ヨルダン・ハシミテ王国

アンマン  ネボ山  カラク  マダバ  ペトラ
ワディ・ラム  アカバ  ジェラッシュ  ペラ  砂漠の城

 ヨルダン川の地形からヘブライ語「川を下る」に由来する国名。ハシミテは、ムハマンド曽祖父ハシムの子孫の意味。シリア、パレスチナ・イスラエル、イラク、サウジアラビアと国境を接する。国土の80%が砂漠・荒れ地。BC1万年にはヨルダン渓谷で、人類最古の農業が行われていた。BC6Cにアラビア半島の南端イエメンから北上してきたナバテア人がペトラに城を築き、約1000年間繁栄した。BC331、アレキサンダー大王の軍隊がこの地域一帯を支配し、ヘレニック文化をもたらした。BC324、アレキサンダー大王の死で、ギリシャ帝国はプトレマイオスとセレウコスの2人の将軍により分割され、ヨルダン、パレスチナ、エジプトは、プトレマイオスに与えられた。BC400〜AC160、南方の独立王国ナバテアが繁栄。

 63〜324、ヨルダンはローマ帝国に属していた。グレコローマン時代のジェラシュ、フィラデルフィア(アンマン)、ウムカイス、ペラはこの地で交易を振興させるために造られた10都市連盟デカポリスの中でも商業上重要だった4都市。324〜632のビザンチン時代にはヨルダンの住人は農地を耕し、中国・インド・南アラビアと、シリア・エジプト・地中海を結ぶキャラバンルートの旅人に食料を供給した。ビザンチン帝国はコンスタンチノープルを中心に繁栄し、400年間キリスト教支配の世界を繰り広げた。

 アラブ・イスラム時代は630に始まった。以後ダマスカスのウマイア王朝と、バクダッドのアバシッド王朝がこの地域を2世紀半に渡って治めた。1099、十字軍がエルサレムを確保し、その征服地を守るためヨルダンのケラクとショーバックに大きな城を築いた。1187、サラディーンがケラクで十字軍を打ち破り、これが十字軍の近東からの完全撤退につながった。300年に及ぶマメルークの支配の後ヨルダンはオットマン帝国の1部になり、これが1915〜18のアラブの反乱時代まで続いた。16C、オスマン=トルコが帝国を造り、シリア、ヨルダン、パレスチナもその1部に組み入れられた。1916、オスマン=トルコの支配に対抗を始める。1918、イギリスとフランスの間で交わされたサイクスピコ協定によって、ヨルダンはイギリスの保護領になった。1921、ヘジャズの首長フセインの次男エミール・アブドラーがトランスヨルダン王国を建国。その時点ではイギリスの委任統治による自治地域だった。1928、限定権力を持つ立法議会の設立を定める条約が締結された。

 WW2中、アラブ地域に反帝国主義の気運が高まったが、アブドラーは親英政策を堅持しながらも自らの地位を高めるためアラブ連盟結成に参画し、1945.3.その創設メンバーとなった。1946.5.25.イギリスから独立。国名はトランス・ヨルダン・ハシミテ王国となった。この時期、隣接のパレスチナではユダヤ人シオニストとアラブとの紛争が持ち上がり、解決のために国連は1947.11.パレスチナの分割決議案を採択したが、紛争の解決とはならず、1948.5.14.イスラエルが一方的に建国を宣言。これに対し近隣アラブ諸国はイスラエルに侵攻。第1次中東戦争が始まった。当初アラブ諸国連合軍が優勢だったが、半ばからイスラエルが攻勢に転じ、1949に休戦協定が結ばれ、イスラエルはその建国を確立することになった。

 アラブ諸国劣勢の中、唯一ヨルダン軍の活躍は目覚ましく、いち早くエルサレムに達してヨルダン川西岸の地(ヨルダンで最も肥沃な土地)を占領、正式に国土に編入した。6月には国名も現在のヨルダン・ハシミテ王国に改めた。発足したばかりの王国は、折から独立したばかりのイスラエルを追われたパレスチナ難民を抱え、困難なスタートを切ることになった。アブドラー国王の親英政策はアラブ民族主義者の反感を買い、1951.7.国王は暗殺された。長男タラールが王位を継承したが1年で退位。1952.8.11.に孫のフセインが18歳で国王になった。

 イスラエルとの緊張関係は1967の第3次中東戦争でピークに達するが、ヨルダンはこの戦争で敗北。その結果、エルサレムとヨルダン川西岸地域を失い、国内に新たにパレスチナ難民を抱え込むことになった。パレスチナ難民政府はヨルダン国内のもう1つの政府となって、ヨルダン政府と対立したが、ヨルダンはこれを国外に追放。この行動はアラブ諸国の反発を招き、ヨルダンは孤立。これに対して1973に独自のアラブ連合王国構想を持ち出したフセイン国王は、パレスチナ自治区の成立を提唱するなど、今日の中東和平の枠組みを先取りした。そして1991.10.の中東和平マドリッド会議は、中東和平に向けた画期的な和平プロセスの幕を開けた。1993.9.PLOとイスラエルとの間で原則宣言が署名されるとヨルダンも翌日、イスラエルとの間の共同議題に署名。ここにヨルダン・イスラエル間交渉は大きな1歩を踏み出した。1994.7.フセイン国王はラビン首相と初の公式会見を行い、両国の46年に渡る交戦状態の終結を宣言する「ワシントン宣言」に署名。10月にはワディ、アラバ両国国境で「平和条約」に署名、1カ月後に国交を樹立した。

 ヨルダンの社会は遊牧民的な規律で律せられていて、礼節を重んじ、名誉を尊重する。人々は誇り高く、同時に寛容。飲酒・喫煙も自由でアラブ諸国の中では最も開放的。石油資源がなく、天然資源が乏しく、農業に適した土地も少ないヨルダンは、産油国への出稼ぎが多い。この和平条約締結を機に、観光産業に力を入れ始めた。主要産業は農業、鉱業、化学工業。主要輸出品目は燐鉱石・カリ・化学肥料・医薬品で、主要相手国はイラク・サウジアラビア・インド。アラブ首長国連邦・インドネシア。輸入品目は機械・原油・鉄鉱・食品で、相手国はイラク・アメリカ・ドイツ・イタリア・イギリス。

 1994以前には、2年間の徴兵制があった。しかし10000ドル払えば行かなくてもよかった。1994にイスラエルとの平和協定が結ばれて以来、徴兵制はなくなり、希望者だけが出かける。


国民性
 民族はアラブ民族98%、コーカサス民族とアルメニア民族が残りを占める。ヨルダン人は大きく分けてパレスチナ系とベドウィン系に分かれる。パレスチナ系はもともとヨルダン川西岸地域に住み、農耕を主とする定住民族。ベドウィンは本来、東岸の砂漠地域を遊牧する移動民族だった。現在ヨルダンにいるパレスチナ系ヨルダン人は、殆どが過去4回のイスラエルとの戦争のために避難してきた人達で、高い教育水準を生かして経済界を中心にあらゆる分野で活躍している。ベドウィンも現在では殆どが定住し、軍の主要供給源となっている。
 ヨルダン社会は血縁関係に基づく家族・部族単位の集まりからなっている。究極的には個人よりもその単位の利益が優先され、現在でも個人の利己的行動を制約する法規範的な役割を果たしている。ヨルダン人は礼を重んじる温厚な性格。


政治
 政体は立憲君主制。憲法は1952.1.8.に公布され、その後王国の変化に応じて数回修正された。立法権は国王が任命する議員による上院と、18歳以上の全男女による直接選挙で選出される下院がある。首相は国王によって任命され、任期は不定。王国は8つの県に分かれ、それぞれ知事が任命され、地区・準地区・郡に分かれる。地方政府のレベルでは拡大アンマンを含む152の市役所と340の村議会がある。1992政党が合法化され、1993の複数政党制による下院選挙では、パレスチナ暫定自治賛成派が過半数を占めた。
 司法権は立法および行政権から独立し、裁判所が行使する。他のイスラム諸国同様、イスラム教徒の個人的問題については、イスラム法に照らして裁判を行うイスラム裁判(シャリーア)が独立している。


教育
 学制は1989.10.から、それまでの633制から、初等教育10年、中東教育2年に変わった。高等教育機関として大学・師範学校・職業専門学校などがある。義務教育は、初等教育の10年。学校は公立・市立・軍関係・UNRWAなどに分かれる。6つの国立大学と12の私立大学があり、アラブ諸国からの留学生も多い。保育園は1980に初めて公立のものが開かれたが、市立の保育園はアンマンに数カ所ある。又アラビア語の能力があれば、外国人もヨルダンの学校で学ぶことができる。


マスコミ
 新聞には日刊紙と週刊誌がある。全てがアンマンで発行され、国内および近隣諸国に配られている。新聞発行上の問題に関しては、150人からなるヨルダン・プレス・アソシエイションが当たり、国営通信社派国内および海外向けマスコミの総元締め。ラジオは国営1局。テレビは2チャンネルあり、第1チャンネルはアラビア語、第2は外国語(英語・フランス語・アラビア語・ヘブライ語)の放送。イスラエル、シリアの放送も受信できる。


住宅
 アンマン市内では住宅の拡張が進み、新築も増えた。土地および家賃は高騰しているが、築後新しい設備の整った物件が多く、住宅事情はそれほど悪くはない。住宅形式は一戸建て・2世帯住宅・アパートなど。家賃は3LDK家具付で年額10000ディナール〜。1〜2年の前払いが一般的。
 エジプトからの出稼ぎや、フィリピン、スリランカから特別契約で来ている使用人もいる。邦人家庭では英語が通じるフィリピン人を雇っている場合が多い。住み込みの月給が200ディナール程度。


ベドウィン
  もともとは遊牧を生業としていて、季節毎に砂漠や山地を移動する民族。現在は殆どのベドウィンがテントとは別に家を持っていて、テントは一時的な仮の宿に過ぎなくなった。彼らが定住し、飼い始めた山羊や鶏の飼料となる牧草の不足が心配されていて、国は観光産業に力を入れ始めた。ベドウィンというのは「ライフスタイル」のこと。ベドウィンがテンと暮らしをやめれば、ベドウィンではなくなる。現在ヨルダンには7000人位いるが、正確な数は不明。これには多分女性の数は含まれていない。ジプシーには国籍がないが、ベドウィンにはある。
  ベドウィンは2〜4人の妻を持つ。彼らにとって家族は部族であり、争いのある時には家族単位で戦わなければならず、大きな家族ほど強い家族ということになる。結婚については100%、女性の父親が決定権を持つ。男性が女性の父を訪ね、結婚式まで2人は会うことがない。
  マンサフと呼ばれる食事で、ご飯の上に肉の塊をのせヨーグルトをかけて食べる。必ず右手で食べ、男女が一緒に食事をすることはない。女性は、調理中か男性の後に食べる。彼らにとってコーヒーはとても大切。砂糖の代わりにカルダモンを入れる。出されたコーヒーは必ず右手で受け取り、もう1杯欲しければカップをそのまま差し出し、いらなければカップを振ってから返す。何かお願いがあって彼らの家を訪ねた時、コーヒーが出されたらOKということ。


アンモン人
 ヨルダン川東岸地方に、BC15Cの末から住み、ラバト・アンモン首都とした国を造っていたと聖書にある。この国は後にダビデ王によって滅ぼされたが、現在のヨルダンの首都アンマンは、このラバト・アンマンに由来する。


ヒッタイト
 インド・ヨーロッパ語族の民族。BC18C頃からBC12C頃にかけて、現在トルコ共和国のあるアナトリアを中心とした強国を建てた。鉄製武器や軽戦車を使い、強大な戦力でシリア地方へもしばしば侵入した。ミタンニ王国と戦いながら、レバノンやアレッポ等を支配下に置き、BC13C、エジプトのラメセス2世とシリアの支配権をめぐってC12C初めに滅んだ。


アラブ諸国の言葉
・シリア・ヨルダン・パレスチナ・レバノン:同じだがアクセントが違う。
・湾岸諸国&イラク:上記の国とは少し違うが、理解できる。書き言葉(学校で習うもの)は同じ。
  話し言葉でどこへ行っても通用するのはエジプトの言葉。映画の普及の影響。
・エジプト:ヨルダンなどとほぼ同じだが、アクセントが違う。
・モロッコ・アルジェリア:アラビア語だが、全く違い、聞いても理解できない。読むことはできる。


フェニキア
 現在のレバノンからシリアにかけての地中海沿岸地方を、古代にはフェニキアと呼び、ここに住んだ人がフェニキア人。東西の接点に位置した地の利を活かし、BC12Cからシドン等の都市を基地にして地中海交易を活発に行い、交易を中心とした海の民として発展した。その艦隊は大西洋や紅海でも活躍した。彼らは地中海各地にカルタゴなどの植民都市を建設した。彼らが使ったアルファベットは、現在のローマ字のアルファベットに発展したことでも知られる。


レバノン内戦へのシリアの介入
 レバノンでは国内のキリスト教徒とイスラム教徒を中心とする勢力がいろいろな形で衝突を繰り返した。これが内戦に発展し、シリアを中心とするアラブ諸国とイスラエルが、それぞれ対立する勢力に加担したため、代理戦争のようになった。シリア、イスラエル共に一進一退の状態を繰り返していたが、シリアは1982のイスラエル軍のレバノン侵攻で、手痛い敗北を喫した。この内戦には、イスラエルによってもともと住んでいた地を追われたパレスチナ軍の解放組織PLOも深く関係している。シリアは最初のレバノン侵攻で、国内的にはハマ事件を経験し、経済的にも大きな負担を負うこととなったが、引くに引けない事情が、現在まで続いている。


キングス・ハイウェイ(王の道)
   アンマンと紅海への出口にあるアカバを結んで3本のハイウェイが走るが、それらの真中を走る道。山岳地帯をうねるようにして走り、谷間に何度も下りては上るということを繰り返す。風景の点から言えば1番の道。古代のヨルダン川岸には、数多くの王国が群雄割拠し、覇権戦争をしていたためにこの名が付けられた。アカバからアンマンを通って、ダマスカスに至る古代の幹線道路。そのため、出エジプトの指導者モーゼ終焉の地とされるネボ山、古代パレスチナ地図で有名なマダバ、洗礼者ヨハネが首を切られたマケラス、ルツ記と関わりの深いモアブ等、聖書に所縁の有る場所が、この道沿いに数多く残っている。また軍事的見地からもこの道は重要で、十字軍の要塞がいくつも築かれた。
 もう1本は砂漠の真中を突っ切る道で、産業道路として機能し、もう1本は死海の東岸からヨルダン谷を通る最短コース。聖書の舞台となった所は「王の道」に沿った平野と丘陵地帯。南から行くとまずエドムの高地。この地の北の境は死海南端に注ぐゼレデ川だった。冬の寒さが厳しい高地に住むエドム人は、農業や遊牧で生活することができず、商業を得意とするようになった。ここには、ナバテア人がエドム人を追い払って都としたペトラがある。
  次がモアブ人の住んだモアブの平野。羊を飼うのに適した丘陵地で、列王記には『モアブの王メシャは羊の飼育者で、10万の子羊と、10万の雄羊の毛とを、毎年イスラエルの王に納めていた』と書かれている。モアブの北はアルノン川で、その北に広がるのがアンモンの盆地。ヤボク川南の肥沃な平原。アンモン人の住む地で、都はラバ(アンマン)だった。この地は常に砂漠に棲む民の狙う所だった。その北にジェベル・アジュルーンの頂を中心にギレアデの山地が広がっている。薬用の乳香の産地として知られ、ヨセフを買ったのも、「ラクダに香料と乳香と没薬を背負わせて、エジプトへ行こうとギレアデからやってきた」イシマエルの隊商だった。
  そして更に北、ヨルダンの北部からシリアの南部にかけてバシャンの高原。モーセはそこが農業と牧畜に最適の地であることを、イスラエルの民に教えた。
 主は彼に地の高き所を乗り通らせ  田畑の産物を食わせ
 岩の中から蜜を吸わせ       堅い岩から油を吸わせ
 牛の凝固乳、羊の乳        子羊と雄羊の脂肪
 バシャンの牛と雄やぎ       小麦の良い物を食わせられた
 またあなたは葡萄の汁の泡立つ酒を飲んだ。


ダビデはまた、ここにそびえる山が神の住む所であると詠っている。
 神の山、バシャンの山  峰重なる山、バシャンの山
 峰重なる諸々の山    何ゆえ神が住まいにと望まれた山をねたみ見るのか
 誠に主はとこしえにそこに住まわれる


 バシャンの野は緑の多い農耕地で、西はゴラン高原から東はダマスカスの南までの広い地域。そこに住む人は農耕の民でオグが治めていた。モーセに率いられたイスラエルの民がヨルダン東岸に進んだ時、戦ってこの地を制圧した。ただ、ギレアデの山地とバシャンの高原との境は、地理的には明確ではない。



アンマン

 有史以前から人類が住み着いていた世界最古の町の1つ、ヨルダンの首都で、経済と行政の中心。高度800mの高地にある。幾つもの小高い丘に居住区が広がり、坂の上り下りが多い。旧約聖書では「ラバト(大いなる川)・アンマン」と呼ばれる。これはヤボク川上流の水が豊かな高原地帯だったことからくる。
  アブラハムの甥ロトの子孫といわれるアンモン人が、BC16C頃先住民のザムズミ人を追い払い定住。BC10C頃、アンモン人の王ナハシは、イスラエル国王サウルの軍隊に破れるが友好関係を結び、娘ナアマをダビデの子ソロモン王の妻とした。隣国イスラエルと常に利害関係にあったため、アンモン人は聖書に何度も登場する。アラビア砂漠から移住してきたナバティア人が、BC4C頃活躍を始めると、アンモン人の名は歴史から消える。
  BC3Cにエジプトのプトレマイオス2世フィラデルフィアスはアンマンを占領。ナバティア人によって荒らされていた町をギリシャ風に再築し、自分の名に因んでフィラデルフィアと名付けた。その後ユダヤのヘロデ大王がローマのためにBC30ここを占領。紀元後、デカポリスの1つとして通商上、軍事上、重要な町となった。政治的にはローマの元老院に属していたが、市議会もあり、裁判権・貨幣の鋳造権を持ち、周辺地域を支配する力を持った一種の独立した国家だった。フィラデルフィアという名前は、ビザンチン時代まで続く。この時期にはキリスト教の司教座が置かれた。しかし614、ササン朝ペルシャの侵入、それに続く630からのイスラムの支配によって町はアンマンと改称され、沈滞する。750、アッバース朝が興り都がダマスカスからバグダッドに移ると、アンマンは次第に衰退。以後およそ1000年近く「遺跡の中を水が流れる過去の町」となった。中世から近世にかけてのアンマンは、単なる遺跡が残るだけの寒村に過ぎなかった。
  19C初頭、オスマン・トルコがやってきて入植をスタートさせ、古代都市がゆっくり吐息を吹き返していった。1878、オスマン帝国のチュルケス人移住政策によってアンマンに居住区が造られた。1921、トランスヨルダンの皇太子エミール・アブダラーがこの町を首都と定め、1946ヨルダン=ハシミテ王国が建国されてから大きく発展。1950、現在のハシミテ朝のヨルダン王国の首都に定められた。

アンマン城砦:ジュベル・アル・カラア(城砦の丘)と呼ばれる標高850mの場所にある。BC12Cのアンモン人の城。ローマ時代・ビザンチン時代・イスラム期に入ってからも城は重要な役割を持ち、数千年に渡り破壊と再建が繰り返された。
  北城壁の外に大貯水池があり、秘密の通路が城内に通じていた。ビザンチン時代に使われたオリーブの油絞り器がある。BC218、アンティオコス3世が町を攻略できたのは、ここを押さえて給水を断ったから。現在も発掘が進められている。
  博物館北に、ウマイア朝時代の建築物の廃虚。宮殿と付属の建物と考えられる。現在の城塞跡は、ローマ、ビザンチン、ウマイア王朝時代のものが殆どで、6〜7Cのものと思われる教会跡もある。
  エルサレムの王ダビデがこの城を攻めた時、攻め手の将軍ヨアブの部下ウリアが戦死。ウリアは後にダビデの妻となったバト・シュバの夫。この戦いでダビデはヨアブに「ウリアを激しい戦いの最前線に出し、彼の後ろから退いて死なせろ」と命じたと。こうしてダビデはバト・シュバを妻としたが、2人の間にできた最初の子は、生まれてすぐに死んだ。ダビデは自分の罪を悔やみ、主に哀れみをこい、主は次の子にソロモンを与えダビデを許したという。城跡には、ウリアの墓がある。

ヘラクレス神殿跡:2C。ローマのマルクス・アウレリアス帝のために建てられた。ギリシャ神殿建築で、東に向いている。数本の円柱によって、聖域のある基壇と他の部屋が分けられている。鉄器時代に、ここにアンモン人の神殿があったと考えられている。倒れていた柱を、アメリカの考古学者達が立て直したもの。

ビザンチン教会:幾何学模様のモザイク、コリント式の円柱。建物の大部分は隣のヘラクレス神殿の石材が使われた。7Cの大地震で崩壊したが、ウマイア朝の建造物として再利用された。

国立考古学博物館:青銅器時代のジェリコで発掘された頭蓋骨、副葬品、ヨルダン谷から出土したパピルスを持った戦士像、ナバタイ人の女神像、モアブ王メナシェの城砦で発見された写本、鉄器時代の墓、ウマイア朝の陶器や装飾品類、クムラン(死海)写本の「銅の巻物」など。高さが9mもあったヘラクレス像の指の部分が博物館の前に展示されている。

キングフセイン・モスク:1924、オスマン朝のモスク。7C頃に造られたモスクを、ハシミテ家のアブダラーが改築した。金曜日の午後に盛大なイスラムの礼拝が行われる。周辺には野菜・肉・乾物・衣料品・金銀細工等のスークが密集し、お互いに競争しながら、価格を適正なものにしている。

ニンファエウム:ローマ時代の聖なる泉の跡。ローマ時代のフィラデルフィアの町の主要道路カルド・マキシムスとデクマヌス・マキシムスが交差する地点にあった。近くのセイル・アンマン川から水を引き、泉としていた。フィラデルフィアの最も賑やかな場所だった。内部には花や彫刻で飾られていた跡もあり、ギリシャ神話に登場する野や川に住む精霊ニンフを祭った神殿とも考えられている。

ヨルダン伝統衣装博物館:ローマ劇場入り口左手の、観覧席の下。ヨルダンの伝統民俗衣装、アンバー・コーラル等の宝石、装飾品、食器、道具等を部族ごとに展示。モザイクのコレクションでは、マダバの教会やジェラシから見つかった6Cのモザイクが見もの。

ヨルダン民族博物館:ローマ劇場入り口右手の観覧席の下に作られた小さな博物館。ベドウィンの住居、山羊の毛で作ったテントに、家具や食器を配してベドウィンの生活を再現している。民俗楽器(ラバーバという弓で弾く1弦弦楽器)、刀剣、銃、刺繍、ラクダの鞍等も展示。

ローマ円形劇場:ローマ人が築いた町フィラデルフィアの中心に位置した劇場。1957に修復。原形はBC2C頃、アントニウス・ピウス帝の時代に建設されたもので、市民の娯楽と宗教的な行事などに使われた。6000人収容で、ヨルダン国内最大のローマ劇場。女神アテネの像が置かれていた。舞台が北西を向いていて、日暮れまで楽しめた。現在もイベントに使われる。

フォーラム:公共広場。推定では現在のフットボールスタジアム位の大きさがあった。現在は市民の憩いの場。

オデオン:ローマ劇場と同時代の建設。コンサートなどに使われていた。上演の時にはテントが天井を覆っていたと考えられる。約500人収容。

キング・アブドラー・モスク:1982〜89。アンマンで最も新しいモスク。フセイン国王の父アブダラーを記念して造られた。3000人が礼拝できる。ドームの大きさは直径35m、高さ31m。イスラム経典の図書館を併設。天井には99ノアラーの名前が記されている。

アンモン人の見張り塔:BC7〜6C、石灰岩の直径約20mの建物と城壁。戦略的に重要な地区だったので、要塞や見張りのために建設された。農作物の貯蔵庫という説もある。ローマ、イスラム、ビザンチン時代にも再利用された。

アブ・ダーウィッシュ・モスク:アシュラフィエの丘の頂上。デザイン方ヨルダンで最も際立ってユニークなものとされる。名前は、このユニークさからデザインした人の名前が付けられた。

殉教者記念碑:アンマン北西のシュメイサニ地区にあるフセイン・スポーツ・シティーの一角。1967の対イスラエル6日戦争での戦士者のための記念碑。内部は軍事博物館。

アンマン軍事博物館:ヨルダン王家ハシミテ家と国家独立までの様子を展示。



ネボ山

  モーゼが40年の放浪の後、この地にたどり着き、ネボ山のピスガの頂から神との「約束の地カナン」を眺めたと言われる。モーゼが土を杖で叩いて水を噴き出させたと言われる泉もある。モーゼの終焉の地として知られる。ピスガの頂と考えられているのは標高710mのラス・エ・シャーガ。彼の墓もここにあると言われ、石碑が建つ。
  かつてエジプトを脱出したイスラエル人は、ここからモアブ領内の通過を求めて交渉したが、モアブ王バラクは占い師バラムを連れてこの山頂に登り、7つの祭壇を作って呪いをかけ、イスラエルを滅ぼそうとした。しかし占い師に主の霊が宿り、逆にイスラエルを祝福してしまったという。
  かつてはエルサレムからエリコを経て、ネボ山に至る道は重要な巡礼街道だった。その巡礼の後、人々は死海の辺に下りて、温泉浴で締め括った。アバリム連山の1つ。

モーゼ記念教会:3〜4C、エジプトから来た修道士達によって建てられた。6Cに改築された屋根は木製で、円柱に支えられていたと思われる。内部には十字架の形の洗礼盤や、ビザンチン時代のモザイク画が幾つも展示されている。14Cには聖フランチェスコ会の修道士が来て、かなり大きな修道院になった。一時廃滅していたのを19Cに再び聖フランチェスコ会の修道士が復興。1930にはフランチェスコ会が山の頂上を買い取り、モザイクを発掘。ビザンチン教会の床と壁を、エキゾチックな人物や動物の躍動する姿で覆う。現在も同会が管理し、更に周辺で新しい発掘調査も行っている。
  教会では今でも6Cのモザイクが掘り出される。多くの人がこの教会はモーゼの埋葬地の上に建っていると信じている。

預言者モーセの十字架:蛇が棒に巻き付いたモニュメント。モーゼが青銅で蛇を作り、竿に掛けて人々の命を救った事を記念したもの。

修道士の家の跡:ローマ時代、この地一帯にはたくさんの宗教共同体があり、そうした人達の住む僧院の1つだった。



カラク


 アンマンから約129km、死海を見下ろす海抜1000mの高台に建つ。モアビテ王国の主要な町として旧約聖書にキル・ハラセテ(土器の町)、キル・ハレス、キル・ヘレス、キルという4つの名前で登場する。かつてのモアブの重要な都市で、一時はその首都にもなった。城塞の町としての歴史は古く、マダバのモザイクに描かれている。エジプト〜シリア間の通商ルートに位置し、戦略上重要な土地であることから、城塞の町・宿場町としての役割を果たしてきた。
  十字軍時代に最も発展。十字軍のエルサレム遠征により1099、エルサレム王国が誕生したが、パレスチナはまだ回教徒の町が多く、ボードゥアン1世は回教徒から守るために次々と各地に要塞を築いた。彼はまずアッコ、カイザリヤ等の海岸都市をエジプトから奪い、モアブ地方の攻略を図った。そして1136、エルサレムへの通路を守るためにカラクに大要塞が建設された。これによってアフリカをアジアから切り放すことに成功。そしてアラビア方面、エジプト方面からやってくる隊商に通行税を課し、経済的にも大きな利益を得るようになった。
  十字軍はこの大要塞を50年間守り続けたが1187、イスラムのアイユーブ朝ノサラーフ・エッディーン(サラディーン)が攻略、城塞をアラブ世界の統治下に置いた。アイユーブ朝の次にエジプトを本拠にして興ったマルムーク朝の時代、城を更に増強。その後もオスマン・トルコの時代まで城として使われ続けた。
  十字軍の要塞には通路が何層にも交差している屋根つきの貯蔵庫や部屋、マムルーク人が建て増したイスラム様式の別棟、博物館、地下ホール等がある。地下ホールは要塞の最も地下深い部分で、サラディーンの玉座があったと言われる。
 現在カラクの町の人口は約11万だが、多くのキリスト教徒が住んでいる。ビザンチン、十字軍時代の影響は今も残っていて、回教徒住民の中にもキリスト教名を持った人が多いという。



マダバ

  アンマンから南西33km、数々のモザイクと、世界でただ1つの6Cの聖地パレスチナの地図が残っている。この町では個人の家にも公共の建物にもビザンチン時代のモザイクが見られる。
  旧約聖書にモアビテ人の町メデバとして登場する。聖書時代には「水の多い流れ」という意味のメデバと呼ばれていた。この地を巡る民族の興亡を繰り返し、やがてイスラエルが治めることになる。ダビデの時代に、アラム人はアンモン援助のために来てメデバに陣を張ったが、イスラエルの将軍ヨアブによって打ち破られた。やがてイスラエルが南北に分裂するとこの機を捕えてモアブはメデバに攻め入り、後にオムリに取り返されるまでここを支配した。19Cに発見されたモアブの石碑は「王メシャが他の町々と共にメデバを再築した」と記している。やがてナバテア王国の領有となるが、106にナバテア王国がローマの併合されたことによって、メデバはアラビア属州の1つとなった。マダバの最盛期はビザンチン時代の5〜6C。この地方のキリスト教の中心だった。この町から司教が任命され、壮大な建築物や教会が建てられた。614ササン朝ペルシャの侵入、747の大地震で町は壊滅。現在の町は、1880に南のケラクから入植した2000人に上るキリスト教徒によって造られた。
  マダバとその周辺のモザイクは、一般に考えられているような陶器の彩色タイルを使ったものではなく、全て天然の岩石で、適当な色のものを集め、それを小さく砕いて描かれている。そのため大変丈夫で、色褪せることもない。

聖ジョージ(ギオルギウス)教会:6C、ギリシャ正教会。1890に発掘された最古の「古代聖地パレスチナ地図」には、城壁に囲まれたエルサレムの町を中心に死海、アンマン、ぺトラ、ナイル川の等が、床のモザイクに描かれている。230万以上のモザイクの破片からできていて、20×8m。聖書の舞台、教会がある町々等159カ所の地名は、文字の大きさや色を変えている。貼り付けるのに、11500時間以上かかったと計算されている。
  エルサレムの地図は価値があり、聖墳墓教会も描かれ、現在のユダヤ人地区を走るカルドの存在も確認できる。560製作。

マダバ博物館:1962、古代の礼拝堂の跡地に造られた。モザイクや民族衣装、陶器の展示。ヘロデ王の要塞から出土したBC1Cの最古のモザイク壁が見もの。

使徒教会:宗教的な機能は果たしていない。教会の床一面に描かれたモザイクをドームで覆った博物館のようになっている。



ペトラ


 映画「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」の舞台の1つ。ヨルダン南部、死海の南、アカバから120kmの砂漠に位置する。「砂漠の中のバラの都市」と呼ばれる。古代の隊商都市として岩石盆地の中に形成されたという特異な遺跡。ここを訪れるのは70年ほど前までは難事業だった。オスマン・トルコ皇帝の許可証を持ち、キャラバンを組織し、ガイドを雇い、かつ困難に立ち向かう体力と気力と熱烈な興味を持つ人だけがここを見ることができた。現在でも遺跡に足を踏み入れるには、馬に揺られ、切り立った峡谷を通っていかなくてはならない。
  シクと呼ばれる岸壁に挟まれた小道の出口に突然そそり立つのがエル・カズネ神殿。ヨルダンの観光ポスターには必ず登場する。ペトラの遺跡群は、自然の岸壁をくり貫いたり削り出したりして造られている。切り立った岩山の裂け目のそこを走る「モーセの谷」に沿ってできた景観が驚異的。遺跡の装飾やルーツは、全体としてはヘレニズム・ローマ文明の地方美術に過ぎないが、エジプト、アッシリア、ギリシャなどの古いモチーフが溶け合わさっている。隊商都市にふさわしい国際性がある。このような表現形式は、ナバティア人と同じ商業民族であるフェニキア人が数百年前に実現したもので、東西両世界の境界線上にあるシリア・パレスチナに特有の現象。
  ぺトラは岩を意味するギリシャ語。ヘレニズム時代にここに首都を置いていたナバティア人がここを何と呼んだかはわからない。それ以前はアラブ系のエドム人がこの辺りに住んでいたが、『旧約聖書』にセラ(アラビア語で岩の裂け目)と呼ばれるのはこのぺトラではないかと考えられている。
  ペトラの歴史はBC7000にまで遡る。城壁のある世界最古の町エリコと同時代に、ペトラの北ベイダにも人が定住していて、果物や木の実を採取して暮らしていた。BC3Cから現在の南ヨルダン地域でエドム人が有力になる。旧約聖書によればBC8C、ユダの王アマジヤはエドム人の捕虜1万人を殺して一時期この地を治めたという。ペトラの町はBC6C、アラビア半島から移住してきたナバティア人によって岩山を掘って、隊商交易の基地として築かれた。エドム人の勢力は既に衰え、死海の西のネゲブ地方に移っていた。
  ナバティア人は、遊牧生活を行いながらも、アラブ諸民族との交易や、エジプトへの瀝青の輸出、家畜の飼育などで、経済的な力を持つようになり、文化的にはギリシャの影響を受けて発展した。当時この地はエジプトからシナイを通り、ダマスカスに至る隊商の中継地で、ペトラを中心に一大帝国に発展した。ナバティア人は自ら、騎兵を中心とする軍隊を備えるようになり、BC2C頃定住生活に移り、セレウコス朝やエジプトのプトレマイオス朝の弱体化の隙をついて北方へ領域を広めた。BC85頃にはダマスカスもその傘下に治め、ペトラからダマスカスまでを領域とする王国が成立した。ナバティア人とはヨルダンの南の砂漠の遊牧民。誇り高い砂漠の民は半遊牧生活の隊商商業国家を築いた。ペトラ次本拠を置くナバティアの商人達は、遠くイタリアからペルシャまで足跡を残している。
  ペトラは、ナバティア王国の首都となった。ナバティア人は、エジプトやアラビア半島の物資をシリアやペルシャに送り出した。当時のペトラには国際司法裁判所の様な機能を果たす機関まであったという。政治的にはローマとの関わりを深め、紀元前後に王国は絶頂期を迎え、ナバティア人自らも各地に進出した。BC63、ローマのポンペイウスがシリア地方に遠征を行い、ペトラを治めようとしたが、ナバティアの王アレタス3世はローマ軍を買収して独立を守った。やがてローマに対して反乱を起こし、ユダヤ王国のヘロデ大王の侵略を受け、領域を失っていく。BC106、ローマ軍は首都ペトラを占領、王国は滅亡し、ローマ帝国アラビア州に併合された。北のボスラが隊商都市として栄え始めると、ペトラはその重要性を失い、衰退していく。ビザンチン時代、ペトラはキリスト主教区に組み入れられた。7Cのイスラム侵入以来、ペトラは以前ほどの名声は失ったが、12Cの十字軍時代には交易拠点として重要な要塞が築かれた。
  ペトラの再発見は1812で、スイス人探検家、美術史家ジョン・ブルクハードによる。WW1中、ドイツ隊によって調査され、現在もヨルダン考古総局によって発掘が行われている。

ダジーン・ブロック:(ゴースト・ブロック)アラビア語で地下水路という意味。ペトラに26ある。高さ5〜9mの四角い岩の建造物。古代ナバティア人が祭ったという、ダジーンの霊が宿る埋葬用の記念碑と考えられている。

 オベリスクの墓:上部は5つの墓所が放射線状に広がっている墳墓。高さ7mの4本のオベリスクを持つ。建築法はエジプトの影響を受けているが、直接関係はない。シリア・パレスチナ土着の石柱崇拝の痕跡。ここには神が宿るとされるようになったが、もともとは死者の魂がとどまる物だった。

エッシーク・トリクリウム:オベリスク墳墓の下の遺構。ナバティア式建築。中央の部屋の奥行きは7m。BC1C。

ナバティア人のダム:1963に洪水があり、峡谷の鉄砲水を防ぐためダム建設が始められた。その時に見つかった古代ナバティア人のダム。2000年前に高水準の給水システムを持っていたことがわかった。

シク(峡谷):60〜100mの岩が、ワディ・ムーサの流れが砂岩の山を浸食して造った天然の峡谷の底にできた、ペトラ市街に続く唯一の道。1.5km。

エル・カズネ/ファラオの宝物庫:アラビア語で宝物殿を意味するが、神殿なのか墓なのかについては、専門家の間でも意見が分かれている。ぺトラの岩窟墳墓は、このような2面性を持つものが多い。今のところ、確証はないが廟墓であるという意見が大勢を占めている。死者は神となって残された家族や共同体を守るという、セム人独特の死生観がこのような建造物を造り出したと思われる。また当時、王は神として崇拝されていた。BC25、ナバティア王アレタス4世によって建てられた。後にこの一帯に住み着いたベドウィンが、「ファラオの宝物庫」と呼ぶようになった。崖をくり貫いた神殿風正面を持つ。ピンクの砂岩の地層が模様になっている。幅43×高さ30m。
・祭儀の時、犠牲の動物の血が注がれた神殿だったという説。
・彫刻された神々の像が死を象徴するので、廟墓だったという説。
・用の迎賓館説。
・ヘレニズム・ギリシャ様式。柱はコリント式、ナバティア式。
・彫刻はメドゥーサ、サチュルス(半獣人)、騎馬、アマゾン(女戦士)。
・7.95mのドアは、2層式の木のドアだった。
・海賊が宝を隠したという言い伝え。中央の壺状の装飾がライフルで打ち抜かれたが、中は空だった。
・人は上から下へと彫刻を彫った。足場のための穴があるが、下から4m位にはない。上から彫ると下に石の粉がたまり、
 足場の必要がなかったから。実際には何に使われていたのかわからず、数々の伝承が生まれた。

アウター・シーク:エル・ハズネからローマ劇場までの道。岸壁にはナバティア人の宮殿墳墓が並ぶ。形や大きさが違うのは、裕福な家庭の個人墳墓、貧しい家庭の家族墳墓と分かれているから。richman's house,poorman's house と呼ばれる。

犠牲祭壇(犠牲の高所):67番墳墓の脇の登り口から20分くらい。ペトラの遺跡全体を見晴らすマドバー丘の頂上。旧約聖書の中で、唯一神ヤハウエの信者が「高き所」と言い、邪宗の聖所と非難した。古代ナバティア人が神に犠牲の羊を捧げた場所で、時には女神のために少年を生けにえにしたという説もある。ナバティア人は石柱崇拝と山頂での祭祀で知られる。

ライオン記念碑:ライオンの形をした噴水跡。かつては岩に刻まれた高さ2.5mのライオンの口から水が流れ出していた。

水道管:ナバティア人のものは、歩道の高さ、ローマ人のものは、高さ15m辺りに見られる。昔は幾つかの丘の上から水を引いていた。丘の上には今でも貯水槽があり、雨水を貯めている。

ローマ劇場:2〜3C、もともとナバテア人の墓地だったが、その砂岩を削って造られている。席は45段あり6000人以上を収容した。ここから大理石のヘラクレス像が見つかった。町の中心から1km以上も離れていて、しかも巨大な墓地の真中にあることから、娯楽用ではなく祭儀用に建てられたと思われる。

ローマ兵士の墓:円柱に挟まれた壁龕にローマ風の人物像が刻まれている。ペトラがローマの属領になった106以降のものと言われる。

庭園神殿:神殿の前に広がる広場が庭園だったと考えられるところから、この名がついた。

王家の墓:1Cの王宮岩窟墳墓。

・壺型墳墓(アーン):1番高い所に、壺の様な飾りがある。2段式テラスを持つ構造で、内部にたくさんの部屋がある。内部の壁にギリシャ語で碑文が書かれていて、ビザンチン時代に教会だったことがわかる。
・シルク式墳墓:鮮やかな色と模様が、波紋を付けたシルクに似ているところから名付けられた。岩の成分によって色が違う。黒は鉄、茶は銅、青はコバルト、黄は硫黄、白は石灰を多く含む。
・コリント式墳墓:前面にコリント式の石柱の様な飾りが付いている。
・宮殿式墳墓:1〜2C、3階建のローマ帝政期の宮殿建築を模した正面。下2段は岩を掘って作り、最上段は石組みを追加している。ペトラの墓の中で最大級。重要な葬儀に使われたと考えられる。高さ27.5m、幅37m。

都市遺跡群:岩を削らず、他のローマの都市と同様に石を積んでいるので、原形を留めるものは少ない。
・ファラオの娘の城/カスル・エ・ビント:BC1C、ナバティア人の主神ドゥシャラを祭っていたとされる。高さ23m、6本の大理石の円柱。部屋は前室と至誠所に分かれている。
・列柱道路:全長150m、幅6m。オボダス3世(BC62〜47),アレタス4世(BC9〜AC40)の治世下に建造された。道の両側に神殿、宮殿、諸官庁、商店街、市場、公共浴場などがあった。
・テメノス凱旋門;ローマ時代には3つのアーチがあり、大きな木の扉がついていた。発掘の結果、列柱道路よりも後のものとわかった。2C末に建てられ、にしに広がる聖域への入り口の役目を果たしていた。
・神殿(カスル・エル・ビント);奥行38m、幅36m、北に向かって建てられ、正面は6本の大理石の円柱から成り、部屋は前室と至聖所に分かれている。ナバテア人のドゥシャラを祀る。

ライオン(有翼)ウム:ライオンの墓とあるが、墓ではない。トリクリニウム(3つの席)があり、だれかが死んだとき、ここでお酒を飲んだと思われる。

博物館:ペトラ周辺で集められたナバティア、ローマ、ビザンチン時代の陶器、ガラス、装身具など。

エル・ハビス:「牢獄」の意味。祭壇と水盤跡があり、生けにえを捧げる場所としてナバティア人が造ったと思われる。後に十字軍の要塞としても使われた。

エド・ディルの僧院:1C、ナバティアの王アブダス1世が、現在のイスラエルにあるアブダッド(彼の名前から付いた)でエドム人との2度の戦いに勝ち、その記念としてイスラエルに最も近いこの場所が選ばれ建てられた修道院。最初の戦いは、対ギリシャのアンティオク2世、2度目は、対アレキサンダー・ジャニオス(ユダ)。ドウシャラの神を祭ったもの。標高900m、高さ40m、幅46mでペトラ最大の建物。広場は儀式や集会の時に群集が集まったと思われる。中にはトリクリニウム(3つの席の意味)〜祝杯を挙げる場所〜がある。壁に幾つかの十字の印があり、エド・ディル(修道院)の名が付いた。4Cに修道僧が修業していたとも言われる。約900段の階段。



ホル山:1336m。ベドウィンのガイドがいなければ中に入れない。頂上はモーセの兄であり、祭司でもあったアロンが死んだ場所とされる。アロンはモーセ同様、神の言葉に背いたため約束の地に入ることができなかった。
  頂上にはビザンチン時代、アロンを記念してギリシャ正教の修道院が建てられた。十字軍もここに駐屯したが1217,イスラム軍がこの場所を占拠した後、修道院はモスクになった。現在の建物は1495に修復されたもの打が、イスラム教徒にとって重要な聖地。建物からアラビア語とヘブライ語の碑文が見つかっている。
  ユダヤ古代史には『彼らの指揮者モーセは、姉の喪に服した人々を清めると、軍を率いて砂漠を横断し、かつてはアルケーと呼ばれ現在はペトラと改名されたアラビア人の首都のあるアラビアの土地へやってきた。アロンはその地を囲む高い山の1つに登っていった。モーセが、すでに彼には死が近いことを告げていたのである。そして彼は多くの人々に見守られながら死んだ』と書かれている。



ワディ・ラム


  ヌビア砂漠に広がる古代の川床。砂漠の東にヨルダン最高峰のジュベル・ラム(1754)を中心に、赤い土と流砂の半砂漠的な光景が続く。アンマンからアカバを結ぶハイウェイから分岐した道路の終点。
  WW1でオットマン帝国と戦ったTEローレンスやリフ・フセインが通った道。トルコからの開放を目指す「アラビアの反乱軍」は、1917.10.シェリフのフセイン・ナーシルとローレンスに率いられ、アカバを発ってダマスカスを目指した。途中、このワディ・ラムの砂漠を南に見ながら進んだ。映画「アラビアのローレンス」で、世界に名前が知られた。前人未踏の山頂が多く、ロッククライミングをする人達の間で注目されている。ハンググライダー、トレッキング、カイトも盛ん。付近には遊牧民が多い。「月の谷」とも呼ばれる。
  石器時代から数千年の歴史を持つ町で、現在も発掘作業が続く。タムード、サファイ、ナバタイ、ギリシャ、アラブ人の足跡が至る所に残る。ワディ(谷)の点在する岸壁の裾の部分には幾つもの壁画が発見されている。らくだや踊る人物などがテーマ。この辺りの遊牧民タムード族のものと言われる。
  ヨルダン国土の80%以上を占める砂漠は、シリア、サウジアラビア、イラクへと通じている。夏の日中は気温が50度くらいにまで上昇することもあり、極度に乾燥し、大量の水がなければ人間は住めない。
知恵の七柱:2kmほど手前。縦の溝が何本も入った巨大な岩山。アラビアのローレンスが残した自伝『知恵の七柱』のタイトルになったもの。

ナバティアン寺院:BC1〜2C、柱廊が四角く囲んでいた神殿はナバティア人の神アラートに捧げられたもの。壁にはフレスコ画がある。

ローレンスの泉:2kmほど南。山からパイプで水を引いた羊の水飲み場。岩には、8C頃アラビア半島から移住してきたサムード人が書き残した絵がある。アラビアのローレンスはこの泉の上のテラスに司令キャンプを張っていた。

シク:フシュ・ハシェーという岩山の裾にできた狭い岩の裂け目で、岩からしみ出した水が流れる



アカバ


  ヨルダン唯一の港町。ヨルダンの経済・流通の通過中心地として重要な場所。紅海の北端、ハシミテ王国の南端にある。港の対岸にはイスラエルのエイラット、左奥にはサウジアラビアが見える。海岸にはナツメヤシが植えられている。出エジプトしたイスラエルの民が、カデシ・バルネアに行く前にここに宿営し、更にヨルダン川東岸に進む時にもここを通った。ソロモンが港を設け、銅の溶鉱炉を造り、旧約聖書にソロモン王・シバ女王の銅貿易で栄えた町として登場する。
  アカバは南のアラビア、イエメンと、北のシリア、西のパレスチナ、あるいはエジプトを結ぶ道路の結び目に当たり、その後アフリカ・アラビア半島・アジアとヨーロッパを結ぶ貿易拠点、メッカ巡礼の中継地として重要な役割を果たしてきた。イスラムの侵入と共に町はアイーラと呼ばれるようになり、十字軍もこの土地の重要性を認識し、アカバ湾に浮かぶファラオ島を要塞化した。その後16Cにはアカバはオスマン・トルコの勢力下に飲み込まれる。その400年後、アラブの独立運動を支持したイギリス人ローレンスは、トルコが支配していたアカバを攻略。
  現在のサウジアラビアとの国境は、1965に確定したもの。また、アカバとエイラット間の国境は1994のイスラエルとの和平条約以来開いている。
  ウォータースキーのための静かな海面やスキューバーダイバー達に人気の水中植物など人気のリゾート。1年で360日の晴天を誇る。現在ここで働く人、はヨルダン北部や近隣諸国から来ていて土地の人は少ない。


黒いバラ
 世界でもこの辺りにだけ咲く花で、ブラック・ローズと呼ばれる。貴重な花で天然記念物のように保護されている。アラビア語でルワルダ・アル・ハシミール。ハシミールはヨルダン王家の呼称で、これは王家の花。


アラビアのローレンス
  1888〜1935。イギリスで生まれたローレンスは、冒険心の旺盛な少年だった。オックスフォード大学では図書館の本を全部読んでしまったという博学だったが、卒業論文のため、中東に出かけたことが彼の一生を決定した。その後ローレンスは砂漠の民と数千年の遺跡に魅せられて、この地域に精通していく。アラビア語の方言もわかるようになり、ベドウィンの考え方も見抜くことができたという
  当時イギリスは、中東の支配を巡ってオスマン・トルコと争い、独立運動を展開していたアラブの部族を支持していた。イギリス軍の情報部から白羽の矢が立ったローレンスは、メッカのフセインと共にトルコに戦いを挑んだ。彼の奇抜な作戦は次々と功を奏し、ついに彼のらくだ隊はトルコの拠点アカバを攻略。更に進軍してダマスカスに向かったが、ローレンスは、イギリスが自国の利益しか考えていないことに疑問を持ち、本国に帰ってしまった。彼の自由奔放で数奇な障害は、『アラビアのローレンス』の映画で世界中の人に知られた。

アイーラ発掘現場:イスラム朝初期のアラブ都市遺跡。7〜10Cのアカバの最盛期に栄えた町の遺構で、140×170mの城壁に囲まれていた。四方にエジプト門、シリア門、ヒジャーズ門、海の門があった。アメリカとヨルダンの協力隊によって発掘された壁、柱、アーチ、水道跡などがある。主な出土品は博物館に納められている。海岸に面したエジプトの門の位置から考えると、7C頃の海岸線は、今よりもずっと沖合にあったことがわかる。

アカバ城(旧要塞):16C初め、マルムーク朝の君主によって築かれた要塞。入り口のハシミテ王国の紋章はWW1中、英・アラブ軍がトルコ軍を追放した後、王家によって掛けられた。中庭には兵舎、台所、井戸等がある。

博物館:アイーラで発見された工芸品、ナバティア、ローマ、ビザンチン、エジプト各時代の品物。かつてのアイーラの様子が描かれたパネル。建物はフセイン国王の曾祖父の屋敷だった。

水族館:海洋科学センター内。アカバ湾の珊瑚礁や、海の生物。

ビーチ:町から1番近い公共のビーチは、アイーラ発掘現場に面した所。



ジェラッシュ(ゲラサ)


  アンマンの北西48km。アンマンから北、パレスチナ、シリアにかけて連なっていた古代都市であるデカポリス(10都市連盟)に属したローマ帝国の大都市。北ギレアデ、クリュソロアス渓谷(現在のワディ・ジェラシ)の肥沃な平原(標高610m)に建てられ、ローマ・ビザンチン時代には全長3.5kmの城壁。現在ジェラッシュと呼ばれるが、ローマ時代の町の面影をほぼ完全な形で残す数少ない貴重な遺跡。凱旋門の東の丘から石器時代の道具類が出土しているが、ダビデの時代に至るまで村落が続いていたことを証明している。
  BC332,アレキサンダー大王がこの一帯を襲撃した頃から歴史に登場する。この町の創設者はアレキサンダー大王の部将で、大王の死後、王権を代行したペルディッカスと言われる。ローマ時代の碑文に、彼の像がこの町に建てられたことが記されている。これ以外には、この町に関する歴史的記述はBC2C末まで何もない。ハスモン家のアレクサンドロス・ヤンナエウス(BC103〜76)が即位すると、間もなくフィラデルフィア(アンマン)と、ゲラサ(ジェラッシュ)を除いたヨルダン川東の町を攻略し始めたと、記録されている。当時フィラデルフィアを支配していたのはゼノンで、彼は息子テオドロスと共に彼らの宝物の1部をゲラサ(ジェラッシュ)のゼウス神殿に移したが、この2つの町はこの2つの町は彼らの支配下にあった。BC82、ゲラサ(ジェラッシュ)もアレクサンドロス・ヤンナエウスに奪われ、暫くはユダヤ人支配が続いた。
  BC64、ローマの将軍ポンペイウス率いるローマ軍は、ジェラッシュを古代ローマの属領とし、ダマスカス、ペラ、ウムカイス等の10都市からなるデカポリスに組み入れた。そして、隊商都市として10都市中最も栄えた。1C半ば、大掛かりな都市計画で典型的な古代ローマ都市に生まれ変わった。ローマ帝国の繁栄に伴い、その支配下で交易で潤い、劇場や神殿が建設された。106、ローマのトラヤヌス帝がペトラを征服し、ローマ帝国に吸収された。アカバ、ペトラ、東方の都市を結ぶヴィア・ノヴァ・トライアナ(トラヤヌス帝の新ハイウェイ)が走り、東方貿易の幹線となり、ジェラッシュの重要性が高まり、以降隊商都市としても栄えた。
  129〜130、ハドリアヌス帝がここを訪れて以来、凱旋門を初め、アルテミス神殿、北劇場、競技場、西浴場等が新築された。列柱道路を軸にして、道路は碁盤の目のように整えられた
  3C初めに最盛期を迎え、町はローマの植民都市の地位を得る。ところが貨幣の製造をやめた3C中頃から、海上輸送の未発達やパルミラの滅亡等で徐々に衰退。330、コンスタンティヌス皇帝によってキリスト教が国教化され、ローマの神殿の多くは教会に改修された。359の教会会議にはこの町からも代表者が参加した。14の教会跡が発見され、モザイクも残っているが、殆どの教会は5〜7Cに建てられたもの。その後ビザンチン帝国の傘下で300年の繁栄を送る
  7Cに入り、614〜628のペルシャの侵入、更に636のイスラム軍の侵入ににビザンチン軍が屈する頃には、人口が激減し、活気のない町になった。720、偶像破壊令が下り、ビザンチンの教会も廃虚と化す。それから26年後、746の大地震で廃虚となった。隊商の行き交う道は東に移り、ジェラシュに砂が積もり始めた。
  ジェラシュの発見は1806、ドイツの考古学者ゼーツェンによる。それまでの1000年ほどは廃虚だった。1878、オスマン帝国はコーカサス地方から少数のコーカシア人を植民させ、小さな町を跡の中に造った。ヨルダン考古局によって発掘が開始されたのは1925。現在では南門からゼウス神殿辺りをフランス、アルテミス神殿がある都市の中央部をイタリア、北門周辺をポーランドと、国際的な支援のもとで発掘・修復を行っている。BC6000頃の石器時代の遺物も周辺から発見されている。ローマ時代の町の面影を残す数少ない貴重な遺跡。消えた隊商都市を2分するのがクリュソロウス(黄金の川)。川の東が俗界、西が聖域。周囲3.5kmほどの城壁の東半分は、2000人程が住む町になっている。
  最も期待される文化と娯楽のイベントは、毎夏2週間開かれるジェラッシュ・フェスティバル。呼び物はヨルダン最高の人達を含む世界からのアーティストによるパフォーマンスで、入場券は2週間前には売り切れる。このフェスティバルは国際的に認められ、ヨルダンの文化愛好家達の大きな誇りの源となっている。

城壁:ローマ時代に幅3m、全長3.5kmの城壁が町を囲んでいた。6m四方の塔が17〜22m間隔で101建てられ、5つの門があった。

ハドリアヌス皇帝の凱旋門:129に皇帝ハドリアヌスがここを訪れた記念。遺跡への南の入り口。中央のアーチは高さ10.8m、幅5.7m。その両側に小さなアーチ(5.2m、2.7m)から成る3重の門。

ヒポドローム:BC2C、160m×65m、戦闘用馬車の競争、競馬、馬車競技、ポロ等がが行われた。

フォーラム(楕円広場):イオニア式円柱が連なる。80×90mの楕円形の広場。楕円形のフォーラムは、ローマの町では珍しい。かつて社会生活の中心だった。BC1Cに建てられ、切り石で舗装されていた。石の下には町の下水システムが集中していた。中央の基段は宗教的な儀式に利用されたか、像が置かれていたか、演壇だったと考えられている。4C以降この広場に住居が建てられ、7Cには水槽が設けられたりして、ローマ時代に果たしていた広場の機能は失われた。
  フォーラムと列柱道路が接していた地点に、3つのアーチを持った3重門があった。

南劇場:BC1C、ローマ式劇場で3000人収容できた。席はギリシャ数字で区切られ、予約制だったという。太陽の影を少なくするために舞台が北側にある。音響効果が素晴らしく、現在もイベントに利用されている。

ゼウス神殿:ギリシャの神ゼウスのために建てられた。基段は41×28m、高さ15mのコリント式柱(縦12、横8本)で囲まれていた。現存するものは161〜166に再建されたもの。最初の神殿は22〜43年に建てられた。BC2〜1Cのヘレニズムの時代にも聖なる場所と呼ばれていた。現在も発掘が続けられている。

博物館:陶器製の劇場の切符や、コインなどの出土小物を陳列。

列柱道路(カルド):ジェラシのメインストーリートで、長さ800m。砂漠の交易で巨利を得た商人達が、旅の安全を祈って円柱を寄進した。かつては両側にそれぞれ260本の円柱、計520本が並んでいた。現在は左右に71本のコリント式、イオニア式の列柱が残る。敷石はオリジナル。道路の下に平行して走る地下水路が見える。他の道路と交わる所はテトラピロンと呼ばれ、4本の柱がドーム型の屋根を支えていた。2カ所で十字路(テトラパイロン)を形成している。
 列柱道路は現在でも轍の跡が見られる車道を列柱によって歩道と区別し、炎天から歩行者を守るために造られたもので、シリア・ヨルダンの属州に多く、ヨーロッパでは見られない施設。

ファエウム:カルドに向かって半円形に大きく開いた噴水。191、主に園芸や祭儀に使われた。ギリシャ神話の精霊ニンフのための、馬蹄形の2階建て祭壇がある。赤い花崗岩の柱はビザンチン時代に付け加えられた。

大聖堂:395、ジェラッシュ最初の教会建築。ナバティア人が2Cに造ったディオニシスの神殿の上に造られた。キリストが水をワインに変えた奇跡を記念した中庭がある。司祭の台座。

アゴラ:集会所または市場。

アルテミス神殿:ジェラシュの遺跡の核心。ジェラシュの守護神アルテミスに捧げられた。オリンポス12神の1つで、野獣のいる山谷森を支配する女神。中庭は160×120m、神殿の基段は40×23m。神殿はもともと2重の列柱で囲まれていたが、現在残るのは前面の1部で、南北に11本、東西に6本、13mの柱が立つ。柱の底は丸く削られ、地震で柱が揺れてもエネルギーを吸収する耐震構造になっていた。神殿はジェラシュの最盛期2Cに着工されたが、完成されなかった。12Cにアラブ軍と戦った十字軍によって1部破壊された。
 内部には3つの祭壇が有り、アラブ人によって要塞化された跡も残っている。

ビザンチン教会群:特に保存状態が良く、床のモザイクが美しい6Cのビザンチン時代の教会が3つ並ぶ。
 ・セント・ジョージ(ゲオルギウス)教会:529、8Cの大地震以降はこの教会だけが使われた。動物のモザイク。
 ・洗礼者ヨハネ教会:531、3人の子が太陽を持ち上げて踊る様子のモザイク。
 ・聖コスモス・聖ダミエン両聖人教会:2人の聖人は医療に優れた双子の兄弟だった。
    貧しい人達に奉仕したが533、迫害されて殺された。

北劇場:BC165完成のローマ劇場で、客席は14段、1600人収容。詩の朗読、地方議会の集会などさまざまな目的に使われた。場内には動物を繋ぐ場所があり、人と動物が戦う競技も行われたと考えられている。6Cの地震で建物部分が壊れ、他の建築に利用するために多くの石が運び出された。

シナゴーグの教会:3〜4Cのシナゴーグの上に6C末に建てられた教会。シナゴーグの床から発見された2つのモザイクには、ノアの箱船に乗り込む動物、最初にシナゴーグを修復した3人の名前(バルクの子ピネハス、サムエルの子ヨセ、ヒゼキヤの子ユダ)、「イスラエルよ平和あれ」の言葉が描かれている。
 このシナゴーグ周辺はユダヤ人地区だった。町の最も高い所にあり、ユダヤ人はゲラサの滅亡を信じていたのでこの高い所にシナゴーグを建てた。

ヤボク川:流れるという意味。ラバ(現在のアンマン)の近くに源を発し、そこから北東に流れ、更に北西に蛇行しながらギレアデ台地の中心を通り、これを南北に2分している。流れはやがてヨルダン川に合流する。全長96km。この川の南はイスラエル人による征服以前はシホンが占有し、征服後はガド族のものとなった。そして北側はオグが所有していたが、後にマナセの半部族の所領となった。ヤボク川は今日アラブ語でナハル・エ・ゼルカ(青い川)と呼ばれる。水量豊かで深い流れのために、水が青く写る。

エフライムの森:ジェラッシュからヨルダン川にかけて北ゲレアデの森が広がる。特にジェラッシュの北西一帯の森は、聖書の時代にはエフライムの森と呼ばれ、現在も樫木が到る所に見られる。ヨルダンでは最も豊かな森林地帯で、ディビン国立公園もこの地域にあり、多くの人の憩いの場となっている。ここでアブサロムは自分の髪を樫木に引っかけ、ヨアブに殺されたと言われている。



ペラ


  BC19Cのエジプトの文書にピヒラムという名で出てくるが、イスラエルのカナン入り以前に滅ぼされてしまったため、旧約聖書にもこの名は出てこない。アレキサンダー大王遠征後、この地に入植したギリシャ人(主にマケドニア人)によって町は再建され、ヘレニズム時代のパレスチナにおける重要な町に発展。アレキサンダー大王の生地、マケドニアの首都ペラに因んで新しい名前が付けられた。ローマ時代にはデカポリスの1つとなる。
  BC66、ユダヤ戦争が起こり、エルサレムのユダヤ人キリスト教徒は都を逃れ、異邦人の町ペラに移住。エルサレムが陥落すると彼らの1部はエルサレムに帰ったが、多くはこの町に留まり、以後キリスト教および政治、経済、文化の中心として5〜6Cまで大きく発展。2Cのキリスト教の著述家アリストンはこの町の出身で、他にもビザンチン時代の重要な司教達がここに住んでいた。その後アラブ人の侵略により町は635に破壊され、以後はゆっくりと衰退を始め、14Cには歴史から姿を消した。19Cになって初めてこの遺跡の周りに新しい村が建ち始めた。
  考古学者達はこの遺跡はBC5千年から14Cまで続いた集落の上にあると考えている。1979からアメリカ、オーストラリア、ヨルダンによる共同発掘が始められ、BC5000の新石器時代に、既に人が住んでいたことが証明された。歴史上重要な時代はローマ、ビザンチン時代で、タバカット・ファヒルの南の谷間に劇場、神殿、教会など当時の建築物が発掘されている。古代からの有名な泉は、今も水を湛えている。周辺には列柱道路と雄大な門の1部が残り、周辺の丘の中腹にはバジリカなども見られる。完全に発掘されれば、少なくてもジェラシュ位の規模はあると考えられている。



砂漠の城

 砂漠には7〜8Cにウマイア朝のカリフが築いたり修復した城が幾つもある。・カスル・ハラバット:ローマ人が初期ナバティア人の住居跡と考えられる場所に建てた。7Cには僧院に転用された。

・カスル・アズラク:玄武岩の城で、アラビアのローレンスがアラブの反乱に参加した時、司令部を置いた所。町は猟鳥獣類の禁漁区。「知恵の七柱」の中でローレンスは、この地のことを「輝く絹のようなエデン」と言っている。

・カスル・アムラ:ウマイア人が楽しみとスポーツのための宿舎として建てたもの。壁と天井を一面に覆う未だに色彩豊かなフレスコ画が有名。ダイナミックな画面には等身大の女性から、8Cに砂漠に棲息した動物達を描くシリーズまである。スチームバスを楽しむことができた源泉と、地下水のシステムを今も見ることができる。

・カスル・カラナ:ウマイア人が楽しむためだけではなく、防御にも注意を怠らなかったことの証明。壁が何メートルもあるこの建物は、1・2階が居住区で、3階は天井が開きどの方向も見晴らせる。中庭を囲んで建つ。この城の建築者は、敵が接近できないようにあらゆる方向に開いた窓が外から見ると全体が矢のように見えるようにデザインした。

・カスル・ムシャッタ:本当の宮殿だった。もともとは贅沢な彫刻で覆われていたがWW1直前に剥がされて、カイザーヴィルヘルムの命令でベルリンに運ばれた。

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