レバノン共和国
ベイルート ドック・リバー ジェイタ ジュニエ
ビブロス トリポリ ブシャーレ パールベック
アンジャール ベイト・エディーン サイダ スール
レバノンは古い歴史が刻まれた国。地中海に面し、シリア・イスラエルと国境を接している。レバノンという名称は、セム語でレバン(白から来ている。レバノン山脈の雪山の白さを意味する。高い山を見慣れていたギリシャ人と違い、山のない所からやってきた彼らにとって、雪をかぶったレバノン山脈は驚異に値するものだった。そのレバンがレバノンに変化した。現在アラビア語ではレバノンはヨーグルトの意味。 東西の幅が最大で90km、狭い所で25km。海岸平野の東側には2000m級のレバノン山脈と、アンチ・レバノン山脈が縦断する。この2つの山脈に挟まれた所が標高800mのベカー高原。大変肥沃な土地で、レバノンの穀倉地帯。
レバノンの長い歴史の中で独立を謳歌した時期は、大変短い。レバノンに独立国が有ったのは、BCのフェニキア人による国家建設の時期(BC3000〜1580,1179〜883)と、WW2後の1943〜69。実際、現在でもレバノンはイスラエルとの国境地帯を、国連の平和監視軍に押さえられ、他の地域にしても、シリアの軍隊の駐留を許すなど、独立主権国家には程遠い状態。逆に言えばそれだけ外部の勢力にとって魅力的な地域にあるということ。
古代にはフェニキア地方と呼ばれ、フェニキア商人はツロ、ビブロス、シドン等の都市国家を拠点に地中海を縦横無尽にかけ巡った。この土地が文化や芸術を伝えた功績は大きい。シドンやティレ等の都市国家が衰退し始めた頃、ベリトス(現在のベイルート)が大きな影響力を持つようになる。ローマ時代には、名声を博したローマ法律学校と共に文化の中心となった。そのローマ支配時代を経て、7Cにはイスラム圏に入り、200年に渡って続いた十字軍の支配の後、16Cにオスマントルコの支配下に入った。
その後フランス委任統治時代を迎える。フランスは自分達にとって統治が容易になるという理由から、国内の少数派により多くの力を与えるという政策を実施。これが原因となって現在まで問題が解決しない国もある。レバノンも同様で、独立は果たしたものの、フランスに権限を与えられたマロン派キリスト教徒とイスラム教徒の力の不文律が原因となって、1975から内戦状態に突入した。イスラエルとの戦争、レバノン内戦は終結したものの、その後遺症は深く残っている。
レバノンには各時代の重要な歴史が残っていて、狭い国土にユネスコの世界文化遺産が4カ所もある。それは世界有数の巨大なローマ神殿が残るバールベック、アルファベットの原形が発明されたビブロスの遺跡、古代フェニキア人の町でローマ時代の広大な遺跡が見られるスール(ツロ)、ウマイヤ時代の都市アンジャール。古代遺跡ばかりでなく、レバノン観光の3Bと称されるベイルート、ビブロス、バールベック等で近代的なレジャーも楽しめる。かつて「中東のパリ」と呼ばれた首都ベイルートは、内戦の痛手から急速に立ち直りつつある。近代的な町並みは復興が進み、近郊のナイトクラブやカジノも再開。夏はマリーンスポーツ、冬はスキーと、変化に富んだ自然を活かしたリゾートも豊富。
国旗に描かれる杉の木は、かつてレバノンの山々を覆っていたレバノン杉。建築材料として大変優れたレバノン杉は、古代から重要な輸出品だった。今も北西部の山岳地帯に林が残っている。冬はこの山々が雪で覆われる。現在国内に樹齢1000年を越える木は35本くらいある。杉科ではなく松科の特殊な種類。芽が出るまで4年懸かり、1年に1cmずつ成長し、実をつけるのには40年かかる。
レバノンはモザイク国家とも称される。人種的にはアラブ人が9割以上を占めるが、宗教・宗派はかなり複雑。シリアやヨルダンではスンニ派イスラム教徒が圧倒的多数だが、レバノンには過半数を越える宗派は存在しない。イスラム教ではスンニ派、シーア派、ドルーズ派、キリスト教ではマロン派、ギリシャ正教、アルメニア正教などがそれぞれに地域毎に住み分けをしている。オスマントルコ時代から自治権を大幅に認められ、その後多宗派を擁するレバノンは、フランス委任統治時代を経て、1943に独立。大統領はマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派というように、政府の要職を宗派毎に配分して政治的安定を図ってきた。そして金融・貿易の自由化を進めたため、1960〜70年代半ばまで、スイス以上の金融国として栄えた。国土の豊かさ気温の温暖さにおいて他の中東諸国に追随を許さず、中東のスイスと呼ばれ、アラブ諸国の中で唯一、不毛の砂漠がない国として、近隣諸国からの避暑地として、東西の貿易の中継点として、繁栄の極みにあった。
しかし宗派間の格差と勢力争い、そしてパレスチナ難民の流入をきっかけに内戦が勃発。PLOの脅威や各民兵組織の利権争い、1982にはイスラエルのベイルート侵攻など欝積していた問題が勃発したような形で、1980年代のレバノンは、ほぼ無政府状態となり、欧米人を初め政治的な誘拐までもが多発し、危険な状態だった。15年あまりの戦闘によって公共機関が麻痺したが1989、サウジアラビアのタイーフで各民兵組織が和平に合意。その後、各宗派に権限が分散され、政治的な平等が与えられた。これによって治安は回復し、再建が急ピッチで進んでいる。
内戦によって疲弊した経済状態は、中東和平の影響もあって、改善の方向に向かっている。日本やその他の国に正式に援助を要請し、関係当局は投資を促し、再び中東の金融・サービス業の中心として復帰する計画が立てられている。ただし長く機能が麻痺していた公共機関の回復の難しさや、多額の公共負債、急激な物価上昇、失業率の高さなど問題は多い。
自然
地中海沿岸地帯と、海岸に迫る高山地帯、その内陸に広がるベカー高原の3つの自然相がある。海岸から山の頂までは車で2時間。
ベイルート
国のほぼ中央に位置し、地中海に突き出た岩の多い半島の上に発展した町。ベイルートの中心は元々エトワール広場や国会に近いダウンタウンだったが、内戦によって破壊されたため西ベイルートのハムラ地区が中心街になっている。
町はダウンタウンから南東に向かって伸びるダマスカス通りによって東西に分けられる。アシュラフィーエ地区を中心とした東ベイルートがキリスト教徒の居住区で、マズラ地区を中心にした西ベイルートがイスラム教徒の居住区。内戦時はダマスカス通りに沿った地域が最も戦闘が激しかった。停戦ラインもこの通りに沿って引かれた。
ベイルートはBC1200頃に活躍した地中海交易の旗手・フェニキア人の土地だった。フェニキアはギリシャ語で真紅を表す言葉で、元々は不死鳥フェニックスの鶏冠の色からきたとも言われる。彼らの時代から貿易に長けていたレバノンの商人達は、地中海に面する地の利を活かし、西アジアに留まらずヨーロッパとアジア、アフリカの物資を流通させ、各地域の文化を伝える役割を担ってきた。
1C初頭、アウグストゥスは、地中海に面した良港に注目してここを植民都市とした。3Cになるとこの港町はペリトスと呼ばれ、列柱道路・神殿・ローマ劇場など数多くの建造物が建てられた。また最古のローマ法学校が設立され、4Cの記録には「全ての優れた法律家はベリトスへ行く」と書かれるほどだった。6Cまでアラビア・アルメニア・ギリシャなどから法律を学ぶ学者が集まり、文化の中心として栄えた。しかし551以後数回の地震に見舞われ、町は崩壊。
その後の13Cからのアラブ時代に浴場やモスクなどが建てられた。ベイルートが再び発展するのは19Cに入ってから。19C後半になると、当時レバノンを支配していたオスマントルコ帝国が衰えを見せ始め、フランス・イギリス・ロシアなどの列強はこぞって中東に進出。ベイルート港は拡大され、東地中海の重要な寄港地となった。又ベイルート〜ダマスカスを結ぶ街道が整備され、ベイルート・アメリカン大学の前身のシリアン・プロテスタント・カレッジが開校、更にフランスの委任統治を経て、モダンな都市が建設された。銀行や金融機関が立ち並ぶ中東のビジネスセンターとして、西欧ビジネスマンが大量に流入し、1970年代までは中東で最も西欧化した近代都市へと発展した。
地中海沿岸特有の穏やかな気候は、近隣の厳しい自然環境を有する地域の人々の羨望の的で、湾岸諸国などからの避暑客を集め繁栄した。1970年代までのべイルートは、観光地としての役割だけではなく、中東で最も重要な商業センター、情報発信基地で、各国の中東本部や通信社が軒を連ね「中東のパリ」と呼ばれた。
1975からの内戦で市街地は被害を被ったが、1991以来、都市の再開発が進み、かつての繁栄を取り戻してきた。大規模な再開発工事の現場から、ローマ時代の遺跡がどんどん発見されている。
鳩の岩:2つの奇岩。大きい方が高さ22m、幅15m。2つとも洞窟になっている。ここから海に飛び込むというのは、男性が自分の逞しさを自慢する言葉。フランス支配時代、本国に送る伝書鳩の基地だった。7万年前の石器が発見されたため、ベイルート発祥の地とされている。
大モスク:ローマ時代の神殿があった場所に、ビザンチン時代にギリシャ正教会が建てられた。十字軍の時代にローマカトリック教会に造り替えられ、更にアラブ時代にベイルート最大のモスクとなった。
旧市街:かつてのベイルートの中心地。内戦で戦場となったため、建物の損傷が激しく、戦後そのまま放置されていたが、現在は再開発中。至るところで遺跡が発見されている。
アメリカン大学:中東初の近代大学。1866に開校したシリアン・プロテスタント・カレッジがその前身で、カイロのアメリカン大学 AUCと並ぶ中東におけるアメリカ式教育の中心。ここからも分かるようにレバノンの自由化は早い時期から進行し、フランス風の自由な空気が溢れている。大学内には図書館や考古学博物館がある。博物館にはフェニキア時代のガラス細工、アラブ時代の硬貨など、考古学的に重要な品が展示されている。
シュルショーク博物館:19C後半、東ベイルートの高台にイタリア様式の壮麗な宮殿が幾つか建設され、アシュラフィーエ地区の個人邸宅の1つを所有していた旅行家のニコラス・シュルショーク氏の遺言によって邸宅は政府の引き継がれ1961、博物館に改装された。1952まではシュルショーク氏が住んでいた。
正面玄関奥のホールには、古い壺や伝統工芸品が飾られ、展示場では毎回テーマを変えて世界各国の絵画や彫刻、アラブの民俗楽器、古代の碑文などが展示されている。
ベイルート国立博物館:1942に開設され、展示品の質の高さで知られたが、ベイルートを東西に分けるグリーンライン上にあり、内戦のために収蔵品を別の場所に移動させた。移動できないものは大きなコンクリートで保護した。
博物館にはレバノン各地で出土した先史時代、フェニキア、ローマ、ビザンチン時代の重要なコレクションがある。ビブロス出土の多数のブロンズ製の兵士の像、最初のアルファベットとされる文字が刻まれたビブロスのアシアム王の石棺、バールベックの復元模型などがあるが、現在は閉鎖中。
ドッグ・リバー
アラビア語でナハル・エル・カルブ。石灰岩の岩山を削って流れる小さな川で、川沿いの岸壁には4000年に渡ってここを通った数々の英雄・勝利者達の碑文が残っている。書かれている文字は象形文字からアルファベットまで様々。川には3つのローマ時代の橋が架かっている。
BC13Cにカデッシュでヒッタイトと戦ったエジプトのラメセス2世がここに碑文を刻み、その後バビロニアのネブカドネザル王、アッシリアのティグラトピレセル1世、ローマのカラカラ帝、アラブの英雄サラディーン、オスマントルコのセリム1世、ナポレオン3世、更に1946のレバノンからの外国軍の撤退を記念する物まで19の碑文がある。
ジェイタ洞窟
巨大な鍾乳洞の洞窟。1836、アメリカ人のハンターが発見した。その後調査が進み、洞窟の長さが6910mあることが分かった。世界第2の規模。最大はユーゴスラビアにある。
約7000万年前から形成され、深さは平均50〜60m。山中に約8000m入り込み、鍾乳洞を形成。1cmの石筍ができるのに約1年かかる。洞窟内は上下(大小)2層になっていて、地中で水によってつながり、ドッグ・リバーの主な水源となっている。下の洞窟(623m)では地下湖をボートで巡ることができるが,冬の雨季には水かさが増し、入れないこともある。上の洞窟には水は流れていない。
ジュニエ(ハリッサ)
内戦中にベイルートが危険になり、ベイルート市民が移り住んできたために急速に大きくなった。ベイルート近郊の近代的なリゾート地。海水浴場やマリーンスポーツ・クラブがあり、湾を見下ろす山の斜面には高層ホテルやリゾートマンションが林立する。
ハリッサ:町の東の丘。ロープウェイとケーブルカーを乗り継いで頂上へ行く。マロン派キリスト教徒の聖地。「レバノンの貴婦人(聖母)」と呼ばれる白亜の像がそびえる。ジュニエのシンボルで、1904にフランスのリヨンで造られた。
ビブロス(ジュベイル)
ベイルートから北に36kmの地中海沿い。イスラエルのエリコと並んで、古くから人が住み続けてきた世界最古の都市国家が存在していた。紀元前7000頃から定住し始め、紀元前4500頃の住居跡、フェニキア人の神殿、十字軍の砦など各時代の遺跡がある。ビブロス〜マシュナカ〜ヤヌハ〜アフカへの古代フェニキア人の巡礼ルートの始まり。アドニス神再生の信仰が行われた。ビブロスから1日かけてマシュナカへ着き、アドニスの死を悲しむ。翌日1日かけてヤヌハへ着きアドニスの死をむせび泣き、もう1日かけてアヒカへ着き、酒を飲んだり踊ったり、アドニスの再生を祝う儀式が5日間行われた。
ビブロスの名は、パピルスを意味するギリシャ語。エジプトからギリシャ世界へのパピルスの中継貿易港として重要な位置を占めていた。ビブロスはまた、聖書(バイブル)の語源でもある。ビブロスは現在、ジュベイルと呼ばれる。またここは、世界最古のアルファベットが発見されたところとしても有名。
長い歴史の中でビブロスが特に繁栄したのは、BC3000〜800にかけてのフェニキア人の時代。セム語系の民族が形成していた都市国家に、別のセム語系民族である遊牧的要素の強いアモリ人が進出し、フェニキア人が形成された。ビブロスの東のレバノン山脈一帯で産出したレバノン杉は造船・建築・香油生産のための貴重な輸出品で、古代エジプトとの貿易が盛んだった。エジプト第4王朝のファラオ、スネフルは、船40隻分もの杉材をエジプトに運ばせている。クフ王の大ピラミッドからは、レバノン杉で造られた長さ43mもの葬送用の船が発見されている。又ツタンカーメン王の棺や数々の調度品もレバノンからの木材で製作されている。又レバノン杉の樹脂はミイラ作りの儀式に不可欠であった。そのため、エジプトとビブロスの結びつきは大変強く、文化的影響を大きく受けた。
ビブロスはエジプトと深く関り合って発展してきたがBC13〜12C、東地中海一帯を政治的混乱に陥れた「海の民」の攻撃を受けてエジプトの勢力が弱体化すると、フェニキアの諸都市は独立的な都市国家となり、その黄金時代を迎えた。フェニキア人は1つの文字が1つの音を表す表音文字を使うようになった。地中海全域を行き来していたフェニキア人によって、アルファベットが各地に伝えられ、改良されて現在の形になった。BC1200頃のビブロスの王アヒラムの墓から発見された石棺には22の子音による最古のアルファベットが刻まれている。
BC7C末、ギリシャはナイルデルタのナウクラティスに植民市を造り、エジプトと直接取引を始め、ビブロス派その中継貿易港としての利点を失って衰退していく。その後もローマ時代にアドニス神崇拝の拠点となり、また中世には十字軍の城も築かれたが、東地中海の大交易港としての面影は失われてしまった。
ビブロスの遺跡は驚くほど小さく、都市として外壁に囲まれた部分は5haほど。フェニキア人は壮麗な宮殿を建てたり、大規模な都市を計画するよりも、海に乗り出して活発な商業活動を行なうことに関心を持っていた。ビブロスからは歴史的に大変重要な品々が多数出土したが、殆どがベイルートの国立博物館に所蔵されている。
アドニスの神話
BC5Cのフェニキアの詩人パンヤスによる話。アドニス(美少年)はシリアの王だった父ティヤスと、その娘のミルハとの近親相姦によってできた子。ティヤスは近親相姦を恥じてミルハを殺そうとした。ところがミルハが余りにも美しいので、神々はミルハが殺されるのはもったいないと考え、彼女を木に変えた。その木は「ミラハ」と呼ばれ、枝からしたたり落ちる水分でにかわが作られる木だった。この水分はミルハの涙で、アドニス少年はこの木の枝から生まれた。(その生まれた所がビブロス)。アドニスは狩りが大好きで、森で多くの時を過ごした。
ある時、アスタルデ(アフロディテ)がアドニスに一目惚れした。アドニスの身を心配して、狩りは危ないのでやめるように説得するがアドニスはやめず、翌日猪に殺されてしまった。この場所がビブロスから約7km離れた現在のアフカ。アスタルは涙を流し、その涙が地面に落ちてたくさんの花が咲き、アスタルデの涙という名が付いた。ビブロスからアフカに至る地域は、現在でも春にはたくさんの花が咲く。一方、アドニスの流した血が溢れ出し、地中海に流れたと言われるのが、アフカを水源とする現在のアドニス川(アブラハム川)。また、アドニスの血が地面に落ち、そこから咲いた花がアネモネ(アドニスの血)。
この神話はアドニスの両親が近親相姦であることから、ギリシャのイシスとオジリスの神話と同一視される。又ギリシャ神話では、死んだアドニスは死の女神ヘラと生の女神アフロディテの間で取り合いとなり、1年の間にそれぞれが4カ月ずつアドニスを所有することになり、残りの4カ月はアドニスの意志によってアフロディテと過ごした。2人が過ごした場所がアフカ。フェニキア時代からの神話は神の名を変えて今も信仰される。
アスタルテ→アフロディテア(ギリシャ)、ヴィーナス(ローマ)、マリア(キリスト教)、ファティマ(イスラム教)。 アドニス →バッコス(ローマ)、アブラハム(旧約、キリスト教)。
オシリスとイシス
1Cのギリシャ司祭によって書き留められた伝説。エジプトの神オシリスは、その権勢と信望を妬まれ、弟によって木箱に閉じ込められ殺害された。ナイル川に投げ込まれた木箱は、地中海に流れ出して波に運ばれ、ビブロスの海岸に流れ着いた。物語はその後、このオシリスの体を探し求めてビブロスに旅した妹の女神イシスについて語られる。
ビブロスの遺跡:BC5000の集落、BC2000のフェニキアの遺跡、BC1500のテラス、ローマ劇場や神殿跡、十字軍の11の要塞までが全て同居している。この遺跡群で発見された青銅の兵士群像は国宝として国立博物館に保管されている。
王の井戸:女神イシスが兄オシリスを思い、涙を流したと言われる泉。ここを中心にビブロスが発展した。
十字軍の砦:堀で囲まれた堅固な造りで、1108に建てられた。城壁には近くのローマ時代の遺跡から持ってきた白くて丸い石が所々に組み込まれている。
オベリスク神殿:BC18Cにビブロスの王が築いたもので、砂岩や石灰岩でできたオベリスクが26本立っている。エジプト文化の影響が強いことを表している。ここからブロンズ製の兵士の像が多数発見された。この像には金が被せられていたらしく、1部が残っている。
ビブロス王家の墓:BC1900〜1600。BC1800のアビシェム王の墓から、エジプトのアメネムヘット3世から贈られた黄金の花瓶などの副葬品が見つかった。
ローマ劇場:十字軍の砦の建設のためにここから石が切り出されたため、5段の客席とステージしか残っていない。
蝋人形館:石器時代からフェニキア時代を経てレバノンが独立するまでの歴史・文化・生活様式を、120体の蝋人形によって再現。哲学者・詩人だったジュブラン・カリールの蝋人形や、歴史的な事件・生活様式を再現した展示。
トリポリ(トラブロス)
ベイルートから北へ86km。地中海に面したレバノン第2の都市で、レバノン北部の商業の中心地。フェニキア時代から港町として栄え、町がかつてシドン、ティレ、アラドス島の3つの地区に分かれていて、フェニキア同盟の中心だったことからことから、ギリシャ語でトリポリス(3つの都市)と呼ばれた。6Cの地震で町の1つが海底に沈み、現在は旧市街と新市街(エル・ミナ)の2つの地区に分かれている。
12Cにレイモンド・セント・ジルが率いる十字軍によって町は要塞化された。その支配は1289にマムルーク朝の手に落ちるまで180年間続いた。現在トリポリに見られる遺跡の多くは、この十字軍からマムルーク朝時代のもの。旧市街には当時の町並みがよく保存されている。狭い通路が迷路のように入り組んでいる。
トリポリの観光起点はエッタール広場で、12Cに建てられた十字軍の要塞の麓から港のほうに旧市街が広がる。港周辺のミナ地区は工場、ホテル、高層ビルが立ち並ぶ近代的な新市街で、工業とビジネスの中心。トリポリはアラブ菓子で有名。ハルワート・エル・ジブン(薄いチーズの生地にシロップとクリームを乗せたもの)が特に有名。
旧市街:エッタール広場から東に広がる中世イスラムの町。14〜15Cにエジプトを首都として栄えたマムルーク朝時代に建設されたモスク、マドラサ、ハマム、スーク、ハーン(隊商宿)等が残る。午前と夕方のスークは特ににぎやか。
大モスク:トリポリを十字軍の手から奪取したマムルーク朝のカラウイーンによって、十字軍の教会の上に建てられた。
ハマム・アン・ヌリ:大モスク脇。1333に建てられた公衆浴場。
マドラサ・アル・カルタウィーヤ:1316〜1326。大モスク東に隣接。白黒の石を使い、蜂の巣状にくり貫かれた上部と四角い幾何学模様が特徴。
マドラサ・アル・ブルタスィーヤ:1310。アブ・アリ川沿い。鐘乳石のドームと四角いミナレットの建物。現在もモスクとして使われている。
スーク・アルハラジュ:中世市場の雰囲気を持ち、狭い通路に商店がひしめきあう。
ハーン・エッミスリーン:エジプトの商人が使っていた。
ハーン・エッサブーン:17C。特製石鹸の倉庫。元々オスマントルコに対する守備兵の兵舎。
ハーン・エル・ハッヤティーン:14C。仕立屋のスーク。60mほどのアーケードになっている。
タイナル・モスク:1336。南の外れ。入り口上部の手の込んだ装飾と白黒の石のコントラストが特徴。
セント・ジル要塞:1103、フランク王国トゥールーズ伯の十字軍士レイモンド・セント・ジル伯によって建てられた十字軍の要塞。彼はビブロスにも、後に要塞を建てた。4年後、元々ここに住んでいたアラブ人、バノアマン家のアブ・アリ(シーア派)によって殺害された。その現場となったのがアブ・アリ川。
要塞はトリポリの港を望み、東に流れるアブ・アリ川を見下ろす戦略的に重要な丘の上に建てられた。玄武岩と石灰岩によって築かれたがっしりとした造りの要塞は、1289のマムルーク朝のカラウイーンの攻略で焼け落ちたが、14Cに当時の統治者によって再建された。トルコ時代には1部が牢獄として使われた。現在は元の十字軍の要塞に近い形に復元され、丸天井の部屋、鉄製の門、兵士の宿舎などが見学できる。
獅子の塔(ライオン塔):ミナ地区に唯一残るマムルーク朝時代の建物。強大になりつつあるオスマントルコから町を守るために、15Cに建てられた。装飾が美しく、入り口上部のライオンのレリーフからこの名が付いた。中は円天井のホール。
ブシャーレ
ベイルートから120km。標高1459mの町。山路の途中に見えるレバノン山脈のスロープをバックに、オリーブ畑や葡萄畑が広がる。レバノン北西部の山岳地帯の中心的な町で、ここを拠点にレバノン杉林やスキー場に向かう人が多い。夏でも平均12〜17度と涼しく、避暑地となっている。ジュブランの生地で、彼はアメリカで活躍したが、ブシャーレで病死。遺言によって遺体は町を見下ろす崖の中腹にある修道院に安置されている。この修道院が1973、ジュブラン博物館となった。キリスト教の町で、他のアラブ人の町の様に髭を生やした男性は少ない。
ジュブラン博物館:ここで生まれた画家・詩人のハリル・ジュブラン(1883〜1931)の油絵、素描、使用していた机などを展示。10代でアメリカに移住し、代表作「預言者(The Prophet)」。
バールベック
ベイルート北東約86km。ベカー高原のほぼ中央に位置する。アラビア語で平原のバアルの意味。古代パレスチナの豊穣の神バアル(ベル)礼拝の中心地だった。バアル神は旧約聖書では異教の神として登場する。中でも預言者エリヤがフェニキアから来たイゼベル女王のもたらしたバアル信仰と戦った記事が有名。果樹園の中央に遺跡が広がる。
BC60頃、ギリシャ人はここにヘリオポリス(太陽の都市)を建設。地元のバアル信仰とギリシャの神々を融合した。BC16、皇帝アウグストゥスはここをローマの植民地とした。ローマ帝国は土地の人達に土着の宗教を廃止させ、自分達と同じ神々を崇拝することを求めた。そして歴代のローマ皇帝はここに、天地を創造する最高神ジュピター、酒の神バッカス、愛と美の女神ヴィーナスに捧げる壮大な3つの神殿の建築を始めた。300年かけてギリシャの神殿を根本的に立て直して造られたこの神殿群はローマ様式で建設され、華麗で繊細な装飾が建物の隅々にまで施された。この時代はアラブ人の皇帝フィリプ・アラブ帝の統治時代。
4Cになって、コンスタンティヌス大帝がキリスト教に改宗し、キリスト教がローマの国教となった。バアル信仰は異端と見なされ、異教徒が崇拝する神殿の多くが破壊され、ここに新しく教会が建てられた。
7Cのビザンチン時代に東方から占領を続けてきたアラブ軍の手に落ち、イスラム時代にはローマ神殿は要塞に変えられた。その後は衰退し、1759の大地震で廃虚になった。19C半ばに発掘され、現在は中東有数のローマ遺跡。内戦が激化するまでは、中東・ヨーロッパから多数の芸術家を集めて祭典が繰り広げられた。現在はイスラム教シーア派の人が多く住む。
六角形の前庭と大庭:基礎部分しか残らない。ジュピター神殿の手前の建造物。テオドシウス帝の時代には、ここにキリスト教会が建てられた。3Cに建設された六角形の面には、古代シリアの神々が浮き彫りにされていた。大庭は2Cのもので、エジプト産の薔薇色御影石の石柱128本で囲まれていた。中央には2つの祭壇跡があり、ここで犠牲が捧げられた。両脇の池は犠牲のための動物が洗われた所。
ジュピター神殿:最高神ユピテル(太陽神ジュピター)に捧げられた50×89mの神殿。アテネのパルテノン神殿よりも遙かに大きい。BC60頃完成した。直径2.2m、高さ22mのコリント式円柱が54本並んでいた。現在はバールベックのシンボルというべき6本が残っていて、柱の直径2.5m、高さ21mで世界で最も高い。柱を支える梁にはライオンの頭などが彫刻されている。土台として使われた石灰岩の中には長さ20m、幅4.5m、高さ3.6mの巨大な礎石が3つある。重さは約800トンと推定される。
バッカス神殿:バアル神の配偶者であるアシタロテとシリアの女神アタルガテスが融合した神に捧げられたもので、BC150頃の完成。現存するローマ神殿の中で最も保存状態が良いもので、屋根以外は原形を保っている。36×68mの神殿を42本の円柱が囲んでいた。下から見上げると、フェニックスや羽根を持った神のレリーフ等が彫られている。神殿の裾回りや天井は麦、葡萄、ひなぎく等の浮彫で飾られている。
ヴィーナス(ウェヌス)神殿:八角形の小さな神殿だったが、ほとんど原形を留めていない。地下でバッカス神殿とつながっていた。貝殻から誕生するヴィーナスの図柄が描かれている
石切り場:遺跡の南西1km。ここから神殿を建設するための石灰岩を切り出した。1200トン以上あると推定される。切りかけの直方体の石が置いたままになっている。
アンジャール
ベカー高原の中央に位置し、レバノン山脈の山並みをバックにするウマイヤ朝時代の城壁都市。アンジャールは「岩からの水」の意味で、近くに泉があり、リタニ川の流れに潤されている。アンジャールはレバノンに残る唯一の、そしてウマイヤ朝時代の都市の構造がよく分かる大規模な遺跡。1945に写真から発見され、その後1949から政府によって発掘が始められた。ビザンチン様式が色濃く残る建築で、南北に385m、東西に350mの城壁に囲まれた長方形の都市だった。
8C初め、預言者マホメッド死後の最初の王朝であるウマイヤ朝(661〜750)のカリフ、ワリード・ベン・アブドルマラック1世によって建てられた夏の宮殿を中心とする城壁都市。8C当時ウマイヤ朝の領土は中国からフランスまであった。
その首都ダマスカスと比べてベカー高原は夏に涼しく、水が豊富なため、アンチ・レバノン山脈を越えたこの地を選び、石碑や彫刻を運び、保養地として夏の宮殿を建設した。建築にあたったのはビザンチン帝国の奴隷達だったため、ローマ・ビザンチン風の都市となった。また、建築資材はローマ・ビザンチンの遺跡から流用された。また、地中海とダマスカスを結ぶ隊商路の交易起点として数多くの商店がここに立ち並んだ。城壁内に商人達を呼び込み、1軒あたり5m×3.5mというスペースを与えて商売をさせた。城壁内では600を越える店が賑わっていたという。
この都市は完成からたった40年で消滅。ワリードの息子の従兄弟にあたるモルワン・ベン・アブドルマラックによって破壊された。ワリードの息子とモルワンの間に起こったカリフ就任を巡る権力争いが原因(当時カリフは世襲制だった)。
列柱道路:4辺の城壁にはそれぞれ中央に城門があり、それを結ぶ2本の列柱道路が町を4つに分けるように十字を交差している。そこにはテトラピオン(4本の円柱が4隅にある門)があった。現在はその1つが残っている。道幅は20mで、両側に5m幅のアーケードがあり、600以上の商店が並んでいた。列柱のサイズや様式がまちまちなのは、周囲のローマ・ビザンチン時代の廃虚から持ってきたから。
宮殿:ローマ神殿の上に、ダマスカスからやってきたウマイヤ朝のカリフであるハリド・イブン・アル・ワリードが築いた。アーチが重なった遺構を持つ。主宮殿は南東のブロックにあり、カリフの住まいだった。40 の中庭はアーケードで囲まれている。
第2宮殿がこの北にあり、豪華な装飾が施されている。装飾にはローマ・ビザンチン建築によく見られるフクロウ、鳩、葡萄の房、鷲などのシンボルが使われている。ここはカリフの婦人達の住まいだったと考えられている。その他モザイクの残る浴場、居住区、堅固な城門などの遺構が残る。
ベイト・エディーン
ベイルートから48km。シューフ山地の宮殿跡。18C末から19Cにかけてレバノンを50年以上に渡って治めたドルーズ派首長国の首長エミール・バシール・アル・シュハビによって建てられた。元々ここにはドルーズ派の祈りの間があり、ベイト=家、エッディーン=信仰から名付けられた。建築は18C末から彼が亡くなった1940まで続いた。ダマスカスの職人によって豪華な内装が施され、それ以後の東方建築のモデルになった。1943にレバノンが独立してからは大統領の夏の宮殿となったが、1983からドルーズ軍の統制下に入り人民宮殿となった。宮殿は3つの部分に分けられる。
東側には多くの人が集まる60m四方の庭、その北の建物は17CからWW1までの武器や宝石、衣装などを展示した博物館、レバノン独立とこの宮殿の改革に身を捧げた社会党の創始者・ドルーズ派の統治者カマル・ジュンブラットに関する資料を展示した博物館、考古学博物館、中東で1番のビザンチンモザイク博物館(かつての馬小屋)。
中央は警備の騎兵500人と歩兵600人を収容する部屋。中庭に面した建物の大理石の壁、幾何学模様の門が見事。西側は太守の私室で、応接間、ハーレム(現在は政府が使用)、調理場、浴場などがある。ドルーズ派は現在、イスラム教から完全に分離、独自の経典を持つ。
サイダ(シドン)
ベイルートの南48kmにある港町。古くはシドンと呼ばれ、地中海貿易で栄えたフェニキア人の主要な港だった。現在でもレバノン南部最大の町。サイダは釣りの意味。BC4000から既に人が住み、地中海に突き出た半島と島々からなる港に適した地形を利用して、フェニキア人はBC12〜12Cにかけて活躍した。ガラス細工と貝から取れる紫の染料が特産品だった。海軍の重要な戦略拠点だったためバビロニア、ペルシャ、ローマ、イスラムと次々に支配者は変わったが、依然として重要な港だった。イエス・キリストもシドンを訪れ、使徒パウロもローマに行く途中立ち寄った
1111、ボードウィンが率いる十字軍によって町は47日間包囲され、ついに陥落。十字軍の支配は100年以上続き、1291にマムルーク朝の支配下に入った。サイダには主に十字軍時代とイスラム時代の建造物が残る。現在はレバノン第3の都市、南部の中心都市として発展している。お菓子、特にサニィヨラが有名。
ネジュメ広場:現在の町の中心。
海の城壁:1228、十字軍がサイダを陥落させた後、港の防備のために小さな島に建てた城砦。元々はフェニキア人のメルカルト神殿だった。マムルーク朝によって破壊されたが、2つの塔と壁の1部が残る。アラブ伝統様式の内装。現在は石橋で渡ることができる。十字軍は70年間しかここに留まれず、サラディーンによって攻められ、陥落した。
旧市街:石造りの建物の間を狭い通路が入り組む。
ハーン・エル・フランジュ:17Cの外国人の隊商宿・倉庫。一時フランス領事館だった。現在はカルチャーセンター。
ハーン・エル・アルーズ:コメのハーン。
大モスク:13C、十字軍のホスピタル騎士団が建てた聖ヨセフ教会の跡に建てられた。
サン・ルイ城:13C半ば、ルイ9世の時代に十字軍によって建てられた。
エシュモン神殿:シドンの守護神エシュモンの神殿跡。BC6Cのペルシャ時代のもので、ギリシャの影響を受けた彫刻やモザイクが発見された。エシュモンは病気を治す神で、ギリシャの医学の神アスクレピオスと同一視された。
スール(ティルス)
ベイルートから南に80km。古代にはティルス、ツロと呼ばれた。フェニキア地方の最南端にあり、古代から栄えた都市。ヘロドトスの歴史書によると、BC28Cに町は存在した。BC14Cのエジプトのアマルナ文書には、ツロの王アビメレクがこの地域を治めていたと記録されている。BC10C、ツロのヒラム王は沖に浮かぶ小さな島にフェニキア随一の港を築いた。海上貿易と紫色の染料やガラス工芸によって、地中海で最も栄えたフェニキア人の都市となった。ツロの商人はここから遠くスペインにまで航路を進めた。ツロには高度な技術を持った職人が多く、ヒラム王はユダヤのソロモン王の友達だったため、エルサレムに神殿を建てる時、イスラエルに石工やエンジニアをたくさん送った。また、レバノン杉や象牙細工もプレゼントした。
BC9C、ツロの王エテバアルは娘イゼベルをイスラエルのアハブ王に嫁がせた。彼女はバアル信仰を広めようとしたため、預言者エリヤは断固として戦った。BC6C、新バビロニアのネブカドネザル2世の13年間に渡る包囲に降伏するが、名目上のもので町は破壊されなかった。BC332、アレキサンダー大王はツロを攻略するため長さ800m、幅60mの堤を築いて島と陸を繋ぎ、その7カ月後にツロは陥落した。その後砂が堆積し、現在の半島のような形になった。BC64、ツロはローマの属州に組み込まれ、ローマ風の都市が建設された。現在でもその遺構が残る。イエス・キリストはツロに来て悪霊に取り付かれていた娘を癒やしている。その後、十字軍、マムルーク朝、オスマントルコの支配下に入る。
ここはローマ時代のスポーツの町で、神殿はなく、戦車競技場、アリーナ、体操場などがある。古代ローマの遺跡は1kmほど離れて2カ所にある。1つは海に面した遺跡で、もう1つは内陸の遺跡。
神話
この町に住んでいた美女エウロパに、ゼウスの神が恋をした。ゼウスは雄牛を使ってエウロパをさらい、ギリシャに連れてきた。このエウロパがヨーロッパの語源。エウロパの兄弟カドモスは、世界を旅してアルファベットを広めた人物。古代スールやサイダは、ムーレックスと呼ばれる巻き貝が特産だった。この貝から紫色の染料を取り、フェニキア人の服を染めていた。現在でも南部の1部の土地で続けられている。現在レバノンのロイヤルカラーは紫。1つの貝からわずか2〜3滴しか取れず、数グラム取るのに貝は1万個以上必要。この紫色の液は貝の分泌液。神話では、ムーレックスを発見したのはヘラクレスの犬。彼が犬を連れて浜辺を散歩中、犬が口にくわえてきたのが始まり。へ楽レスはその貝を食べ、口の回りが紫色になったという。ヘラクレスはしばしば口の回りを紫に表されるが、それはこの話のため。
旧市街:本来島だった所と、港がある北部のキリスト教地区に分けられる。キリスト教地区にはマロン派の教会や古い建物が見られる。ローマ時代の遺跡はその南に広がる。
海に面した遺跡;「南の女王」と呼ばれる海の風景。
<列柱道路>:古代フェニキアの港に通じる。幅8mの道。薄緑の大理石のモザイク。列柱は縞の入った大理石。劇場、貯水池、ローマ風呂の跡、ビザンチンの大聖堂の廃虚。
内陸の遺跡;
ヒッポドローム:長さ500m、幅160mの戦車競技場。世界最大規模のローマ時代の競技場で、馬で引く戦車10台を競争させた。観客席の1部も残り、収容人数は2万人。以前はここが海沿いだった。
アレキサンダーの凱旋門:2C。高さ20m。石版で舗装され、列柱が並ぶ。付近にはギリシャ風の彫刻のある大理石片が、あちこちに置かれていた。
ネクロポリス(墓地群/死者の町):ギリシャ・ローマ時代の彫刻が施された何百もの大理石の棺が発見された。
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