キリスト教

  旧約聖書:ユダヤ人の先祖であるアブラハムやモーセなどを通じて、人間が神と結んだ古い約束。新約聖書は、神の子イエス・キリストを通じて信者が神と結んだ新しい約束。ユダヤ人はイエスが神の子であると認めず、ユダヤ人にとって聖書は世にいう旧約聖書だけ。旧約聖書はユダヤ人が語り伝えてきた神話、伝説、信仰、神を祀る方法についての決まり、日常生活で守るべき規則、ユダヤ人の歴史、宗教文学などを集大成したもの。彼らは非常に宗教的な民族で、預言者(神の言葉を預かって人々に伝える任務を自覚した者)がいつの時代にも現れて、預言書を残した。旧約聖書にはこれらの預言書も含まれる。最終的に現在のようにまとめられたのは90年頃。それまで千数百年に渡って古い伝承の記述、加筆、編集、新しい記述の追加などが繰り返された。


新約聖書:神の子イエス・キリストを通じて信者が神と結んだ新しい約束。キリスト教徒にとっては新約聖書こそが究極の聖典で、旧約聖書はどちらかというと副次的なもの。長短合わせて2つの書からできていて、4つの部分に大別される。


四福音書:イエスの生涯と教えが記される。マタイ、カルコ、ルカ、ヨハネという4人の福音書記者が、ある程度は共通の資料に頼りながらも独自の目的と見解に沿って書いたもの。福音は喜ばしい知らせという意味。物語性が豊かでヨセフの夢、受胎告知、イエス降誕、三王礼拝、ヘロデ王の幼児虐殺、聖家族のエジプト行、洗礼者ヨハネ、ヨルダン川でのイエスの洗礼、イエスのエルサレム入城、最後の晩餐、ゲツセマネの園、イエスの裁判、磔刑、イエスの復活とマグダラのマリアなど、宗教美術の上でも名高い話が次々に出てくる。
・使徒言行録:イエスが世を去った後の弟子達の言行が記されている。やはり物語性に富み、ペトロの活躍、パウロの改心と伝道旅行などの話が出てくる。

・書簡集:弟子達が各地の教会や信者宛に送った手紙が収録されている。

・ヨハネの黙示録:迫害が激しかった時代に、信者だけにわかる謎のような表現で書かれた宗教文学。解説書と突き合わせながら読まないと意味がわからない。さまざまな人物、動物、怪獣などが登場し、物語は多彩を極める。

12使徒:ペトロ(本名シモン)、その兄弟のアンデレ、ゼベタイの子ヤコブ、その弟ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ(ルカ福音書ではヤコブの子ユダ)、熱心党のシモン、イスカリオテのユダ。昔は庶民には姓がなく、同名の人がいて紛らわしい場合には「誰某の子」と父親の名前を添えたり、出身地名を添えたりした。イエスというのもありふれた名前で、出身地名を添えてナザレのイエスと呼ばれた。熱心党というのは、ローマからの独立を企て、武装蜂起も辞さないとした一派。イエスはガラリアを歩いて教えを説いているうちに信者の数が増えて手が回らなくなったので、特に12人を選んで補佐をさせた。12はユダヤでは円満を表した。イスカリオテのユダが離反して死亡し、イエスも世を去った後、古参の弟子達の中からヨセフとマティアが選ばれてくじ引きでマティアだけが12使徒に加えられたことからも、12という数字に特別な意義があったことがわかる。


カトリックとプロテスタント:カトリックの語源はギリシャ語のカトリコスで、普遍的という意味。ごく普通にはローマ法王を首長とする宗派。かつてヨーロッパの宗教界はカトリックの絶対的な支配下にあった。イエスは天国に入る鍵をペトロに授けたとされているのを根拠に、ペトロの法統を受け継いでいるローマ法王を通じないことには、天国には入れないというのが、カトリック信仰の核心をなす教義。この教義を排し、聖書に記されているイエスの教えに帰ろうというのが福音主義。16Cに法王庁が免罪符を大々的に売り出したことに端を発し、宗教改革が起こり、法王の権威を否定して福音主義に基づくプロテスタントの諸派が生まれた。お金を出して法王の免罪符を買えば罪が許されて天国へ行ける、などという考え方は容認できなかったということ。プロテスタントとは、抗議する者の意味。
 プロテスタントは司教、大司教の制度を廃止。カテドラルはない。また、修道院も廃止した。聖書に根拠がなく福音主義に反する聖母マリア崇拝、聖人崇拝、聖遺物崇拝を廃止。この観点から聖堂の内外にあったたくさんの聖母マリア、天使、旧約聖書に出てくる人物、聖人、魔性の者、奇妙な動物などの像をほとんど全部取り払った。儀式の荘重さだけを追う感があるということで、ミサという形態での聖体祭儀も廃止した。


三位一体:父なるヤーウェ(エホバ)、子なるイエス・キリスト、そして聖霊は3者それぞれ別の形で現れるが、本来は一体であるという神学上の考え。日本人は八百万の神々という考え方に慣れているので、神様があれこれ多くござらっしゃっても気にならない。ところがキリスト教は一神教なので、それでは困る。そこで「宇宙には唯一の神しか存在しない」という一神教の大原則と、ヤーウェも神、イエス・キリストも神、そして聖霊は神の分身のようなものという考え方との間の矛盾を解消するために、三位一体論が生み出された。20Cの人物である乃木大将や東郷元帥でさえ神として祀ることを異としない大半の日本人には想像し難い。ギリシャ正教、ローマ・カトリック、プロテスタントが三位一体論の主流派に属する。このような考え方に対し、コプト派、エチオピア派、シリア派、アルメニア派のキリスト教は「イエスキリストは終始一貫して純粋に単一の神性を持っていた」と考え、キリスト単性論を唱える。


洗礼:洗礼を受けることで本当のキリスト教信者になることができ、それまでは未信者と呼ばれる。全身を水につける全身洗礼、聖水を頭に振りかけるだけの滴礼という2通りの方法がある。現在では大部分の宗派が滴礼。赤ちゃんに洗礼を施すことを幼児洗礼という。ヨーロッパで洗礼と言えば普通は幼児洗礼で、生後2日から1週間の間に受けることが多い。もし赤ちゃんが洗礼を受けないうちに死ぬと、まだクリスチャンではないので天国に行けないと信じられているから。昔はすべて全身洗礼だったので、赤ちゃんは風邪を引いたり肺炎にかかったりして命を落とすこともあった。それで真冬に赤ちゃんが生まれると、天国に行けなくなる危険を承知の上で、春が来るまで洗礼を見合わせる親も多かった。
  赤ちゃんの時に洗礼を受けても本人は何もわかっていないので、10歳くらいになると神父について教理を学び、カテキズムという口頭試問を受ける。これに合格して初めて一人前の信者と認められ、聖体を拝領できる。試験は決まりきったもので、普通なら合格すること間違いない。これを堅信礼、初聖体という。
  洗礼盤は、全身洗礼だった古代には床に造り付けるのが普通だった。中世以降には大に水盤を乗せた形になり現在まで続いている。ほとんど例外なく幼児洗礼だけとなり、幼児洗礼だけならこれがちょうどいい。教会の格が上がるにつれて、洗礼盤はより大きく、豪華になる。イタリアの大聖堂の場合は、本堂とは別に洗礼堂を造る伝統がある。
  洗礼にあたり、実の父母に代わって教父、教母が大事な役を努める。司祭が教父母に「この人の洗礼名は?」と尋ね、あらかじめ希望を聞いていた名前を告げる。司祭はその名を呼び「父と子の聖霊の名によってあなたに洗礼を授けます」と言い、聖水を頭にかける。ギリシャ正教ではこの考え方が大切で、洗礼が終わるまではその名で呼ばず、「赤ちゃん」と呼ぶだけで洗礼の時を待つ。時として違う名で決まってしまうこともある。父と子の聖霊の名によって名前が決まれば変更はできない。教父母が有力者の場合、いろいろな人からいろいろなことを頼まれ、聞いていた洗礼名を間違ってしまうこともある。
  戸籍がなかった時代、幼時洗礼の記録が時として貴重な資料となった。有名なところではベートーベンの例。彼の父が息子の才能に気づき神童ピアニストとして売り出そうとしたとき、息子は7歳だった。それでは神童の先輩モーツァルトが5歳でデビューしたのに遅れをとると、2歳サバを読み、本人にも世間にも5歳だと思い込ませて売り出した。そのためベートーベンは死ぬまで自分の年齢を2つ若く間違えていた。後世の研究家が教会でベートーベンの幼児洗礼の記録を見つけ、誤りを確証した。


司教、主教:司教も主教も同じ。日本ではカトリックの場合には司教、ギリシャ正教などでは主教という習慣がある。イエスは生前、教会組織については何も定めなかったが、信者が多くなるにつれて組織を造る必要が生まれた。それで地理的な区割りを決め、それぞれにギリシャ語で監督という意味のエピスコポスを置いた。最初司教はその司教区で最も徳望の高い人が選ばれた。キリスト教が迫害されていた時代には司教は命がけで、迫害が始まると真っ先に狙われ、多くは壮絶な殉教をした。キリスト教が公認されローマ帝国の国教になると、司教の地位は高い栄誉と権力を意味するようになり、莫大な収入を伴うようになった。中世には司教の上に大司教が生まれた。大司教は1国に1〜2人が普通。


枢機卿:ローマ法王長の元老院を構成し、法王の最高顧問として政策の決定や遂行に参与する人たち。新しい法王を選出するのも枢機卿団の権限。総数は145人以内で、法王が任命するが、その多くは司教。紺か深紅の帽子と衣が枢機卿のシンボル。


大天使ミカエル:天の軍勢の総帥とされ、悪魔、特に病魔を退散させると信じられている。そのため甲冑をつけ、長い剣や槍を手にし、足下に悪魔や悪竜を踏みつけている姿で表される。八幡大菩薩のキリスト教版。また天と地を往来すると信じられている。ミカエルの像や御堂が高い建物のてっぺんや岩の頂上に建てられることが多いのは、天から降り立つのにふさわしい場所と考えられるから。更に死者を冥土に導くとされている。最後の審判の図像ではキリストの足下にミカエルがいて、死者の魂を秤にかけ、左側の天国、右側の地獄へと死者を送っている。


ギリシャ正教:古代末期から中世にかけてキリスト教の2大中心地は東のコンスタンチノープルと西のビザンチン(ローマ)だった。コンスタンチノープルはビザンチン(東ローマ)帝国の首都で、総大主教がいて、全キリスト教世界のトップであると信じていた。方やローマ法王は、ヨーロッパの広い範囲に渡って教圏を拡大し、実力では1番になった。両者は長い間主導権争いを続け、1054に分裂。西のローマ・カトリックに対し、東のギリシャ正教(単に正教ともいう)という呼び方が定着。
  ビザンチン帝国が健在だった間、ギリシャ正教は皇帝首長主義をとっていた。つまり皇帝が教会組織の首長でもあり、コンスタンチノープル総主教といえどもその下に属した。9C頃からブルガリア王国が、次いでセルビア王国が強大になり、ビザンチン帝国と政治的にも軍事的にも抗争するようになると、組織の矛盾があらわになる。敵国ビザンチンの皇帝がギリシャ正教全体の首長であるという組織に反発し、国ごとに総主教を立てて教会を独立させた。これがブルガリア正教、セルビア正教と呼ばれるもの。後にトルコがビザンチン帝国を滅ぼし、バルカン半島の大部分を征服したことをきっかけに、ロシア正教、ルーマニア正教、狭義でのギリシャ正教などが成立。これらを国民教会と呼ぶ。分離独立しても、コンスタンチノープル総主教が精神的な意味では最高権威を持っていることは認め、教義、典礼、聖堂建築、宗教美術などの基本においては変わりなかった。このすべての国民教会を引っ括めて広義のギリシャ正教、または「正統」を意味する正教(オーソドックス)と呼ぶ。この場合の「ギリシャ」は、ビザンチン帝国に受け継がれたギリシャ文化圏全体を指し、ギリシャ正教と言われる。
  ギリシャ正教の受難の1つ目はアラブ、トルコの侵出。トルコはコンスタンチノープルを1453に攻略し、その後200年に渡りロシアを除く正教諸国を征服。その時期に西ヨーロッパは大発展。東側の正教圏ではこの進歩の波から完全に取り残された。もう1つは、正教圏とカトリック圏(プロテスタントを含む)の文化伝達手段である共通語のギャップ。カトリック圏では、公文書・記録・大学講義・出版などすべてラテン語で行われ、新しい思想やルネッサンスの理念、自然科学や技術についての新しい知識など、国境を越えて各国に広まった。これに対し正教圏での共通語はギリシャ語で、正教圏に新しい文化は伝わらなかった。
  カトリックの聖堂では縦が横よりも長いラテン十字型。これに対して正教の聖堂は縦と横の長さが同じギリシャ十字型。中心に1つの大きなドーム、回りに4つの小さなドームがある。カトリックの聖堂と比べて更に根本的な違いは、正教の聖堂には立体的な彫像が全くないこと。キリスト教は元々偶像禁止の宗教だった。旧約聖書には「金や石などで偶像を造ったり、偶像を拝んだりしてはならない」という戒めが度々出てくる。形あるものを拝みたいというのは人情の常で、時代と共にキリストや聖人を象った聖像が現れ、現場で布教にあたる僧はこれを歓迎した。目に見えない神様について難しい講釈をするより、いかにも霊験あらたかという聖像を持ち出す方が布教の効果があった。これに対する教会上層部や神学者の反応は西のカトリックと東の正教では大違いで、西では偶像厳禁はなし崩しに的に骨抜きになり、聖堂内外は聖像であふれている。東では長く論争が続き、彫像はたたき壊され、壁画やモザイクまでこそぎ落とされた時期もある。何らかの形での聖像が必要で最後には妥協が成立し、立体的な彫像は駄目だが、平面的な絵画やモザイクによる聖像ならいいという線で決着した。


イコン:普通は板切れにキリスト、聖母マリア、諸聖人などが描かれているもの。そこに表されている「聖なる姿」を通じて、本当は目に見えない神に祈りを捧げ、信仰を深めようとするもの。ギリシャ正教の神学論では「イコンという物その物、イコンを構成している板切れや絵の具などを聖なるものとして拝むものではない。イコンに描かれているキリスト、聖母マリア、諸聖人を仰ぎ見ることによって見えざる神に思いを託し、祈りを捧げ、信仰を深めようとするのである」とされる。カトリックの聖画像は生身の人間と同じ姿で克明に写実的に描かれているのに対し、ギリシャ正教のイコンでは意識して写実を避け、すべてを非現実の世界、聖なる彼岸の存在として描いている。正教の聖堂では内陣と会衆席の間に仕切りがあり、イコンが並ぶ。この死きりはイコノスタシスと呼ばれ、ギリシャ語で「イコンがとどまる場所」という意味。日本では聖障壁という。内陣は聖職者だけが立ち入ることを許された至聖所で、礼拝の時には聖職者が何回もイコノスタシスをくぐって内陣と会衆席の間を行ったり来たりする。イコノスタシスは正教の聖堂の大きな特徴の1つ。


カテドラル:司教がいる教会。カセドラル・ドゥオーモ・大聖堂・大寺院、みな同じ。ローマ・カトリックでは教会組織の地理的な基本単位は司教区。各司教区には司教がいて、司教区内のすべての教会を監督し、事務を統轄している。カテドラルは、司教がいる教会のこと。厳密には司教の椅子、司教座がある教会のこと。つまり司教は司教区に1人、カテドラルは各司教区に1つ。ローマ法王も司教の1人だが、カトリックでは教皇と呼ぶ。


チャペル:チャペルには2種類ある。1つは宮殿・城・病院・学校等の内部に造られ、部外者が使う礼拝の場。教会が一般のための礼拝の場であるのに対し、私的な性格を持つ。もう1つは、大きな教会の内部に区画を設けて造った小部屋。側廊や周回廊に沿って並ぶ。日本ではこれも礼拝堂と訳すが、独立した建物ではないので、礼拝堂という語感からはずれる。


バジリカ:語源はアテネにあった王の執務所(バシリケー)。民主制で知られるアテネにも古い時代には王がいて、神事と刑事裁判だけを司っていた。この王が執務をした建物で、ごく簡単な柱廊のような建物だった。ローマ人がこのアイデアを受け継ぎ、大きな長方形の建物に仕上げたのがバジリカ。バジリカは首都ローマを初めとして広大なローマ領の各地に建てられ、裁判、演説、見本市などに使われた。長方形の広い室内の両側に柱が並び、1番奥には小さな半円形の出っ張り(アプス)があり、その前に演壇が置かれていた。キリスト教が迫害されていた時代には信者は個人宅に集まって礼拝をした。キリスト教が公認されると、礼拝する場所として教会が造られるようになる。集会に好適な建物はバジリカで、バジリカ式教会と呼ばれる。バジリカにはローマ時代の集会所と、初期キリスト教の教会としてのバジリカがある。もう1つ、何らかの理由によって特別に尊い意義があるとされている教会もある。この場合は教会が建てられた時代や様式とは何も関係がない。


聖人崇拝:聖人というのは、聖人に列せられた人。初期の聖人の多くは殉教者だが、実在したかどうかが疑わしい伝説的な人もいる。昔は列聖の基準は曖昧だったが、今では厳重な規定がある。キリスト教初期には殉教者や偉大な伝道者の墓の上に教会を建てた。後に続く信者が大先達の教えに思いをいたし、自らの信仰を強めるきっかけにする趣旨だった。この趣旨は時代と共に忘れられ、聖人崇拝が始まるきっかけになった。民衆は聖人にお祈りすれば、もっと直接的に墓に手を触れてお祈りすれば願いを聞き入れてくれると信じるようになった。これはキリスト教の本旨に反することだったが、民衆の動きは強くなるばかりで、僧もこれに巻き込まれる。12C頃には僧が先頭に立ち、ありがたい聖人のご利益を大々的に宣伝するようになった。評判が高くなると参拝者や巡礼が押しかけて、賽銭の上がりが莫大となったから。キリスト教は一神教なので、聖人にお祈りするのは間違い。そこで、聖人にすがって神様に取り成してもらうという神学論が考え出された。


聖遺物崇拝:遺物に霊力が宿っていて、救ってくれるという考え。イエス・キリストについては生まれたときに寝かされていた飼い葉置け、処刑の前に被せられた茨の冠、十字架に手足を打ち付けられたときの釘、十字架、傷口から流れ出た血、右脇腹を突くのに使われた槍などが遺物。真の十字架の一片と信じられているものは各地にあり、全部集めると家が1軒建つ。聖血も各地に多数あるが、2000年後の今日までも何故か凝固も腐敗もしない。昇天していない一般聖人については、五体満足な遺骸が1番の聖遺物で、遺骸の1部というのが次に有り難がられる。特に頭蓋骨や祝福を与えるのに使われた右腕は尊重される。霊験あらたかな聖遺物が安置されているかどうかで、賽銭が桁違いだっただけではなく、格付けにも左右したので、どこでの聖遺物の獲得に躍起になった。既存の聖遺物には限りがあるので、目をつけられたのが古代の殉教者。ある夜ある聖人の霊が司教の枕元で告げる。「我が骸はこれこれしかじかにあり、改葬して崇めよ」。あらかじめ古代の墓地であることを確認してあるので、掘ればだれかの遺骸は出る。鰯の頭も信心から。各地で聖遺物の発見が相次ぐと、同じ聖人の遺骸が数カ所にあるという事態が起きた。どこも自分のものが本物と主張したが、判定を下したのは民衆。病気が治る、手足が動くようになる、捕えられていた人が帰ってきたなど、奇跡がじゃんじゃん起きるものが本物。発見された聖遺物の霊験のあらたかさを宣伝したかったのは門前町の民衆も同じで、聖遺物の不思議な威光は高まるばかりだった。中世末期になると聖遺物の発見はほとんどなくなり、代わって既存の聖遺物の分骨が行われるようになった。そのため骨の微少な1片や頭髪数本が入っているだけの小型の聖遺物箱が多く作られるようになった。
  聖遺物は需要が多く高値で取り引きされたので、聖遺物(らしきもの)を作って売るといい商売になった。尊い聖人の以外の1部と称して売るために墓を盗掘する者もいた。11C末に十字軍の遠征が始まり、東西の間で人の往来が活発になると聖遺物の数は急激に増えた。東方から持ち帰ったというといかにも本物らしく思われ、ヨーロッパ各地で珍重された。


聖遺物箱:大きなものは人間が横たわれるくらい、小さなものでは掌に載るくらいの大きさ。形はミニチュアの御堂、石棺、厨子、右腕、塔など様々。石や木で作られたものもあるが、多くは金属製ですばらしい彫刻が施されていたり、金銀宝石、宝石、七宝(エマーユ)で飾られていたりする。お祭りで御神輿のように練り歩くことを目的に、絢爛豪華な作りにしてある。聖遺物箱は、中世工芸美術の精華の1つ。


守護聖人:個人、職業団体、都市、国などがそれぞれ特定の聖人が守ってくれていると信じている。それが守護聖人。例えばイギリスの守護聖人はセイント・ジョージ(聖ゲオルギオス)、ヴェネチアは聖マルコ、大工はマリアの夫聖ヨセフ(大工だった)、画家は聖ルカ(画才があり、マリア像を初めて描いた)など。個人については洗礼名と同じ名の聖人が守護聖人。


何故ユダはイエスを裏切ったか:12使徒の中でユダだけがガラリア出身ではなく、イスカリオテ出身のシモンの子だった。イエスに付いていけば将来は薔薇色だと思って弟子入りし、会計を任されていた。ところが状況は薔薇色どころか全くの灰色。アルバイトや信者の貴信を頼りにかろうじて食いつないではいた。こちらは師弟共にみすぼらしい姿なのに、立派な衣装で闊歩する祭司長や長老達は威風堂々として見えた。ユダは望みを失い、師を見限った。しかもただ立ち去るのではなく、「民衆のいない所でイエスを捕えるように手引きをしたら金をくれるか」と、祭司長達に持ちかけた。彼らは話に乗り、銀貨30枚を出すと約束した。
 伝説では、最後の晩餐でイエス・キリストを裏切ろうとしている者がいると聞かされたペトロは、「そんな悪い奴は成敗してやる」と食卓のナイフをつかんだ。図星を指されたユダはびっくり仰天した弾みに食卓の上にあった塩入れをひっくり返した。以来、食卓で塩入れをひっくり返すことは大変縁起が悪いとされている。


生けにえ:農耕民族の日本人にとっては奇異だが、動物を焼いて神に捧げることは牧畜民族の間では太古から広く行われていた。人間を捧げる場合もあったことはギリシャの英雄伝説などからも伺われる。BC8C頃、パレスチナの北隣のフェニキアでは、一家の長男を赤ちゃんの時に焼いて神に捧げる習慣があった。「神は人間を救うために一人子イエスを犠牲にされた」という新約聖書のテーマに対応するものとされ、キリスト教では大変重視されている。


聖餐式(ミサ):イエスがパンを「とりなさい。これは私の体である」と言い、葡萄酒を「これは多くの人のために流される私の血、契約の血である」と、最後の晩餐で話す。聖餐式はこれを記念して行われる礼拝のこと。契約の血は、イエスが犠牲になることによって、神が多くの人に救いを与える約束をされたというキリスト教の根本理念を表している。聖別と呼ばれる儀式を経たパンと葡萄酒を、キリストの体・キリストの血として拝領する聖餐式(ミサ)の紀元はここにある。日曜や特別な日に行われる。パンは普通のパンではなく、聖餅というウエハースのようなものが使われ、神父が直接1人1人の口に入れる。葡萄酒は金属性の大きな杯に入れ、1人1人に飲ませる。聖別の儀式を経てキリストの体、キリストの血となったパンと葡萄酒を頂くことを聖体拝領という。
   昔、カトリック教会では聖餐式はすべてラテン語で行われた。民衆にとってはちんぷんかんぷんだったので、司祭が式の終了を告げる言葉だけをひたすらに待った。それがイーテ・ミッサ・エスト「行け、解散されたり」だった。司祭も心得たもので、ひときわ高らかにミッサと唱えた。
 中世には王侯貴族の子弟で僧籍に入り、世俗の縁故で司教になる者もいた。中にはラテン語がよくわからず、ミサを挙げられない司教もいた。そういうときには下役の僧で学識のある者がプロンプターを勤め、司教はただ口をもぐもぐさせたり、言われる通りに十字を切ったり、パンと葡萄酒を聖別する仕草をするだけでことは済んだ。司教座聖堂はとても大きく、内陣の祭壇の前で司教が何をしているのかは会衆席からよくわからなかった。現在ではマイクを使うので、司教がミサを挙げているときにはその声が堂内に響き渡る。


十字架張り付け:手足を釘で打ち付けておくだけだと肉が裂け、皮が破れて体が落ちてくる恐れがあったので、足の下に横木を添えたり十字架を少し後ろに傾けたりして立てた。それでも手足の釘に体重がかかり、激痛が死まで続いた。出血と裸で人目に晒されていることで、喉の渇きにもさいなまされた。体力のある者ほどいつまでたっても死ぬことができず、4日も5日も責め苦にあい、早く殺してくれと哀願した。イエスの場合は朝9時頃に十字架につけられ、その日の午後3時頃絶命。その後ローマの兵士が槍で右の脇腹を突いて死亡を確認した。


INRI:イエスの磔刑の絵で、十字架の上にINRIの4文字が掲げられていることがある。ラテン語で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」を意味する Iesus Nasarenus, Rex Iudaeorum の頭文字。福音書によって違いはあるが、そういう旨の罪状書きを掲げたと記されている。


復活祭:日曜。翌日の月曜はイースターマンデーで休日。ギリシャではユリウス暦を基準にするので、他の国とは日程が違うことがある。そして金〜月まで完全に休日となる。ヨーロッパでは2週間ほど休み。


棕櫚の日曜日:復活祭直前の日曜日。イエスがエルサレム入城した時のことを、ヨハネ福音書では「多くの民ども、棕櫚の枝をとりて」とあり、棕櫚の日曜日という。ヨーロッパでは棕櫚その他椰子の類はごく限られた場所にしかない。地中海沿岸諸国などでは代わりにオリーブの枝をもって教会へ行き、祝福を受けその枝を家の入り口やベランダ、商店なら店、農家なら家畜小屋などにも取り付ける。そうすると神様の加護があって家内安全、商売繁盛、無病息災と言われる。翌年の棕櫚の日曜日に新しい枝と取り替える。枝に紅白の布を巻き付けたり、リボンを垂らしたり、造花や果物の飾りを結びつけることもある。これをパルムと呼び、常緑種の枝を椰子の枝に見立てている。


聖週間:たいていは教会での礼拝が行事の中心だが、スペイン、特にアンダルシア地方では盛大な行列が行われる。十字架のキリストや飾り立てられた聖母マリアの像を乗せた輦台が担がれ、ロウソクを持つ人、三角頭巾をすっぽり被ったペニテンテ(悔悟者)と呼ばれる人と一緒に町を歩く。クライマックスは土曜の真夜中。12時になると教会の鐘が一斉に鳴り、集まった人が騒ぐ。この季節には卵型のお菓子や、飾りのついた卵型の容器に入ったお菓子が売られる。卵は生命再生のシンボルで、復活祭にふさわしい贈り物とされている。ウサギも使われるが、ウサギはゲルマン人が「春の女神」のお使いであると考えていたことから、復活祭のシンボルになった。


キリスト昇天節:イエスは十字架の死の後3日後に蘇り、40日ほど地上にいて昇天した。これを祝う日で、必ず木曜日。礼拝以外の目立った行事はないが、商店は全休。


聖霊降臨節:復活祭から50日目の日曜日。五旬祭、ペンテコストとも呼ばれる。元々ユダヤ人が新穀を捧げて収穫を感謝するお祭りだった。後に全く別の意味でキリスト教の祭日になった。イエスの弟子達によって、民俗や言語の違いを乗り越えて多くの人にキリスト教が伝えられるようになったことを象徴する日。英語ではホワイトサンデー、白い日曜日。白い服で教会に集まり、教会中が白く見えたため。教会での礼拝が行事の中心。翌月曜と2連休になる。


コルプス・クリスティ:復活祭から61日目の木曜日。カトリックだけの休日で、キリスト聖体の祝日と呼ばれる。聖別されたパンはキリストの体であるということが信じられなかったボヘミアの僧ペーターの前で、列聖されたパンから鮮血が流れ出た。この奇跡が起こった日。行列が行われる町もある。


聖母マリア被昇天節:8月15日。カトリック地域とギリシャ正教地域の祝日。C前後数日間店を閉める所もある。


万聖節:11月1日。諸聖徒の祝日。ALL SAINTS'DAY 。カトリック地域の祝日で、すべての聖人を追憶し、その徳を偲ぶ日。


万霊節:11月2日。亡くなったすべての人を偲ぶ日で、墓参りをする日。ALL SOULS'DAY 。休日ではない。


アドヴェント:クリスマスの4つ前の日曜日からの1カ月間。


エピファニー:1月6日。イエスが初めて公衆の前に姿を現した日で、東方の3博士(占星術学者)がイエスを拝みに来た。


教会内の礼拝堂:土地の金持ちが権力と財力にものを言わせて作ったもので、その一家の私的行事に使われた。その代わり彼らは教会で何か特別にお金のかかることをするとか、建物の補修や改築の時には、一般の人とは桁違いに大きな金額をぽんと出すことになっていた。本来教会は広く公共のもので、私的な区画を構えているのはおかしいので、今ではすべてが公共化されている。


祭壇画:元々は祭壇の飾りで、せいぜいのところ信仰心を高めるという作用しか持っていなかったが、いつの間にか五本尊の役を努めるようになった。「どこそこの祭壇画に手を触れてお祈りするとご利益がある」というような受取型。多くの祭壇画は3面形式になっている。昔は霊験あらたかという評判の高い祭壇画は、勿体振って普段は締め切っておき、年に1度か2度の御開帳の時にだけ恭しく開き、鳴り物入りで人を招き寄せた。そうすると有り難みも増し、大盛況になった。


宝物庫: 
・聖杯;ワイングラスを大きくしたような金属製のカップで、聖餐式の時に葡萄酒を入れる。 
・聖体顕示台;モンストランス。聖別されてキリストの体と化したパン、聖餅を置いて信者に拝ませる。 
・司教杖;元々は羊飼いの杖。キリスト教では信者を羊にたとえる。 
・金属製の十字架;お祭りの行事に使う。柄を下から差し込めるようになっている。

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