モロッコ

カサ・ブランカ  マラケシュ  南モロッコの村々  フェズ
メクネス  ラバト  タンジール  ヴォリビリス


 北アフリカにあるモロッコ、アルジェリア、チュニジアの3国は「マグレブ」と呼ばれる。アラビア語で「西の果て」「太陽が沈む所」の意味。モロッコはそのマグレブ3国の中で最も西に、又イスラム圏の西の果てに位置し、アフリカ大陸北西端にある王国。北はジブラルタル海峡(地中海)を隔ててわずか14kmでスペインと、東は地続きでアルジェリア、南はサハラ砂漠からモーリタニアに接し、西は大西洋に面している。数千年の時をかけてモロッコは、この3つの異文化を組み合わせてきた。緯度は日本の中国から九州地方と同じ。面積はサハラ砂漠を含めて約70万k で、日本の約1.9倍。

 モロッコは大まかに4つの地方に分けられる。漁業と加工産業を中心とする沿岸地域。農業と商業の中心である北西部の平野と高原。放牧と森林の開発が盛んなリーフ山地、更に内陸に進んで北東から南西にかけてのモーヤン・アトラス、オート・アトラス、アンティ・アトラスの三大山脈。そして、オアシスでの農業と鉱業の混在する砂漠地域。

 国民の半数は21歳未満。都市部に住む15〜25歳の若者の30%は失業者で、発展途上にある国の弱みとなっている。農村からの移住者を受け入れる都市は増えているが、それに見合うだけの雇用の増加はない。国全体の都市化も進んでいるが、都市間での大きな格差が生じている。産業・経済については、豊かな鉱物資源に恵まれ、中でもリン鉱石の輸出量は世界1。その他、鉄鉱石やマンガンなども貴重な資源となっている。漁業も盛ん。農業も主要産業で、穀物や柑橘類が多く栽培され、トマトは世界有数の輸出高を誇る。またヨーロッパからの観光客が多く、観光業が経済の一端を担う。国民の約35%はベルベル人と呼ばれるハム族系の先住民によって占められている。他はセム族系のアラブ人で、ユダヤ人、フランス人も住んでいる。ベルベル人は7Cにアラブ系イスラム教徒が入ってきた時には、北部リーフ山脈、アトラス山脈、南部のスース地方などに主に居住、あるいは遊牧の生活をしていた。現在もイスラム化したベルベル人がこれらの地域に住み、伝統ある独自の生活様式を守っている。

 北アフリカにはアフリカ最古の石器や小道具が見つかっている。当時は各地からの移民が多く、町を形成するには至らなかったので遺跡こそないが、人々は洞窟に住んでいた。この時代にはサハラ砂漠もまだ砂漠化が進む前で緑も多く、他のアフリカ諸国とも交流があったらしく、サバンナにいるような動物がいたことも確認されている。  BC4C頃からギリシアやローマが勢力を伸ばしてきた。まず、カルタゴを築いたフェニキア人がベルベル人との交流を図るようになり、ローマ人が各所に小さな町を造った。この時代の遺跡はモロッコを代表するヴォリビリス、リクススの遺跡。中庭を重視したボロビリスの遺跡は、後にモロッコのメディナを築く上で大きな影響を与えたと思われる。北アフリカの先住民ベルベル人が南部のアトラス山脈地帯に住み着いたのは、BC3000頃。BC25頃にはローマ帝国が、この地を征服し、ローマ帝国の保護領となる。7C頃からは、数も莫大で勢いのある東方から攻めてきたアラブ人によって、この地のすべてがイスラム化してしまうほどになった。ローマ人が侵入しなかったアトラス山脈までをも制覇したイスラム教は、モロッコ各地に巨大都市を築いた。それが今でも活気づいているフェズやマラケシュに代表される町。東のイスラムや北の西欧、南のアフリカとの交易も盛んで、領土の侵略や文化の行き来も盛んだった。

 788、初のイスラム王朝、イドーリス朝が成立。1056、初のベルベル人の王朝、ムラービト朝が成立、その後ベルベル王朝の興亡が繰り返された。16〜19Cには、スペインやポルトガルが競うようにして、モロッコの海岸沿いの各メディナに痕跡を残していった。彼らはメディナの形態を壊すことなく、海に面する部分に迫力を増すようにして要塞を付け加えていった。1631には、現王朝の基礎であるアラウィー朝を、ムーレイ・アッシャリーフが興す。その後20Cにフランスの植民化に入ったモロッコは、全ての文化に関して手厚い保護を受けた。そのため現在でもさまざまな歴史的価値のある資料が保存されている。カサ・ブランカやラバトなど海岸の街にはスペインやフランス風の建物が立ち並び、古都であるフェズやマラケシュのメディナ(旧市街)では、滅び去った王朝が残していったモスク等が見られる。次々に支配者が変わる中、ベルベル人の一部は新勢力に押されるようにアトラス山脈近くに移り住み、カスバ(城塞)の中で昔ながらの生活を守ってきた。1956、フランスから独立。翌年モロッコ王国となる。1989、新設されたアラブ・マグレブ連盟に加盟。


人口・民族
 総人口の半数が20才未満の未成年。人口の65%はアラブ人で、7C以来、東方のアラビア半島などから移入したり、16C以降キリスト教徒の国土回復運動レコンキスタによってスペインから追われて流入した。彼らは都市を基盤としてのイスラム文明を築き上げた。モロッコ文化の骨格は、このアラブ・イスラムの伝統に立脚している。アラブ人の到来以前からこの国に住み、現在でも人口の半分近くを占めるベルベル人は、人種的には地中海人種に属し、アフロ・アジア語系のベルベル語を使う。彼らの祖先はアラブの侵入と共に急速にイスラム化し、今日までアラブ人とベルベル人の間に宗教的差異や対立はない。
 少数民族としてはユダヤ人が住んでいる。彼らは紀元前後に移入してきたプリシュティム(パレスチナ人)と呼ばれる人々と、6Cにスペインのキリスト教徒から追われてきたスファラディと呼ばれる人たちに分けられる。  別のマイノリティーとして黒人がいる。多くは数百年に渡って南のセネガルやマリ方面から移入してきた奴隷や小作、政府の雇い兵などの子孫だが、現在では同じイスラム教教徒として身分上の差別は存在しない。この他にごくわずか、ヨーロッパ人がいる。モロッコは1912〜1956迄、北部と南部はスペインの、中央部はフランスの保護領となっていたので、この時期の入植者が残っている。


言語
 公用語はアラビア語。フランス統治時代の影響が強く残っているため、フランス語が通用語となっている。地中海沿岸ではスペイン語を話す人もいる。都市部の若い世代では英語も通じる。ベルベル人が伝統的な生活を営んでいる山岳地方では、古代モロッコの話し言葉だったベルベル語が今でも使われている。


名前
 名前から相手のルーツがわかる。最初に個人名、次に父親の名前、最後に姓を付けるのが普通。人口の半数の田舎に住む人、都会人でもそう古くない時代に田舎から出てきた人は、故郷の土地や部族とのつながりを重視し、名前にそうした名称を選ぶ。細かく見ると800を越える部族があるが、主なものは数十にまとめられる。だから名前を聞けばその人のルーツの見当はつく。昔から都市に住んでいる人々は自分の家系への執着を名前に表す。各都市には有名な家系の名前が幾つかあり、名前を聞けば出身がわかる。例えばフェズに伯の全体に影響を及ぼす政治的、経済的、宗教的実力者が多いが、代々政府の要職に就いてきた家系や有名なイスラム学者を排出した家系、あるいは大商人の家系などが独自の姓を保持している。面白いものでは、イスラム教に改宗したもとユダヤ系の家系は、アラビア語らしくない姓ですぐにわかる。アラブ系でもスペインから逃げてきた人々は、奇異な響きの姓ですぐに区別が付く。


宗教
 国教はイスラム教で、国民の99%がスンナ派を信仰する。少数だがキリスト教徒、ユダヤ教徒もいる。モロッコでは国王ハッサン2世がイスラム教徒の長を兼任し、政治、宗教共に絶対的な権力を持つ。メディナの中心にはモスクが建てられ、生活のあらゆる場面にイスラムが深く根付いている。


礼拝
 モスリムは1日5回の礼拝をする。体を清め、メッカの方向を向いて祈祷する。礼拝は必ず「慈悲深く慈愛あまねきアラーの名において」という言葉で始まる。金曜日はイスラムの祝日で、イスラム教徒はモスクに集まりイマーム(導師)の説教を聞く。モロッコでは、金曜日の礼拝は統治者が臣下と一緒に瞑想する機会でもある。


イスラム
 7Cにアラビア半島のメッカで起こった。創始者である預言者のムハマンド(マホメッド)は、570〜80頃に生まれ632に没したと言われる。メッカの人々の反感を買ったムハマンドは622.7.16、信者らと共にメッカを離れ、隣町のメディナに向かった。この日をイスラム教ではヒジュラと呼び、イスラム暦の紀元となっている。イスラムとは唯一絶対の神アラーへの服従を意味し、信徒は預言者ムハマンドと、ムハマンドがアッラーから授けられたコーランを信じている。モスリムには、1、信仰の告白(シャハーダ;アラーより他に神はなく、マホメッドはその預言者である)。2、1日5回の礼拝。3、1年に1カ月の断食。4、喜捨。5、メッカへの巡礼、という5つの宗教上の義務が課せられている。


コーラン
 スーラと呼ばれる114の章が、アーヤと呼ばれる節に別れ、道徳、生活習慣、義務までさまざまな事柄が詳しく定められ、イスラムのあらゆる法律の基本となっている。


モスク
 アラビア語のマスジッド(膝まずいて礼拝する所の意味)から派生した言葉で、モスリムが集団で礼拝を行う場所。柱廊で囲まれたパティオ(中庭)の中央には、体を清めるための池や噴水があり、それを取り囲むように建物が建っている。ハラムと呼ばれる礼拝のための大広間は、奥行きに比べて間口が広い。奥には聖地メッカの方角に向いた壁に、礼拝の方向を示すミヒラーブと呼ばれる壁龕があり、その左にはミンバルと呼ばれる説教壇が置かれている。金曜日の集団礼拝の時には、イマームと呼ばれる導師が、ミンバルに立って礼拝を先導する。


クッバ
 もともとは丸天井を意味する言葉。現在では墓の上に建てられるドーム型の建物をさす。クッバに葬られるのは、マラブーと呼ばれる聖者。一般には宗教的な貢献をした人やジハード(聖戦)に参加した兵士など、民衆から厚い尊敬を受けた人物であることが多い。


装飾書体
 歴史的に見ると、アラビア文字の普及と装飾書体の誕生は、どちらもイスラムの拡大と深く結びついている。コーランを文字によって伝える必要性から、文字を美しく、神の言葉としてふさわしいものとするために芸術の1つとして生まれた。イスラムでは神を形に表すことを禁じているので、いっそう装飾書体の発展を促し、芸術の域にまで高めることになった。イスラム諸国ではそれぞれ独自の装飾書体が発達した。10Cにオリエントのイブン・モクラーが、装飾書体の基礎を確立したと言われている。


ミナレット
 モスクにある尖塔で、ここから人々に礼拝の時間を知らせる。ミナレットには数多くの窓がある。彫刻や彩釉タイルで、アラビア文字のような幾何学模様が装飾されている。ジャモールと呼ばれるミナレットの先端に付けられる装飾は、1〜4個の銅製の球によって構成される。球の大きさは上に行くほど小さくなる。


漁業
 モロッコの沖は魚の多い所。鰯を世界中に輸出していることでも知られ、生物相も豊富。遠洋漁業・沖合漁業を合わせて年間15万トンの漁獲量があり、機械化された工場設備を持つ大型漁船もある。もっとも漁獲の多いのはタコ・イカ、次いで海老。沿岸ではイワシ漁船、はえなわ漁船、トロール船や単純な船外機付きの船が入り混じり、引き網、はえなわ、一本釣りや刺し網漁で零細漁業を営んでいる。近代的な漁法と規模は小さくても、ダイナミックで各種の漁法が共存しているのが、モロッコ漁業の特徴。日本への輸出の60%を水産物が占める。


メディナ
   旧市街のこと。立体と角柱を組み合わせた迷路の様で、押し合うように立ち並ぶ家は外に向かっては閉じているが、中庭に通じている。街路に沿って同じような家の壁が続き、貧富の差はない。奥には公共の場である広場・市場・噴水がある。アフリカ北西部のイスラム都市には、旧市街(メディナ)が町ぐるみ古いままで残っているケースが多い。近代以降、新市街を旧市街と離れた位置に建設したおかげ。とりわけモロッコは近世にオスマン帝国の侵略を受けなかった影響もあり、中世のマリーン朝(1196〜1465)で完成した、きめ細やかな装飾や文様を施した工芸的な建築様式の町が残っている。
 大きなメディナほど迷路の様で、中心部では方角を見失い、出口がわからなくなる。また起伏にも富み、坂や階段が多く、上に下にと立体的にもできていて迫力がある。これほどにまで複雑なメディナが何故、どのようにしてできたのか、またこれは住人にとっても迷路なのか。混沌として見えるメディナも実は中世、もともとあった生活基盤の上にイスラム法を適応して、秩序ある都市造りを施したもの。つまりメディナは、人間の道理や地の利を曲げることなくできた町ということになる。最初の頃はメインストリートの裏は空き地が多く、町全体に余裕があった。メディナに住みたい人は空き地に住宅を築いた。その時に大きく影響を及ぼしたイスラム法には、未知幅、窓と通路側の視線の関係、通りと中庭の関係などについて事細かな規則が決められていた。ただ中庭のような個人的な空間には規則はなく、どの家も中庭のある造りとなった。  メディナの構造には迷子にならないためのヒントが隠されている。中心部にはモスクがあり、その正面は聖地メッカの方向、すなわち南東を向いている。モスク周辺には本や茶器、化粧用香料などの高価な物を売る店が集まっている。その外側の区画では雑貨や食品など生活洋品の店が並び、近くには庶民の住宅地がある。騒音が出る工場やなめし革工場などは、住宅地から少し離れた所に位置する。


スーク
   市場。もとは、家畜の売り買いをした広場のことだった。メディナの入り組んだ路地の一角に設けられた市場は、メディナの人々にとっての台所であり、必需品調達のための倉庫でもある。荷物を満載したロバが、すれ違うのもやっとのような路地をかき分けるように進む。毎週開かれるスークには新鮮な野菜や果物が持ち込まれ、住民の生活を支えている。モロッコでは果物と野菜が豊富にとれる。1980以来、温室栽培・精密局所灌漑の技術、高級ハイブリッド種の使用、水耕栽培など農業に新技術を導入したことで、生産量が伸びた。輸出や食品産業(缶詰め・ジャム・ジュースなど)にも潤沢に回されている。生産の最も多いのはトマト、次いでリンゴ、ナシ、アプリコット、ネクタリン、桃、プラムなどの果物や、柑橘類が続く。最近はキーウィ、グアヴァ、バンレイシといったトロピカルフルーツの栽培にも力を入れている。ヨーロッパへの航空ルートの拡充が、生産の増大に拍車をかけた。
 トンネル状で道は左右に曲がり、脇道が多く、同じような店がたくさん並んでいるので自分のいる場所を見失ってしまう。スークの裏には住宅地があり、長い袋小路が続く。イスラムの教えから女性があまり外に出ないこの国では、スークにも男性客が多い。


マドラサ
   1000年頃、中近東諸国で建てられ始めたイスラム学校で、寄宿のための施設でもある。神学校と大学の機能を併せ持つこうした施設は、モロッコでも14〜16Cにかけてマリーン朝の人々によって建てられた。浄めのための泉や噴水のある方形のパティオの回りに回廊が巡らされ、それに沿って学生の寝室が設けられている。元来マドラサには、イワンと呼ばれる教室が4部屋と、ハラムと呼ばれる礼拝のための大広間が1部屋あるのが一般的だったが、モロッコのマドラサでは、授業と礼拝兼用の大広間1部屋だけが設けられた。


気候
 大陸北西端にあり、北は地中海、西は大西洋に面している。東と南はプレサハラを経てサハラ砂漠につながり、内陸には3000〜4000m級の4つの山脈がそびえる。そのため気候は北アフリカでも最も変化に富む。モロッコ人は、「熱い太陽の寒い国」と言い、雨は春秋によく降り、夏は乾燥して暑い。緯度や海抜、風、海流の影響を受けて様々に変化する。サハラ砂漠では夏の日中の気温は45度以上になり、山岳地帯では冬は氷点下になる。


アトラスシーダーの林
 上アトラス、中アトラス、リーフ山地の斜面には何千年も前からアトラスシーダーの林があった。総面積は13万ha。この針葉樹林には、高さが60mに達し古いものでは樹齢400年以上のものも数多くある。アトラスシーダーは、ヒマラヤ杉属3種の内の1つで、海抜1200〜2800mの湿度の高い所にはえる。シーダーは神聖なる木とみなされ、古代エジプトではミイラの棺に使われた。また、高級家具職人や弦楽器製造業者に珍重されている。巨木がそびえ薄暗い森の中ではかなりの数の旧世界ザルが生息し、生息数の減った豹の餌となっている。


結婚
 モロッコでの結婚披露宴は、質素な暮らしからは想像できないほどの豪華さ。仮定を守るのが仕事とされる一般のモロッコ女性にとって、結婚は一生に一度の大イベント。普通、女性は18才を過ぎると、親を通して結婚話が持ち上がる。そして披露宴では花嫁は純金製のティアラや、翡翠と真珠のネックレスなど、ありとあらゆる装飾品で飾り立てた衣装を身に付ける。テーブルには数々の料理が並び、楽団を読んでの賑やかな催しもある。一般家庭の平均月収2〜3万円の国で、披露宴にかける費用は10万円ほど。モロッコでは「家と家の結婚」という観念が強いため、披露宴は家の財力をアピールする場でもある。モロッコ女性の憧れの男性は家柄が良く、高学歴。そして高収入。
 先住民ベルベル人の一部にも、独自のしきたりが生きている。アトラス山中の村イミルシールでは、集団見合いの儀式が伝統的に行われている。これは民俗の純潔を守るとため言われる。毎年9月中旬に行われるこの儀式で、12〜18才位の男女を一気にカップルにする。最終的に結婚相手を決めるのは、本人同士ではなくやはり両親の場合が多い。


教育
   かつてモロッコでは、マドラサが大学を除くと唯一の教育機関だった。現在は7才から12才までの5年間が義務教育。この制度がきめられたのは1968。この国では1956に独立してから、教育に力を注いでいるが、全ての子供が学校に通っているわけではないのが実情。都市から遠く離れた所や砂漠に住んでいる子供は、教育を受ける術もない。成人の識字率は1995で44%。町の広場には「手紙の読み書き屋」という商売人もいる。小学校卒業後、13才から16才まで中学校へ行き、更に高校、大学と進学。全国には13の大学があるが、これらの大学を卒業した人がいわゆるエリート。このエリートの中に最近では女性の姿も見え始めた。


ファッション・ハルクス
   モロッコ女性の手足に施される幾何学模様の入れ墨。もともと、入れ墨は部族を区別したり、通過儀礼の時に悪運を払うためにお守りの意味で体に彫った神聖なもの。現在ではハルクスと呼ばれる入れ墨のイミテーションが、特別な日に欠かせない女性のおしゃれとなっている。薬草の粉などを水で溶いて泥状にしたものを、細い管から押し出しながら手の平などに繊細な模様を描く。乾いた後に洗い流すと、皮膚に鮮やかな模様が残る。これは2〜3週間消えない。また、宗教上の理由から肌を露出できない女性の全身を覆っている服「ハイク」も、モロッコ女性独特の衣装。これは幅広の毛織物2枚の重ね着スタイル。まず1枚の布で体を包み、その上から頭を含めた上半身に更に1枚巻き付ける。この巻き方は地方によって異なる。


ミントティー
   中国から輸入した緑茶に、葉の付いた20cmほどの生のミントの茎を折って入れ、砂糖の塊をどっさり入れ、火にかけてぐらぐらと煮立てた甘いミントティー。モロッコの人は更に砂糖をたっぷりと入れて飲む。家庭でも食後や来客のもてなしに欠かせない。お茶の入れ方は、お客様の目の前でできるだけ高い位置からポットのお茶をカップに注ぐのがコツ。泡が多くたてばたつほど、おいしいお茶とされる。モロッコ人男性は、仕事の後、カフェでこの甘いお茶を飲みながらその日のことを語り合う。イスラム教徒にはアルコールは許されない。そのため、ミントティーには「モロッコウィスキー」という異名もある。


絨毯
   ペルシャで生まれた絨毯がエジプトを経てモロッコに伝わったのは、3〜5C。遊牧生活を営む先住民族ベルベル人にとって、羊毛で作られた絨毯はテントの敷物として欠かせないものだった。彼らが作り上げたベルベル絨毯は、幾何学模様や草花、動物をモチーフにした独特のもので、素朴な味わいが魅力。エジプトや中近東からやってきたアラブ人が生んだアラブ絨毯は、アラブの美とモロッコの美を併せ持つ洗練されたデザインが特徴。花柄やアラビア文字、幾何学模様を組み合わせて織り上げるアラベスク模様。どちらも染料に使われるのは草木。サフランの黄色、木ノ実の赤など。大地の温もりを感じさせる独特の風合いの秘密はここにある。絨毯を織るのは、代々女性達の仕事。イスラムの厳しい戒律のもとで控え目に生きる女性達も、立派な働き手として家を支えている。絨毯を売るのは男性達の仕事。モロッコが生んだ伝統の美に何よりも自信と誇りを持っていて、熱心に売り込む気迫は凄まじい。


ゼッリーシュ
   彩釉タイルモザイクの技法。10Cにモロッコに出現し14Cに消滅。特有の色と形の彩釉タイルの断片は、マアレル(親方)が作成した図に従ってまとめられる。10C以来白と茶色に関する色調が作られ、次いで青・緑・黄色が現れ、赤が用いられるようになったのは17C以降。


交通
   砂埃の舞う砂漠が国土の3分の1を占めている砂漠地帯で暮らす庶民の足は、自家用ロバやラクダ。一方、町での交通機関はバスやマイカー。モロッコ人が所有する自動車は70万台弱で、40人に1台の割合。交通渋滞とは無縁。


アラブと西ヨーロッパとの間
   モロッコはアラブ連盟加盟国だが、立憲君主国家という点から、特に湾岸君主制国花と緊密な関係を保っている。地理的にはジブラルタル海峡を挟んで西ヨーロッパとも接し、経済的にもフランスを始めEU諸国への依存度が高いことから他のアラブ諸国と比較して、西ヨーロッパとの結びつきが強い。湾岸危機が勃発したとき、西側諸国への対応を重視し、いち早くサウジアラビアへ派兵を送った。ところが「富めるアラブ」に対する反感から、モロッコ国民は次第にイラクへの同情を強め、国内では親イラクデモが頻繁に行われた。そのため、戦争時には前線に兵力を送らず、主要産業設備の防衛、後方支援に徹した。


日本との関係
   アフリカというと黒人、野生動物、飢饉しか思いつかないのが日本人の未開人らしさだが、北アフリカは日本より欧米に近い。影響の受け方は、いまだにある意味では鎖国的な日本とアジアの国々との関係よりも強い。彼らの出稼ぎ先は昔から南欧で、留学先もフランスが主。日本車が走り、日本のハイテク製品が出回っても、日本はフランスの近くの国で、フランス人のような顔をしていると思い込んでいる人も少なくはない。モロッコは「日沈む国」。日本では日没を終焉、衰退といったマイナスイメージで捕えるが、アラブ世界では人間の活動が始まる待ちに待った時間としてプラスイメージで捕えられる。イスラムでは、日没を1日の始まりとしている。両国の接触が始まったのは20Cになってから。当初は商品の売り込みという一方的なもので、1920年代にヨーロッパ製品に割り込む形で日本製品がモロッコ市場に顔を出した。そのトップバッターはビニール製のサンダルなどの安価な日用品で、数年のうちにモロッコ市場に氾濫した。国内の手工業者は壊滅的な打撃を受け、飢饉と世界恐慌が重なり、経済活動が停止。この魔の1930年が、「日本の年」として一部に記憶されている。これがモロッコ人の、日本認識の始まり。やがて輸出品目は繊維や電気製品へと変遷。
 モロッコからは当初、肥料用のリン鉱石が輸入され、戦後はそれに加えてマグロ、タコ、イカなどが輸入され、日本の輸入超過状態になった。変わったところでは松茸、寒天の材料であるテングサも輸入している。最近日本は、大都市の新交通システム建設計画や、ジブラルタル海峡トンネルでつなごうという計画に参加するなど、両国の関係は急速に規模を拡大している。


失業
 現在のモロッコの失業率は約14%。出生率が高いために、若年層では30%を越えると見られている。1990にはフェズを中心に失業中の若者による暴動が発生し、死者が出る惨事も起こった。


イスラム原理主義
   国王ハッサン2世は、自らをイスラムの宗教的指導者イマームと位置づけ、世俗の長であると共に宗教会でも頂点に立って国政をコントロールしてきた。近隣のチュニジア、アルジェリアで社会的不満から、イスラム本来の姿に戻ろうとするイスラム原理主義運動が盛んになり、非合法のイスラム原理主義政党が大規模なデモを行うなど、原理主義運動が拡大している。


ベルベル人
 ベルベル民族は北アフリカの先住民族。7C頃、イスラムの布教と拡大のためアラブ人がアラビア半島からやってきて、北アフリカを支配。先住民だったベルベル人は自分たちの宗教や文化、命を守るために、自然環境が厳しい上に地形の険しい南方に移動して自分たちの拠点を作った。そこは「見る」とか「目」という意味を持った地名が多い。敵と砂漠の暑さから洞穴のような家に身を潜めて暮らしてきた。ベルベル人は主に農業と家畜の飼育をしながら暮らしてきた。農作業のできない季節には男は、家や家族のことを女に任せて都市へ出稼ぎに行く。女たちは編み物や刺繍、織物をして売ったり、嫁入り道具としたりする。注目するのは織物で、地域によって織り方や色や模様が違う。女の子は絨毯や敷物を自分で織り、母親に毛布を織ってもらい、嫁入り道具にする。


ベルベルの言葉
 ベルベル語は言語学者にもよく知られていない点が多い。複数の放言があり、集落によって語彙や発音が少しずつ違う。集落では日常会話でベルベル語が使われる。チュニジアのベルベル語には文字がないので、口語ではベルベル語を使い、書き言葉としてアラビア語を使う。学校教育の場や集落の外の人との交流ではアラビア語に切り替える。町に移り住んでいるベルベル人の場合、年齢が低いほどベルベル語を話すことができなくなる傾向にある。意味がわかっても話せず、アラビア語で答えることが多い。


ベルベルの結婚
 昔はベルベル人以外との結婚は許されなかった。更に同じ集落や部族の人でなければならないという掟もあった。だから親戚同士、特に従兄弟同士の結婚が多く、生まれるとすぐに親が婚約者を決めていた。結婚は町を挙げての大行事。今も同じ日に2つの結婚式はしない。結婚行事は式の前後合わせて10日以上続く。準備は式の1、2カ月前から始まる。花嫁は姿を隠し、家でも家族にしか会わずに過ごす。その間、結婚の準備やより美しく見せるために肌や髪の手入れを行う。そしてだれよりも美しく、華やかに見せるために、親戚の人から装飾品を借り集める。
 結婚式の日が決まると招待する人のために花婿と花嫁の親戚の女性2、3人が、それぞれ美しい民族衣装を着て家々を回って伝える。その間、各家で出された飲み物やお菓子を全部食べなくてはならない風習を持つ町もある。式の当日、親戚や近所のおばあさん達は、花嫁を囲んで誉めちぎらなくてはならない。御世辞を混ぜて、花嫁の人柄を披露する。それが終わると、花嫁は花婿の家へ行く。そして翌日、3日目、4日目、7日目にも人が集まり、祝いの宴会が執り行われる。ベルベル社会では嫁・姑の関係を表す言葉は花嫁・おばあさん。息子が結婚した日から、孫がいてもいなくてもおばあさんになる。


ベルベルの住宅
  ベルベル族の伝統的な住宅には2つの傾向がある。地上に建てられたものと、地下に掘られたもの。ベルベルの生活も変わりつつあり、伝統的な住宅から一般住宅に移り住む人が非常に多くなった。ベルベル人社会は大家族で暮らすことが普通で、伝統的な家は間取りが広く2階建てが多い。


ベルベルのお祭り
 ベルベル人独自のお祭りにアシューラがある。イスラム暦の1月10日、イスラム教のシーア派にとってはイマームのフセインが殉教した最も悲しい日にあたる。アシューラには男の子アシューラと女の子シューラがある。男の子アシューラは、生まれて初めて迎えるアシューラにお祝いをする。日本の初節句にあたる。ご馳走を作り、親戚や近所の子供を呼んで飲んだり食べたり遊んだりする。日没になると木ノ実、飴、お菓子を盛ったお盆の回りに鮮やかなさまざまな色に染めた卵を並べ、ろうそくに火をつけて歌を歌ったりする。祭りがひけると集まった子供達はお盆の菓子などを競って奪い合う。女の子アシューラは、結婚して初めて迎えるアシューラを祝う。親戚や友達を呼び、着飾った花嫁を囲んで夜遅くまでおしゃべりしながら飲んだり食べたりする。
 祝い事に忘れてならないのが聖者達の存在。聖者は大きな力を持つと信じられている。思い悩んでいることがあったり、結婚できなかったり、結婚してもなかなか子供を授からなかったりしたとき、聖者の廟に参拝し、願いをかける。願いが叶うと再びその聖者の廟を訪れ、感謝の気持ちを込めてろうそくや現金を備える。子供が生まれて初めて断髪するときは必ず、その前に聖者の廟にお参りする。聖者に羊や山羊を捧げてから、子供の髪に初めて挟みを入れる。1つの集落には複数の聖者がいて、家族によって参拝する聖者の廟が違う。


料理
 イスラム教徒の安息日にあたる金曜日、モロッコの人は家族揃ってクスクスを食べる。振るいにかけた小麦粉の粒を蒸し、肉や野菜を煮込んだスープを注ぐ。7Cにアラブ人がやってくる遙か昔から、この地方の伝統料理だった。北アフリカの代表的な料理だが、モロッコのクスクスは一味違い、カボチャ、ズッキーニ、芋、豆など、野菜を豊富に使っているのが特徴。また砂糖やシナモンをまぶした甘いクスクスも、モロッコでは主食として出される。  もう1つモロッコの食卓に欠かせないのが、タジンと呼ばれる煮込み料理。タジンとは、もともと円錐形の蓋が付いた土鍋のこと。この鍋で肉や魚を煮込み、鍋ごと食卓に出す。  南スペインに近いモロッコは料理にもスペインの影響を色濃く受け、北アフリカで最も洗練された食の国となった。パイ生地に鳩肉や鶏肉を包んで焼くパスティラもスペインから伝わった。加工品をほとんど使わず、鶏を絞めたり、小麦粉を挽いたり、素材を一から下ごしらえするため、一般にモロッコ料理は手間がかかる。


モロッコの祭り
・アーモンド祭:アンティ・アトラス山脈の北麓のタフラウトで、2月半ばから下旬にかけて行われる。桜に似た薄いピンクのアーモンドの花を愛でる祭りで、モロッコのお花見に近い。満開の花の下で市が開かれ、民族衣装の男女が歌い踊る。
・ムーレイ・イドリス・ザルホーン:モロッコにイスラム初の王朝を開いたイドーリス1世を讃える巡礼祭で、イスラム歴の9月初めに3日間開催される。ムーレイは、導師の意味。市郊外のザルホーン山麓のイドーリス廟では、白い民族衣装の信者達によって生けにえの牛や香料、絨毯、供物などが寄進され、廟内では宗教音楽を奏でてイドーリスの徳を讃えるなど、終日参拝者で賑わう。


婚約ムッセム:大アトラス山脈の中央に位置する集落イミルシルで、イスラム歴の9月の第3週に3日間行われる。入念に化粧をした娘達が婚約相手を探すという集団見合いの場で、集まる人々は3万人を越し、期間中は大テント村が設営される。ムッセムは、「聖人の祭祀の意味だが、現在は一般に「祭り」と同義に使われる。



カサ・ブランカ


 モロッコ中西部の大西洋岸にある港湾都市。モロッコ最大の都会。ラバトがモロッコの政治の中心であるのに対し、カサ・ブランカは経済の中心。モロッコ産業の半分の建物・工場はカサ・ブランカ郊外に位置する。歴史の重みを感じさせる町並みはなく、金融商業の中心らしく近代的な銀行・商社・運輸企業などの建物が並び、精力的な経済活動が展開されている。市の北にある港には大西洋航路の大型客船や大型貨物船が出入りし、アフリカで最大の貿易港の1つとしても知られ、モロッコ経済を支えるリン鉱石の輸出港としても重要な役割を担う。今では北アフリカの大都市となったこの町も、100年前には人口1万人余りの小さな町だった。カサ・ブランカを現在のような姿に変えたのはフランス人。今なお残るフランス風の古い建物は、フランス保護領時代のもの。
  カサ・ブランカはもともと町の西側の、現在は高級住宅街で知られるアンファ地区にあった。この町では、7Cにアラビア人が移り住む以前からベルベル人が住んでいた跡が発見されている。12Cには大西洋の貿易港として栄えた。13〜14Cにかけてカトリック教徒がイベリア半島を奪回した時代、アンファには海賊がはびこり、ここを起点としてこのあたりを航海するスペインやポルトガルの船を攻撃した。16Cに2度に渡るポルトガルによる攻撃が海賊を追い払い、その後ポルトガル人が移り住み、この地をカサ・ブランカ(白い家)と名付けた。その後200年間、ポルトガルで起こったリスボン大地震で町が大打撃を受けるまでカサ・ブランカに居住した。
 この後モロッコ人によって町は修復され、アラビア語でダル・ベダ(白い家)と名付けられた。20C前半から約40年、フランスの保護下となる。1912、ヨーロッパ列強の干渉を受けてきたモロッコは、フランスとの保護領条約に調印、初代モロッコ総督となった軍人ルイ・リヨテは、カサ・ブランカを近代的な商業都市にするため、フランスの建築家アンリ・プロストを起用。プロストはスークをフランス風広場に造り替え、新市街にはアールデコ様式の建築を施した。大規模な港が建設され、海外から貿易業者達が続々と移り住んだ。
 喧噪に包まれたスークにはさまざまな言葉が飛び交い、あちこちにモロッコの伝統様式とヨーロッパ風のデザインが溶け合った白亜の建物が並んだ。そんな町がWW2の勃発を機に違った意味で注目を集め始める。戦火を避け、アメリカに亡命を希望するヨーロッパの人々にとってカサ・ブランカは重要な中継地であり、ビザを手に入れることができる町だった。更にナチス・ドイツに抵抗するフランスのレジスタンス活動の本拠地もカサ・ブランカだった。そのため町中に、さまざまな思惑を胸に秘めた異邦人がうごめいていた。パリ侵略の勢いを借りて、フランス領モロッコまで征服しようとするナチスの軍人、その目を盗んで地下活動をするレジスタンスの活動家達。更に、ビザを手に入れるために東奔西走する多くの旅人。
  1943、アメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルが、カサ・ブランカで会議を行ない、ヨーロッパ上陸作戦を協議している。1955、反フランスの武力デモや暴動が激化し、独立に向けての会談が行われ、1956にモロッコは独立を果たしたが、カサ・ブランカにはフランスの香りが今も残る。アラビア語のダル・ベダという名前は、スペイン人の移住でスペイン語のカサ・ブランカと呼ばれるようになった。

メディナ:ムハンマド5世広場の北側、海岸にかけての古い城壁に囲まれた一帯。古くからあったイスラム教徒のこの町は、1755の大地震でほとんど破壊され、1770に再建された。城壁に囲まれた町の北半分は住宅地。南半分には野菜や香辛料などの市場が集まっている。

ムハマンド5世広場:20C初めに完成し、1950年代に整備・拡張された。主要道路はここから八方に延びている。周辺には銀行、航空会社、ホテル、ショッピングエリアが集中している。ドームの下は歩行者用地下道。

時計塔:俗界のミナレット。1910に総督デシニーが時間の観念を教え、ヨーロッパ的秩序を徹底させるために建てた。

ムハマンド5世通り:両側の建物は1930年代のもの。

ブラッスリー・デュ・プチ・プーセ(ビアホール親指小僧):1920年代に流行った店。サン=テグジュペリの礼状が店内に飾られている。

国連広場:1920に造られた。現在は官庁街。大蔵省、ウィラーヤ(県庁)、旧最高裁判所、フランス領事館(中庭にリヨテ将軍の騎馬像)、中央郵便局、市庁舎、劇場などの町の中枢機関が広場を取り囲むように立ち並ぶ。ラマダン中毎夕の断食の終わりを知らせるサイレンが鳴らされる塔もある。

王宮:WW1以前に建てられた。国王がカサ・ブランカに滞在する時に使われる。

アラブ連盟公園:ナツメヤシの並木が続く、広大な面積を占める緑地公園。1918完成。1930建造の旧キリスト教会は倉庫、コンサートホールになり、現在は劇場として利用されている。

ノートルダム・ド・ルールド教会:モロッコでは珍しいキリスト教教会。1950年代半ば。800のステンドグラスは、名匠ガブリエル・ロワールの作品。無原罪の御宿りや、処女マリアの出現の諸場面を描いている。銅製品市場で有名なハッブース街にある。

マフカマ:木と石と大理石でできている。1948〜52、60以上の部屋はイスラム法による裁きの場であり、カサ・ブランカのパシャ(地方総督)のレセプションホールだった。現在は市役所。

港:3180mのムーレイ・ユースフ突堤。メルサ(船乗り)の門は、19Cには領事館地区への入り口だった。リン鉱石の積み出しと、木材・金属製品・石油の荷下ろしが主な業務。

ムハマンディア港/ハンク灯台:海難事故を防ぐため、1905にフランス人によって造られた。

シーディ・バリュート・クッバ:19C末、町の守護聖者シーディ・バリュートの聖廟。人間の愚かさに絶望した彼は、自らの目をえぐり、森に隠れ、野獣と暮らした。亡骸は埋葬されるまで動物達が守ったと言われ、「獅子の父」とも呼ばれる。堂の湧水を飲むとまたここに戻ってくると言われる。

スカラ:18Cの砦で、古い大砲が沖を狙っている。シーディー・ムハマンド・ベン・アブドッラー統治時代の数少ない遺物。

シーディ・カイルワーニーの聖廟:町の第1守護聖者シーディー・アッラール・エルカイルワーニーとその娘ラッラ・ベイダーを奉る聖廟。言い伝えでは、彼はセネガルまで行こうとしたが、カサ・ブランカ沖で難破、漁師に助けられた。妻の死後1人娘を呼び寄せたが、今度は娘が遭難。娘を海の見える所に埋葬し、自分の死後はその横に埋めてほしいと村人に頼んだ。白い肌の娘に因んで「白亜の館」と名付けられた。

シーディ・ブー・スマーラのクッバ:(伝説)10C、シーディ・ブー・スマーラ(釘の男)が町に来て、沐浴のための水を望んだが、日照り続きで石を投げられ罵られるだけ。そこで彼が巡礼の杖で地面を叩くと、泉が湧き出た。人々に頼まれて彼は町に残り、墓地の一角に住みイチジクを植えた。以来ここを訪れる人は木の幹に釘を打ち込んで、聖人の加護を祈る。

ハッサン2世大モスク:「余はイスラム世界の西端にモスクを望む。その大いなる建造物をアメリカにおける「自由の女神」のごとく、北アフリカの象徴とする」と国王ハッサン2世が宣言し、1986に建設が始まった。モロッコの発展を宣言する記念碑でもある。フランス人建築家ミシェル・パンソーが設計。建設費の大半は国民の寄付でまかなわれた。完成は建設が始まってから13年後の1993.8。モロッコ最大のモスクで、カサ・ブランカのシンボルとなった。ミナレットの高さは200mで世界一。頂上からメッカの方向に放たれるレーザー光線は35km離れた所からでも見られる
  イスラムの伝統的な装飾で飾られた礼拝堂は2万5000人の信者を収容、広場には8万人の巡礼が集まることができる。図書館・博物館・マドラサを含む文化施設が主殿に隣接。階上には透かし彫りのパネルで人目から守られた、5千人収容の女性用礼拝室。壁は石膏細工やゼッリージュで覆われる。花崗岩の柱には鐘乳石飾りや柱頭飾り、アトラスシーダー材でできたドームには細かな装飾。

アンファ・ヒル:リゾートを兼ねたカサ・ブランカ1の高級住宅地。アラブ圏の王侯の別荘も多い。WW2中1943にルーズベルト米大統領、チャーチル英首相がカサ・ブランカ会議をしたアンファホテルが残る。

アインディアブ・ビーチ:カサ・ブランカ中心から西へ3kmの所にあるリゾートビーチ。



マラケシュ


  アトラス山脈に投げられた南方産の真珠」と賞賛される。北東の地中海から西の大西洋に向けて、モロッコ王国の背骨のように連なるアトラス山脈。最高4000mを越える山々が2400kmに渡って帯をなすその北西のふもとにあるモロッコ第3の都会。フェズに次いで2番目に古い町。標高450mの高原にある。この地方で最も重要なオアシス地方として発展してきた。北に広がる平野と、南に壁のように横たわる高アトラス山脈の間に打たれたくさびのような地点に位置する。ここからアトラス山脈を越えて東に行くと、サハラ砂漠まで幹線道路が延びている。南部からサハラ砂漠に入るには、この道路が1番便利で交通量も多い。南方への交通の要衝で、平野部と高アトラス山脈の間に位置し、サハラ砂漠を旅する隊商が黄金や象牙をもたらし、物資の集積地、商業都市として栄えてきた。市の郊外には工場が建設され、工業都市としても発達している
  オリーブの産地として有名で、モロッコの44%のオリーブオイルがここで生産される。高度な技術を使用しているため、収穫率が他の生産地に比べて高い。マラケシュを建設したのは、フェズに誕生したイドーリス朝を滅ぼしたサハラ砂漠の部族王アブー・バクル。1070、アトラス山脈の麓のオアシスにバクルの軍隊が野営地を設け、それがマラケシュの礎となり、モラビート朝が開かれる。ベルベル人の指導者ユーセフ・ベン・タシフィンは、モラビート朝をマラケシュに置いた。彼は南スペインのトレドを征服することで富と名声をモラビート朝にもたらした。その後ユーセフはスペインに戻りグラナダとマラガ地方を合併し、その間彼の息子アリーがマラケシュの町の建設を続け、スペインのアンダルシアの工芸職人の技術協力によって、モスク、王宮などを建設。赤い城壁に囲まれた町の東の丘はヤシ林の緑で覆われた
  その後高アトラス山脈に住むベルベル民族の1部族の指導者アルデル・ムーメンがマラケシュを征服し、ムワヒッド朝を築く。彼は南スペインにも攻め入りキリスト教徒を脅し、この間マラケシュでは平和な平和な時代が続いた。彼はモラビート朝の建物をことごとく破壊。その後、孫のヤコブ・エル・マンスールは新たに幾つもの庭園を造り、クトゥビアの塔や貯水池を建設。アラブ哲学学院なども創設。その後町の主は次々と代わったが、潤いと気品に満ちた文化は栄え続けた。マラケシュは首都として、また南方、サハラに対する重要な要の地として、ムワヒッド朝の初期の3代の間、繁栄の頂点に立った。その後町は徐々に衰退、主権はフェズに移ったが、16Cに再びサード朝がマラケシュに都を置いた
  この時代、南部サハラ砂漠から採れる金によって裕福な都となった。この時代の建物は、その後のメクネスのスルタン、ムーレイ・イスマイルによって破壊され、現在残るのはブディ宮殿とサード朝の墓のみマラケシュ19C後半ヨーロッパ人がこの地に進出してカサ・ブランカを白い町と呼んだのに対して、赤い日干し煉瓦の建物が特徴のマラケシュは、赤い町と呼ばれる。現在ではヨーロッパ人の避寒地として、フェズやラバトを凌ぐ繁栄を保っている。マラケシュ最大の見所はメディナと呼ばれる旧市街。中でも通称「お祭り広場」と呼ばれるジャマ・エル・フナ広場は特に有名で、この広場見たさにモロッコを訪れる外国人も少なくないマラケシュ毎年6月または9月の10日間、規模と華麗さでは国内最大級のフェスティバルが、エル・バディ宮殿を主会場に開かれる。モロッコ各地から30余りの民俗芸能団が集まり、さまざまな民俗芸能を繰り広げる。民俗舞踊は古くから伝わるベルベル人の民話、それも愛の物語を元に構成されている。数百枚もの赤い絨毯を敷き詰めた舞台で、ベルベル人ダンサーが踊る。男性はゆったりとしたケープ状の民族衣装ブルヌースを着、女性は布にコインと珊瑚を編み込んだ飾りセルダルを額に付け、インディゴ染めなどの衣装をまとう。恋人に語りかける歌や、相手を奪い去るような力強い舞踊が毎日深夜まで続く。

城壁と城門:ムワッヒド朝時代に築かれた城塞の門。ミヒラーブの形と装飾を手本に造られている。横長の四角形の枠にアーチを造り、アーチの上部左右の空間は絡み合った植物模様、幾何学模様、貝殻模様で飾られる。多くは馬蹄形アーチだが半円形もある。アーチの回りには多弁装飾が施されたり、せり石の高低に変化をつけた枠取りが幾重にも巡らされている。
ラーハ門:入り口だけが残る廃虚。
ドゥッカラ門:市街地の北の平原に定住する部族の名前。かつてハンセン病の病院があった。
フミース(木曜日・フェズ)門:木曜に家畜の市場で賑わう広場に面する。扉はスルタンがアンダルースから持ってきた。
ドゥッバーグ門:メディナ東の入り口。門の外は、なめし革職人居住区。
アイレン門:ベルベル部族名。1126、ムラービト朝のアリー・ベン・ユースフがムワッヒド朝の侵入を防ぐために市門と最初の城壁を築いた。1129、マラケシュの奪取を試みたムワッヒド朝がここで敗北。
アグマート門:メディナ東門。ウリカ渓谷中心の集落名。1147、ムワッヒド朝のアブド・エルムーミンが城を包囲して、キリスト教徒の傭兵の命を保証することを約束して、この門から入城。中央にあるのは、1196、ハンセン病で没したシーディ・ユースフ・ベン・アリーのイスラム修道場。
(シーディ・ユースフ・ベン・アリー) マラケシュの7人の守護聖者の1人。ムーレイ・イスマイルは、エッサウィラに対抗して、マラケシュの名を高めるため、7人の埋葬地を巡礼地と定めた。マラケシュの新しい聖地は多くの巡礼を集めるようになったが、18C以降正統派イスラムの激しい異議申し立てを受けた。彼らは、信者はコーラン教えに従ってアラーのみに祈りを捧げるべきだとした。

アフマル門:18Cアラウィー朝によって築かれた。スルタン専用の門だった。今は王がマラケシュにいない時、この門から王宮広場へ行ける。
ロブ門:「葡萄の汁の城門」。ムワヒッド朝時代の門。メディナとカスバを結ぶため、防衛上重要な役割を担っていた。ヤアクーブ・エルマンスールは、「濃厚な葡萄の汁(当時人気だった甘口ワイン)」を運ぶ時、交通規制のため他の門を通ることを禁止。1308マリーン朝のスルタンは、両開きの扉の上に600人の反徒を晒し首にした。
マフゼン門:「支配者の門」。ムラービト朝、ムワッヒド朝時代にはスルタン専用の道路だった。
アグノー門:「角のない雄羊の門」。石材はスペインを追われたムーア人がアンダルシアから持ってきた。縁は赤・青・緑の砂岩で、コーランがクーファ体文字で刻まれる。1150。マラケシュを都とした山岳地帯出身のムワヒッド朝のスルタン、アブドル・ムーメンが宮殿に向かう時に自らが通るために建造した。死刑罪人の首を晒す場所でもあった。

旧市街:1985に「大道芸で賑わう広場や数々のスークが五感を刺激する、北アフリカ最大の迷宮都市」として、世界文化遺産に登録された。マラケシュの旧市街は、北アフリカで最も規模が大きい。11C後半、ベルベル人による最初のイスラム国家モラビート朝がここに都を建設。続くムワヒッド朝でも都として栄え、その後マリーン朝では衰退したが、15Cに再びサアード朝の都となった。長らく政治・文化・交易の中心だったマラケシュは、イベリア半島や大西洋沿岸、サハラ砂漠から多くの人が訪れるエネルギッシュな町として栄え、今日に至る。午前10時頃から人が集まり始め、昼には人でいっぱいになる。メディナは、ここにいる人々にとってお金持ちになるチャンスの場。能力を精一杯に発揮して仕事をし、お金を稼ぐ。

王宮・ダール・エル・マフゼン:12Cムワッヒド朝によって築かれ、16Cサアード朝によって手が加えられ、アラウィー朝によって改築された。内部にあるミシュワール広場は、騎兵達がムーセムと呼ばれる聖者祭で馬術競技ファンタジアを戦った所。もともとファンタジアとはラテン語で「気晴らし」を意味し、19C初め頃からこの名が付けられた。大勢の騎馬兵士達が馬を疾走させながら次々と空に銃を撃ち、高度な騎馬術を披露。モロッコ男性の勇ましさを競う。

アグダール庭園:砂漠の暑さを避けるため、ムラービト朝の王達が17Cに整備。

ジャマ・エル・フナ広場:メディナの中心にある150×100mの広場。昔からスース地方や上アトラス地方、南モロッコの農民と商人が集まるマラケシュの中心。日中は大道芸人を、夕方からは屋台を目当てに大勢の人が集まる。蛇使い、曲芸師、講釈師、歌い手、占い師などさまざまな人が見られる。夕方からは一段と人が増え、お祭りのように盛り上がり、お祭り広場とも呼ばれる。写真を写すのも、演技を見るのも、何をするにも相場のない料金を払わなければならない。
 アラビア語で「死人の集会」を意味する。名前の由来は、昔イスラム教の教義に基づいて、重罪を犯した者を見せしめのために公開で処刑したことによる。独立直前は、民衆の集会場や暴動の中心となった。その後何度か穀物市場にする計画もあった。

クトゥビア・モスク:本屋のモスクの意味。もともとこのモスクは大学、図書館、コーラン学校が兼ねられ、モスクの周りに本屋があり、クトゥビイーンという写本屋がモスクの中庭で店を開いていたことに因んだ名前。
  最初のモスクは1147、アブド・エルムーミンによるマラケシュ攻略後に建立されたが、建物の向きがメッカの方向と一致せず、取り壊された。その基壇は、現在のモスクの右手に残る。
  2番目のモスクは1119に完成。ムワッヒド朝のスルタンは、ムラービト朝の豪奢な装飾より端正なアンダルシア風を望んだ。そのため装飾はシンプル。鐘乳石飾りの11のドーム、くり型を施した柱頭と小屋組でムワッヒド朝美術のモデルとなった。
  現在のものは1158アブドル・ムーメンによって建設が始められ、32年かけて1190にヤコブ・エル・マンスールによって完成。アフリカで最も大きなモスクの1つで、2万人収容。足下の白いクッバには、17Cのラッラ・ゾフラの墓がある。解放奴隷でありながら、宗教的指導者となった女性で、昼は女性、夜は鳩になって土地の女性に子供を授けたという。

クトゥビア・ミナレット:スルタン、アブドル・ムーメンが着工し、ヤアクーブ・エルマンスールが完成させた。サハラ砂漠方面に向かって建つ見張り役伴っている。高さ77m、高さ:幅=5:1で、セビリアのヒラルダの塔の原形。イスラム建築の手本とされる。イスパノ・モレスク様式。外部装飾は4面それぞれ異なる。青色の彩釉タイルは空の青を写したもの。ラバトのハッサン塔、セビリアのヒラルダの塔と共にムーア様式の傑作と言われる。夜になるとライトアップされる。
  銅製の4つの球が吊り明かりの先端を飾る。伝説では、球は純金でヤアクーブ・エルマンスールの妃の装身具から造られた。彼女はラマダンを数時間破ったお詫びに、この金を提供したという。球、つまり星の力は人々に平穏をもたらすという。

トゥッファーハ・ダハブ・モスク:12C末、スルタン、ヤアクーブ・エルマンスール時代に造られ、1569にほぼ全壊したため改修。16Cに「黄金の林檎モスク」と改称。ミナレット先端の球がクトゥビア同様にヤアクーブ・エルマンスールの妃の装身具から造られたという。高さ80m。11の身廊を持つ大礼拝室がある。ミナレットは何世紀もの間、古典建築の典型とされてきた。

アル・ムサインの泉:マラケシュはオアシスに人々が定着してできた町。1570に造られたこの泉も、大切に使われている。

サアード王朝大廟墓群:サアード王朝の御廟所。1591、サアード朝スルタン、アフメド・エルマンスールの父祖の廟墓を1か所にするための第1クッバ建設が始まった。16Cにはたくさんの大廟墓が造られ、16〜17Cにマラケシュを支配したサアード朝代々13人のスルタンの墓は、全てここに集められた。66のサアード王朝の家族が眠る。モロッコ南部で採れる金が王朝に富をもたらしたため、この様な豪華な建物が建設された。1677マラケシュに入城したアラウィー朝ムーレイ・イスマイルも破壊はせず、壁で廟墓を囲むだけにとどめた。1917、フランス人によって空から発見された。
大廟墓:墓宮の礼拝所。
  ミヒラーブの間;アトラスシーダーの大きな門と大理石の円柱を備えたミヒラーブに飾られる。
   本来は個人の礼拝堂。18C以降アラウィー朝王家の墓。
  12本の円柱の間;アフメド・エルマンスールと息子の墓。ゼッリージュの壁面。
   漆喰と天井の彫刻細工。
   中央がエル・マンスールの墓。墓石は大理石。床はモザイク。
   イタリアのカラーラ産の大理石で造られた12本の円柱がドームを支える。
 3つのミヒラーブの間;サアード朝スルタンの子供・妃を葬る。

・ラッラ・メスウーダ廟:初期のクッバ。主室に小礼拝堂があり、エル・マンスールの母ラッラ・メスウーダの遺骸が1591に納められた。初期のサード朝の王とその王子達が眠る。庭の簡素な墓石は王朝に仕えた召し使いの墓。違った方向のものはユダヤ教徒。
エル・マンスール・モスク:カスバのモスクと呼ばれる。12C、ヤコブ・エル・マンスールが建てたが1575に破壊され、後に再建された。

エル・バディ宮殿:「比類なき」の意味。フェルブランティエ広場のベッリーマ門の奥。三王の戦いでサアード朝群がポルトガルを破り、スルタンとなったアフメド・エルマンスールの命で、スルタンの特別な祭事のために、1578から25年かけて建てられた。費用はポルトガルの戦争賠償金、ギニアの金、スース地方の砂糖。ヨーロッパから多くの工人が来て、アフリカ・イタリア・フランス・スペイン・インドから大量の大理石、金、象牙、木材等の資材を輸入。50本の大理石がイタリアから輸入され、1kgの砂糖と交歓されたとされる。
  当時は、池と花壇を配した中庭の周囲には360もの豪奢な部屋が並んでいた。壁の厚さは2m、中庭は縦110m、横135m。17C後半にマラケシュに入場したアラウィー朝のムーレイ・イスマイル王は、この宮殿を解体。大理石を初め、建材、高価な品を新しい都であるメクネスにある自分の宮殿のために持ち去った。そのため往時の面影はほとんど残っていない。南側には地下牢の跡がある。
  モロッコの主な民俗芸能団が集う全国民族芸能フェスティバルの会場になる。ベリマ門は、ムーレイ・イスマイルが、宮殿の財産を運び出すために造ったと言われる。

エル・バヒヤ宮殿:19C末のアラウィー朝の大宰相でムーレイ・ハッサンの片腕バ・アフメドの邸宅として19C末に建てられた。建築にあたり、以前に使った建材や装飾材が持ち込まれた。家の主人は背が低く太っていて歩くのも不自由だったので、平屋建てにした。スペイン・アンダルシア出身の建築家と、フェズ地方の工人1000人が7年かけて完成させた。そのため建物はアンダルシア朝で、庭にはオレンジ、ジャスミン、ゼラニウムの木が植えられている。壁面に彩釉タイル(ゼッリーシュ)、天井に彩色細密画を描いた愛妾用個室。会議室。大理石を敷きゼッリージュを張り、水盤を配した大広場。4人の妃と24人の側女のための中庭。フランスの保護領時代、初代総督リヨテ将軍がここに住んだ。輝く宮殿の意味。

シー・サイード宮殿(工芸博物館):アラウィー朝様式の邸宅。19Cに大宰相バ・アフメドの父サイードが建設。1912からマラケシュ・モロッコ工芸博物館として、家具・絨毯・武器・陶器・服飾・宝飾品等モロッコ南部の工芸品を展示。
木のおもちゃの部屋:スークに設置された(移動遊園地)子供用の観覧車。
装飾品の部屋:ベルベル女性のローマ風飾り止め金やイヤリング。服は暑い気候のため幅広で通気性をよくしている。天井は西洋杉で、19Cに天然染料で描かれた。
銃、剣の部屋:モロッコの伝統儀式の1つであるファンタジアに使用される銃や鞘の先が湾曲した剣。デザインが部落によって違う。

2階
イスパノ・モレスク様式の謁見の間:結婚式の様子を展示。アトラスシーダー材のテーブル。セルワ(結婚披露の日)当日花嫁が座ってお披露目をする花嫁の椅子。招待客に花嫁がよく見えるようにという配慮と、儀式の時に初めて見る夫が期待外れで花嫁が逃げ出さないように高くなっている。
隣の個室:ベルベルの絨毯で飾られる。ベルベル民族は話し言葉しか持たず、結婚した女性は故郷の両親に自分達の心絨毯の模様で表現して折り込み、手紙がわりに絨毯を送った。
ベン・ユースフ・モスク:12C、シーディ・ユースフ・ベン・アリーを讃えて建てられた。彼はこの町の7人の守護聖者の1人。16、19Cの改造で、初期のものは殆ど残らない。ミナレットは40m。

ベン・ユースフ・マドラサ:中世イスラム建築の最高傑作と言われる。モロッコ最大のマドラサ。14C、マリーン朝時代の建設で、サアード朝の1565全面改装されコーラン大学になった。800人の学生が一度に学べる。2階に132の教室があり、集中して勉強できるようになっている。床は大理石、壁は派手なサアード朝らしい装飾。
  碑文には「我は科学と祈りの場として、モスリムの君主、預言者の印璽を引き継ぐ者にして、最も至高なるカリフ、アブドッラーによって創設されたり。我が門を過ぎる者よ、アブドッラーの最も高き望みの実現されんことを願い、彼がために祈れ」と記されている。

クッバ・エルバルディイーン:ドームは、マラケシュに残る唯一のムラービト朝芸術の遺産。石と煉瓦のクッバの外壁は、尖塔アーチを2層に渡って展開。中にはベン・ユースフのモスクに付属する沐浴用の水盤がある。

スーク:通りや広場が網の目のように広がり、それぞれに陶器のスーク、香辛料のスーク、鍛冶屋のスーク、染色職人のスーク等、業種毎のスークがある。大勢の人やロバが行き来し、会話や楽器の音など、終日喧噪は止まない。

グエリッツ:フランス保護領時代に建設された新市街。

マジョレル庭園:ブーゲンビリア、ココヤシ、バナナ、ヤシ、竹などが茂る。1920代にフランスの画家ジャック・マジョレルが造園。現在アトリエはイスラム美術館になっている。イヴ・サン・ローランの所有。

メナラ(離宮)庭園:ムーレイ・アブダル・ラーマンが12Cに建てた泉水離宮。サアード朝時代の1866に修復された。オリーブが植わる100haの公園。200×150m、深さ2mの貯水池は、オリーブ園の水源にもなっている。貯水池では兵士達の水泳訓練が行われた。水は4000m級の高アトラスから「ケタラ」と呼ばれる人工の地下水路で引いている。そのため水分の蒸発が少なく、効率良く水を輸送することができる。スルタンのデートの場だった。



南モロッコの村々


  1000km以上に及ぶアトラス山脈に住むベルベル人は幾つもの部族に分かれているため、それぞれの文化がある。アトラス山脈は北はリフ・アトラス、真中は中アトラス、南にオート・アトラス、アンティ・アトラスと続き、各アトラス山脈が更に細分化され、一概にベルベル人と特定できない。アンティ・アトラスやオート・アトラスのある南モロッコは、大きな集落もなく砂漠化が進み南下するほど何もない。現在でも山間部はガス・水道・電気もなく、朝から女性が水汲みに行き、川で洗濯をする生活様式が残っている。基本的に自給自足で、家畜も飼っている。
  オート・アトラス周辺のカスバの外壁はその地に産出する土を利用した土壁で、褐色の4階建て前後の建物は要塞のように見える。壁にある武器をセットする開口部や、屋根に取り付けられた装飾、四隅の塔と塔の凸凹のある壁には部族や地区の模様が彫り込まれている。ほとんどのカスバは集合住宅形式で、数世帯が共同生活している。要所に中庭や井戸が設けてあって、儀式や集会などのコミュニティーの広場となっている。
  この南部地方には主にベルベル民族が部族ごとに集まって、土でできた家に住んでいる。家の特徴は、外部からの熱を防ぐために壁は厚く、窓は小さい。家の集落を壁が取り囲む。この様な家の集落をクサール、またはクスールと呼び、村の有力者のカスバと呼ばれる大きな家を、小さな家が取り囲む形になっている。マグレブ地方に多い。
  内側には小さい部屋が幾つもあり、階段とちょっとした吹き抜けや行き止まりの部屋もある。家具や物の無い部屋、用途のわからない部屋も多く、それらが連続していて複雑。最上階や1番奥はそのカスバの部族長の部屋で、外の見晴らしが良く、広く、壁や窓に多少の装飾があり、一風変わっている。1階の入り口からその部屋に着くまで、部屋らしい部屋は無い。やはり要塞らしく外から侵入した時、奥の部屋まで簡単にたどり着けないようにできている。また、侵入者が出ていく時も、簡単には出られない。例えば階段が1階から急に3階に上がったり、踊り場から左右に分かれたり、途中階で終わるなど、一見しただけでは部屋同士のつながりが理解できない。このように部屋と部屋をつなぐ複雑な状態は、メディナの建物と建物をつなぐ複雑さに共通した面がある。これが内観外観とも、この地域のカスバ共通のスタイル。



エル・ジャディーダ
 16C初めバスコダ・ガマがアフリカの南端ケープタウンを通り、新しい東インド諸島への航路を発見。この航路を通るポルトガルの航海船は、途中アフリカ大陸の港に寄港した。1500にはエル・ジャディーダに港が建設され、敵からの攻撃を防ぐために大砲が備え付けられた。その後ポルトガルの要塞の町として発展。16C、水不足に備え地下貯水槽が作られた。



トゥルーエト
 マラケシュ〜ワルザザード間を行き来する隊商は、テスト峠への道が整備されるまでは必ずトゥルーエトを通らなければならなかった。イマレン川沿いの荒れたカスバは、20Cの初めまで高アトラス山脈を支配していたグラーワの首長の住まいだったものを、1956までマラケシュ太守だったエルハッジュ・トハーミ・エルグラーウィが拡張整備したもの。典型的なベルベル・スタイル。フランスの傀だったグラーウィの財産が、独立後に没収されて以来、荒れるがままになった。砦のレセプションホールの壁には、幅広の絹の帯が飾られている。グラーウィ族の紋章。


(カスバ街道)
 ワルザザートからエルフード。1000ものカスバが建っているとされる。かつてこの辺りの部族間の争いが激しく、敵からの攻撃を避けるため山や丘の中腹に要塞で囲まれた家カスバを築き、その中で暮らした。カスバの特徴として、一般的に内部に1、2の中庭と建物の各隅に攻撃のできる窓の付いた塔がある。建物には複雑で繊細な模様が刻まれ、デザインの度合いはその部族の富と権力を象徴する。部族間の争いがなくなった現在、人々は生活に不便なカスバを離れ、谷に下りて生活している。


(地下水路)
 エルフードからティネールへ向かう途中、道の両脇に土が盛り上がっているのが幾つも見える。この山の真中には深い穴があいている。これは南部の雨の少ない町に高アトラスかの地下水を引くために作られた人工の地下水路。まず、地下水が地面に吸収されないように粘土質の地質まで地面を掘り地下水路を作る。その上に探り当てた地下水を集め、水が流れるようになっている。この辺りの風景は、映画「シェルタリング・スカイ」に登場。



ワルザザート
 カスバ街道西端の町、砂漠状の高原の中央に位置する町で、ドラア川、タデス川、スース川に向かう十字路となっている。1928、フランスが守備隊の駐屯地として、南のサハラから攻め込む敵を防ぐ目的で建設した町。今では国際空港を持ち、観光地として、手工業の中心として発展を遂げている。この地方の商業取引の中心で、特に陶器と絨毯の取引で名高い。撮影所もあり、この地方を舞台とする数多くの映画撮影が行われた。町の中心から外れると、今でも多くの女性はヘンディーラという民族衣装に近い衣装や、ジュラバというワンピースに身を包み、目だけを出して歩いていて、敬虔なイスラム教徒が多いということがわかる。



ティフルトゥート
 ワルザザートの北西約8km。段丘の上にある。練り土を固めた建物で、300年以上前に建造されたカスバ。かつては南部で最も富を持ったグラーウィ家が所有していたが、今は宿屋の別館になっている。しばしば写真やフィルムにも納められ、映画「アラビアのロレンス」の舞台になった。



アイト・ベン・ハドゥ
  アトラス山脈の中腹、小高い丘の斜面に建てられた集落。サハラの先住民ベルベル族が築いた。映画「ナイルの宝石」の撮影に使われた。回りには川、ナツメヤシ、遙か彼方にアトラス山脈が見渡せる美しい景観がある。現在7、8家族が住む。ここのクサールは特に保存状態がいい。赤土の外壁に装飾を凝らすイスラムの建築様式。この集落がいつ形成されたかは不明だが、建材に耐久性がないため、修復が繰り返されてきたのは確か。村全体を防壁で囲みその中にカスバがある。民家の1階は馬小屋、2階は食糧倉庫、3階以上は住居。窓はなく、屋外に通じる長い廊下が窓の代わり。村にはモスク、羊を見張る小屋、学校などの公共施設もあるが、全ては戦いに備えた造りになっている。



スクーラ
 カスバの下の階には人が住み、最上階には家畜としてポピュラーな羊が住むことが多い。スクーラのカスバの建物は、1・2階に窓が無く、目が慣れるまでは部屋の入り口がどこかわからない。家畜は階段を上がり、最上階の一角に部屋を占領している。外部に小屋を造るには危険が多く、下の階は陽が射さず飼育上健康的ではない。下の階は壁も厚く、気温も極端に上昇せず、乾燥状態もいいので倉庫に適している。



ケラ・デ・ムグーナ
 モロッコ有数のバラの栽培地で、伝統的なバラ水などが作られている。バラ水は食べ物の香り付けや香水代わりに使われ、モロッコ全土で販売されるバラ水の殆どを生産。毎年5月にはローズ・フェスティバルが開かれ、民俗舞踊も披露される。



トドラ峡谷
 峡谷は高さ160mあり、高アトラス山脈とサグロー連山が亀裂してできた巨大な断層。谷間の川に沿って道が通っているが、上に行くほど浅瀬は深くなり、やがては通り抜けられなくなる。



ダデス峡谷
 カスアバ街道沿い、高アトラス山脈とサグロー山脈の合間を150kmに渡って続く渓谷。谷と言っても両側は丘程度の高さが続き、水量も多い。そのため椰子の群生が多く、川沿いの畑も広い。城塞の村クサールが点在し、大きな町では毎週のように日用雑貨や香辛料など生活必需品のためのスークが開かれ、集落近くで年に1度「バラ祭り」を催しているため、観光客も増えた。近くのブマルン・ダデスから山脈に入る街道沿いの谷とその集落に、人体の谷と呼ばれる自然にできた岩がある。人、腕や頭や指の形など芸術性に富んでいる。



ティネリール
 カスバ街道のほぼ中間の町。19Cにはフランス軍のサハラ前線基地として栄えた。かつて名士が住んだ場所は高級ホテルとなっている。大きな川が流れ、畑が幾つもに区切られ、畦道には草と椰子が緑の縁取りを付けるように並ぶ。オアシス周辺の自然の地形には緑は少なく、隆起や地殻変動によってできた岩山が続く。現在はベルベル人達が住む。



エルフード
 サハラ砂漠への玄関。ジーズ川とゲリース川から水が供給される、モロッコで1、2を争うオアシス。ナツメヤシの生産が有名で、毎年収穫時になるとナツメヤシの葉で編んだ籠いっぱいにナツメヤシの実を積んだロバが、付近の砂漠からやってきて活気が増す。毎10月にナツメヤシ祭が開かれる。エルフード山脈と村は、フランス保護領時代に軍事上・行政上の中心として建設された。南東15kmの所に石切り場があり化石の混じった黒大理石を産出する。



リッサニ
 かつてフェズ、サブサハラ間のラクダ街道で最も重要なスークがあった所。中世の時代にはサハラ全域から琥珀、金、駝鳥の羽、ナツメヤシ等が集められ、この地域に富が集中した。又メッカへの巡礼の出発点で、ここからラクダに乗って砂漠を横断した。現在毎週日曜に、モロッコ南部で最も活気のあるスークが開かれる。スークではあちこちにラクダが見られ、ロバのパーキングもある。



エッ・ラシディーヤ
 ダデス方面とタフィラルト方面の2つの主要な隊商ルートが交差する。かつてはクサル・エッスークと呼ばれた。1666にこの地を発ってサアード朝のスルタンを倒したアラウィー朝のスルタン、ムーレイ・ラシードに因み名前が付けられた。少し離れるとハサン・アッダヒール・ダムの湖面が広がる。洪水が多かったジーズ川を1971に、塞き止めたもの。南のタフィラルトのヤシ園を潤している。



アイット・ベン・ハドゥ
 要塞化された村クサル。土造りの建物が川岸の斜面に一斉に立ち並ぶ。建物は社会的なヒエラルキーに準じて、それぞれ分離した高い城壁に囲まれている。壁の一つ一つには菱形文様の装飾が施されている。塔には銃眼が付けられ、要塞の感じを醸し出している。現在では5家族を除いて対岸の村へ引っ越してしまった。それでも建物の保存状態は良く、修復作業は今も進められている。映画「アラビアのロレンス」や「ナイルの宝石」のロケ地としても有名。1987、「壮観な土造りの集落。映画の撮影によく使われるモロッコで最も美しい町」として、世界文化遺産に指定された。



(ナツメヤシ)
 アラビア原産のヤシ科の中で最も原始的な種類で、約1億年前に現れた。筒状の幹は歳を重ねても太くはならないが、高さは30mになることもある。葉や枝は幹に螺旋状に密集し、4〜5年の寿命がある。雄と雌の木があり、どちらも3〜4月に花を咲かせ、風による受粉が行われる。デーツ(ナツメヤシの実)の果肉は糖分が豊富。モロッコでは8万4千haのヤシ林に、約470万本のヤシの木が植えられている。直径50cmになる幹は建材としても利用価値が高い。


(オアシス)
 モロッコにはオアシスが多い。オアシスはもともと自生植物群から形成されたもので、ナツメヤシの葉むらでできたシルエットが付き物。乾燥した平地や砂漠にある山の麓で、突然目の前に現れる。青々とした野菜や穀物の畑、果樹の木陰、灌漑用の細い水路を流れる水が調和した場所。昔は家族が使う分だけを耕作した農業は、商品作物としてデーツの生産量を増やすため、ナツメヤシの単一栽培に取って代わられた。今では1ha当たり年間収穫量は12〜13トンに達している。


(砂漠)
 年間降雨量が100mmに達しない所が砂漠。東はシルワ山から、西はアンティ・アトラスまでが砂漠にあたる。多少湿度があり、多肉性の植物が繁殖する海に近い所から、より乾燥したサハラ性の植物が多いプレサハラ地方までさまざまな植生を見ることができる。モロッコの砂漠は砂砂漠よりレキ砂漠。石がごろごろする台地に、熱風に運ばれた砂が積もった比較的低い砂丘が所々にある。



フェズ


  世界一複雑な巨大迷路の町。北のリーフ山脈と南の中アトラス山脈に挟まれたセブー川の支流であるフェズ川のほとりにある。大西洋岸から150km離れた内陸にある。カサ・ブランカ、ラバト、マラケシュに次ぐモロッコ第4の都市。この4つの王都の中で最も古い歴史を誇る。フェズに最初にできた王朝イドーリス発祥の起源には諸説ある。有力な説は、9C初め、ムーレイ・イドリース1世がバグダッドのアッバース朝に対して反乱を起こし、中央モロッコに亡命。イスラムの開祖ムハンマド一族の子孫である彼はベルベル人と結婚し、この地でイスラム王朝を興す。
  最初のイスラム王となったムーレイ・イドリース1世は首都をムーレイ・イドリースと定めた。その子イドリス2世が跡を継ぎ、809にフェズを開き遷都という説。ムーレイ・イドリース2世は優れた指導者で、父イドリス1世の築いた王朝を拡大強化した。9Cにイスラム教が流入して以来、今もイスラムの信仰・文化の中心。
  後のウマイヤ朝のスペインが騒乱状態になり、8000家族ものイベリア半島在住のイスラム住民がフェズに身を寄せた。ムーレイ・イドリース2世は彼らをフェズの右岸に住まわせた。現在でもこの地区はフェズのアンダルースと呼ばれている。これらイベリア半島の高い教養や雰囲気を身に付けた人々が、住み着いたことから、ここには職人工芸が発達した。彼らがスペインから持ってきたモザイク、木彫、漆喰細工の技術が後にフェズをいっそう有名にする。フェズ焼きという陶器もあり、なめし技術でも他を圧した。織物は紡ぎ、染め、織り、全てが手でこなされる。富裕階級を狙っての金銀細工も発達。
  その7年後、イドーリス2世は現在のチュニジアにあるアラブ文化の中心地カルワンから安住の地を求めてやってきた2000家族を受け入れ、左岸に住まわせた。この地区はフェズのカラウィーンと呼ばれる。この2つの地方からの人々の特徴として、カルワン人は高い教育を受け高水準の生活をする人々。アンダルース人は勇敢で強く農耕の才能があるとされる。又カルワンの男性はハンサムで、女性はアンダルース人の方が美人とされている。
  都には次々にモスク、イスラム神学校、大学などが建てられた。ベルベル人を追放し、スペインからアラブ出身の職人や商人、学者達を積極的に受け入れた王のサロンは、イスラムの文化人で賑わった。10Cには「アフリカのアテネ」と呼ばれ、その後、周辺諸国との貿易で数百年もの間、繁栄を極めた。新しい政治の中心地としての町の建設という偉業は、イドーリス朝の権威を高め、「マラブー(聖者)の子は、やはりマラブー」という認識がベルベル人の中に高まった。フェズの町の建設は同時に、イドーリス朝の確立でもあった。
  王朝の変遷に伴って首都が他に移っても、フェズは文化と宗教の中心として発展し続けた。11C、首都をマラケシュに置いたモラビート朝は、伝統的な町フェズに興味を持ち攻め入った。その頃フェズの住民は飢餓や内乱で外敵への抵抗力はなく、簡単に攻め入られた。その時のモラビート朝のスルタンは、フェズのアンダルース人の伝統工芸に目をつけ、あらゆる建物を彼らの技術を使って建てた。これがフェズの人々の生活水準を向上させる結果となり、フェズの発展を促した。
  1245にフェズは黄金時代を迎える。コノジダイニフェズ・ジャディ地区に数多くの統治の中心地としての王宮、管理・軍関係の建てものを建設。また同時にフェズ・エル・バリ地区にも非常に華麗な装飾を施したマドラサが建てられている。
  16C半ば、フェズはモロッコの衰えと共に衰退。現在フェズの町は3つの市街に分けられている。1981に世界遺産に登録された、9C初頭から始まり起伏に富み、歴史的建造物が多くあるフェズ・エル・バリ、13C後半に西側に町が拡張されてできた王宮やメラーのあるフェズ・エル・ジャディード、フランス保護領化に建設された新市街地区。


(ムーレイ・イドリース)
 モロッコで初めてアラブ民族によるイスラム王朝を開いた。イスラム教開祖ムハンマドのひ孫。毎年8〜9月、モロッコ各地から数千人がムーレイ・イドリース1世を弔うためにこの聖都に集まる。イスラム経典では「もし金銭的に可能ならメッカ巡礼をするように」とあるが、実際モロッコ人の中でメッカに行けない多くの人は、聖都ムーレイ・イドリースに巡礼することで宗教義務を果たしたと考える人が多い。その場合、メッカに巡礼した人に与えられる称号「ハジ」は与えられない。


新市街:近代的な新市街の建設は、フランスの保護領下、1912に始まった。メインストリートのハッサン2世通りは、保護領時代にフランス軍の協力で造られた。農村の過疎化に伴い都市人口が急増し、フェズはモロッコで3番目に大きな都市になった。

マリーン朝墓地:ボルジュ・ノルドの丘。1198に開かれたマリーン朝の歴代のスルタン達が埋葬されている。

武器博物館:ボルジュ・ノルドの丘の上に建つ要塞を改造したもの。要塞は16Cに造られ、北から攻め入る敵からフェズを守った。展示はモロッコの銃、剣類、ヨーロッパからの収集品。



フェズ・エル・ジャディード(新フェズ)
 ジャディードは「新しい」を意味するアラビア語。700年前の「新しい」。かつてイドーリス朝の首都として繁栄していたフェズは、王朝が交代して他の地に都の地位を奪われると、一時的に廃れた。1269、首都として返り咲いた時、以前からあったフェズ・エル・バリの北側に新しくメディナが形成された。それがフェズ・エル・ジャディード。

フェズ川:真珠の川と呼ばれる。城壁の北面に造られた門からフェズ・エル・バリへと流れる。ムラービト朝のスルタンは川の流れを変える工事をし、川の名を取ってこの町をフェズと名付けた。

王宮ダール・エル・マフゼン:スルタンの居城で、スルタンの兵士達の駐屯所だった。総面積80ha、周囲7km庭たる壁で囲まれる。700年以上の間、あらゆる王朝がこの敷地内に多くの宮廷や迎賓館を建設。どの王も前の王朝が建てた建物は使わなかった。この地区には数多くの豪邸、ミシュワール(観閲式用の広場)、庭園、モスク、クッバ、マドラサがある。現在の王宮は1968改修。王宮の門には西洋杉の扉があり、銅と真鍮でできた板に装飾が施され門に張られている。

メッラーユダヤ人居住区:モロッコでユダヤ人を指す言葉。語源はメルフ(塩)。フェズの兵士が打ち負かした敵軍の首をトロフィーとして門に飾る前に、首が腐蝕するのを防ぐため、ユダヤ人に塩漬けにする仕事をさせていたため。
 モロッコ最古のユダヤ人街メッラーは、マリーン朝のスルタン・アブーサイードが追加税金を支払うことを条件に、ユダヤ人保護を約束し、王宮の傍に移り住ませた場所。ユダヤ人をまとめて住まわせたのは、彼らの商業活動を管理するため。建物の特徴として、一般的に高い建物に木でできた大きなバルコニーがあり、1階に商売店舗が付いている。10Cまでは夜には門が閉ざされ、フランス保護領時代以前はバブーシュ(スリッパ型の革靴)を履いたり、ロバやラクダに乗ることが禁じられた。

セマリン門から旧スバ門、ドゥカキーン門に続く大通り:14Cの赤モスク(ジャマア・エルハムラー)、白モスク(ジャマア・エルベイダー)、近くに1357、マリーン朝のスルタン、アブー・イアナーン建立のジャマア・エルアズハル。

小ミシュワール:観閲式用の広場。

ムーレイ・アブドッラー・モスク:アラウィー朝スルタンと同名。緑の陶板を縦に並べた高さ25mのミナレット、クッバには他のスルタンが眠る。

アブー・エルハック・モスク:マリーン朝スルタンと同名。1276。

旧スバ門:7人の門。18C、ムーレイ・アブドッラーの後継者となった彼の7人の兄弟を称えて造られた。

旧ミシュワール:1930年代のマキーナ門。1886、ムーレイ・ハサン治世下に家イタリア使節団が設立した旧武器製造工場。現在は輸出目的の絨毯工場。マリーン朝のセグマ門を境にシュラルダの旧カスバとフェズ・エル・ジャディードが分かれる。

ドゥカキーン門:フランス通りが始まり、サアード朝スルタンの庭園を1917に改造したブー。ジュルード公園に至る。独立運動の闘志達の密会場所として人気があった。

ダール・バトハ(博物館):19C末、ムーレイ・ハサンが建設したイスパノ・モレスク(スペイン・ムーア)様式の宮殿で、現在はモロッコ博物館。別称、モロッコ伝統工芸博物館。陶器、11〜18Cの天文観測儀、金糸を使ったフェズ刺繍、コーラン装飾写本、絨毯、ベルベル人の装飾品、革細工、家具調度品、南モロッコの武具類などを展示。
 目玉は980作のナツメと黒檀の木でできたミンバル(説教檀)。西方イスラム圏ではカラウィーン・モスクに次いで最古。

王宮:立ち入り禁止。13〜15Cに君臨したマリーン朝のスルタンの居城だったもので、何世紀にも渡って増改築された。現在は国王がフェズ滞在時に使用。



フェズ・エル・バリ(昔からのフェズ)
 東西2.2km、南北1.2kmの規模で、中央を流れるフェズ川に向かって町全体がすりばち状になっている。道は細くねくねと曲がり、その上に住宅が被さり、昼でも暗いトンネル状の通りも多い。無数の坂や階段が行き交い、現在残る世界最大のメディナ。想像を絶する複雑な都市迷路となっている。1000本もあると言われる袋小路の奥には、壮麗なモスクが建つ。あじけない外観に比べて、民家の内側は涼しげで、アラブ風装飾に彩られた華麗な中庭がある。堅牢なファサードは、熱射の乾燥地帯では日光や熱風を入れない工夫で、その分家が暗くなるのを防ぐために中庭を造った。中庭には水盤や樹木があり、壁には美しいタイルに幾何学的な文様の装飾が施されている。このように華麗な中庭があるのはイスラム建築の特徴。
  カラウィーン・モスクの西側地区には、チュニジアのカラウィーン地方から入ってきた人が住む。アンダルース・モスクのある東側地区にはスペインのコルドバから移ってきたアンダルシアの人が住む。

ブー・ジュルード門:通称ブルーゲート。フェズ最大の門で、フェズ・エル・バリの表玄関。ムワッヒド朝時代の13Cの建造で、1913に当初の様式に忠実に修復された。外側は青(フェズの色)の、内側は緑(イスラムを象徴する色)の彩釉タイルで、アラベスク模様を施す。

メディナ:道が狭く起伏に富む、世界1複雑な巨大迷路の旧市街。香料や野菜などを売る店がずらりと並び、見所も多い。1068完成の複雑な用水路で水を引いていた。187の小さなメディナに分かれていて、その1つ1つに法律、モスク、コーラン学校、パン屋(住民がパン生地を持ってきて焼いてもらう)、水道、公衆浴場(ハマーム)がある。メディナの唯一の輸送機間はロバ。道が狭いために今なお車が進入することができない。道を歩いている時「バラク・バラク」と聞こえたら、ロバが通るので気をつけて、道を空けてくれということ。メディナが昔のままの姿を残しているのは、この史跡地区に新しい建築物を造ることを禁じた総督リヨテのおかげ。1976、ユネスコの世界文化遺産の指定を受けた。人口過密と公害問題に直面している。伝統工芸を維持するため近代的な工房の設立も必要だが、立地条件には恵まれない。フェズの旧市街は「モロッコで最も古い都。世界一複雑な巨大迷路の町に1000年以上刻まれた都市文化」として、1982に世界文化遺産に登録された。

ブー・イナニア・マドラサ:小さなマドラサを除けばマリーン朝設立の最後、フェズ最大規模のイスラム学校。現在はモスクとしても利用されている。1350〜57ブー・イナニアがカラウィーン・モスクの学生の宿泊施設として建設。マドラサは、学習所を兼ねた寄宿舎で、モスクで行われる授業に出席を許可された田舎から来た貧しい学生に部屋と食事を提供した所。フェズにある殆どのマドラサは1950年代まで使われていた。
  マリーン朝建築の典型として石膏の彫り込み、アトラスシーダーの木組み、アラベスク模様とコーランの聖句の細かい木彫、タイルと繊細なレースの様な漆喰彫刻、ブロンズ・大理石・縞メノウを駆使した装飾、ムカルナス(鐘乳石飾り)を付けた窓など。材質の異なった建材をうまく組み合わせて美術的に完成度の高い建築に仕上げている。パティオを囲む壁をゼーリッシュが、その上をスタッコと瓦のひさしが飾る。水盤の水はフェズ川から引かれたもの。

時計塔ダール・エルマガーナ:1317、この地域の工芸家によって作られ、1355にアブ・ナインが発見した水時計の一部が残る。水力を利用してチャイムを鳴らす時計だったらしく、小さな窓から機械仕掛けのはやぶさが飛び出す。この時計は通行人の注意をマドラサに引きつけるように取り付けられている。

アフリカ黒人巡礼のモスク:他の人は参拝できない。黒人の守護聖者シーディ・アフメド・エルティジャーニのザーウィヤ(修道所)がある。

ネッジャリーン広場:ネッジャリーンは建築に携わる人々を表す言葉で、家を建てるだけでなく、柱、天井、壁、壁面などをアラベスク模様で飾る職人達も指す。入念な装飾を施した給水所がある。

ネッジャリーン・フンドゥク:フンドゥクとは隊商宿のこと。18Cに建てられ、最近モスクに改造された。かつては田舎や外国からの短期滞在者が宿泊した。マシュラビーヤ(透かし彫りの目隠し窓)で飾られた1階は、動物を収容する幾つかの部屋と商業活動のスペースに分かれ、2階に宿泊部屋があった。

キーサリーヤ:スルタンのアブー・ヤアクーブ・ユースフが13Cに設立した精神病院の跡地に建つ。織物や絹製品の市場として今も有名。1954の火災でスークは焼失し、コンクリートの建物が建った。トルコのシステムを真似て、同業組合を作り、店の売り上げを共有している。バブーシュ(モロッコの革靴)やジュラバ(民族衣装)、装飾品を売る。

ムーレイ・イドリース2世廟:9C建造、1437改築。ムーレイ・イドリース王は人々からフェズを守護する聖者として崇められ、現在も巡礼者が絶えない。信者は銅版に開いた穴から手を入れ、聖人の墓に触れる。墓には絹織物同業組合が寄付するクサウアという織物が被せられ、毎年新しいものに替えられる。ロバやラバが入れないように道は全て高さ1.6mのガードで遮断されている。かつてここに逃げ込んだモスリムはたとえ犯罪者でも保護される決まりだった。
 少し離れた所に1.8m位の高さに棒が渡されている。廟の聖地内を示すもので、イスラム教の予言者ムハンマドの血を引くムーレイ・イドリースを信じる者も信じない者も、この棒を頭を下げて潜り抜けることによって必然的にムーレイ・イドリースに敬意を払うようにできている。

アッタリーン・マドラサ:1323〜25、マリーン朝スルタンのアブー・サイード治世に建設された。壁の漆喰に刻まれたアラベスク模様、ブロンズの扉(マリーン朝の宝石と呼ばれる)、大理石やアラバスターの列柱に囲まれた回廊、アトラスシーダーに施された彫刻、ゼッリージュの装飾の白大理石の浄めの水盤。骨組みには堅固で耐久性があり、地震にも強いヤシを利用。

なめし革職人街:シュアラ。古鉄商人、真鍮鋳造師、角製くし職人のスークも多い。

タンネリ:なめし革を加工・染色する作業場。牛、子牛、らくだ、山羊など種類は多いが、昔ながらの簡単な道具と手作業で処理される。この地区の職人は全て男性で、父から息子へと代々この仕事が受け継がれる。

スーク・タンチュリー:糸を染める作業場。主に羊毛と絹糸が天然染料を使って染められ、織物作業場に運ばれる。

パレ・ジャメイ・ホテル:メディナの壁の中にある唯一の高級ホテル。この旧館は19Cの終わりにスルタン・ムーレイ・ハッサンの片腕シディ・ムハンマド・ベン・アリブ・エル・ジャマイの宮殿として建てられたもの。1930にホテルとなった。

ルシーフ・モスク:18C末、シーディ・ムハマッド・アブッドラーによって建立。

カラウィーン・モスク:857、チュニジアのカラウィーン地方から来たエル・フィリアの娘ファティマが、彼女の父を偲んでアラーの神に寄贈したモスク。933、金曜礼拝用モスクに列聖された。956にミナレットが完成。1135、ムラービト朝スルタンのアリー・ベン・ユースフによって大きく改築された。イスラム教育機関として国内最古で、10Cにはハラカ(コーランの円座講義)が始まり、大学の機能も果たすようになった。ここではコーランを中心に教えられたが、法律・地理・天文・算術などの学問も教えられた。アラビア数字の0を発展させたのもここだと考えられている。現在、学生は新市街地に移り、本来の機能であるモスクとして使われている。増築を重ねた結果、2万人を収容し、北アフリカ最大のモスクとなっている。
礼拝堂;14の入り口、16身廊、270列柱。1203のムワッヒド朝時代の吊り明かりとコルドバで造られた説教檀。2万人収容。
中庭;アルハンブラ宮殿の中庭を真似た物。16C、サアード朝によって造られた大理石の柱に支えられた2つの泉亭。
ミナレット;伝説ではイドーリス2世の剣の上にできたという。彼の死後、剣はミナレットにはめ込まれた。フェズの他のミナレットは、ここの高さを考えて建てられている。金曜の祈りの時に頂上に掲げられる黒い幟は、ムアッジンが正確な祈りの時刻を知るために、どこからでも見えなければならない。
入口化粧板;「イスラム歴245(西暦859)に、このモスクはファティマより設立された」と書かれている。
カラウィーン図書館;10C。14Cにスルタン、アブー・イナーンノ宮殿から写本類が移された。所蔵の3万冊のうち写本が1万冊。イスラム圏最大の図書館。14Cにスペイン国王から平和条約協定の一部として貴重なイスラム研究書やコーランの写本がアンダルース地方から戻され保管されている。9Cのコーランを基に書写した14Cの写本などもある。

スファリン広場:石畳の広場。広場を囲む店は、結婚式や大きなお祝い事の時に使われる、クスクスやタジンを料理する大きな鍋等を作る鍛冶屋で、鍋の販売とレンタルもしている。近くの小さな店では、牛や羊の角を使って櫛などの小物が作られている。最初に半分に切った角を火であぶり押さえつけて平らにし、その後やすりなどで形を作る。

スファリン・マドラサ:1280、マリーン朝のスルタン、ユーセフがフェズで最初に建てたイスラム学校。伝統的なフェズの建築様式を取り入れている。

フォンデュク・ティトゥワニ:14C。チュニジアのティトゥワニ地方の人が常宿としていた。中庭と1階は当時の交通手段だった馬などの厩舎で、2、3階が宿。現在は絨毯屋が店を開いている。

アンダルース・モスク:9Cに入植したスペイン・アンダルシア地方の人々が建てたモスク。エルカイルワーニー(カイルワーンからの亡命者ムハマンド・エルフェヘリ)の娘メリアムが小礼拝堂を造り、956コルドバのスルタンの援助でライバルのカラウィーン・モスクと同じようなミナレットが追加された。13Cムワッヒド朝エンナーセルが改築。その後、泉と図書館が加えられた。16Cサアード朝スルタンが寄贈した水盤は、17Cムーレイ・イスマイルによって修復された。最高傑作の大門扉には、彫刻のある木のひさしが付いている。980のミンバルは、フェズの家具職人に受け継がれていく9〜10Cの技術をよく示している。羽目板に見られる曲げ木の技術は、後のマリーン朝のマシュラビーヤ製作に使われる。
  伝説では、カイルワーンの富豪が亡命し亡くなった時、2人の娘に巨額の財産を残した。2人は信仰の厚さを競いそれぞれモスクを建造。メリアムの建てたのがアンダルース・モスク、ファティマの建てたのがカラウィーン・モスク。


(なめし・加工)
  なめしとは動物の皮(羊・山羊・牛・ヒトコブラクダ)に耐久性を付け、かつ柔らかくする作業のこと。まず「皮の作業」と呼ばれる、水付け皮、真皮を作る作業を行う。なめしはフロンという石製または木製のなめし桶で行う。なめし剤は以前はコナラやクリの樹皮を原料とした植物性の物を使っていたが、最近では合成剤のクロームミョウバンを使っている。皮を塩と石灰水に浸し、その後皮に付いている毛を剥がして洗う。
  次の工程は製皮で、底革と呼ばれる未加工の皮に加脂、染色する。染料は植物(藍・ポピー・ミント・サフラン等)を基本とした天然染料を使い、サフランの場合は1日、その他は18日かけて染め上げる。皮から剥がした羊毛も、無駄なくクッションやカーペットなどに利用されるがこの羊毛は油分もとれ、生きた羊から採った羊毛に比べ質が落ちる。最終工程では天日で革を乾かす。


(遊牧民)
 町の入り口から、驢馬の背にたくさんの商品を積んだ遊牧民達がメディナに入っていく。彼らは季節ごとに牧草地を求めて移動する。


(ハマーム)
 共同浴場。地形をうまく使って造られている。釜の湯を沸かすために、火を使う場所をなるべく低い所に持っていき、入り口は高い所にある。まず脱衣室兼サロンの第1室があり、その奥にぬるま湯のある第2室、熱湯のあるサウナのような第3室と続く。清潔好きなイスラム教徒にとってハマームは欠かせないものだが、同時に交流や娯楽の場としても重要な意味を持つ。ハマームにはしばしばドームが使われる。モロッコでは材料の関係でドームを使う建物は少なく、ハマームとイスラム教徒の墓であるマラブーくらいに限られる。



メクネス


  カサ・ブランカ、ラバト、マラケシュ、フェズに次いでモロッコ第5の都市。標高522mの高地、プーフェクラン渓谷にある。首都ラバトと古都フェズの間にある。地名の由来はベルベル系のメクナサ族が住んでいたことによる。メクナサ族が東からやって来たのは10C。その後11Cにはムラービト朝の支配下に入った。首都として栄えたのは17Cのムーレイ・イスマイルの治世のアラウィー朝55年間のみ。アラウィー朝を開いた兄ムーレイ・ラシードの後を25才で継ぎ、モロッコ王国の土台を築いたと言われる時の君主ムーレイ・イスマイルは、大のフランスびいきだった。彼はメクネスを、ヴェルサイユに負けない華やかな王都に仕立てようとした。彼はモロッコの歴史上最も偉大な指導者の1人で、民俗混乱の世の中にモロッコに安定した統一国家を築いた。と同時に周囲が25kmもある城壁を町の回りに巡らせ、偉大な門、貯水設備、王宮などを建設。彼の権力はヨーロッパからも一目置かれた。
  昔の王都にあたる旧市街は、城壁に囲まれている。旧市街は、1996に「ムーレイ・イスマイルの命で17Cに首都となった、城壁に囲まれた町」として世界文化遺産に登録された。メディナと新市街の間をブーフェクラン川が流れる。アトラス山脈を越えてサハラへ向かう出発点にあたる。町の周辺はモロッコでも有数の農業地帯で小麦などの穀物のほか、野菜、オリーブ、葡萄などがとれる。葡萄は加工してワインにされる。メクネス近郊にはワイン工場があり、モロッコ各地に出荷。半世紀の栄華に終わった「モロッコのヴェルサイユ」と呼ばれる。

城壁:旧市街は40kmに及ぶ3重の城壁で囲まれている。第1は敵の騎兵を阻む壁、第2は第1の壁よりも高く歩兵が町に侵入するのを食い止める壁、第3は更に高く2つの障害を越えてきた者を食い止める。

ベルダイン門:17C、ムーレイ・イスマイルの命で造られた北の入り口。緑釉タイルを使った2基の角塔。アーチの向こうに同時期に造られたベルダイン・モスクのミナレットが見える。

フミース門:18C。庭園とメッラーフ(ユダヤ人街)があった地区への出入り口だった。ムワッヒド朝様式の特徴であるぎざぎざの鋸歯壁飾りを持つ高い塔に挟まれている。曲線的な文様とクーファ書体が絡みながら門を飾る。正面の言葉は「余は洋の東西を問わず、あらゆる国民にこの門を開く」。

旧ユダヤ人街:あるユダヤ人の医者がムーレイ・イスマイルの王女の病気を治した褒美にこの周辺の土地を与えられ、17Cにメッラーフが造られた。

アグダールの貯水池:ムーレイ・イスマイルの命で造られた。水は用水路の水で定期的に補給される。約25kmに渡る用水路がエル・ハジェブの近くまで延びる。貯水池は王宮庭園の灌漑やムーレイ・イスマイルの愛人達の遊びに使われた。

ムーレイ・イスマイルの穀物倉/ヘリ・エッスアニ:王宮の食糧庫、厩舎、サハラ砂漠の南部から来た黒人兵の宿泊地だった。人間の食料だけでなく、スルタンの1万2千頭の馬の餌となる干草や穀物も貯蔵された。王宮家、また王宮に仕える人々の食糧庫は22あり、厚さ7mの壁と地下を流れる水路が、倉庫内の室温を一定に涼しく保った。母屋裏手に23身廊を持つ建物がある。天井はもとは12m、広さは今の2倍半あった。18Cにムーレイ・アブドッラーが壁を造り縮小された。馬の飲水を汲み出した井戸もある。
 厩舎では1万2千頭の馬がつながれた。3千本の角柱が立ち並び、2本の柱の間に4頭の馬がつながれた。後に武器庫として使われ、その後、絨毯工場に使われた。天井が落ちたのは1775のリスボンの地震の時。この倉を満杯にすると、町は20年間も自給自足できる程だったという。

ダール・エル・マ:「水の館」。17Cの建物で、水を供給するために、深さ40mの貯水槽から驢馬や馬を動力にした水揚げ機で水を汲み上げていた。馬がチェーンで水を汲み上げた跡が残る。屋根の上は庭園になっている。

ダール・エル・マフゼン:王宮の門から1km。かつてはメクネスきっての豪華さを誇った王宮。廊下には建設者や、ムーレイ・イスマイルの死後建材を掘りに来た人々が残していった大理石の柱が転がる。

ダール・クビーラ:ムーレイ・イスマイルの時代に屋外行事に使われたラッラ・アウダ広場に面している。ルワーフ門(風の門)があり、1697ムーレイ・イスマイル最初の宮殿として建設された。3重の城壁に囲まれた敷地に、最盛期には20余りの建物と2つのモスクがあった。

ムーレイ・イスマイル廟:ムーレイ・イスマイルが葬られているモスク。彼が生きている間に完成したもの。スルタン、ムハマンド5世は非イスラム教徒のこの廟への入場を許した。
沐浴室:大理石の泉と、ブリンズ製の吊り明かり。
安置室:後継者達と妻ラッラ・フヌワータの墓もある。プレートにはアラウィー朝スルタンを称えた
    ムハマンド4世の自筆の詩、ルイ14世がムーレイ・イスマイルに贈った時計。

クッバ・エルハヤティーン/キリスト教徒の牢:仕立屋の意味。広場近くに仕立屋同業者組合があることに由来。ムーレイ・イスマイルはここで外国からの使節と謁見した。
 地下には穀物倉庫だったと思われる部屋があり、「キリスト教徒の牢獄」としても知られる。「4万人の捕虜を収容できる牢屋を造れば釈放する」というムーレイ・イスマイルの条件を受けたポルトガル人の囚人カラが造ったと言われる。17〜18Cにはスペイン・ポルトガルのキリスト教徒を初め、モーリタニア人等4万人が奴隷として収容されていた。彼らはメクネスの町の建設に使われた。石柱に鎖の跡が残る。

マンスール・エルアルージュ門(エル・マンスール門):メディナの城壁の門の1つ。メクネスで最も美しい細工を施した門。改宗者の勝利の門。イスラム教に改宗したキリスト教徒が造った「王都への入り口」。ムーレイ・イスマイルが建てさせた最後の建築物。ムーレイ・イスマイルがフランスのヴェルサイユ宮殿を真似して造り始め、1732に完成させたのは、息子のムーレイ・アブドラー。
 幾何学模様の装飾が美しく、モロッコ随一の門として知られる。両脇に、大理石の柱に支えられたアーケードを持つ稜堡。マラケシュのダールエルバディにあったものと思われるコリント式の大円柱は、サアード朝の名残を消し去るためにムーレイ・イスマイルが取り壊した。この門を建造中、ムーレイ・イスマイルに「これよりも美しい門を造ることができるか?」と聞かれて「ハイ」と答えた建築家エル・マンスールが、その場で死刑にされたという話もある。この門を監督したのは、エル・マンスールだとも考えられている。横の小さな門はバブ・ジャマ・エン・ヌアール(花のモスクの門)で、かつてのモスクの入り口。

クベット・キャティン:スルタンが外国大使を接待し建物。

メディナ:同業者別に街区が分かれ、グランド・モスクを中心に店が広がる。
  スッカリーンスーク(仕立屋、ブリキ屋)      ベッザシーンスーク(籠屋、布地)
  ジャディード門(ムワッヒド朝時代。楽器屋)   セライリーヤ通り(金物、石炭)
  キーサリーヤ(14C設立の商店街)         アルムリエ通り(岩塩、石切屋、家具屋、鍛冶屋) 
  エンネッジャリーンスーク(家具職人)       スーク・エルヘリール(絹織物業者)
  エッスバードスーク(靴屋)              スーク・エルグザーラ(ラクダの肉で有名だった肉屋)

ダール・ジャマイ/モロッコ美術館:ムーレイ・ハッサン時代の大臣ジャマイによって建てられた王宮で、かつてはハーレムだった。現在はモロッコ美術館。200〜300年前のコーランや家具、ベルベル人の装飾品、絨毯、武器等が展示される。

種馬牧場:サラブレッドやバルブが、士官学校の騎手のために飼育されている。厩舎の外には馬の名・決闘・種類等を記したパネルが掛かる。国が管理し、生まれた小馬には優劣を競うために一頭一頭血統書が発行される。

ブー・イナニア・マドラサ:14Cマリーン朝スルタン、アブー・エル・ハッサンの時代に建設が始まり、1355アブー・イナーン治世に完成。木と石膏の均斉が完璧に取れている。マリーン朝時代の代表的な建物。ゼッリージュとアトラスシーダーの彫刻の門。中庭の大理石の水盤は、授業の前に世と達が手を清めた所。目で見た涼感を取り入れた設計。

ダール・エルベイダー:18C末の王宮跡。シーディー・ムハマンド・ベン・アブドッラーが建てた城塞。現在は軍事アカデミーとして使用され、士官学校になっている。

ルア:ムーレイ・イスマイル時代の馬屋跡。当時は1万2千頭の馬や驢馬が飼われていた。

シーディー・ムハマッド・ベン・イーサーのクッバ:メクネス最古のモスリムの墓。イサーワ教団の創始者。生前すでに崇拝されていた彼は、木の葉を金貨や銀貨に変える力を持っていたという。伝説では、この聖人の数歯医者達は、動物と契約を結んだという。

大モスク:12Cムラービト朝時代に建造され、14Cに改築。多柱式で、ムハンマドがメディナに亡命中住んでいた建物を真似たと言われている。当初は、ヤシの木と葉の付いた小枝で支えられ、風が吹くと膨らんでしまうようなテントだった。


(馬)
 モロッコ馬の先祖にあたるバルブ種は、丈夫で耐久力のある乗用馬でもともと中央アジアからモロッコに入ってきたと言われている。モロッコの原住民を指すベルベルから、バルブという名前が付けられた。7C新しい宗教であるイスラム教を持ってこの国に来た騎馬の兵士達が、アラブ馬の純血種をモロッコにもたらし、現在でもこの種が唯一本物のモロッコ馬であると考えられている。現在では伝統的な騎馬芸はファンタジアという芸能ショーの形で受け継がれている。ファンタジアという言葉の語源は「気晴らし」を意味するラテン語。昔の戦いを再現する「戦争ごっこ」に、ファンタジアという名前が付けられたのは19C初め。楽器を携えた騎士は戦闘体勢に入ると鞍の上に立ち上がり、バロウドと呼ばれる火薬をつめた銃を撃つ。17Cには銃の代わりに大き弓が使われていた。



ラバト


 アトラス山脈から大西洋に注ぐブー・レグレ川の河口の西。モロッコ王国の首都。フランス保護領時代の1912に首都と定められた。カサ・ブランカに次ぐモロッコ第2の人口。カサ・ブランカが商業的な賑わいを見せるのに対し、ラバトはモロッコの政治の中心で、王宮、議会、行政官庁、各国大使館等が集まり、静かな落ち着いた雰囲気を作っている。官庁が多い首都なので、他の都市に比べて公務員の数が多く、生活は安定している。緑豊かな自然と町並みが調和し、庭園都市と呼ばれる。
  町の起源は古く、考古学上の発見ではBC8Cに遡り、フェニキア人の町が今の市街地の南東、シエラのあるあたりに存在したとされる。1C頃港がローマ人によって統治され、ローマ帝国の支配下領地の1つサラ・コロニアとなる。ラバトの名は、10〜11Cにイスラム教徒達が異教徒と戦うために建設した聖戦の砦リバートに由来。伝統と文化を誇るフェズや、内陸のオアシスとして栄えたマラケシュなど、栄華を極めた幾つかのモロッコの王都の中でも、ラバトはイスラム戦士達がスペインやポルトガル、また国内の異教徒に対して聖戦を挑んだ宗教的戦いの砦だった。
  その後ラバトはアルモハド朝のヤコブ・マンスールによってスペイン征服の軍事拠点地として発展し、1195には南スペインを征服。ラバトに首都を置き、アルモハド朝は栄華を頂点に極めた。と同時にラバトの町も発展。その後ヤコブ・マンスールの死と共にラバトの栄光と権力も衰え、フェズに都が移された。18C後半、短い間アラウィート朝の首都となり、再び1912にフランスの植民地の管理課部門の中心となった。町は大きく3つに分けられる。10C頃にできたサレのメディナ、12Cに造られたカスバ・ウダイヤを含むメディナ、20Cに入ってフランス保護領時代に誕生した新市街。ラバト駅からモハメッド5世通りの朝夕のラッシュは、日本と変わらない。

メディナ:城壁は17Cにアンダルース人が築いた。旧市街西側は、12Cにムワッヒド朝が築いたつの門を持つ城壁で閉ざされている。1番賑やかなのはスイカ通りで、市民生活に密着した商品も多い。

ハッド門:日曜日の市場の門。代書人の集合店舗になっている。色とりどりのスークに面し、ここから屋内の常設市場、中央食品市場に行く。

ムリサ門:1260にサレのメディナが造られた時、城壁と共に造られた。門を入って左はメラーと呼ばれるユダヤ人居住区。

メラー:1808にムーレイ・スリマーンが建設したユダヤ人居住区。かつては17のシナゴーグがあった。

グランド・モスク:19身廊、480の円柱と基柱に支えられる予定だった。屋根材はムワッヒド朝スルタン、エッサイードが船の建造に利用し、円柱や大量の部材は何世紀にも渡って略奪された。1755のリスボンの地震でモスクは完全に崩壊、現在は近年敷かれた舗石の上に基壇を残すのみ。3つの尖塔アーチ型壁龕は、かつての給水泉。

アブー・エル・ハッサン・マドラサ:マリーン朝14Cにアブー・エル・ハッサンによって建てられた。階段を上がると小部屋が幾つもあり、各部屋は独立した間取りになっている。

スーク・エル・ゲゼル:羊毛市場。16〜17C、キリスト教徒の捕虜を奴隷として売買した所。

スーク・エル・メルズーカ:宝石、貴金属。

スーク・エル・ケビール:衣類。

カスバ・ウダイヤ:ブー・レグレグ川の南岸を占める。城塞と穀物倉庫だった。1141頃、アブド・エル・ムーメンが軍の駐屯地として築いた城壁を利用して、17Cにムーレイ・ラシッドが築いたもの。手旗信号台跡、ウダイヤ庭園、美術館等。
 アラビア半島出身のウダイヤ族は13Cにモロッコに侵入。モロッコ中を荒らし回った後、ラバトに落ち着いた。アラウィー朝のムーレイ・イスマイルは、ラバト周辺を暴れ回っていたザエル族の侵入を防ぐため、ウダイヤ・アフブ族に防衛を委ねた。この地区の住民は熱心なイスラム教徒。イスラム教の厳しい戒律を守る生活をしようと、ヨーロッパからイスラム教に改宗した人達が移り住んでいる。

カスバ(城壁):12C、イスラム教徒が北アフリカからイベリア半島に攻め入り、キリスト教徒と戦いを繰り返していた時に、ムワヒッド朝のスルタン、アブドラ・ムーメンがイスラム教徒を守り、スペイン・アンダルシア征服を成功させるために造られた。17.18Cに手を加え堅固にした。石切造りの城壁は高さ8〜10m、厚さ2.5m。傾斜を持つ広場がその裾を取り巻いている。カスバの大半は18Cにアラウィート朝のスルタン、ムハンマド・ベン・アブドラーによって破壊された。

城砦:基盤はムワヒッド時代のものだが、その上に多くの人が住み着き、拠点とし、防備を重ねた。殊に17C初頭以来、ここはブー・ラカラーク共和国という1つの小国の首都だった。構成者は1609、イベリア半島を追われてきたアンダルシアのイスラム教徒を中心とする海賊の群れ。ブー・ラカラーク共和国は、海賊共和国だった。海賊船の主要対象は恨み重なるスペイン船とポルトガル船だった。国費はほとんど海賊行為から捻出された。共和国そのものは17C後半、アラウィー朝のバックアップする土侯吸収されたが、海賊行為はアラウィー朝統治下でも続けられた。海賊行為の対象はスペイン、ポルトガルだけではなく、フランス、イタリア、イギリス船にもおよび、海域も地中海や大西洋近海だけではなく、イギリス海峡付近にまで広がった。海賊行為が収まったのは、ムーレイ・アブドル・ラーマンの治世、西欧諸国との協定によって。最後の餌食は1829のオーストリア船だった。

ウダイヤ門(カスバ門):1191、ヤコブ・エル・モンスールの時代に造られたムワヒッド朝の壮大な建造物の1つ。外からの攻撃の防御が目的ではなく、儀式のためのもの。赤褐色の切り石で、2つの塔に挟まれたアーチと、木製の2枚の扉からなる。軍事的役割よりも装飾的役割を持っていた。クーファ体の文字と、モロッコでは珍しい動物文がファサードを飾る。石鹸室や法廷もあり、裁判好きだったモンスールの好みを反映している。

沿岸信号所跡:海に向けて大砲が置かれている。かつては沿岸を航行する船や、ラバトに入港する船への信号所だった。また、外敵の侵入を防がなければならない重要な場所だった。

ウダイヤ宮殿:ヤアクーブ・エルマンスールが法廷と謁見の場として使った。

ウダイヤ庭園:20C初めにフランス人によって、スペイン・アンダルシア風に整備された新しい庭園。アルハンブラ宮殿がモデル。日没近くになると人々が集まる憩いの場となっている。海に面したカスバ内の庭園で、このカスバは、ラバトの名の由来となったリバート(聖戦の砦)があった場所。17〜18Cに城壁が補修され、現在の姿になった。

ウダイヤ博物館・楽器博物館:17C、ムーレイ・イスマイルが建造した王宮の1つ。マドラサとしても使われていた。モロッコ各地のベルベル民族やアラブ民族の装飾品や伝統的衣装、ベルベル人の珍重した宝石を初め、各地の物産、コーランの古い手写本、ベルベル民家の内部の再建、楽器。
 第1室;伝統的なモロッコの室内。長椅子には金の錦とファエズ産の絹。
 第2室;フェズ陶器、ベルベル楽器、宝飾品、コーランコレクション、極彩色の写本。モスク;モロッコ全域の絨毯、リーフ地方からサハラ砂漠の衣装。

白い家の住宅街:15〜16C、キリスト教徒に追われてスペインから引き返してきたモロッコ人によって建てられたもの。

絨毯工房:かつての穀物倉庫。今は絨毯工房で、ここで織られた絨毯は展示販売されている。絨毯を作る行程も見学できる。

ジャマア・エルアティーカ:ラバトで1番古いモスク。1150アブド・エルムーミン治世下に建造された。

ダール・バラカ:幸運の門。伝説では、町が占領された時、飢えのために猫も食べなければならなかったが、この家の住人達は1匹の猫を救ってやった。その後猫は彼らに幸運を運んだという。

国立工芸博物館:かつては海軍の弾薬と船材の倉庫として使われていた。今は絨毯、宝飾品、刺繍、陶器などのモロッコの工芸品が展示されている。

ハッサン塔:善の意味。200本の円柱とミナレットを残すのみ。12Cにスペイン南部の征服に成功したスルタン、アブー・ヤコブ・マンスールによって1194に建設が始められた。彼は、イラクのサーマッラーモスクを凌ぐ「イスラム世界最大のモスク」を建立する予定だった。計画ではミナレットの高さは80m。5年後の1199に彼が死に王朝も衰退すると、未完のまま放置されることになった。
  モスクは縦180m、横140m、入り口が14あった。現在も350の石柱が残る。完成していれば世界有数のモスク。現在のハサン塔の高さは44m、一辺16.2m。塔上部は未完成で、完成すれば約2倍の高さ80mになった。エドゥワール・ドゥテは「未完ながらもイスラム世界第2のミナレットは、その壮大さ・揺るぎなさ・大柄でシンプルな組紐紋の美しさによって見る者を驚嘆させる」という。側面中ほどのデザインは全て違い、スペイン・セビリアのヒラルダの塔、マラケシュのクトゥビアの塔と共にムーア式建築の代表として高く評価されているが、装飾はハッサンの塔が繊細とされる。
  1956、モハメッド5世が独立を宣言、亡命先から帰国して初めての金曜集団礼拝をした所。礼拝堂は4万人を収容した。

モハメッド5世廟:フランスの保護領だったモロッコを1956.3.に独立させ、1961に亡くなった前国王モハメッド5世の墓。モロッコの独立に貢献したスルタンの名を長く後世に残すためのもの。1961から8年かけて、200人以上のモロッコ芸術職人によってハッサンの塔広場の一角に、現在はパリに在住のベトナムの建築家ボ・トアンの設計で建設された。
  高さ3.5mの基壇を巡らせ、屋根はピラミッド型で緑のタイルに覆われる。花崗岩を研ぎ出しているため、シマメノウの棺はトルコ石色の水に浮かぶように見える。12本の骨組みのドームは、彫刻したマホガニーと、フランスのサンゴバン社のステンドグラスでできている。天井は湿気を嫌う西洋杉を避け、マホガニー。シャンデリアは直径2.3m、重さ1.5トン。床はポルトガルサンの黒大理石。壁は繊細な石膏彫刻、典型的な色とデザインのモロッコのモザイク。このモザイクを作るのに2万個のタイルが必要。
(モハメッド5世)
モロッコの独立を成し遂げた王。44年間続いたフランスの保護領時代、政治の実権は総督府が握り、国王は名目上の王位に過ぎなかった。1930、20才で即位したモハメッド5世は、全国で起こっていた学生達の独立要求運動に共感を表明。フランス政府は1953、王を退位に追い込みマダガスカル島へ事実上追放した。ところが国民の独立要求の気運は更に高まり、デモが頻発、武装蜂起へと発展。フランス政府は2年後、王の復位を認め、翌1956年3月、モロッコは独立を達成した。そのわずか5年後に死去。今では聖者マラブーとして崇められている。
・ムハンマド5世の墓:白オニキスでできた墓石。
・ムーレイ・アブドラーの墓:1983.12.に亡くなった王子(現国王の弟)の墓。
・小さなモスク;前庭の反対側。女性用礼拝堂を持つ。
・博物館;モハメッド5世に捧げられた博物館。17C以降のアラウィー朝の歴史。

サラ遺跡(古代都市サラ・コロニア)
 1〜2Cにはサラという名の町として栄え、ローマ帝国に油、穀物、ワイン、羊毛などを輸出する港町だった。ブー・レグレグ川の岸に接していて、大西洋へと運び出された。ローマ時代の繁栄が去った後9Cに荒廃、10Cには廃虚となり、14Cにはマリーン朝によって共同墓地にされた。遺跡は段丘になっていて、泉、市場、フォルム(都市広場)、ローマ式円形共同浴場、ニンファエウム(娼婦街)(店舗の遺構)、油を絞った石臼の跡が見つかっている。トラヤヌス帝時代の98〜117にかけて建造された元老院跡も近く、坂を下った傍らにペリステュリウム(列柱廊)や凱旋門、小さな聖廟の遺構が残っている。ここで見つかったローマ時代の遺物は、ラバトの考古学博物館に納められている。

シエラマリーン朝共同墓地:12Cムワッヒド朝によって築かれ、18Cに修復されたラバトの南門バブ・ザエルを出た所。墓地は1755の大地震で破壊された。1339マリーン朝アブー・エル・ハッサンによって城壁が築かれ、墓地として使われた。モスクと修道院の2つの建物に分かれる。1931迄墓地として知られていたが、その後フランス人によってローマ遺跡が発見され、1960以降モロッコ政府の手で本格的な発掘が始まった。サラの古代遺跡の上に設けられている。当時非イスラム教徒はこの入り口の門を潜ることができなかった。モスクのミナレットの上には、こうのとりの巣。

アブー・ユースフ・ヤアクーブ・モスク:彼はシエラの共同墓地に埋葬された最初のスルタン。
 ・アブー・エルハサン廟;石と煉瓦を使った壁は、アブー・サイードによって1339に完成。
   鐘乳石造りのひさしがある。母親がアビシニア(現エチオピア)出身だったので、黒いスルタンと呼ばれた。
   母親もここに眠る。
 ・アブー・エルハサンの妻の廟;右。妻シャムス・エッドゥーハ(昇る朝日)の墓。
 ・アブー・エルハサンのの息子の廟;左。

ザーウィヤ(修道院):祈りを捧げる前に体を清めた水槽、周囲の小さな区切りは聖者達の部屋。モスクと同様にミヒラーブがあり、ここでも祈りを捧げることができた。

ザーウィヤ:廃虚。池を中心に小円柱を並べた回廊の基壇、その周囲に礼拝用の個室と預言者ムハンマドが使った祈祷室。ミナレットはアブー・エルハサンが造らせた物。

大砲の泉:ここの鰻は不妊症を治すという。スルタン、ムーレイ・ヤアクーブの守護神が、この場所に隠された財宝を今も見張っているという。

王宮:ダール・エル・マフゼン。現国王ハッサン2世とその家族が住む。シーディ・モハメッド・ベン・アブドラーが建設した王宮跡に、1864に造られた。大使の門を抜けると王宮の敷地。最高裁判所、国立大学、アフルファスモスク、旧奴隷地区を含む城壁内に2000人以上の人が住む。構内には競馬場や、黒人親衛隊兵舎もある。
 宗教省庁舎;右手。
 アルファス・モスク;左手。国王が祈りを捧げるためのモスク。
   金曜には礼拝に行く王の華やかなパレードが行われる。
 モハメッド5世大学;王宮正面。この国最大。
 王宮;右前方、クリーム色。ハッサン2世が住む王宮。1864。表玄関の左の入り口は当時のもの。

バブ・エル・ルアー:風の門。門とこの付近は12Cに造られた塁壁がほぼ完全な形で残っている。

エッスンナ・モスク:18C、シーディ・モハメッド・ベン・アブドッラーが建立。何度も修復されたが、ネオモレスコ様式を残す。リヨテ将軍お抱えの建築家が保存に尽力した。

考古学博物館:スンナモスクの東。モロッコ先史時代とローマ時代以前の遺跡(ボルビリス、バナサ)から出土した遺物、シエラ、ベリウネシュ、シジルマーサ各地域で発掘されたイスラム、プレイスラム時代の遺物。1917創設。
 1室;古代ブロンズ像、ユバ2世の胸像、キズタの冠を戴いた青年像、酒を注ぐ青年像、
   若きベルベル人の胸像、小カトーの胸像、ヴォリビリスの犬。
 2室;先史時代からローマ時代、初期キリスト教美術までのモロッコの歴史。
 2階;ローマ属州マウレタニア・ティンギタナ時代の主要遺跡から出土した遺物。
 中庭;古代遺跡から発掘されたアンフォラ、大理石像、陰刻を施した境界標と石碑。

聖ペトロ大聖堂:建築家ラフォルグの作品。1919〜21。1924モザイク「十字架の同行」、1929オルガン。ラバト教区の大司教座がある。


(ファティマの手)
 ファティマはムハマンドの娘。カスバの家々の戸口にはファティマの手と呼ばれる手形が付けられている。幸運を招く物と信じられていて、多くのイスラム教徒が戸口に付けて幸運を待っている。又ユダヤ教徒やキリスト教徒の家の戸口には十字の形をしたものが付けられていることもある。


(ラバト〜メクネスのコルク)
 ラバトを離れると、道の両側にコルクの林。林は13万6千haで、木の表皮を2年毎に剥ぎ取り、コルクの原料とするもの。コルクはラバトやメクネスで加工される。コルクがヨーロッパで本格的に利用され始めたのは、18Cに入ってワインが瓶詰めされるようになってから。コルクは夏の乾季に、樹齢20年以上で幹回りが60cm以上のコルク樫から剥ぎ取られる。コルクは断熱・防音に優れているので、建物の壁や床に使われる。



タンジール


  この町から海を渡っていくのが、アフリカからヨーロッパに1番近い海上ルート。スペインのアルヘシラスからフェリーで1時間半。ジブラルタル海峡を望む町。ヨーロッパからの観光客の多いリゾートで、年間約100万人が訪れる。町の高台からはスペインの山々が見えることもある。町は小高い丘の上のメディナと、フランス広場がある新市街に分けられる。マティスやラクロワなども芸術家や、作家のポール・ボウルズなどが愛した町としても知られる。

グランソッコ:正式名称は、ムハンマド5世の歴史に残る演説から「1947年4月9日広場」。巨大な常設市。

シーディ・ブー・アビート・モスク;1917、全面が多色彩釉タイル。

メンドゥーブの公邸;国際管理を巡り列強諸国との折衝にあたった、スルタンの代理人。現裁判所。うちわサボテン、竜血樹、17.18Cのヨーロッパ艦隊の青銅の大砲。

プティソッコ:ファフス門から入る。

ホテル・フェンテス;作曲家カミーユ・サン=サーンスが滞在した。

グランド・モスク;17C末、スルタン、ムーレイ・イスマイルがイギリス人を追放した祝勝記念に建設。

教会;スペイン人が19Cに建設。内陣にムリーリョ「無原罪の御宿り」の複製。

商店街;木彫、仕立屋がジュラバ(民族衣装)を縫う。

イギリス軍要塞跡;1661〜84にかけて造営された。敗軍のイギリス駐屯部隊が撤退する時に破壊した。

アメリカ公使館:アメリカ政府が初めて海外に獲得した建造物。モロッコの国際租界時代には、アメリカ領事館の名で呼ばれていたが、1923領事が全権公使となり公使館になった。44の部屋の1つにはスチュアート・シャーチ、ルクトゥー、ベン・アリ・ルバティの作品が常時展示されている。古地図の展示室もある。1776、合衆国独立を最初に承認したのがモロッコだった。

カスバ:旧王宮ダール・エル・マフゼン、考古学博物館(ダール・エッショルファ宮)、王宮前(ミシュワール)広場、ダール・エッシュラ宮。

フォーブス博物館:アメリカ人の百万長者マルコム・フォーブスの旧宅。彼は、1978から収集を始めた鉛の兵隊11万5千点を、死の直前1990ニタンジェ市に寄贈。世界史に残る戦闘シーンを再現している。1815ワーテルローの戦い、1916ソンムの戦い、1954ディエン・ビエン・フーの戦闘、1578三王の戦い。

ホテル・メンザ:スコットランド人ブート卿のためにフランス人建築家が建てた豪邸。1993創業。多くの映画やテレビの撮影が行われた。

タンジェの丘:ペリディカスの展望台。スパルテル岬。

ヘラクレスの洞穴:高潮の時、波に洗われて自然にできた石灰岩の洞窟。入り口はアフリカの左右逆の地図の形でもあり、人間の顔のようだとも言われる。壁には、アトラントロプス原人が火打ち石で刻んだ円形記号が残る。ここの石灰岩は石臼を作るために採掘された。
 ギリシア神話では、ヘラクレスは12の功業を遂げた後ここで休息したという。またこのゼウスの息子が山々を押し広げてジブラルタル海峡を造り、片側にタリク山、アフリカ側にムーサー山が生まれたという。

コッタの遺跡:BC3〜2Cのものと思われる古代ローマ時代の遺跡。寺院、共同浴場、農園、搾油所とガルム(魚醤)の製造所を示す大貯蔵糟跡。絞ったオリーブオイルを流すための溝を付けた石、漁民の陸標の2本の石柱。



ヴォリビリス


  モロッコに現存する最大の古代ローマ遺跡。マウレタニアのユバ2世の造った都市の1つで、ワリリと呼ばれていた。これはウラリリ(薔薇色の月桂樹)の意味。ローマ時代以前からマウレタニア王の首都だった可能性が高い。
  新石器時代にはすでに人が住み、その後カルタゴ人に支配された。1C、ローマ帝国はその勢力をバルカン半島のみならず、北アフリカに伸ばした。ローマ人がこの地にたどり着いた時には、既にベルベル民族がカルタゴの高度な文明を使って肥沃で水の便がいい土地を農耕していた。ローマ人の侵入にベルベル民族は激しく抵抗したが、47年にベルベル民族を抑圧。これを機にヴォリビリスの町は成長していく。ローマ帝国の支配下に入ると、すぐにマウレタニアの主要都市の1つになった。この時、ヴォリビリスを首都と定め、マウレタニア・ティンギタナの司政長官の住む町となった。執政官はここでモロッコ地方を統治。広さは約40haにのぼり、当時約1万5千人が住んでいた。
  2〜3Cには油・麦・野生動物の取引で繁栄。この頃に最も美しい建物が建てられた。3C後半に近郊に住むベルベル系諸族の圧迫が強くなり、激しい攻撃を受けて町を平和に保つことが困難になり、モロッコ南部にあるティンジスに都を移した。そして町は衰退。やがてバカートの子孫でキリスト教徒に改宗したベルベル系部族が8Cまで占領。アラビア人がイスラム教を普及するまで風俗、伝統を守り続けた。789イドーリス1世がこの町のイマーム(イスラムの導師)であると宣言、再びワリリと呼ぶことになる。その後フェズの建設で町はさびれた。このローマ遺跡はムーレイ・イドリースがこの地を統治している間も破壊されなかったが、1755の地震で完全に崩壊。
  フランスのモロッコ全権大使ティソがタンジールに向かう途中、この遺跡を発見。1915からフランス人による発掘作業を開始。全長2359mの城壁に、少なくとも40の稜堡、2C建造の8つの門がある。フォルム、バジリカ、デクマヌス・マクシムス通の豪奢なモザイク装飾の邸宅群、凱旋門、油精製所が残る。邸宅は全て、同じモデルに従って建設された。彫刻の破片や窓枠などを集めた野外美術館もあるが、重要なものはラバトの考古学博物館に展示されている。町の床や壁には、ローマ時代のモザイクが残り、当時の状態がほぼそのままに保存されている。

メインストリート(デクマヌス・マクシムス通):カラカラ帝の217、マルクス・アウレリウス・セバスティアヌスというローマ・ティンギタナ司政長官によって整備開通。タンジャ門からカラカラ帝の凱旋門まで。大邸宅群がひしめき合った。

カラカラ帝の凱旋門:217、カラカラ帝とその母ユリア・ドムナを讃えて司政長官マルクス・アウレリウス・セバスティアヌスが建てた。儀式的なもので、建物に深い意味はない。

デクマヌス・マクシムス:この敷地内に4人の貴人の家の跡。

ヘラクレスの功業の館:波型や縄文型の彫刻のあるファサードの列柱。バンケット・ルーム(大宴会場)のモザイクは、ヘラクレスの果たしたネメアの獅子や水蛇ヒュドラ退治、クレタの牡牛捕獲などの伝説、12の功業を抽象化したもの。部屋の3隅に石のベンチがあり、招待客が座って食事をしたと思われる。

ゴルディアヌスの宮殿跡:カラカラ帝とマクリヌス帝の時代に建てられ、ゴルディアヌス3政時代に修復された。ローマの司政長官が住んでいた。

バッカス館:リビングの「四季のモザイク」には、四季折々の行事が表現される。

ウエヌス(美神)の行列の館:中庭を挟んだ8つの部屋、7つの廊下。床のモザイクに因んで、部屋ごとに「ウエヌスの航海」「ディオニュソスと四季の女神達」「ディアナ(月神)の驚き」などの名前が付けられている。ローマ統治以前のマウレタニア王ユバ2政の物と考えられる頭部石像が出土。

ギリシア青年の館:1932、キヅタの冠をかぶったギリシア青年と思われる小像が発見された。現在はラバト博物館。トリクリニウム(ローマ時代に食事に使われた3人用の寝椅子)の床には、バッカスを主題としたモザイク。モザイク中央のメダイオンには、海洋動物にまたがる海の精ネレイス達。

カピトール神殿(議事堂):手前の低くて小さな建物。以前からあった神殿を217、マクリヌス帝に捧げて修復再建したもの。

フォーラム(集会所・裁判所):議事堂の隣。3C、アレクサンドル・セウェルス帝の時代に手が加えられた。ローマ時代以前に神殿があった。裁判所と中央市場があった。

バジリカ(礼拝堂・公会堂):フォーラムの前。一般の会議や政治スピーチが行われた。

ガリエヌス帝の浴場:父のウァレリアヌス帝と共同統治した皇帝。風呂はローマ人にとってとても大切な場所で、リラックス、社交、ビジネス、情報交換の場所だった。

オルフェウスの館:複合建築物跡。裕福な商売人のものだったと考えられている。入り口には暖房設備に使われた炉の跡。モザイクの材料は大理石、素焼きの陶片、ガラス片。オルフェウスは七絃琴の発明者で音楽の神。ギリシア神話の美しい妻エウリュディケーを捜しに行った詩人。モザイクにはオルフェウスの物語、日常生活が描かれる。別の部屋にはイルカのモザイク。イルカはローマ人にとって幸運を呼ぶ動物だった。浴室は温水、冷水、蒸気に分かれている。

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