イスラム教

イスラム共同体の成立
  ムハンマドは570〜571頃に、名門クライシュ族の一員としてアラビア半島のメッカで生まれた。生年については確かな記録は残っていないが、没年は632。聖徳太子(574〜622)と生年、没年が似ている。メッカは隊商貿易の町であると同時に、昔からアラブ人の宗教の中心であり、巡礼地だった。クライシュ族にハディージャという大金持ちの未亡人がいて、ムハンマドは初めハディージャのもとで働いていたが、やがて結婚した。この結婚によって生活の心配がなくなったムハンマドは、メッカ郊外のヒーラの洞窟にこもってひたすら瞑想にふけり、神とは何か、正しい信仰、正しい生き方とは何かについて考えることが多くなった。
  ムハンマドが40歳過ぎになった 610のラマダンの終わり頃、大天使ジブリール(キリスト教でいう大天使ガブリエル)を通じて、初めて神のお告げを聞いた。これが最初の啓示と言われるもので、コーランに力強く述べられている。
   創造主なる主の名において。いとも小さい凝血から人間を創りなし給う。
   汝の主はこよなくありがたいお方。筆持つ術を教え給う。
   人間に未知なることを教え給う。

 それから間もなく、ムハンマドはまた神のお告げを聞いた。
   起きて警告せよ。おのが主はこれを讃えまつれ。おのが衣はこれを清めよ。汚れはこれを避けよ。

  そして神のお告げ、つまり真理の啓示は引き続きムハンマドに授けられた。アラーは唯一絶対の神で、宇宙の創造主で、全知全能の神であること。地上には最後の審判の日があり、アラーの命令を忠実に守って生きた人間は天国に迎え入れられるが、アラーに背いた人間は地獄に堕ちること。ムハンマドは神のお告げを人間に伝える預言者であることなど。預言者とは、神のお言葉をお預かりする者という意味。この後約20年に渡って様々な機会にムハンマドが神から受けた啓示を、彼の没後に神と達が編集して文書にしたのがコーラン。
  ユダヤ教やキリスト教と同じように、イスラムにおいても最後の審判があると信じられている。その時、全ての死者は蘇り、生者共々神の前に引き出されて、善行を積んだかそれとも悪行をかさねたかの裁きを受けなければならない。仏教にも似たような考え方があるが、閻魔大王の裁きはだれかが冥土にやってくる度にその都度行われるのに対して、最後の審判は全員をまとめて1度に行われるところが違う。
  当時メッカには、昔から信仰されてきた雑多な神々の像が数百体も祀られていた。また砂漠の最中としては珍しく、水が豊富に湧き出るザムザムの泉があり、この地方を往来する隊商はみなこの泉を利用させてもらわないことには動きが取れなかった。クライシュ族は、このような伝統的な多神教と偶像崇拝の中心であるメッカを独占的に支配し、ザムザムの泉を押さえて、祭祀の関係でも隊商貿易でも莫大な利益を得て、権勢を誇っていた。そこへ一族の中からムハンマドという妙な男が現れ、伝統的な多神教と偶像崇拝とを真っ向から否定し、権力と財力を誇る者もアラーに帰依しなければ「間違いなく地獄に堕ちる」と説き始めた。
  メッカの指導者層は、ムハンマドに従う信者がまだ僅かだった間は、彼を狂人扱いして嘲笑するだけだったが、有力者の師弟も含めて信徒の数が増えてくるにつれ、危機感を募らせた。ムハンマドが布教を始めてから10年ほど後、クライシュ族の重鎮の叔父のアブー・ターリブと、妻のハディージャが相次いで世を去った。もはやムハンマドを守ってくれる実力者はなくなり、彼の身辺には死の危機が迫った。そんな時、メッカの北約400kmにあるメディナの人達が助け船を出してくれた。
  メッカの指導者達はムハンマド殺害の計画を固めつつあった。ムハンマドは信徒達をメディナに移動させておいてから、腹心と2人でメッカを脱出。わざと道をメディナと反対方向に取り、山中の洞窟にしばらく潜伏し、それから無事メディナに辿り着いた。これをヒジュラ(聖遷)という。622のことで、イスラム教徒はこの年をイスラム暦の元年としている。
  メディナでは大勢の支持者が待ち受けていた。メディナはこの地方きっての水の豊富なオアシスで、周りには広大な畑や果樹園、ナツメヤシの林が広がっていた。恵まれた土地であるにもかかわらず、ハズラジとアウスという2つの部族が激しい対立抗争を繰り返し、住民は心の休まるいとまもない有様だった。メッカに何度も巡礼に行った機会に、彼らはムハンマドの説くところに深く共鳴し、ムハンマドを指導者として迎え入れることによって、対立抗争が収まることを期待していた。そして、メディナの住民が期待していた以上の素晴らしい結果を生んだ。アラーのもと、全ての者は平等であり、同胞であるという意識がみなぎり、対立抗争は嘘のように解消し、共通の目的のために全員が鉄の団結を固めるという状態になった。信仰、公私の生活、政治、軍事を打って一丸となったイスラム共同体(ウンマ)は、こうしてメディナで初めて成立した。
  唯一神アラーの信仰を確立し、拡大していくためにはどうしてもメッカの守旧勢力を打倒しなくてはならない。彼らこそが伝統的な多神教と偶像崇拝をどこまでも守ろうとしている1番の強大な勢力であり、金銭的に大きな利権もからんでいる。ムハンマドはメッカとシリアの間を往来する隊商を片っ端から襲い、積み荷を略奪した。略奪はメディナに移ってから1年半の間に7回に及んだ。 また、ムハンマドは地盤の拡大にも努めた。散在するオアシスの町や遊牧民の部族を味方に引き入れ、敵対する勢力があれば容赦なく軍勢を差し向けた。これはアラーの正しい教えを広めるためのジハード(聖戦)だった。
  よく仏教、キリスト教、イスラム教が世界の3大宗教だと言われるが、開祖の性格に関する限り、イスラム教だけはかなり異色。釈迦もイエスも絶対の平和主義者だったのに対し、ムハンマドは信徒たる者は武器を取ってアラーのためのジハードに参加せよと説いた。このことはコーランの中にも繰り返し記されている。


イスラム教団国家の大発展
  メッカに入ったイスラム勢は、 360体あった多神教の神像を引き倒し、打ち砕き、唯一の真の神アラー、偶像で表すことは絶対に許されないアラーのみを信仰するべきことを高らかに宣言した。イスラム打倒の急先鋒だったクライシュ族の有力者達もこぞってイスラムに入信し、今度は逆にイスラムの大発展の中心勢力になった。メッカ以外のオアシスの町も、砂漠や草原で放牧に生きる部族もイスラムになびき、 632にムハンマドが亡くなるまでには、アラビア半島全域がイスラム共同体に加わるに至った。それまでアラビアの住民は多くの部族に分かれて、対立抗争を繰り返していた。先祖代々の敵同士というわけで、互いに相手の隊商や集落や牧地を襲撃して、物品や家畜を略奪していた。同族の1人が他部族に殺されたら、たとえこちらに非があっても相手部族のだれかを殺して復讐するというのが掟で、それが際限なくエスカレートしていた。ほとんど全ての部族がイスラムに入信した結果、果てしなく続いていた対立に終止符が打たれた。そして仲間同士の戦いに費やされていたエネルギーが、イスラムの旗の下に統合され、外征へと向かった。ムハンマド自身も跡を継いだカリフ(指導者)達も、部族の間で欝積していた戦闘意欲と略奪願望に捌け口を与えるため、アラビアから外に撃って出ることを奨励した。それは同時にイスラム勢力を拡大することにもなった。
  イスラムの教えは狭い意味での宗教の枠内に留まらず、政治、軍事、信徒の公私の生活を打って一丸とした信仰共同体を目指していた。外征によって広い領土を獲得し、信徒以外にも多くの被征服民を支配するようになると、教団国家へと成長する。ムハンマド亡き後、こういう教団国家の総指揮を引き継いだのがカリフ。初代カリフには、ムハンマドとも親しく大多数の信徒達から敬愛されていたアブー・バクルが選ばれた。彼はアラビア半島での内紛をおさめ、イラクやシリアに向かって遠征軍を送り始めた。彼の後継者オマルは質実剛健を絵に描いたような人物で、しかも人を動かす能力と政治・軍事についての大きなヴィジョンを備えていた。オマルの時代にイスラム教団国家は飛躍的な発展を遂げた。
  その頃アラビア北方では、ササン朝ペルシャとビザンチンという2つの老大国が対立していた。兵力や装備の点で遙かに劣るイスラム勢は、それでも攻撃を仕掛けた。ビザンチン帝国に対しては、まずシリア方面が戦場になった。640までには広義のシリアを完全に征服。ユダヤ教とキリスト教の聖地エルサレムが、イスラムの手に帰したのはこのとき。一方ササン朝ペルシャ帝国に対しては、まずイラク方面が戦場となった。637、首都クテシフォンを奪取。そしてイスラム勢は643頃には中央アジアのアム河畔や、インド亜大陸の西の境にまで進出した。ビザンチン帝国の穀倉だったエジプトも641、イスラム勢に占領された。物産が豊かで人口も多いシリアとエジプトを一挙に失ったビザンチン帝国は、この後国力が一気に衰退した。
  イスラム教団国家が短期間にこの様な大発展を遂げた背景には、現地住民の協力があったと言われる。イスラム教団国家の支配下に入ると、税金は数分の1に軽減され、行政や裁判なども極めて簡明かつ公正に行われたので、住民はイスラム勢の進出を喜んで迎えた。信仰の面でもイスラムへの改宗を強制するようなことはせず、住民の自由に任せた。ただ一旦イスラムに改宗してから又棄教したり、うわべだけ改宗して実際は異教の信仰を守り続けたりすることは、死をもって罰せられた。 教団の有力者たちの合議によってカリフが選ばれるという制度は、4代目のカリフ、アリーをもって終わった。ここまでの4人を正統カリフと呼ぶ。660、ダマスカスに本拠を置くウマイヤ家のムアーウィヤが、実力で自ら5代目のカリフだと宣言し、以後カリフの地位は世襲されるようになった。それと共に教団国家という特異な性格も薄れ、君主国と変わらなくなる。その間に領土の拡大も進み、8C前半には東はインダス川の下流地方から、西はイベリア半島に及んだ。ヨーロッパ人はこの国を、カリフ国またはサラセン帝国と呼んだ。サラセンの語源は、古代シリアとアラビアの境あたりにいたアラブ人の部族名。


コーランと聖書
  コーランの至る所に旧約聖書や新約聖書を下敷きにした記述が出てくる。もともと旧約聖書はユダヤ人の民族的な聖典であり、後にキリスト教徒もまたそれを自らの聖典とするようになったもの。新約聖書はキリスト教徒だけの聖典。コーランと聖書の類似点は多いが、コーランが聖書から借りてきているものは、個々の物語の筋ばかりではない。その根本になっている宗教思想、つまり唯一神の信仰、偶像厳禁、預言者、啓示、最後の審判などまで似ている。このようなことからも、イスラム教はユダヤ教とキリスト教を踏み台とする新興宗教として出現した。これら3つの宗教は、呼び名こそ違うが、同一の神を信仰する。ユダヤ教やキリスト教ではヤハウェ(エホバ)と言い、イスラム教ではアラーというだけの違い。同一の神を信仰してはいるが、内容的に掘り下げると大きく異なっている点がある。
  ユダヤ教のヤハウェが「ユダヤ人のためだけの民族の神」であるのに対し、アラーは全人類のための神とされている。この点ではキリスト教によって新しい意義を与えられたヤハウェが、全人類のための神とされているのと同じ。又キリスト教ではユダヤ教から唯一神、偶像厳禁の教理を受け継いだはずなのに、いつのまにかそれは怪しくなった。理論的にはなお唯一神の教理を掲げてはいるが、聖母マリアを初め、多数の聖人を拝む習慣が盛んになった。偶像厳禁にいたっては放棄したも同然で、イエス・キリスト、聖母マリア、多数の聖人、ほかの偶像が無数に造られている。さすがに父なる神ヤハウェそのものを偶像で表すことは避け、天の一角から祝福を与えている「神の手」を描くだけで満足していたが、そのタブーもルネッサンス時代には解け、神の全身像を描くようになった。宗教改革でこれらの点が是正され、少なくともプロテスタントでは聖母マリアや聖人の崇拝が廃止され、聖人像などもなくなった。これを考えるとムハンマドは偉大な宗教家で、狭い民族主義に捕らわれず、全ての人間に門戸が開かれているイスラムの信仰を創始し、またどう見ても不合理極まる偶像崇拝を根絶した。ムハンマドの考えが徹底したものだからこそ、イスラムでは今日に至るまで偶像崇拝の生まれる余地がなかった。


イスラムとユダヤ人
  ムハンマドと信徒達が最初に安住の地を得たメディナには、多数のユダヤ人が住んでいた。しかも彼らは農業で成功したり、経済力にものを言わせて水源となる井戸を掘り、不毛の地を農地にしたりして、有力な地主になった者も多く、勢力を振るっていた。最初ムハンマドは同じ神を崇める者として、ユダヤ人の協力と援助を期待していたが、ユダヤ人達は、自分達の先祖伝来の神を横取りしようというようなムハンマドの教説を苦々しく思い、彼を「神の名を汚すニセ預言者、大ぼら吹き」と見なした。メッカ勢との間の存亡をかけた戦いの過程で、ムハンマドはメディナのユダヤ人がいつ裏切るかも分からないと痛感し、逆に武力に訴えてユダヤ人を追放した。そしてキブラを文字通りエルサレムから180度転換し、メッカの方向と定めた。
  ユダヤ人やキリスト教徒は「啓示の民」と呼ばれ、イスラム教徒と同じ神を信仰する者として、むしろ親しみの目で見られていた。ただムハンマドを「最終的に完全に神の啓示を伝えた預言者」と認めないという点だけで、彼らは間違っているとされた。イスラム教徒が目の敵にしたのは、偶像崇拝に凝り固まっているアフリカの土俗信仰の徒であり、ヒンズー教徒や仏教徒だった。
  純然たる教義以外の点でも、ムハンマドはユダヤ人の信条からたくさんのアイデアを借りている。例えば豚は食べないというような食物禁忌がある。昔から今ではよく分からない理由によって、ユダヤ人は豚を食べないということを信条としてきた。それをただ受け継いだという以外、イスラムで豚を食べることを禁じた合理的な理由はない。ムハンマドは、ユダヤ人の信条をとても意識している。ユダヤ人が微に入り細に入り禁忌を守るのは、ユダヤ人が不遜であるがゆえに、罰として神様がより厳重な規則を課したからだという理論構成になっている。


礼拝はアッラーに直接対するべきもの
  イスラムでは祭司、僧侶、神官という聖職者は一切認められない。ユダヤ教にもキリスト教にも聖職者の制度があるのに、この2つの宗教を土台に成立したイスラムにこれが無いのは、イスラムの大きな特徴。全知全能なるアラーの前では人間の力は取るに足りぬもの。なのに、だれかがアラーと平信徒の間を取り持つことができる等と考えるのは、思い上がりだということ。これは集団礼拝の時に明確に表れる。礼拝者は全て直接にアラーに対するものとされ、礼拝者とアラーの間を取り持つ者としてだれかが介在することは許されない。全員の動きを揃えるために導師が選ばれるが、導師も同じように定められた礼拝の動作を行う。集団礼拝の導師を務めるのに特別な資格はいらない。敬虔な信徒で、礼拝の順序を心得ていればだれでもいい。
  実際、大抵のモスクには専任の導師がいる。これはムラーまたはイマームと言われる。この役目はモスクでの集団礼拝でリーダーを務めるほか、一般の信徒に教義を説き明かし、信仰を深めて正しい生活を送ることを勧め、冠婚葬祭の司式をすることにある。そのためムラーの存在は他の宗教の聖職者の場合に似ている点が多々ある。しかし説教をしたり冠婚葬祭の司式をしたりするのはいいが、信徒が神に向かって礼拝するについて仲立ちしてはいけないという大原則は、厳重に守られている。加持祈祷の類はもちろんできない。イスラムには新仏像に相当するものはないのでお賽銭は問題外だし、冠婚葬祭についての謝礼もごく少ない。ムラーの生活は、町や村が支給するささやかな給与、田舎の場合には村が提供する畑を自分で耕作したり、自分で羊を飼ったりすることで成り立っている。ムラーは地域住民のためにはなくてならない存在で尊敬されているが、生活は厳しい。
  神と人との間に他のものを介在させないという理念はイスラムの長い歴史で、必ずしも厳密には守られなかった。マグレブ3国にはおびただしいマラブー(聖者/聖職者廟)がある。これら聖者はみな、生前なんらかの意味で尊敬の対象となったイスラムの宗教家である。イスラムには聖職者はいない建前なので、これらの宗教家にも特別な資格はなかった。キリスト教の聖人のように一定の審査手続きを経て公認されたものでもない。回りの人々の支持によって、自然発生的に聖者として崇められるようになったもの。
  イスラム世界に、あってはならないはずの聖者が表れるようになった源は、神秘主義にあると言われる。神秘主義者の説くところは様々あったが、瞑想、特殊な鍛練、神秘的な体験などを通じて神と人間のあり方を探究した点では共通している。苦行を行い尊者と称えられるようになった者、大勢の弟子や信奉者を擁して一種の教団の開祖のようになった者、マグレブでは異教徒に対する戦闘集団の指導者になった者もいる。こうして原初イスラムでは考えられなかった個人崇拝の思想が生まれ、尊者とか聖者と呼ばれる者が表れるきっかけとなった。


イスラム建築工芸
  預言者ムハンマドは、唯一絶対神の教えと偶像厳禁の教えをどこまでも徹底して推し進め、いかなる妥協も許さなかった。神の像を造ることを禁じただけではなく、人間や動物の像を造ることも禁じた。このような像を造ることを許すと、いつしかそれが偶像崇拝に移行することを恐れたため。動物ばかりではなく植物さえも、あまり写実的な図像として表現することは認めず、抽象化され、図案化された草花文様、植物の花や枝葉を扱った唐草文様のようなものだけを認めた。幾何学模様やアラビア文字を図案化した文様は、偶像崇拝につながる恐れはないから差し支えないとされた。
  イスラム後期に入ってイスラムの戒律厳守の考え方がやや緩やかになってから、初めて動物の像がほんの少しずつ遠慮がちに表れ始めた。中央アジアやイランでは、聖者の廟の前にうずくまる犬やライオンの像を見かけることがある。これらは恭順のシンボルであり、聖者の傍らに葬られることを願った王侯や豪族の墓。もともとは異教を信奉していた騎馬遊牧のトルコ人が、イスラムに改宗してからこのような習慣が始まったと言われる。
  偶像を禁止されたイスラムの建築家達は、様々な工夫を凝らして宗教建築を建てた。第1に考えたことは、建物全体の外形の美しさ。イスラム建築は例外なく写真映りがいい。次に考えたのは、幾何学模様、草花文様、アラビア文字を図案化した文様を駆使して、壁面、柱、ドームの内外など建物の細部を美しく飾ること。ヨーロッパ人はこの3種の文様を総合してアラベスク文様と名付けた。細部を美しく飾る技法を生み出したのは、イスラム世界の中でも特にペルシャの建築家や工芸家達であり、それが広く東西に伝わった。その次に、平面プランにおいても立体プランにおいても、左右対称を厳格に守った。中心となる建物だけではなく、その前後左右に広がる庭園の植え込みや池、壁や門に至るまで全てが左右対称になっている 。


モスク
  イスラム教徒が集団で礼拝する場をマスジッドという。平伏するという意味のサジャダから来た言葉で、平伏して礼拝する場の意味。マスジッドが訛って中世スペイン語でメスキータ、中世イタリア語でメスケアと呼ばれるようになり、英語でモスクと言われるようになった。ムハンマドは「どんな場所でも礼拝の時間が来たらそこで礼拝をするべきであって、そこがマスジッドである」と言っている。できるなら集団で礼拝するのがいいとし、最初にメディナに移ったときただちに土地を買ってマスジッドを設けた。これは礼拝の場であるだけではなく、信者に教えを説き、新しく生まれたイスラム共同体の社会生活全般に渡る問題について話をする場でもあった。


ミヒラーブ/ミンバル
  イスラムは偶像厳禁の宗教であり、心像はもちろんのこと祭壇もない。ただメッカの方向が分かるようにモスクの正面奥の壁に窪みをつけてある。これがミヒラーブで、大抵はアラベスク文様の石の浮き彫り、彩釉タイル、モザイク、漆喰細工などで美しく飾られている。普通の民家でも自宅で礼拝するときのために1室にミヒラーブを設けてあることが多い。大きなモスクでは大抵ミヒラーブのすぐ脇に説教壇、すなわちミンバルが置かれている。ムッラーが説教をするところ。ムハンマドは僅か3段の階段がついている台のようなものに腰を下ろして信者達に語りかけた。みなの顔が見えればそれで十分という考え方だった。預言者として多くの人に尊敬されるようになってからも、威張るとか権勢を見せつけるといったこととは無関係だった。これが後にミンバルと呼ばれるようになった説教壇の始まり。


キブラ
  アラブ人はササン朝ペルシャを滅ぼした後、主な町に最初に建設した大きなモスクを金曜日のモスクと名付けた。金曜はイスラム教徒の安息日で、大礼拝が行われる。メッカの方向のことをキブラというが、心像も祭壇もない所で礼拝するイスラム教徒にとってキブラは大変重要なもの。そのために高名な天文学者や地理学者が招かれた。いったん金曜日のモスクのキブラが決まると、後からできるモスクも、大勢の人たちが自宅に設ける礼拝場も、全て金曜日のモスクのキブラに右に倣えするわけだから責任は重大。今のように正確な地図が無く、緯度の測定はできても経度というものが厳密に定められていなかった時代に、キブラを決めることは至難の技だった。


アザーン/ミナレット
  イスラム教徒は1日に5回、メッカの方角に向かって礼拝する。アザーンとは、礼拝の時が来たことを人々に知らせ礼拝を勧める詠唱。唱える人をムアッザンと言い、よく通る美声の持ち主が選ばれる。今は例外無くどこでもミナレットに拡声器を取り付け、マイクでアザーンを流すが、元来は肉声だったので、声が大きくて遠方まで届くことも大切だった。アザーンの目的は、1人でも多くの信者に礼拝への呼びかけをすること。モスクの塔のことをミナレットという。実用的な目的は、塔に登ってアザーンを唱え、遠くまで声を響かせること。更に塔は人目に付くので、デザインに工夫を凝らせばモスク全体に一層の美しさと威厳を加えることができる。そのため建築家達はミナレットのデザインに力を注ぐようになり、イスラム圏の各地域でそれぞれ特色のある様式が発達した。また、高いミナレットが敵に対する物見やぐらの役目を兼ねた場合もある。


メドレセ
  メドレセ(マドラサ)は、イスラムの宗教教育を施すことを目的として設立された学舎。基本プランは、中庭を囲んで四方に部屋が広がるというもの。中庭の真中には大抵泉があり、礼拝の前に顔や手足を洗い清める。また飲料水を提供し、暑い夏の間は涼感を盛り上げるという効果もあった。宗教教育の場として当然のことながらメドレセでは礼拝が極めて重視されていた。1日の授業も礼拝で始まるのが習わしだった。そのためメドレセの1階には必ず礼拝室がある。中庭の正面にあるのが通例。他の部屋よりも格段に大きく、壁面や天井には装飾が施された。礼拝がすむと礼拝室もまた、教室の1つに早変わりした。その他1階にある部屋は割と大きく教室として使われた。2、3階の部屋は大体において小さく、学生の宿舎と小教室を兼ねていた。学生に関する限り、メドレセは原則として寄宿制だった。近代に入ってメドレセがもはやイスラムの学舎として使われなくなったとき、多くのメドレセは世間に払い下げられ、集団住宅、商店街、レストランなどに転用された。外国人観光客向けの大きな土産物屋とか、絨毯屋に変貌してしまったメドレセもある。
  日本やヨーロッパでも長い間そうだったが、人に読み書きを教えられるような知識人と言えば大部分は僧侶だった。僧侶は第1に学識があり、第2に暇があり、第3に寺院とか教会というスペースを持っているので、学校の前身となるような形での教育を始めるには持ってこいだった。イスラム世界でも同様で、どのモスクにもいるムッラーが希望者を集めてものを教え始めたのが初歩的な教育の起源。
  最初はもっぱらコーランの読み方やイスラムの教義について教えていた。コーランはアラビア文字、つまりアルファベットと同様の表音文字で書いてあり、文字の数も限られているので子供でも容易に覚えることができた。そういう訳でコーランの読み方を教えるということは、読み書き一般を教えることと同じだった。やがて気のきいたムッラーなら、読み書き一般とともに算数なども教えるようになる。更に高度の学問を納めたい者は、飛び切り博学のムッラーを探して助手にしてもらったり、高名な学者の下に弟子入りしたりした。このような状態の中で高等教育を組織化しようという目的で10C末頃に現れたのがメドレセという制度。
  その後のイスラム世界の各地で、やり手と言われる為政者は大抵みなメドレセの開設に力を注ぎ、なんらかの理由で放棄されたメドレセの復興に努めた。それは確実に施主の名声を高めることにもなった。地域によってメドレセは、施主とその家族の廟墓を内部に併設するという目的のためにも造られた。イスラムではモスクの内部に墓を設けることは許されていなかったので、為政者達はメドレセを造り、その1部を自分たちのための豪華な廟墓として使った。同じ建物の中で日やコーランが詠唱される結果にもなり、墓で永眠している者にとっては無上にありがたいこととも考えられた。メドレセの施主である為政者としては、1つには自分を支持してくれるリーダーをたくさん宗教界に送り出すことが狙いだった。2つには自分の手足になって働いてくれる有能な行政家をたくさん得ることが狙いだった。イスラム法学、数学、文書作成能力などを身に付けた卒業生は行政家として打って付けだった。
  メドレセの強化は最初はイスラム神学、イスラム法学、アラビア語学などが中心だったが、そのうちに論理学、数学、天文学、医学、化学等が加えられていった。学問の分野が広がるにつれて師弟の別という固定した考え方が取り払われ、ある分野では師である者も、自分の弟子にあたる者に他の分野については教えを受けるというふうだった。貧乏人の師弟でも向学心のある者はメドレセで勉強できるように、奨学金や衣食が支給された。メドレセは信託財産・ワクーフを持っているのが普通で、その収益によって維持管理費・先生への報酬・先生と学生の食費を賄うことができた。
  学問研究や人材養成の面で大いに効果を上げていたメドレセの制度も、時代が下るにつれて次第に硬直化した。メドレセの役割として残ったのは、職業的宗教家であるムッラーを養成することだけだった。今でもこの目的のためにだけ、ごく小数ながら昔からのメドレセが存続している。

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