスブルグ側は、このスイス誓約同盟側との戦いで、手痛い敗北を喫したのみならず、その後の皇帝継承権も失い、しばらくは、神聖ローマ帝国内の後景に退く形となったが、他方で、東方での領土拡張に成功し、その後のオーストリア帝国への礎を築き上げていくのである。
チューリッヒからバーゼルへ行く途中に、ハプスブルグ家の初期の居城跡が今日でも残っているが、何の誇らしさもないただの岩の塊に過ぎないもので、ハプスブルグ家初期の居城が、当時、この家系がまだどれほど質素なものだったかを物語っている。
しかし、その後オーストリア公国、帝国へとのし上がっていく過程で、当然この居城は取り残され、忘れ去られていくのである。

(1999/7/31 原稿作成)野嶋 篤(のじま あつし)
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