シリア
ダマスカス マアルーラ シリア砂漠 ボスラ パルミラ
アレッポ ラッカ マリ ドゥラ・エウロポス
クラーク・デ・シバリエ タルトゥース ラタキア ウガリット
東地中海の緯度35〜37度に位置する。国中に遺跡が残り、発掘調査は当分終わらない。西は地中海・レバノン、東はシリア砂漠・イラク、北にトルコ、南にイスラエルとヨルダン。地中海沿岸部は190kmの海岸線を占める。ダマスカス、アレッポ、ホムス等の主要都市は南部と中央部の高原地帯に集中していて、オロンテス川などの水資源によって肥沃な土地になっている。南東部にはシリア砂漠が広がる。
シリア、ヨルダン、レバノン、イスラエル地域はシリア地方と呼ばれ、ヨーロッパ、メソポタミア、エジプトに接し、文明の十字路として古代から多くの民族が通過し、支配者も度々入れ替わった。そのため、各時代の歴史的な見所がたくさんある。シリア人口の大半がアラブ人だが、もとはセム系のアラム人がここに住んでいた。人種的には複雑で、アラブ人の他にはクルド人、ドルーズ人や東方教会のキリスト教徒もいる。
旧約聖書はユダヤ民族の歴史を中心に書き綴られた書物で、祖アブラハム一族は現在のシリア・イラクのユーフラテス沿岸地域から、トルコ領にかけてのメソポタミア地方に興った人達。シリアは旧約聖書時代アラムと呼ばれていたが、後にギリシャ人によって「アッシリア帝国の領土だった地域」というの意味の「シリア」と呼ばれるようになった。新バビロニア王国の滅亡までセム語族の先陣は、シュメール人、アモル人と呼ばれていた人達で、ユーフラテス上流のマリを都としたが、BC2500頃からシリア各地にも広がった。
BC16Cにはエジプトの勢力がシリアに伸び、BC14Cには小アジアからヒッタイト人が侵入し、BC13にはエジプトとヒッタイトでシリアを分割するという事態も起きた。BC11〜10Cにかけてセム語族のアラブ人とヘブライ人が東方からシリアに入り、アラム人はダマスカスに、ヘブライ人はエルサレムに幾つかの王国を造った。後にギリシャ語文献をアラビア語に翻訳する仲介となったシリア語は、アラム語のこと。
旧約聖書の時代を含めた古代のオリエントには、アッシリアとエジプトの2大強国が北と南に対峙し、この2国に挟まれて多くの小国が、何千年もの間、興亡の歴史を繰り広げていた。やがてアレキサンダー大王(BC356〜323)の出現によって、ギリシャ・ローマ時代には、この広いオリエントの地域は1つの帝国の下に統一され、ヘレニズム文化が各地に浸透した。この時、アラム語に代わってギリシャ語が世界の共通語となった。アレキサンダー大王がペルシャ抵抗を滅ぼし、BC323に急死した後、武将の1人セレウコス1世がシリアを含むオリエント一帯を支配するようになったが、BC64、新興ローマに征服された。
新約聖書の時代に入ると、シリアはキリスト教と深い関わりを持つようになる。キリスト教というと現在ではローマ・カトリック、ギリシャ正教、プロテスタントが代表的だが、初期キリスト教にはローマ、コンスタンチノープル、アンテオケ、エルサレム、アレクサンドリアの5つの本山があった。ローマの教会がヨーロッパに残り、カトリックとそこから生まれたプロテスタントのキリスト教が全世界に広まった。コンスタンチノープルの教会は、ビザンチン帝国に渡り、ギリシャ正教になった。残りのアンテオケ、エルサレム、アレクサンドリアの各キリスト教会は、オリエント地域を中心に広まったが、7Cに興ったイスラム教のために滅んでしまい、現在は僅かにシリア教会とコプト教会(エルサレム教会から分かれてエジプトに広まった)の一部が残っているに過ぎない。中国の景教は、シリア教会のキリスト教がシルクロードを経由して東方に伝わり、中国に行って生まれたもの。そのシリアには、使徒パウロの回心の地もある。
636以後ウマイヤ朝の都がダマスカスに置かれると、多くのアラブ人がここに定住しアラブ・イスラム化が進んだ。世界でも有数の古い文化を誇る国だが、政治的には共和国として独立するまでに、幾多の多民族による支配と侵略の歴史を経験してきた。ローマが後退しビザンチンの支配を経て、7Cにはダマスカスを首都としたウマイヤ朝、次いでアッバース朝によってアラブ化、イスラム化が進行する。12C末にはシリアに聖地奪回を目指す十字軍が侵攻してくるが、サラディーンによって撃退され、13C中頃までアイユーブ朝は空前の繁栄を見た。次のマムルーク朝時代に次第に力を失い、1516にはオスマン・トルコの支配下に入った。
19C後半に入ると、アラブ・ナショナリズムが盛んになり、シリアはその中心になった。WW1中、イギリス軍とメッカのファイサル軍によってトルコ支配から解放され(アラブの反乱)、アラブの反乱軍はダマスカスに入城してシリア王国の建国を目指したが結局は独立できず、国際連盟の委任統治領としてフランスの支配下に置かれた。結局、歴史的呼称としてのシリアは、外国からの干渉とイスラエル建国とそれに伴う戦争などの結果、分断され、ヨルダン、レバノン、イスラエル、シリアアラブ共和国としてそれぞれに独立。
WW2中は枢軸軍(日本・ドイツ・イタリア)の基地となり、戦後1946、フランスから独立。独立前後から台頭した革新的な政党のうち、バース党とアラブ社会党とが有力となり、1947に両者が結合してアラブ復興社会主義党が設立された。国内政治と国外政治は密着に関係することが多いが、シリアでも1948のパレスチナ戦争、1956のスエズ戦争、1967の第3次中東戦争はそれぞれ国内の政治勢力に影響を及ぼした。特にスエズ戦争によってバース党と軍部はエジプトとの合併を決意し、アラブ連合共和国を作った。軍事・政治・経済面でエジプト勢力が支配的になるにつれて不満が高まり3年後の1961、ナセル大統領に反対する軍部がクーデターを起こし、アラブ連合から離れて再びシリア共和国に復帰した。
保守・革新勢力の対立も激化し、1963、軍部のクーデターの後、アラブの統一と社会主義を掲げたバース党が政党を取り、以後支配勢力となった。その後党内で穏健派と過激派の対立が生じ、1966過激派がクーデターを起こして成功、外交においてもアラブ左翼勢力およびソ連に接近する政策を取った。1967の第3次中東戦争の前後にもバース党内の対立は続き、1968.9.イラク・バース党と決定的に対立するに至った。だが過激派の力は弱まり、民族主義的で経済社会開発やアラブ諸国との関係改善などを重視するアサド国防相などの新しい穏健派が勢力を伸ばした。
1970.11.16.にアサド政権が確立。以降アサド大統領が政治的実権を握った。1973の10月戦争(第4次中東戦争)でシリア・エジプト両国軍が勝利を収め、アラブ側が初めて軍事的にイスラエルを押さえつけたことから、アサド大統領は「ゴランの英雄」と賞賛された。大統領は少数派イスラム教アラウィ派出身で、バース党や軍の主要ポストは同派出身者が多い。
シリアは長年に渡る対イスラエル強行路線を取ってきた。また、大シリア主義のもとレバノン内戦に介入して、レバノンでのシリアの影響力が大きくなった。そのため国家予算の大半が軍事費に占められ、社会基盤の整備が遅れがち。課題は経済的発展。1973のユーフラテス川のタバカダムの完成を初め、農業基盤の整備と生産性の向上に努めている。アラブ諸国の中では非産油国の1つで、油田開発による外貨収入の増加に大きな期待を寄せている。
広義の意味のシリアは現在のシリア・ヨルダン・レバノン・イスラエルのあるパレスチナとを合わせた地域で、大シリアと呼ぶこともある。地中海沿岸地帯にフェニキア人が築いた町と、海岸に迫る山脈を越えた所に点在する隊商都市と、その両者を結ぶ山を横断する道路のネットワークによって形成された文明圏。長い歴史を通じてさまざまな民族の活動の舞台となった。同時にシルクロードの重要拠点として物資の交流や各時代の文化の担い手となり、他の民族や国家に大きな影響を与えてきた。多くの民族の混交は現在も名残をとどめ、それぞれの宗教や習慣を守っている。シリア経済の根幹は農業で、約40%の労働力が従事している。小麦、大麦、綿花、葡萄、ミルクなどが主要産物。一方、工業化も国策に従って、大規模に推し進められている。
教育
1970以前は教育を受けている人は10%以下だったが、現在は90%以上。大学へ行くにはヨルダン同様、テストを受け、その結果でどの大学へ行けるか、何を勉強できるかが決まる。240点満点で、200点が合格点。現在、教育を受けなかったお年よりのための学校もある。大学へ行けば、徴兵は1.5年でよく、行かなければ2.5年。これも高等教育かを進めるもの。義務教育は6歳から6年間の小学校だけで、学費は無料。小学校の制服は茶色、中学は緑。633制。40年前までは女性は台所にいて子供の世話しかできなかったが、今では働く女性も多く、男性より求人率もいい。結婚相手も自らの意志で選べる。
産業
シリアにはもともとは農家が多かったが、近代化が進むにつれて都会に行く人が増え、農業人口が減りつつあった。そこへアサド大統領が農業従事者にとって有利な法を作り、また農業国に戻った。スパイス(エジプト)紅茶(インド)、コーヒー(ブラジル)は輸入に頼っていたが、最近スパイス、バナナ、なども作り始めた。10年ほど前からは、オリーブ・コットン・ひまわりなどを輸出できるようになった。工業ではステンレス、テレビ、トラクター、モーターなど。
日本との関係
シリア人は最近まであまり日本を知らなかった。日本人を見ても中国人だと思っていた。最近は急速に日本を認識し、高度に発展した工業国であること、工業技術が優れていること、国民全体として器用・勤勉・規律礼儀正しいといったイメージを持っている。1953.12.14.に国交を樹立。翌年6月ダマスカスに日本公使館を設置、シリア・エジプト時代の総領事館を経て1962.4.から大使館を置いた。
シリアは日本にとって重要な輸入相手国で、シリアからの輸入も増加している。経済協力では1973、ユーフラテス川沿いのメスケネ灌漑計画に対して88.6億円の円借款を供与したのを皮切りに1986、地中海沿岸のバニアス火力発電所建設、1991ジャンダール火力発電所建設、1992からは無償資金協力も開始し、シリア経済・社会開発に大きく貢献している。技術協力分野でも畜産・都市計画・工業開発・スポーツ振興などを中心に多数の専門家・青年海外協力隊員を派遣。
イスラム教
7C初めメッカの商人だったムハンマドに唯一神アラーの啓示が下り、イスラム教が誕生。教義の中心はムハマンドが受けた神の啓示をまとめたコーランと、信徒の行動を規定したシャーリア(イスラム法)。六信五行と呼ばれる正しい信仰の実践が義務となっている。世界3大宗教の1つで、世界に約10億人の信徒を持つ。イスラム教は大きくスンニ派とシーア派に分かれる。シーア派は「アリーを支持する党派」の略称で、第4代カリフのアリーを初代イマーム(最高指導者)とし、イマームはリーの血統でなくてはならないとする。スンニ派はシーア派以外の全てのイスラム教徒を指し、イスラム教徒の9割を占め、スンナ(慣行、範例)に従う人々の意味。
モスク
イスラム教の礼拝所で、サウジアラビアのメディナに建てられたムハマンドの礼拝所を兼ねた住居が基本モデルとなって発展した。アーケードで囲まれた中庭と礼拝堂からなる。8C以来、モスクには少なくても1本のミナレット(礼拝を呼びかける尖塔)が建てられるようになった。礼拝堂にはキブラ(メッカの方向)側にミフラーブ(壁龕)がある。イスラム教では、偶像を作ることは創造主である神への挑戦的行為だという解釈から、禁じられている。このため、人物像や鳥獣像までも排斥され、代わりにアラベスクと呼ばれる抽象化された装飾文様が発達し、幾何学紋、アラビア文字と共にモスクの壁面を飾る。
アラム人
セム系の半遊牧民。BC11C頃にはユーフラテス川からシリアにかけて、幾つもの王国を築き、らくだを使って東西交易に活躍した。中でもダマスカスのアラム人は、シリア地方の中心的勢力として繁栄した。彼らが使ったアラム語のアルファべットは後に東方に広まり、中央アジアなどの当方世界に伝えられた。
アレキサンダー大王
マケドニアの王。BC334、大軍を率いてペルシャ征服に乗り出し、ペルシャを破り、ギリシャからインド西部国境にまたがる大帝国を建てた。遠征当初シリア地方はペルシャの支配下にあり、フェニキア諸都市を基地としたペルシャ海軍が背後からアレキサンダー軍を悩ませていた。アレキサンダーはイッソスの戦いでペルシャ軍を破った後、シリアへ進出し、ダマスカス、フェニキア諸都市を初めとするシリア地方を支配下に置いた。
政治的社会背景
シリアは大統領制を敷いている。大統領は一般投票で直接選ばれ、行政権を持ち、政府官僚を任命する。現大統領アサド派、バース党に所属している。これはシリアの政治思想家のミシェル・アフラクが創設した。エジプト・シリアの合邦時には「経済的統合より、政治的東郷を」と提唱し、アラブの独自性を前面に強く押し出した。この合邦が解消された後、1963にバース革命が起こり、アサドは中心人物の1人として活躍した。所が党内には数多くの派閥ができ、アサドはミシェル・アフラクを追放。その後アフラクがイラクで、バース党創設者として歓迎されたため、シリアとイラクは不仲になった。
アサド政権は、イラク関係だけでなく内外に大きな問題を抱えている。1つはユーフラテスダム。下流のイラクが水利剣を主張し、いざこざが絶えない。これが原因と思われるテロも多く発生した。もう1つはパイプライン。イラク石油会社のパイプラインはシリア砂漠を横断して、シリア西海岸に抜けるものと、レバノンに延びるものがあるが、このー通過料金でもめている。シリアが注文をつけるので、イラクはトルコ経由で地中海につなぐパイプラインを建設したが、これが余計にシリアとの関係を悪化させた。
オスマン帝国
小アジアを中心にトルコ族が建てたいスラム国家・オスマン・トルコ。1453、コンスタンチノープルを攻略して、ビザンチン帝国を滅ぼし、イスタンブールと名前を変えて首都とした。セリム1世の時代1516に、シリアを征服して支配下に置き、WW1で敗戦するまで、400年間シリア地方を支配した。帝国自体もWW1後のトルコ革命で滅び、トルコ共和国が成立した。
セレウコス朝
アレキサンダーの死後、その武将だったセレウコス1世によってシリアを中心に建国された王国。小アジアからメソポタミアを支配下に置いた。領内にはアンティオキア、セレウキア等の諸都市が造られ、そこでヘレニズム文化が生まれた。セレウコス朝は、エジプトなどの周辺諸国との争いで弱体化した。アンティオコス3世の時代に東方に勢力を伸ばし、一時その勢力を盛り返したが、BC1C、ローマに征服されその属州となった。
ヘレニズム時代
歴史的にはアレキサンダー大王の時代よりも、BC30のローマによるエジプト征服までの時代を指す。アレキサンダー大王の東方征服の結果、ギリシャ文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化が生まれ、地中海世界の人々に広く受け入れられた。この時代シリア地方は、アンティオキアを首都としたセレウコス朝が成立し、活発な通商活動に支えられ、都市文化が栄えた。
ビザンチン帝国
ローマの東西分裂後、コンスタンチノープルを首都にローマ帝国の東半分を支配した国。東ローマ帝国ともいう。ローマの支配下にあったシリアやエジプトの統治はビザンチン帝国に引き継がれたが、7Cにイスラム教を広めたアラブ軍の侵入を受け、シリアとエジプトを失った。ビザンチン帝国はその後も続いたが、1453にオスマン帝国にコンスタンチノープルを攻略されて滅んだ。
十字軍
セルジュク・トルコによってエルサレムが占領され、キリスト教徒の聖地巡礼が迫害された。これをきっかけに、教皇ウルバヌス2世によって、1096に聖地奪回を目的として第1回十字軍が送られ、以後200年以上に渡って何度も十字軍が繰り返しシリア地方などに侵入した。十字軍はエルサレムやシリアの海岸部地方から小アジアにかけての地帯を支配下におさめ、ダマスカスなどのシリアの内陸部都市を攻撃したこともあったが、イスラム側の反撃で、海岸部に後退した。1187、サラディーンに率いられたイスラム軍はエルサレムを奪回、次第にキリスト教側を地中海の狭い地域に封じ込め、1291には十字軍勢力は姿を消した。
ダマスカス
シリア共和国の首都で、古代から現代まで人が住み続けている町としては、世界最古の町の1つ。BC5000頃の住居跡が、町の郊外から発見されている。ダマスカスは古くはダマスコと呼ばれていた。ダマスコは、メソポタミアと地中海を結ぶ通商路と、南北に走る砂漠の大通りが交差する地点にあり、軍事・商業・宗教上大きな役割を果たしてきた。
ダマスカスの名が歴史上に初めて登場するのは、BC2500のマリ出土の粘土板にディマシュカと記述されたところによる。BC2000年頃、この地方にアラム王国が力を蓄えつつあったが、BC1200頃ヒッタイト王国の滅亡によりアラム人がダナスコを支配するようになった。しかし、オアシスの町ダマスカスはよほど魅力的だったらしく、多くの征服者を引きつけた。BC732アッシリアのティグラート・ピレセル3世が占領してから、新バビロニア、ペルシャ、アレキサンダー王、ナバテア王国などが、次々とこの町を征服した。BC64、ローマのポンペイウスがこれらに代わった。
BC40頃から、いち早くキリスト教が伝わった。BC1Cにはパウロがキリスト教徒を迫害するためにやって来たが、突然天からの光に撃たれて改心し、キリスト教をヨーロッパに伝える使徒になった。106には、トラヤヌス帝によってペトラが占領されてからは、完全にローマの支配下に入り、ダマスコはシリア領に編入された。そして東西貿易の中継都市として栄え、また香料の産地としても有名になった。
4C、ローマがキリスト教を国教にし、ジュピター神殿は聖ヨハネ大聖堂に変わった。イエスの死後、初代教会の使徒達によって各地に広まったキリスト教は、間もなくそこに住むユダヤ教徒や異教徒達から迫害を受けるようになる。その難から逃れるためにキリスト教徒達は、下もと宗教に寛容だったシリアに移り住むようになった。その意味でシリアはキリスト教誕生の地ではないが、揺籃の地。
635、イスラム教のウマイヤ王朝が興り、ダマスカスはウマイヤ朝の首都になった。750、ウマイヤ朝の後に興ったアッバース朝は、都をマダガスカルからバグダットに移し、ダマスカスの大部分を破壊。1009エルサレムが十字軍の手に落ちた時、多くの難民がダマスカスに流入した。アラブの英雄サラディーンが十字軍に勝ち、ダマスカスは再び政治・経済の中心となり、学者や詩人が集まり文化的にも繁栄した。セルジュク朝時代にはエジプト・シリア連合王国の首都となり、モンゴルの2度の侵入を退けたマムツーク朝時代に、黄金時代を迎えた。町の噂を聞いた商人達がはるかヨーロッパや中東方面からやってきては品物を山の様に仕入れた。
1516、オスマン=トルコがシリアを制圧し、ダマスカスはトルコ人の支配下に入ったが、自治は許された。トルコからの巡礼がメッカに向かう途中、砂漠横断を前に最後の装備を整える町だったので、オスマン朝にとってダマスカスは重要な場所だったが、政治・経済の上では重要な町ではなくなった。19Cのヨーロッパ帝国主義の時代、トルコ帝国も衰退を始める。WW1ではドイツ側で戦い、T.E.ロレンス(アラビアのロレンス)らが率いるアラブの反乱に対抗する本拠地となるが、敗退。WW1後、ダマスカスを首都としたアラブ政権が成立したが、ヨーロッパ列強の秘密分割協定で、1920からフランスの委任統治下に入る。1946、WW2後にフランスから独立、ダマスカスは晴れて独立シリアの首都となった。1971アサド政権が成立し現在に至る。現在のダマスカスは、人口150万を擁するシリア随一の都市。
アラビア語では、ダマスカスに行くことを「シャームへ行く」という。この時のシャームとは美の象徴の意味を持ち、旧約聖書に書かれているノアの次男ハムの国からきている。本来シャームはシリアだけではなく、レバノン・パレスチナ・ヨルダンを含む広大な地域を指す呼び名だったが、ダマスカスがこの地方の歴史的な中心地であることを表している。町はウマイヤド・モスクと巨大なスークに代表される旧市街と、省庁や大使館のある新市街に分けられる。
テキエ・モスク:1554、オスマン帝国で最も有名な建築家シナンが設計。オスマン様式。学術研究の中心でもあった。メッカへの巡礼がダマスカスを通過するときにその手助けをすることは、ダマスカス総督の大切な義務でそのために1554にモスクを建設した。礼拝堂、隊商宿、学校もあり巡礼の月には多くの人で賑わった。モスクを取り囲むアーケードは軍事博物館、隣接する回教学校は工芸品市場になっている。
軍事博物館:旧ソ連と共同開発された有人宇宙船、シリア軍隊の歴史、当時使用された武器や装甲車など。特にWW2と1967の第3次・1973年の第4次中東戦争に関する展示が多い。中庭には撃ち落とされたイスラエル軍用機がそのまま展示されている。写真撮影禁止。
ヒジャーズ駅:1913オスマン朝時代に、ダマスカスとメディナを結ぶ巡礼のための鉄道(バグダッド・メッカ鉄道)が敷かれた。TEロレンスによって爆破されて以来、まだ復活していない。トルコ様式とシリア様式の融合した伝統的な建物。現在は、貨車しか乗り入れていない。
ダマスカス国立博物館:1919設立。シリア全土から集められた石像、列柱など。世界最古と言われるウガリットのアルファベットの原形である楔文字の彫られた粘土板、イスラム建築の展示、金の象眼を施したラピス・ラズリの鷲の像、ユーフラテス川沿岸のマリから出土した土器・アクセサリー等が見もの。
カスル・アルヘイルの要塞門:1952、パルミラ近くの砂漠のオアシスの、ウマイヤ朝時代688の宮殿カル・アラヘイルの門を持ってきた。ペルシャ、ビザンチン、シリアの折衷様式。
ダマスカス・ホール:ダマスカスの18Cの宮殿の部屋を移築したもの。
ウガリット出土の部屋:アルファベットの原型と言われる楔形文字を刻んだ粘土板。
象牙の大きな浮き彫り、ヒッタイトの印章、金箔で覆われた王の肖像など。
(ウガリット文化) BC2000頃に繁栄した古代文化で、BC12C頃地中海の海賊に滅ぼされた。
マリ出土の部屋:アラバスターの王や婦人像、ラピス・ラズリの獅子鷲像など。BC1759迄続いた王朝のもの。この遺跡から発見された膨大な数の楔形文字の粘土板により、さまざまな古代史の考古学的謎が解かれた。
(マリ文化) ユーフラテス川の中流で1933に偶然発見された彫刻により、全貌が明らかになった。
西翼の他の部屋:イスラム分化を時代順に展示。
ドゥラ・エウロポスのシナゴーグ:1931ドゥラ・エウロポスで発見された、2Cのシナゴーグ。
アブラハムがイサクを捧げる絵、旧約聖書の人物が壁画に描かれている。
パルミラの墓:パルミラで発見されたヤルハイ家の地下墳墓を原寸大に復元。
その他:ボルサ出土のモザイクや彫像、墓碑などのギャラリー、パルミア・アパメアからの彫像など。
ダマスカス大学:1923創立の、シリアを代表する総合大学。
旧市街:中心はマルジェロ広場。
城塞:現在残っているのは1Cにローマ人が築いたものを基礎にしたもので、13〜14Cに十字軍とモンゴル軍の侵入に備えて、アラブ人が造ったもの。この城塞は3度に渡る十字軍の攻撃を跳ね返した。十字軍を打ち破った立て役者サラディーンの騎馬像。
サラディーン廟:十字軍の襲撃からダマスカスを守り、エルサレムを奪回したアラブの英雄の墓。1196。オリジナルの木製の棺の他にもう1つ、1898ここを訪れたドイツ皇帝ウィリアム2世が寄贈した石棺が並ぶ。ドイツ皇帝ウィリアム2世は、現在この墓を覆っているドームの修復費用も出したという。
スーク・アル・ハミディエ:元はローマ時代のユピテル(ジュピター)の神殿への参道。旧市街のメインストリートで、扱う商品は衣服、宝飾品、骨董など。スークを東に抜けた所にローマの門の廃虚。コリント式の柱は、かつての神殿の西門。
マドラサ・アル・アディリエ:1222、シリア北部の様式で蜂の巣構造のデザインになっている。サラディーンの弟の手によるもので、彼の墓がある。簡素で高貴な建物はアユビッド時代の建築の傑作と言われる。現在は、国立図書館のアラブ文献が置かれている。
アラブ碑文博物館:15Cのジャクマキヤ回教学校の建物を利用。
マドラサ・ザヒリエ:サラディーンの父アイユーブの邸宅だった場所に、1277十字軍を撃退したアラブの英雄バイバルスが埋葬され、メドレサが開かれた。内部にはバイバルスと息子の霊廟があり、金箔・大理石・モザイクで飾られる。現在は図書館になっている。
現存しないハダトの神殿(リンモン宮):聖ヨハネの教会の前。シリアの神ハダトの神殿があった。パウロの時代より数百年昔の預言者エリシャの時代、王の信任も厚い将軍ナアマンがいた。武勇の誉れが高かったが癩病だった。ある時イスラエルから連れてきた召し使いの少女が、サマリアにいる預言者の話をした。彼女は「その預言者はきっとご主人の癩病を治せる」と言った。ナアマンは王の許しを得てイスラエルに行き、エリシャを訪ねた。
入り口に立つナアマンに、エリシャは「ヨルダンに行って7回体を洗いなさい」と言った。そこでナアマンは、エリシャのいう通り7回ヨルダンに身を浸すと、その肉が元に戻って、幼子の肉のようにきれいになった。ナアマンは、イスラエルの他には真の神はいないと知ったが、王に仕える身だった。エリシャの所に戻り、「リンモン宮に入った時、身をかがめることだけは許してほしい」とエリシャに頼んだ。
アゼム宮殿(民族博物館):1749〜52、オスマン朝ダマスカスの統治者だったアサド・バシャ・エル・アゼムの宮殿で、以後アゼム家が代々使った。トルコ様式建築。現在は民族博物館。プライベートな部屋が集まる「ハラムリク」、来客用の「セラムリク」、台所や貯蔵庫のある「北庭園」に分かれる。18C、オスマン・トルコのものが中心。
見どころは18〜19Cの工芸品・装飾品・アラブの調度品・寄せ木細工の楽器、アラビア語がびっしり書かれた豆。彩色された木製の飾りと、天井に幾何学模様の彫刻がある絵画室・図書室。アラブの寺小屋には、メッカへの巡礼の様子・当時の生活が再現されている。
ウマイヤド・モスク:715。完全な形で現存する世界最古のモスク。これ以降に建てられたモスクの見本となっている。世界で3番目の大きさ、華麗さではエルサレムの「黄金のモスク」に匹敵する。もとは、アラム人の神ハダテの神殿があった。4Cにはキリスト教会になり、洗礼者ヨハネに捧げられた。やがてイスラム教徒が入ってきた7C前半、半分だけイスラム教のモスクとして使用するようになった。この時点ではキリスト教徒とイスラム教徒は共存していた。
705、ウマイヤ朝がダマスカスを支配し、ワリード1世が空前絶後のモスクを建造したいという情熱にかられ、8年の歳月と1000人の石工を投入して、現在の規模と形にした。このモスクは19Cの火災で破壊され、その後修復された。
100×150mで、世界3番目の大きさ。イスラム教第4の聖地で、イスラム各国からの巡礼が絶えることがない。イランなどでは国を挙げての聖地ツアーを組んでいて、夏にはイラン、イラク、サウジアラビアなどからの巡礼がうねり歩く。 中庭;大理石が敷き詰められる。2階建ての柱廊を37本の支柱が支える。宝物庫はモスクに寄付された金銀財宝を火事や泥棒から守るために建てられた。8本の柱の高床式で、黄金のモザイクがある。
礼拝堂;7Cにウマイヤ朝の職人が造ったアラブ美術様式の壁画モザイクは森、果樹園、アカンサスの葉で覆われた町を表す。教会をモスクに改築したため、ビザンチン・ローマ様式の建築が残る。全長137mのバジリカ様式で、2列の円柱はコリント様式。モスクになって70年程は、キリスト教徒の礼拝も許されていた。
マシュハード・アル・フセイン:シーア派にとって重要な場所。
洗礼者ヨハネの墓:以前ここに、ローマ皇帝テオドシウス4世の建てた聖ヨハネ教会があり、ヨハネの首が葬られていると信じられていた。教会がモスクに改修された時、イスラム教でもヨハネは重要な聖人だったので、そのままここに祭られた。ヨハネが斬首されたという場所はヨルダンにあり、どうして首だけがここに葬られたのか、歴史的な事実は分からない。11Cに造られた木製の物だったが、1893の火災の後、現在のものが造られた。
・鷲のドーム:周囲にはアラーやムハマンドの名が書かれている。
・尖塔:基盤は9Cにはあったが、塔の先はそれぞれ別の時代に建て替えられた。
・西の塔;マドハード・アルガルビエ。マムルーク朝のスルタンカイトベイが1488に建立。エジプト式。
・イエスの塔;マドハード・イーサー。1759、オスマン様式。イスラムの伝承では、イエスは最後の審判の前に反キリスト勢力と戦うためにこの塔を使って天から下りてきたという。
・花嫁の塔;マドハード・アルース。1174、1度火災で崩れたがサラディーンが再建。商人の娘が尖塔の屋根に塗る鉛をカリフに提供したところ、彼女がカリフの花嫁になったという伝説から名が付いた。14Cにはモンゴル軍の来襲に備え見張り塔として使われた。
ハマム・ヌレディン:1154、サラディーンの叔父ヌレディンが建設した公衆浴場。ハマムはアラブ浴場のことで、熱い蒸気を浴びたり、マッサージを受けたりしながら男達が社交する場。ここはダマスカスで最古のハマムで、典型的なアラブのハマムのスタイルを維持している。現役のハマム。
ハーン・アサッド・パシャ:1752、石組みの8つのドームの建物が残る隊商宿。ハーンは隊商宿の意味。パシャは総督(太守)の意味で、アサッドはオスマン朝ダマスカスの統治者だったアサド・バシャ・エル・アゼム。ダマスカスは重要な貿易路にあり、商人・旅人・巡礼のための隊商宿があり、商品を貯蔵する倉庫も備えられていた。現在はオスマン朝時代のものが18残る。長方形の中庭を囲むものと、屋根付きドーム式と2種類ある。
まっすぐな道:聖書の時代から変わらずに存在する、東西約1500mの道。中央の西寄りにローマ記念門がある。当時は道幅が26mあったが、今は両側に建物が建って数メートルに狭まっている。ダマスカス郊外で天の光に撃たれたパウロが、アナニアに会いに行ったのがこの道。門の西がイスラム人地区、東がキリスト教徒地区。
ローマ門:ローマ時代のデクマヌス・マクシムス(まっすぐな道)と、今はないカルド・マクシムスが交わる十字路だった。
シャルキ門(旧城門):ダマスカスに残る最古の城門。カラカラ帝時代(3C前後)に建設された。
ハーン・アル・ザイト:まっすぐな道の西側の隊商宿の中でも、最も美しいもの。16C後半の建設で、一時的にオリーブオイルの貯蔵所だったこともある。
東門:7つあった城門の1つ。BC2C頃のものだが、部分的に修復されている。唯一、ローマ時代の門の原形を留めている。聖書でパウロが倒れた場所。当時ダマスコには、2本の列柱道路が平行して走っていた。1つがこの東門から王宮、劇場の前を通り現存しない西門に通じる「真っ直ぐの道」。もう1つは、この道の北にあったジュピター神殿とアゴラを結ぶ道。
パウロの門:東門の南西300m、ダマスカス空港から市内に入ると最初に見える建物。キーサンは、この門を再建した人の名。近くに、パウロの逃亡を手助けしたために殺された門番の墓(聖ジョージの墓)もある。
回心したパウロは数日間イエスの弟子達と一緒にいて、それからダマスカスの会堂でイエスの教えを説き始めた。パウロの言葉を聞いて多くの人は驚いた。「あれはエルサレムでキリストの名を唱える者達を苦しめた男ではないか。その上ここにやって来たのも、彼らを縛り上げて祭司長の所へ引っ張っていくためではなかったか」。パウロはイエスの教えを巡って、多くのユダヤ人と論争することになる。そして論争に勝てないと知ったユダヤ人達は、パウロを殺そうとした。パウロを殺そうと、1日中、町の門を見守っていたので、パウロの弟子達が夜の間にパウロを籠に乗せて、町の城壁伝いに吊り下ろした。パウロがそこから吊り下ろされたという家の窓が、パウロの門に残る。
聖パウロ教会:聖書の登場人物パウロ所縁の教会。コーカブの丘。1965建設だが、第3次中東戦争で荒れ果てたまま。エルサレムでキリスト教が宣教され始めた頃、熱心なユダヤ教徒で、しかも最も戒律に厳しいパリサィ派の1人だった、ローマの兵士サウル(パウロの回心前の名前)はキリスト教の迫害者だった。大祭司達の命令でダマスカスに向かっていた。それ以前にもサウロは、キリスト教徒の家に押し入っては信者達をひきずり出して、牢獄に渡し、教会を荒らし回っていた。ダマスカスに近づいた時、突然天からの光が彼の回りを照らした。パウロは地に倒れ、
「パウロ、パウロ、何故私を迫害するのか?」と呼びかける声を聞いた。
「あなたはどなたですか?」と訊くと、
「私はあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたの為すべき事が知らされる」
と答えがあった。
同行していた人達は、声は聞こえてもだれの姿も見えないので、物も言えずに立っていた。パウロは地面から起き上がって目を開けたが、視力を失い何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスカスに連れていった。パウロは3日間目が見えず、食べることも飲むこともできなかった。
キリストは弟子アナニアの夢の中に現れ、
「立って、真っ直ぐという名の路地へ行き、ユダの家でサウロというタルソ人を訪ねなさい。彼は今祈っている」
と、パウロを助けるように命じた。アナニアは反論した。
「私はその人がエルサレムで、あなたの聖なる者達に対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも主を求める人全てを捕えるために、祭司長から権限を受けています」
パウロの回心を知らないアナニアは、何故キリスト教徒を迫害するために来たパウロを、わざわざ助けなければならないか不思議に思った。キリストは重ねて、
「パウロこそ自分が選んだ者だ」と言った。
そこでアナニアは出かけてユダの家に入り、パウロの上に手を置いて言った。
「イエスは私をお使わしになったのです」
すると目から何かが取れて、パウロは元通りに見えるようになった。
アラビアの荒れ野で3年を過ごした後、パウロはイエスがメシアであり、神の子であることを話し伝え始めた。そのためにユダヤ人から憎まれ、命を狙われた彼は、あやうく陰謀を逃れ、エルサレムに向かう。パウロの過去を知るキリスト教徒は彼を疑ったが、ギリシャ語を話すユダヤ人バルナバが彼を受け入れた。やがてその布教の功績によってパウロは12人の使徒に続く使徒として認められた。
聖アナニア地下教会:聖パウロ改宗にまつわる話に登場する。地下に洞窟のような礼拝堂があり、キリスト教徒を迫害するため来たパウロが、光に撃たれて倒れる絵が飾られている。また、額に入った30枚の絵が物語を表している。世界各地からシリアに来たクリスチャンが、必ず訪れる大切な場所の1つ。アナニアス礼拝堂には、ユダヤ教とに狙われたパウロが隠れた洞窟がある。
科学と薬学博物館:ヌレディンが1154に建設したマリスタン(病院)の建物で、1978から博物館。病院時代は19Cに近代病院ができるまで、主要な治療所として重要な役割を果たしてきた。病院の名はアラブ世界に鳴り響いていたという。
中庭のイーワーン(庭に向かって開けた広間)は、治療や教習にも使われた。
南側のイーワーンは祈りの場で、ミフラーブがある。
博物館には、一時的に世界の先端を走ったイスラム科学に関する展示、治療に使われた薬草、恐ろしい治療器具などを展示。
カシオン山:旧約聖書で、人類最初の殺人事件が起きた岩(山)とされている。斜面に公園が造られ、その上は住宅と軍事基地になっている。
マアルーラ
ダマスカスの北55km、標高1720mのアンチレバノン山脈の岩山の渓谷にある。夏は避暑地として都市の人達が長期滞在する。現在もイエスの時代(新約聖書の時代)の言葉、アラム語(BC6C頃のシリア地方の交易ルートに沿った諸国の共通語で、7Cにアラブ人に征服されるまで使われた)を、日常語として使っている。住民の大半がギリシャ・カトリック教徒。青い家が並ぶ。青は蚊や蠅を防ぐ。
聖テクラ教会(僧院):ギリシャ正教会。伝説の聖女タクラを記念して建てられた。パウロの教えを聞いて回心したタクラは、異教徒の父の迫害を逃れてこの地まで来たが、岩山に阻まれて前に進めなくなった。しかし、彼女が祈ると岩が裂けて道が開けたという。僧院はその岩山に寄り添うようにして建っている。洞窟にはタクラの墓がある。岩上から流れてくる水は奇跡の水で、健康にいいという。
セント・セルギウス修道院(マル・サルキス僧院):ギリシャ正教会。ビザンチン時代のもので、13Cのイコンがある。珍しいのは洗礼者ヨハネの絵。笑顔の上に足を組んでいる。普通イコンは真剣な表情をしていて、足を組んでリラックスしているようなものはない。1人の修道士がお土産を売っている。ハウスワインあり(SPのみ)。
シリア砂漠
砂漠には大きく分けて4種類ある。
岩石砂漠:小低木が岩の割れ目に生えていて、比較的植物も多い。シリア、ヨルダンの中西部に見られる。
レキ砂漠:小石が敷きつめられた様な砂漠。シリア、ヨルダンで1番多い砂漠。
砂砂漠:風で砂が移動する様な所。サハラ中心部等。植物は生えないが、砂が移動しない地域では植物の大きな群落もあり、シリア、ヨルダン東部に一部そのような地域がある。
含塩粘土砂漠:塩性の植物がまばらに見られる。パルミラ近くの塩沼湖跡の様に塩分濃度が濃いと、植物は見られない。シリア北部の典型的な土造りのビーハイムハウス(蜂の巣型)が点在。
ボスラ
ダマスカスの南、ヨルダン国境近くの火山性の丘陵地帯。BC332、アレキサンダー大王によって征服され、BC70にはナバティア王国の北の首都となった。BC63、デカポリスの1つとなる。南の都はぺトラ。ローマ時代には、エジプトからメソポタミアをつなぐ貿易路の重要な中継地点として栄えた。特にシリアのシャハバで生まれ、ローマ皇帝になったフィリップス・アラブスは、ボスラをローマ風の大都市にした。ビザンチン時代にキリスト教が盛んになり、大聖堂や教会が建てられた。この時代、イスラム教の開祖として立つ前のモハメッドが立ち寄り、ネストリア派の修道士バヒーラに、キリスト教について学んだという伝説がある。
7C以降衰退。1850頃、キリスト教徒との抗争でレバノンを逃れてきたドルーズ派の人達が住み始めた。町全体が黒ずんでみえるのは、この地方にはかつて火山が多く、豊富な黒色の玄武岩を使って神殿や住居を建設したため。
ローマ劇場(要塞):アラブが7Cにボスラに侵入した時、劇場の出入り口や窓が石壁で封鎖され、防御が重点の要塞に改築された。さらに十字軍に対抗するアイユーブ朝は12C、この劇場を頑丈な外壁で囲んだ。その後劇場は砂に埋もれ、破壊を免れ、完全に近い形で現存するに至った。1947から復元工事が始まった。
建造は2C。座席37列、収容人数6000人。日除けのために取り外しのできるテンとが張られていた。現在もさまざまなイベントに利用されている。音響効果の素晴らしさは、各国の著名な音楽家によって証明されている。毎年秋にフェスティバルが催される。城砦2階に博物館があり、ボスラの出土品を展示。
ローマ時代のメインストリート:東西900m。幅8m。高さ13mの円柱4本があるが、ニンファエウム(噴水式水飲み場)跡。ウマールモスクは720建造で、現存する最古のモスクの1つ。
パルミラ
ダマスカス北東約230km、シリア砂漠のほぼ中央のオアシスに広がる。北と西のアンティ=レバノン山脈から地下水が出、ムンタル山の洞穴から泉が豊富に湧き出るので、古代からオアシスの町として栄えた。また、この地方には幾つかのワディ(水無し川)が通り、雨の多い年にはそれが川になって数日間流れる。冬には地中海の風が雨雲を運び、春には地表一面に草が生える。パルミラは海抜400mにあるが、この地方の砂漠は海抜400〜1400mに渡り、北方山脈のビルアース高原が最も高い位置にある。東と南は果てしなく広がる砂漠に続く。しかしパルミラには50万本に及ぶオリーブ、ナツメヤシ、ザクロの緑の森がある。パルミラの名は、ギリシャ語の「バーム(ナツメヤシ)」に由来し、古くから知られたオアシス。
BC10C、エルサレムの神殿と自らの宮殿を建てたイスラエルのソロモン王が、ハマテ、ゾバを攻め、これを奪い、荒野にタデモルという町を建設した。このタデモルが、シリア砂漠の遺跡パルミラ。パルミラは、ヘレニズム以前はアラム語でタデモルと呼ばれていた。しかしこれより以前のアッシリアの碑文にはティグラート・ピレセル1世の時代(BC1115〜1077在位)に既に、この町の存在が記録されている。
新石器時代、パルミラの遺跡東南にある現在の塩田一帯は湖だった。BC1C末から3Cに至るパルミラの繁栄時代にはこの塩田が最大の広がりを見せた。地中海とユーフラテス川のほぼ中央に位置し、その地理的条件に恵まれたことから、イラクと内陸シリアとを結ぶ道の宿場だっただけでなく、遠く東のペルシャ湾やイランと、西の地中海を結ぶ道の最大の砂漠の隊商都市としてローマ時代に大いに栄えた。
BC331、アレキサンダー大王はペルシャ帝国を滅ぼし、その後しばらくしてセレウコス1世がアレキサンダーの後継者としてバビロニア、イラン高原、シリアを支配。アンティオキアと3姉妹都市(ラオディケア、アパメア、セレウキア)を建設。パルミアの繁栄は、BC3C以来のセレウコス王朝の東西貿易推進化政策に負うところが大きい。特にBC2Cに入ってからは、ローマの社会的発展によって東西交易は盛んになり、パルミラ、ダマスカス、ペトラ等がその中継点として急速に発展。これらのシリアの都市は、ローマ帝国にとって重要な意味を持っていた。
BC1C末から3Cまで、中国とヨーロッパを結んで活況を見せたシルクロードに沿う隊商都市として繁栄。東西の隊商路としてBC1C、メソポタミアと地中海を直線で結ぶ最短ルートが選ばれ、以来、世界最先端の文化を誇る一大隊商都市国家となった。この頃の町について「ペルシャ帝国からインドの産物などを運び込み、トーマ帝国でさばいて莫大な利益を得ていた」と記しているローマの歴史書がある。
BC64に独立し、パルミラと呼ばれるようになる。東西には中国とヨーロッパを結ぶ隊商路、南北にはアカバからペトラを経て北に延びる隊商路、この2つの大きな街道が交差する交通の拠点がパルミラだった。そのため古くから人が住み着いていたが、2000年前シルクロード西端の要衝としてとして発達。そして各国を結ぶ幹線が交差する文明の十字路となった。
トラヤヌス帝がナバテア人の町ペトラを106に征服してからは、パルミラがペトラに代わってこの地方の通商活動の中心となった。中国の絹、インド・アフリカの香料、宝石、象牙等がローマに向かい、ローマからは青銅、ガラス細工、ワイン、油、金等が送られてきた。溢れるほどの荷をラクダに積んだ各国の隊商は、必ずここを通過した。その通行税によって町は栄えた。しかもパルミラ人は自らも隊商を組んで各地に進出し、それを保護する強大な軍隊を作り上げた。国際貿易都市パルミラには、アラム人・アラブ人・ペルシャ人・ユダヤ人などが住み、各地からの商人も加わって人口は3万人に達し、町は民族の坩堝となった。
さらにパルミラの商人貴族達は厳密な設計に基づいて、石灰岩を用いた理想的な大都市を建設した。中央部の列柱道路の長さは1.2km,幅11m,両側には750本の石柱を並べた。今もなお立ち並ぶ石柱は、550本。シリアのローマ属州のどの町よりも大きな神殿を造り、神を称える碑文を石に刻んだ。パルミラにはさまざまな人種の住民が居住し、各地の隊商が行き来していたので、神殿も1つではなく、ベル神殿、バール・シャミン神殿、イシュタール神殿、アスタルテ神殿などが建てられた。小規模ながらも整った劇場、浴場、元老員議事堂などの公共施設のほか、幾つかの富裕な貴族の邸宅も発掘されている。それらの住宅は中庭に列柱回廊を巡らせ、内部を装飾し、宮殿のように豪華なものだった。
127頃、ここを訪れたローマ皇帝ハドリアヌス帝は、新しくアドリアノポリスと名を付け、ローマの自由都市とした。商人は基本的に強い勢力側につく。ローマ帝国が勢力を伸ばしてきた時も、あっさりと城門をローマ帝国に対して開いた。この頃からがパルミラの黄金時代。没落したペトラの繁栄を引き継ぐような形で、2〜3Cにかけて最盛期を迎えた。
226、東のペルシャにササン朝ペルシャが興ると、パルミラは通商路を守るためにローマからの独立を求めた。戦いは長く続き、260ローマは大敗したが、1人パルミラ王オデナトゥスはユーフラテス川の東までペルシャ軍を追った。その功績によって、大将軍の称号が与えられ、オデナトゥス王がエジプトと小アジアを除く東ローマ帝国の大部分を支配するに至ったが、最後には暗殺される。
その妻ゼノビアは、西アジアで最も美しく、野心的で、教養に溢れ、かつ強壮な女性で270、新しい通商路を求めてエジプトにまで兵を進め、ローマ帝国と領土を争うまでに力を持つ。幼い息子ワーバラトを王位に就け、父の称号である「諸王の王」「執政官」「ローマ人の将軍」「戦勝者」継承させた。自ら摂政の位に就いて実権を握った。貨幣を発行し、シリア、北アラビア、エジプト、アナトリア(トルコ)に進軍し、短期間ではあるが広大な領域を所有。しかし272、ローマ軍によって包囲された。ゼノビアは決して降伏せず、それどころかペルシャへ援軍を要請するために、包囲網を破って脱出。そして、ユーフラテス川を渡ろうとした時、追ってきたローマ兵に捕まってしまい、捕虜としてローマに送られた。ゼノビアにはアウグスタ(女王)、皇帝の母という称号が付けられたが、それはわずか4カ月という期間だった。
その後、ディオクレティアヌス帝によって兵舎が、ユスティニアヌス帝によって城壁が建てられたが、パルミラの繁栄は2度と戻らなかった。パルミラは、以後は交易都市ではなく戦略拠点として重要視された。ビザンチン時代には教会や要塞が建てられ、アラブ時代にも要塞が造られたが、オスマン朝以降は砂漠に埋まった。1964以降、シリア考古局の管理のもとで発掘と修復が続けられている。パルミラの墓を飾る彫刻は、パルティア時代の西アジア美術を代表する。学問的に位置づけると「ヘレニズム文化の西アジアにおける変容を探る貴重な資料」となる。
遺跡には、石灰岩で造られた円柱や建物が無数にある。「世界で最も美しい遺跡」と賞賛される。現代の人々の住む町はタデモルと呼ばれるが、これが元来の地名。パルミラ〜ナツメ椰子の町〜の名はBC1C頃ローマ人によって命名された。BC1800頃のトルコ出土の粘土板文書にタデモルの名を見つけたことを皮切りに、BC1000頃のアッシリア王の年代記、旧約聖書の「列王の書」、「歴代の書」等の記録にタデモルの名が見つかった。
オアシスを含め、「関税の柵」で囲まれ、その外に共同墓地があった。各地区が非常に西アジア的に独自性を示しているにも関わらず、ギリシャ=ローマ的な都市計画の考えがこの都市の発展に強く影響している。昔の住宅地区はまだ発掘されていないが、エフカの泉からベル神殿まで広がっていた。そしてその近くをアル・カナー・アル・フルワー(淡水の運河)と呼ばれる水路が通っていた。この都市は「墓場の谷」に始まる大きなワディの北方の不毛地帯にまで次第に広がった。
発掘のために移転された新しい都市には、碁盤目状に街路が走る。パルミラには3千haの緑地帯があり、オリーブとなつめやしが茂り、1977には2500トンのオリーブが輸出された。周囲の農園では穀物と綿花が栽培され、1977には3000トンの小麦・大麦、500トンの綿花を輸出した。工芸品では羊の絨毯と履物が有名。
パルミラ美術:BC1Cから1Cに至るパルミラ美術は、ローマ帝国支配下にあったにもかかわらずパルミラ固有の東方の影響が残り、人物の表情などは西アジア的。シリア、メソポタミア、西アジア全般の伝統に根差している。西方の影響を最も強く受けたのは、建築様式と都市計画。都市計画は、シリア諸都市で既に採用されていたギリシャ=ローマ方式に従って立案、拡張された。都市の中央を東西に横切る中心道路の両側に、ギリシャ式、特にコリント式の列柱が並び、その北と南に取引所、劇場、浴場などが建てられた。
パルミラ美術の独自性は特に彫刻に見られる。パルミラ周辺の丘陵から石灰岩が豊富に取れたおかげである。石膏や漆喰も装飾帯(フリーズ)、刳型装飾など細部の装飾に利用された。青銅製品は輸入された彫像に多く、その重量の半分に関税が課せられたが僅かな断片しか残っていない。多くのパルミラの彫刻、特に人物の薄浮彫と高浮彫の特徴は、殆どが正面から見た状態で描写されているところ。内面性の表現は乏しく、生き生きとした表情は少ない。これは西アジアに伝統的な静的美術で、同じヘレニズム時代でも隣接地域のアナトリアの動的美術とは異なる。
ベル神殿:BC1C初めの宗教的総和と言える建築物で、西アジアの当時の建築物としては最もよく保存され、最も重要な意味を持っている。パルミラ最大・最古の建築物。古代セム人の主神ベルに奉献されたローマ時代の神殿。古く青銅器時代中期(BC2200〜1550)に遡る痕跡が、地下6mで発見されている。本殿は32年に奉献されたが、柱廊や正門などを含めて周壁の建設は2C半ばまで続いた。東西210m、南北205mのほぼ正方形で、円柱は390本あった。
中庭の中央に神殿が南北の方向に建っている。神殿の西に幅10mの通路があり、その北には燔祭用の祭壇、南には清めの大洗盤があった。この神殿の北が至聖所で、パルミラの三大神ベル、太陽神ヤリヒボル、月神アグリボールの像が安置されていた。西アジア神殿の幾つかの特性が見られる。本殿は神を祀る場所で、昔は祭司だけが入ることができた。本殿とそれを囲む柱廊の屋根は別々で、それぞれの縁にヤザマを象った飾りが着いている。
神殿境内には1929まで住居が密集していたが、東南隅の1軒を除き、3年間で取り払われ、新しい村が北方に建設された。そして発掘と修復に考古学者アンリ=セリグと建築家ロベール=アミーの指揮するフランス調査隊があたったが、シリア独立後はシリア考古局が継続している。
(ベル)
ベルは、バールというセム語のバビロニア式発音で主人を意味し、ギリシャのゼウス、ローマのジュピターと同義で、固有の名はマルドゥク(ヘブライ名でベル)。太陽・朝日・春の日の神でバビロニアの神々の中で最高の地位を占めていた。ベルはシリア、カナンでは土地に肥沃を与える豊穣の神でもあり、カナンに住む農耕民の間では最も重要な神だった。バールの配偶神はアシタロテで、2神の性交渉によって、農作物の豊穣を生むとされた。春にはベルを祝う祭りが盛大に行われた。この信仰は単に神々の成功を祝うだけではなく、それを劇にして再現し奉納することが、行われた。バビロニアがメソポタミア地方を統一して以来、ベルは50の名称で表され、他の神の力と属性を全て持つ最高の神だった。
遊牧民だったイスラエルの民がカナンに定住し農耕民になっていくに従い、カナンの豊穣の神への信仰と礼拝は、イスラエルの祭儀の中にも取り入れられるようになった。各地にバール神殿が建てられた。多くの異国の女性を妻としたソロモン王は年老いたとき、その妻達のために、又シドンとツロの民を懐柔するために、エルサレムにアシタロテの神殿を造った。カナンにおけるユダヤ民族の歴史は、バールの神との民族の生命と存続をかけた戦いだった。古代、民俗の戦いはすなわち民族の神の戦いでもあった。正門:3つの出入り口があった。扉は金箔を張った青銅で覆われていた。8本の柱の立つ玄関だったが、1132〜3年に境内を城塞に変え、本殿をモスクに変えた時に周壁に変えられた。
犠牲祭壇:神に捧げられる動物(らくだ、牛や羊)は右の清浄槽で洗われ、左の祭壇で犠牲にされた。
基台:祭壇と坂道の間のブロック。儀式用の宴会場の名残。
中央神殿:入り口の柱の梁にはらくだの隊商の浮き彫り。梁は今は下に下ろされている。神像(安置所が2つある。両安置所の天井は1枚岩で、ビザンチン美術とアラー美術の前触れをなす幾何学模様が描かれている。
北の神像安置所;太陽神ヤルヒボル(右)、月神アグリボール(左)を従え、翼を広げた鷲の姿のベル神像が安置されていた。天井の1枚岩に、12星座とユピテルを中心にした惑星7神像の彫刻。天体の運行を司る宇宙神ベルを象徴する。
南の神像安置所;天井のバラ型彫刻は、ビザンチンとアラビア美術の前身。行列の際に運べるような三位神像が置かれていたと思われる。柱廊の天井を支えていた二本の梁(本殿の門に並べられている)。
第1の梁:神殿の列柱、肩に三日月を着けた神(アグリボール)、果物を供えた祭壇、果物と子山羊を供えた祭壇、2人の崇拝者。戦車に乗った神と、馬に乗った神が、胴体が人間で足が蛇の怪獣と戦うところ、6人の神が悪神マールの軍勢と戦うところ。細部の細やかさは西アジア的で、祭儀用にふさわしい性格を与えている。
第2の梁:アラブ固有の儀式、つまり、霊石を納めた覆いをらくだに乗せ、頭から布を被った女性が行列に随行し、その横で男性が手を挙げて礼拝している。神殿建立に関わる光景と思われる。
ナボ神殿:建設は1Cに始まり、パルミラで有力だったエラベール家が多額の寄付を出し、2C終わりに完成した。ナボは知恵と信託の神。メソポタミアの神で、ベル=マルドゥクの息子として、運命についての神々の決定を粘土板に刻む書記であり、ギリシャのアポロンと同じ神とされた。シリア、特にパルミラにおいて非常に人気があった。
シリア式神殿で、周壁で囲まれ、境内の中央に神殿がある。20×9mの本殿の壁と列柱の礎石が残る。境内には入り口近くに儀式用浄水槽や、背の高い大きな祭壇の跡があり、その型はバールベックの主神殿の前に立っている大きな祭壇と同じ。パルミアでは珍しいドーリア式柱頭の付いた柱廊がある。
ベールシャミン宮殿:17年着工、3C初めに完成。5Cに教会に造り替えられたため、本殿はよく保存されている。1954、スイスの調査隊が発見し、ギリシャ・ローマ時代に古代シリアの宗教が存続していたことが明らかになった。
バール・シャミンは「天の主」を意味し、セム神話に登場する天上の主、豊穣と雷雨のための雨の神。ギリシャ語でゼウス。BC950頃に地中海の都市ビブロスの王イェヒミルクは崇拝し、BC800頃にはハマの王ザキルが崇拝していた。ベルのように最高神だが、もっと人間に近い存在になっている。
中庭の列柱に、「セプティミウス=オダイナト、傑出した執政官」という彫像の献辞がある。ゼノビアの夫であるこの人物は当時はまだ王ではなかったが、彼に付けられた称号は、ローマ皇帝ワレリアヌスが彼に、西アジア全体に渡る権限を授けていたことを示す。
アラート神殿:2C。1959〜ポーランドの調査隊がディオクレティアヌス城塞を発掘、その際北隣のアラート神殿が発掘された。境内は横28m、縦46mで柱廊があり、正門に溝の付いた円柱が立っている。高さ3.5mのライオン像は、パルミラ博物館の入り口に置かれている。ライオンの足の間には大きなカモシカがうずくまっているが、碑文では「神殿に向かって血を流さないものを祝福するよう」と祈願されている。
アラートは、アラブの女神で、アテネやミネルバと同じ戦いの神。シリアのアタルガティス同様に豊穣の女神でもあった。
ベルハモン神殿:1965、フランスの調査隊によって発見された。ムンタル山の頂上を通るパルミラの古い周壁の党を用いた礼拝堂。周壁はエフカの泉の地下水源近くまで続く。ベルハモンはフェニキアの神で、運命を扱うアラビア女神で、コーランではマナワトと呼ばれる。
列柱道路:1.2km。ベル神殿からアラブ城砦まで東西につなぐ。舗装されていないのは、砂漠を横断するラクダの足を守るため。両脇には750本の柱が並んでいた。ベル神殿側に記念門。各円柱には功労者の彫像を乗せるための持ち送りがあり、その献辞は普通パルミラ語とギリシャ語で刻まれた。列柱の裾には、住宅や店舗に給水した水道管が残る。現在、考古局の技師達が80本以上の円柱を再建。
記念門:ローマ皇帝セプティミウス=セウェルスの時代(193〜211)の建設で、装飾の繊細さ、豪華さ、美しさはこの時代の最高の技術が、辺境のパルミラにも注ぎ込まれたことの証拠となっている。1930、フランスの建築家、ロベール=アミーが修復。中央の大門の両側に小門があり、それぞれの門の上に騎馬人物らしい彫像を乗せた台座がある。この時代の特色である精緻で豪華な装飾のうち特に、かしの房と葉が並ぶ装飾帯、真珠となつめやしの木が並ぶ窓枠装飾、アカンサス・ブドウ・テンナンショウの唐草模様を刻んだ柱が素晴らしい。
ディオクレティアヌスノ浴場:中央の浴場を取り囲む列柱の柱頭装飾や、冷水浴室を飾っていた大理石の彫像から、浴場そのものは、200年には完成していたと考えられている。エジプトの花崗岩の円柱が4本立つ。横85m、縦51m。冷水場、温浴室、更衣室、体操場などの設備があった。ローマ皇帝ディオクレティアヌスが都市計画の一貫として、整備。
碑文には「ソシアヌス=ヒエロクレスの援助を得て完成した」と記される。これはシリア=フェニキアの総督で、ディオクレティアヌス城塞の建設者でもある。
ローマ劇場:演奏席(オルケストラ)を、階段状観覧席が囲む。客席は13段残る。2C前半。舞台の幅48m、奥行き10.5m。当時西アジアの極めて重要な劇場だった。観覧席の正面には幅48m、奥行き10.5mの舞台があり、舞台正面は装飾用の円柱が並び、王宮の入り口を象っている。毎春、パルミラ・フェスティバルが行われ、歌や民族舞踊が披露される。
元老院会議場跡:北の部分は半円形道路と壁で仕切られ、アーチ門が立っていた。柱廊の奥の広間には馬蹄形に並んだ座席の跡があり、元老員の会議場と考えられている。それにしては粗末だとすれば、商人達の本拠とも考えられる。
アゴラ:広場の意味。2C前半、48×71m。柱などには200以上の地元名士の彫像。商品取引や会議、演説が行われた。舞台やベンチが設けられた宴会室の跡もある。
取引場跡:パルミラを通る商人はアゴラに隣接する取引所で関税を支払わなければならなかった。南の入り口で137年の都市を出入りする商品に対するパルミラの関税法を、パルミラ語とギリシャ語で刻んだ碑文石が見つかっている。
隊商のラクダをつなぐために、柱廊や舗装がないシンプルな造りになっている。取引場には11の入り口がある。ローマ都市の大衆討議と取引の場所だったフォーラムにあたるもので、演壇、宴会場、討議の広場などからなる。イオニア式の4つの柱廊が横84m、縦71mの四角い中庭を囲む。北の柱廊にはパルミラ人やローマ人の役人、西には軍人、南には商人と隊商人、東には元老員議員の彫像を掲げて賞賛していたが、飾られていた彫像は全て消失。それらの彫像に対する献辞を刻んだ碑文は現存している。
東の柱廊の中央入り口の上枠には、セプティミウス=セウェルス、その息子のカラカラ、妻のユリアの彫像の献辞が刻まれている。セウェルスらのシリア人が相次いでローマ皇帝になったことは、パルミラの急速な発展に大きな力となった。
賞賛円柱:取引場付属建物の入り口近く。74、パルミラで元老員と人民の集会が初めて開かれた記念。
四面門:赤みを帯びた花崗岩。エジプトのアスワンから運ばれてきた。4本の柱が4組になっていて、それぞれ4本の円柱の中には彫像が置かれていた。町の中心。1963までは基台だけだったが、フランスの建築家の詳細な研究のおかげで、シリア考古局が四面門を復元。
カエサレウム:バール・シャミン神殿の献辞にいう「皇帝を礼拝する所」。12Cにはモスクに使われた。
葬祭殿:3Cの神殿風墳墓で、シリア考古局によって復元された。6本の円柱と三角屋根の玄関、これに続く四角の建物の隅の柱は葡萄の唐草模様で飾られる。内部は左右に納体室を積み重ねた梁間があり、奥には石棺がある。
ディオクレティアヌス城砦:アウレリアヌス帝が273にパルミラを破壊した後、ローマ軍の軍事基地として建設された。城塞になる前はパルミラの王宮だった所で、ゼノビアもここから号令をかけていた。
当時のパルミラは軍事よりも商業上の要地だった。ところが298、ローマとペルシャの国境がパルミラの東北でユーフラテス川に合流するカブール川となり、パルミラ東部が無防備状態になった。そこでシリア境界を強化することになり、パルミラは、ダマスカスからスーラに至るディオクレティアヌス道路を中軸とする保塁群の中心になった。
本営:軍旗を祀る神殿があり、左右には軍団の仕事に使われた大きな部屋が並ぶ。
神殿入り口の梁:神殿建設に付いての碑文「世界の復興者、人類の保護者、無敵の皇帝である我々のディオクレティアヌス、非常に高貴な皇帝であるコンスタンティヌスとガレリウス=マクシミヌスは、この地方の傑出した統治者で、神と陛下に忠実なソシアヌス=ヒエロクレスから行き届いた援助を得てこの城塞を建築した」。
賞賛円柱:64にマージアン族によって建てられ、1975に再建された。円柱には日時計があり、アラート神殿を寄進したシャラマラートの肖像が残る。
エフカの泉:1年中33度を保ち、塩素・マグネシウムを含む放射性イオウ鉱泉で泳ぐこともできる。水源に続く洞穴の入り口は温泉浴場で、皮膚病、貧血、腰痛、肝臓病に効能があると言われる。ムンタル山から350m続く地下孔子道に水源がある。水路は砂漠の地下に広がる。水源は古代から大切な物とされ、神が祀られた祭碑が発見されている。エフカはアラビア語で「水の源」。現在でも水を湧き出し続け、オアシスの大部分を灌漑している。パルミラにとっては重要な水で、オアシス全体がこの水に依存している。
カナートの泉:ディオクレティアヌス城塞の近くに湧き出て、地下水路を通り記念門近くまで流れ、オアシスの一部を灌漑している。住民の大部分は1963までは飲料水にしていた。イオウ質で最高温度は25度。
ファクル・エド・ディーン城塞(アラブ城砦):パルミラ西方、高さ150mの岩山の頂上。大きな堀に囲まれ、跳開橋で渡るようになっていた。17C初めのオスマン帝国の知事、マーン家のファクル・エド・ディーンによって造られ、彼の領地はレバノン山脈からシリア砂漠にまで広がっていた。当時パルミラの中心だった。一部は12Cのアイユーブ朝のもので、十字軍の攻撃に備えたものだった。町を守るための城塞ではなく、前進基地としての役割が大きい。しかし、地質調査から、当時よりもかなり以前の土器が発見されている。
民族博物館:人形に衣装を着せてこの地方の民族を再現。現在でも付近にテントを張って遊牧生活をしているベドウィンのさまざまな生活が再現されている。
パルミラ博物館: 1961開館。パルミラ語の碑文、ベル神殿の復元模型、隊商の安全を守ったラクダ兵や騎兵のリリーフ、モザイク、神の大理石像、漆喰や青銅の装飾品などを展示。ローマ時代の貴族階級は彫刻を刻んで死者を悼む伝統があったため、葬祭美術品も多く見つかっている。
ゼノビアの宮殿:正確にはパルミラがローマ軍に破壊された後、ローマ皇帝ディオクレティアヌスが宮殿跡を利用して築いたもの。
パルミラの歴史上最も有名で重要な人物、女王ゼノビアの宮殿。宮廷生活はペルシャ式の豪華なものだった。ゼノビアが活躍した3C頃は東にペルシャ、西にローマ帝国があり、お互いに対抗していた。パルミラはその中間地点で、ローマ帝国の傘下に入り政治的には安定していた。隊商都市としての税収入に加え、塩・水が豊富で羊も飼い、軍事力・経済力も強力だった。ローマからの独立を企て、東はユーフラテス川、西はナイル川までの土地を支配した時期もある。
270ゼノビアが女王となったのは、夫のオダイナト王が暗殺され、玉座は息子に与えたが政治の実権は彼女が握ったため。「女王」の名で摂政の位に就いた。ローマ帝国と領土を争うまでの力をつけるが、272ローマのアウレリアヌス帝は、ゼノビアがユーフラテス川を渡ろうとした所を捕え、エメサ(現在のホムス)でパルミラの大軍を破り、やがてパルミラの町は破壊される。クレオパトラの子孫と名乗り、美人だったらしい。
(塔墓)最も古い型の墓室で、一部はBC1Cに遡る。初期の塔墓は簡素で、納体室が塔の外に並んでいた。1C以来、外部と内部の体裁が整い始めた。塔墓全体の概観は方錐形であるが、下部は段が付いてやや広がり、内部は数階に分かれ、階段でつながっている。今のところ古代西アジアの都市にこれと同じものはなく、パルミラの自然、気候、住民や建築家の好み等が合致して生まれたパルミラ的な考えと言われている。
(地下墓室)BC1C以後に建てられている。既に50以上の地下墓室が発見されている。形式はほとんど似ていて、地下の入り口から中央道路があり、2つか4つの個室が付いている。内部の壁は切り石か漆喰で覆われ、その上に幾何学的または植物的模様、日常生活や神話の光景、死者の像などが名前を書いて描かれている。特に3人兄弟の墓、アルタバンの墓が美しい。
塔墓と違って発見されるまで人目につかず、保存状態は良好。最近でもパイプラインの敷設工事の時に発見されたりする。地下墳墓は、建造者が墓の主ではなく、有力者にそれを売り、かつその子孫が一部を転売するというように複数の家族が使用している。地下墳墓は昔から盗掘されやすく、彫像の頭は売りやすいのでよく持ち去られた。
(独の墓)単独の墓穴は縦20m、深さ共に0,5mあり、内部は切り石のブロックで覆われている。死者は時々、素焼きの土棺に納められた。墓の上には上部が半円形か三角形の石碑が置かれ、そこに死者の肖像が刻まれたり、埋葬用の布が浮彫にされたりした。そして死者の名前と「ハベール(ああ!)」という語が刻まれた。
パルミラの墓;共同墓地の埋葬品は、墓碑に「永遠の家」と刻まるように深い意味を持つ。個人墓地もあったが、有力家族は塔墓や葬祭殿など一族の墓を持っていた。普通、建立の説明が正面に記され、各死者の名は納体室の蓋になる胸像の背板、石棺の浮彫に刻まれる。
3人兄弟の地下墓室:2Cの地下墳墓。主通路と左右に翼廊があり、それに沿って墓室が仕切られていて、325室ある。ナマイーン、マレー、サエディーの3人がこの墓を造り、160、191、241に幾つかの部分を分譲し売却している。
壁画や彫刻の美しさで有名。中央道路の奥の壁画はシリア=ギリシャ式だが、濃い線で構図を際立たせ、また前方を見つめるような視線や全てを正面向きにするなどの特色には、西アジアの伝統が認められる。フレスコ画のモチーフは墓室への資金提供者達と、神々の像、ゼウスの鷲によって天に引き上げられるガニメデス、永遠の魂を得たトロイ戦争の英雄アキレウスなど。
(ギリシャ神話のアキレスの物語) アキレスは、トロイの戦いで死ぬと予言したデルフォイの信託を逃れるため、スキロスで隠れていたが、ユリシーズの武器を見ると夢中になって手を伸ばし、女装を引き裂いて戦い、ついに矢が左足の踵(アキレス)にあたって殺された。死は彼に再び自由を与え、不滅へと導いた。
墓(死者)の谷:遺跡の西側1kmに広がる谷。斜面に地下墳墓の入り口、塔墓が並んでいる。柱状の細長い煉瓦造りの建物が点々と並ぶ。主に身分の高い人の共同墓地。身分の低い人や外国人は地下墓地に埋められる。富裕貴族達が死後の世界でも一族の繁栄を願って建てた廟墓は、1C位までは塔屋形式が多く、地下1階・地上5階程度の建物の内部に遺体を1体ずつ納める納体室があった。部屋に死体が葬られると石灰岩の板で閉ざし、そこに死者の胸像が据えられた。
エラベール家の塔墓:BC103、4階建ての塔墓で、コリント式の柱と壁で仕切られた墓室に300遺体収容できる。ナボ神殿の建設に多額の寄進をした貴族のエラベールと3人兄弟(マーナイ、ショカイ、マリクー)が家族のために造った共同墓地。東の壁面には家族の胸像が残り、入り口上部にはエラベールの息子でこの墓の管理人でもあった人物の胸像がある。
シルクロードを渡って運ばれた中国・漢時代の極彩色の中国製絹織物が発見され、シルクロードの交易の貴重な証拠となっている。
アルタバンの地下墓室:商人貴族の墓で、300〜400体の合葬。地下墓200、塔墓100、家屋墓50の3つの形式を持つ。1957、石油管工事の時に20以上の地下墳墓と共に発見された。イラクの石油のパイプラインが墓道の上を横切る。1C後半、「アグリボールとマラクベールの良い奉仕者であり、ヤルハイの息子のマリクーの息子のザブドゥーン」と呼ばれたアルタバンによって造られた。
深さ5m、奥行き20m。全体が石灰岩の切り石造りで、中央通路の左右に2列ずつの側室があり、壁面全体にカイコ棚のように縦4段の納体室がある。はめ込まれているのは被葬者の肖像。
・地下の石の扉:幾何学模様で飾られ、環を持ったメドゥース神が描かれている。
・扉の後の井戸:飲むため、清めのため、死者に供えるため、埋葬室の前の小鉢に入れるために使われた。
・家族饗宴図:幅2m、高さ1m。ローマ風の服を着、横になって葡萄酒を持つのが家長アルタバン。長男は月桂樹の葉を編んだ輪、長女はザクロかイチジクを盛った皿を、次男は右手に葡萄を持つ。この食べ物は、死者と生者の世界との関係を保ち、永遠の旅路で彼らを力づけるとされている。
・正面奥壁:アルタバン一家の彫像が置かれている。
高い円柱:功労者の肖像を掲げて顕彰文を刻んだもの。顕彰柱の中には、修復されずに横たわるものも多い。
アレッポ
シリア第2の都市。アラビア語でハラブと呼ばれる。BC3000、アモル王国の首都として栄えた。BC2000にヒッタイトに占領され、以後、数多くの民族に攻撃された。天然の丘を周りを掘り下げ土を掻き上げることでさらに、守るに易く、攻めるに難い地形に仕上げ、城壁や塔で守りを固めた。アレキサンダー大王の遠征後BC305、セレウコス朝の支配が始まり、シリア北部の中心都市として発展。ローマ時代にはヨーロッパとメソポタミアをつなぐ交易ルートの拠点となった。
637、イスラムの支配下に入る。10C、ハムニダット朝がアレッポを首都にし、ビザンチン帝国を脅かすほどになった。現在この町に残る建物は、その後のザンギー朝とアイユーブ朝の時代に建てられたものが多い。十字軍が侵入した時代に当たり、アレッポがその前線基地として要塞化されたから。12C、サラディーンの息子ガーズィーがアレッポを統治、アレッポ城砦を大規模に強化した。その後ベネチアと貿易契約を結び、国際的な商業都市となった。
以後16〜18Cにはヨーロッパ・ペルシア貿易の中継都市としての重要性は変わらず、1918まで続いたオスマン=トルコ時代には人口15万人に達した。WW1後フランスの委任統治によってシリアとトルコが政治的に分断され、アレッポの経済に大きな打撃を与えた。1946、シリア共和国が独立し、現在アレッポは、商業都市であると共に政治的拠点でもある。
アレッポのお土産はオリーブ石鹸。最高級品はローリエオイルの、オリーブ含有量が96%のもの。
アレッポ城:標高440m、高さ50m、直径500mの岩の上。12Cに掘られた深さ22mの堀に囲まれた周囲約2.5km、傾斜48度の要塞。BC10Cのネオ・ヒッタイト人のハダテ神殿。ハダテ信仰はギリシャ・ローマ時代にも引き継がれ、ゼウスと同一視された。
12〜13Cに十字軍に対抗するために巨大化されたのが、現在の原形となった。丘の周囲に塀が巡らされ、岡の傾斜部分には石が敷きつめられた。その後1260のモンゴル人、1400年のティムール朝の侵入で破壊され、16Cに再建。堀と外壁、堀から橋を渡った所の門を除くと、殆どの部分で16Cマムルーク朝時代に改修の手が入っている。城を攻めるには石橋に続く城門を破るしかなかった。砂漠の砦と違い、水や食料の貯えも完備していた。城門には隠し出口・侵入者を防ぐ熱油落とし、上階には参謀本部・玉座のある公式謁見室がある。武器庫、ビザンチンホールと呼ばれる広間、王宮への通路などには隠し扉などがあり、複雑な迷路のようになっている。
城塞の中を貫く中心の道路に沿って、12Cの小さなアブラハム・モスク、13Cの大モスクがあり、さらに進むと城壁の上に出る。博物館ではギリシャ時代のレリーフやオスマン帝国軍の大砲等が展示され、シアターでは今もショーが行われる。
グレート・モスク:もともとキリスト教の巡礼に来たヘレナ(コンスタンティヌス大帝の母)を記念したヘレナ大聖堂だった。715、ワリード1世が最初の大モスクに建て替えた。その後、この建築様式が他のモスクの手本になった。
現在の大モスクは16Cのマムルーク朝のもの。内部には洗礼者ヨハネの父親である祭司ザカリアスの首が埋葬された霊廟、15Cの木の説教壇、1090建設の高さ45mのミナレット。靴を預ける。女性はチャドル。
キャラバン・サライ/ハーン:16C頃ヨーロッパの隊商が利用したのが始まりで、交易事務所としても使用された。
・ハーン・アル・ワジール:17Cに建てられた。
・ハーン・アルグムラク:1574に造られ、344店舗を持つ。当時はイギリスやフランスの領事館。
オランダ商人が入居していた国際的ビジネスセンターだった。
・ハーン・アル・サブーン:15C末、マムルーク朝時代の建築の代表と言われる。
考古学博物館:入り口にはテル・ハラフで発掘されたBC9Cの黒い玄武岩の像。シリア各地で発見された土器・矢尻・ギリシャ時代のモザイクやレリーフ・皿・ガラス壺・イスラム時代の刀や鉄砲等を展示。特に興味深いのは、マリの遺跡から出土したラムジ・マリ王の彫像、壺を抱く泉の女神像。ウガリットから出土したエル神のレリーフやバアル神のブロンズ像。エブラから出土した商業活動記録の粘土板。
キリスト教徒地区/ジャディデ地区:シリアとベネチア間の交易が盛んだったため、その仲買人の仕事を求めて、アルメニア人やマロン派のキリスト教徒が住み着いたのが始まり。その後トルコのアルメニア人の大虐殺から逃れてきた人達が住み着いた。ギリシャ・カトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教などの教会がある。
アルメニアン教会:今でもアルメニア人を中心に礼拝が行われる。内部には天国を表した絵が多く、教会装飾も見事。
民族・伝統民芸博物館:1757、貿易商だったキリスト教徒によって建てられた、オスマン・トルコの政府高官の住居。内装はヨーロッパのロココ様式とアラブのマムルーク様式を合わせたもの。民族衣装・生活用品・武器・家具調度品・衣装・貨幣等を展示。
マドラサ・フェラディス:ファラディスはパラダイスの意味。1234に建てられた学校とモスクは小規模だが端正な構え。アーチと柱の太さ、間隔の取り方、イーワーンの鐘乳石飾り(スタラクタイト)など、完全な美学に支えられ、アレッポで最も美しいモスクで、回教学校と評価されている。
アレッポ国立博物館:テル・ハラフ(シリア北東)出土のライオンと守護の僧侶達の、黒い玄武岩の巨大な彫刻(BC9C)が玄関にある。シリアで最も古い神殿遺跡のテル・ブラーク(チグリスとユーフラテス川に挟まれたシリア北部)出土のBC3000頃の小さな土偶に始まり、マリ、ウガリット、エブラなどから出土した品々を展示。
・マリ:鹿の浮彫のパン焼き型、等身大の泉の女神像、長い顎髯の王の像。
・ウガリット:エル神の浮彫、バール神のブロンズ像。
・エブラ:図書館から出土した楔形文字を刻んだ粘土板。
ラッカ
アレキサンダー王によって造られ、ローマ人、ペルシャ軍、イスラム軍の土地となり、ビザンチン時代にはペルシャに対する前線基地の役割を果たしていた。640、ウマイヤ朝のヒッシャームが城を建て、772に、アッバース朝のマンスールはここを第2の首都とした。しかし1258、モンゴル軍によって完全に破壊された。WW2後、ユーフラテス川流域の重要な都市となった。「平坦な土地」の意味。
城壁:アッバース朝の泥煉瓦の壁。当時は2倍の厚みがあり、35m毎に塔が100以上築かれていた。
カスール・アル・バナト:「乙女の城」。9C。4つのイーワーンという玉葱型アーチのイランの建築様式。
グランド・モスク:772、ヌーレッディーンが改築した。11本の塔があったが今では1本だけ残る。
マリ
世界最古の文明、メソポタミア文明の中心地だった。シリア東部、イラクに近い国境の町。ユーフラテス川右岸の現在のテル・ハリリ。1933.8.遊牧民のベドウィンが、シュメール風の彫刻を掘り出して話題になった。その年の秋フランスによって発掘調査が始まり、古代王国の首都マリであることが判明した。それまでこの王国はメソポタミアから出土した楔型文書によって、ユーフラテス川中流域に位置するものと推定されていたに過ぎない。
マリは、古来ペルシャ湾から北メソポタミアに通じる道と、シリア砂漠を横断して地中海に抜ける道の分岐点にあり、通商上重要な町だった。シュメール王朝の版図の最西端に位置する。マリが隊商都市として繁栄したのは、BC3000〜1700。BC1900頃に、アモリ人のヤードゥーン・リム王が宮殿を建て、マリの王となった。彼の死後、一時アッシリアがここを支配したが、ヤードゥーンの子孫のジムリ・リムが力を盛り返して取り戻して、「目には目を」の法典で名高いバビロンのハンムラビに征服されるBC1759まで、マリは北メソポタミア最大の都市国家として繁栄した。その後パルテア人、ササン朝ペルシャ等に支配された。
遺跡中央の丘は1000×600m、ここに諸神殿が建設された。マリ最後の王ジムリ・リムの王宮は260の空間に分かれて、政治・行政経済・文化的な機能を整えた計画的な設計が行われていた。初期王朝時代の神殿や王宮の文書庫から、25000枚に及ぶ粘土板文書が出土。これらの資料から、マリはユーフラテス川の水を利用した農業の中心地で、遠隔地に及ぶ交易も活発に行い、莫大な富を築き上げた商業都市であったことがわかる。ジムリ・リム宮殿には書記を養成するための学校が設置され、机の並んだ部屋も見つかっている。
遺跡はこの他、イシュタール(愛と戦争の女神)の神殿、タゴン(古代の農業の神)の神殿等が発見されているが、いずれも旧約聖書の時代的、社会的、あるいは宗教的背景を理解する上で大きな手掛かりとなっている。ここから出土した遺物はダマスカス博物館、アレッポ博物館、ルーブル博物館に収蔵されている。
王宮:この時代マリは、王を頂点に、その下に完了組織と軍隊が発達した中央集権国家だった。最盛期にはマリに1万人の軍隊がいたと言われる。貿易も栄え、銀行業、高利貸し等も増えて、行政・経済の運営は常に文書を通して行われていた。従って書記の養成が大切で、各地に書記学校が設けられ、シュメール語楔形文字の習得に力が注がれた。300以上の部屋があり、浴室、トイレ、厨房など日常生活に関する部屋は機能的に設計され、他に宿泊所、倉庫、行政庁、礼拝所、書記学校もあり1つの町を構成していた。
王室公文書(マリ文書):王室の文書記録所から発見された楔形文字の粘土板は、2万枚以上あった。主に外交文書・歴史記録・経済白書などで、これらは古代史の年代確定に大きな役割を果たした。
マリ文書の書かれた時期は、聖書では族長時代と同じ時代で、しかもマリにもハランにもこの頃アモリ人が住んでいた。そこでマリ文書の解読は、イスラエル史の解明にも大きな光を投げかけた。その後、多くの研究の結果、族長達がハランからカナンへ移住したという聖書の記述が、歴史的にも正しいことが証明された。
ドゥラ・エウロポス
ドゥラは古代セム語で「要塞」の意味。ユーフラテス川中流の断崖の上に、セレウコス朝によってBC300頃、城塞が建設された。アレキサンダー大王によるマケドニアのアジア侵攻の後継者だったセレウコス朝は、ペルシャ、シリア、メソポタミア、小アジアをその傘下に収め、各地にマケドニア兵による要塞都市を建設。ドゥラもその一環としてのチグリス川河畔、バビロニアの都、セレウキア、オロンテス川に沿ったアンティオキアを結ぶルートにあった。このルートによって東方ペルシャの豊かな産物が運ばれ、ペルシャの地方総督との連絡が行われたりした。しかしドゥラは、大中継基地ではなく、兵士が駐屯しつつ耕作を行う要塞兼農耕集落で、隊商達は遊牧民の襲撃から自由になって小休止する程度だった。
BC202のザマの戦いでカルタゴを破ったローマは、次に東方に力を伸ばそうとして、BC190、 マゲネシアにおいてセレウコス王朝を破った。結果、弱体化したセレウコス王朝内に反乱が相次ぎ、ミトリダテス1世がドゥラを含むユーフラテス川一帯から東を手中に納め、パルティア帝国を成立。ローマとパルティアの間に戦争が起こり、町はローマに占領され、シリア属州の一部となった。対パルティアのローマ軍の前線基地となり、軍戦用に改修。床暖房まである浴場が造られたりした。
ドゥラが重要な町となったのは、パルティア王国建設後のBC2C後半。この実体の知られていない王国民は、メソポタミアからアフガニスタンに至る広大な領域を支配。その後、パルティア軍の基地・隊商貿易の中心となった。イラン・メソポタミアの物資を運ぶ隊商達に、ワイン・パン・油・野菜・荷役用動物と、あらゆる必需品を提供した。
3Cに入ると、ササン朝ペルシャがローマ帝国に対抗し、アンダシルの軍が238、ここを占拠。アウレリアヌス帝によって272、ドゥラは破壊された。363、ユリアヌス帝がペルシャ遠征の折にここを通った時には、町は既に廃虚になっていた。最大の建造物はアルテミス・ナナイア神殿で、壁面は壁画で装飾されていた。ドゥラの神殿は全体に壁画が素晴らしく、旧約聖書の物語を描いたものが多い。3Cのシナゴーグの壁画には、ナイルで拾われるモーゼや預言者サムエルに油注ぎを受けるダビデなど、旧約聖書の場面が描かれている。厚い砂がそれらを覆い、風や太陽による消失を防いだ。
211、正式にローマの植民地となったが、さまざまな民族が住み、ヘレニズムを初めパルミラ、ローマ、パルティア等の文化が混合した特有の文化が花開いた。ギリシャ文化の影響は比較的少なく、シナゴーグの壁画に代表される線描画法や、人物が正面を向いている描き方などは、古代イランの美術の影響と言える。
シナゴーグ:245、個人の家を改装して造られた。後にこれに代わって新しいシナゴーグが255に完成。
家の教会:個人の家が改築されて礼拝に使われていたもの。落書きから233頃に建てられたと推測される。中庭を囲んで幾つかの部屋があり、この1室で礼拝が行われていたが、南の2部屋が改装されて、100人収容の1つの大きな集会所になった。キリスト教の初期、町に住む一般の人から人へと、福音が広まっていったことを証明している。
ハム
要塞の意味。オロンテス川のほとり、シリア第4の都市。保守的な土地柄で知られ、女性は皆ベールを着けている。かつてはヒッタイト王国の最南端の大都市だったが、イスラエルの北境と接していたので、旧約聖書においてはイスラエルの歴史と深い関係を持っていた。ハマは旧約聖書にはハマテと書かれている。ペリシテ軍を打ち破ってモアブを征服したダビデが次に破ったのが、ゾバの王ハダデゼル。当時北部パレスチナで最も強大な王がハダセゼルだった。それが破れたと聞き、ハマテの王トイは、貢ぎ物を持たせて息子ヨラムをダビデの元に送った。これはサムエル記に書かれているBC1000年頃の出来事。また、歴代誌にはダビデの子ソロモンがハマテ、ゾバを破り、ハマテに倉の町を建てたことも記されている。
ダビデ、ソロモンの時代を経て、後にはヤラベアム2世が支配したこともあったが、BC721、アッシリアに征服され、市民は捕囚として連れていかれた。同じように捕えられたイスラエル人の内、一部が許されてハマに移り住んだ。セレウコス時代には「エピファニア」と呼ばれ、12Cにサラディーンが興したアイユーブ朝時代に栄え、この頃から水車が造られるようになった。1982、モスレム同胞団がシリア政府との対立で動乱を起こし、政府軍の爆撃等で1万数千任の人が殺され、町全体がかなり破壊された。
オロンテス川の水を汲み上げて水道橋に水を入れるため、ノリアと呼ばれる水車が造られた。
(ハマ事件)
1982.2.モスリムの同胞団の内戦とも言える暴動。モスリム同胞団は、1929にエジプトで始まったイスラム原理主義を唱える組織で、シリアにも同調する人が多かった。彼らがアサド政権に反対したのは、1976のレバノン内戦への介入の時。この意図はレバノンのキリスト教徒マロニ派勢力を救うためであり、イスラム教徒の左派とPLO(パレスチナ解放機構)を攻撃するため。双方とも、近代兵器で戦い、ヨルダン、イラク、レバノンも武器をもスリム同胞団に送ったと言われる。
ハマ事件に至るまでにもモスリム同胞団による暗殺事件が続き、2年前にはアレッポに戦車が100台も侵攻するという事件もあった。現在でも基本的には同じ問題を抱えているが、ハマ事件以降対象となった汚職や腐敗に対する改革を進める一方で、モスリム同胞団を抱えると言えるスンニ派勢力との融和を進め、バース党独裁色を薄めることで沈静化が進んでいる。
水車(ノリア):
17の木製水車が見られる。中世の頃からの利水、灌漑用で、裏側には古い水道施設がある。オロンテス川沿いに「4つの水車(4連ノリア)」、ギネスブックで世界最大の現役水車として紹介されているアル・モハンメディーヤなどがある。これは直径が20mで1977に付け替えられたが、歴史的には14Cから回っている。ハマの町はこの水車のきしむ音に因んで、「美しいメロディーの町」とも呼ばれる。
城塞:デンマーク人考古学者によって、新石器時代の土器などが発掘されている。城塞の石は、他の建物のために持ち去られ、城塞としての痕跡はほとんどない。
アゼム宮殿:18C初め、40年間に渡りハマを統治した、アサド・バシャ・アルーアゼムの宮殿。女性と家族用の区画、客と男性用の区画がくっきりと分かれている。個人用のハマムもある。現博物館。1階には城塞で発掘された鉄器・ローマ時代の装飾品・13Cの皿等を展示。2階ではベドウィンの生活を再現。
アル・ノウリ・モスク:1172イスラム軍司令官で、サラディーンの叔父であるヌレディンによって建てられた。ミナレットは黒の玄武岩と黄色の石灰岩でできている。3つのノリアがある。
グランド・モスク:キリスト教教会をモスクに転用。968、ビザンチン軍の再征服の時にかなり破壊された。1982、モスリム同胞団の動乱で完全に破壊され、新たに建設された。
アパメア
アパメアとは、セレウコス・ニカトールが、大王の東方遠征に同行して娶ったペルシャ婦人の名前に由来。地理的な好条件によって、地中海から東に至る交易基地、軍事基地として栄えBC64頃、ローマの支配下に入った後も繁栄した。
この町には600頭の戦闘用の象、30000頭の雌馬、300頭の種馬が飼育されていた。クレオパトラ7世も、アルメニア遠征途中のアントニウスとここで落ち合ったと言われる。また、ハンニバルがシリア人に像の扱い方を教えた町。BC540、ササン朝ペルシャのコスロー1世によって破壊されて衰え、追い討ちをかけるような大地震で姿を消した。
遺跡の発掘調査はベルギーによって行われている。神殿・劇場・教会堂・公共施設などの往時の姿が明らかにされている。オスマン・トルコ時代の隊商宿も残っていて、博物館として出土したモザイクなどを展示している。遺跡の中心は、カルドと呼ばれる列柱通りで、長さは2km。
エブラ
シリアにおける今世紀最大の考古学的発見の1つと言われるエブラ王国の故地、テル・マルディークがある。外壁最大径約1000メートルの菱形で、4つの門を備えている。中央に直径約170メートルの円形のアクロポリスがそびえる。アクロポリスの周囲は「下市」と呼ばれ、遺跡全体は56haに達する。1968に始まった発掘で、アクロポリスから出土した人物石像には、アッカド語による銘文「エブラの王イッビト・リムが、女神のため水槽を神殿内に奉納した」が刻まれていた。また、王宮文書庫から15000枚に上る楔形文字を刻んだ粘土板文書が出土し、これによってテル・マルディークこそ、アッカドやマリの記録に印された幻の王国エブラの故地であることがわかった。
マルディークではBC2900頃以降、計画的な都市が建設され、王宮G・王室文書庫などがアクロポリスに建てられたほか、外敵を防ぐ壁も建てられた。BC30C頃エブラは2度の大火に見舞われ、破壊された。BC20C頃再建され、神殿なども整備された。その後アレッポを根拠地とするヤムハド王国に従属する都市として発展を続け、BC18C頃アナトリア(現在のトルコ)からメソポタミア一帯に強大な権力を振るったが、BC1600頃、ヒッタイトの南下によるものと言われる大火災を伴う破壊によって終わりの日を迎えた。
ホムス
ダマスカス、アレッポ、パルミラ、ラタキア各地方からの道路が交わる場所。シリア第3の都市。シリアの中央に位置し、シリア砂漠から地中海に抜ける交通の要衝として、戦略的にも重要だった。ローマ時代には「エメサ」と呼ばれ、300年ほど繁栄。2C末、ローマにシリア・レバノン系の王朝が出現、カルタゴ出身の将軍セプティシウス=セヴェルスは、ホムスの司祭の娘ユリア・ドムナと結婚し、皇帝となった。その息子はカラカラ帝、孫はホムス生まれのエラガルバス帝、アレキサンダー=セヴェルス帝(フィリップ・アラブ帝)。文化と産業の中心。郊外にシリア最大の石油精製工場、セメント工場がある。フランス企業によって建てられたナフタによって稼動するアンモニア尿素プラントは失敗を重ね、1998にガスに切り替えられた。これにはブルガリアとチェコとの契約で1億ドルのガス・パイプラインを敷かなければならなかった。
カーリド・イブン・アル・ワリッド・モスク:1000年を越える歴史を持つ。BC636、この地にイスラム教をもたらしたイスラム軍司令官、マホメッドの弟子ハーリッド・イブン・アルワリッドの墓があった。9つの丸天井と白いミナレット。
カディシュの古戦場:BC1286、エジプトのラメセス2世とヒッタイトの王ワッタリシュが戦った。戦いは17年間続き、勝敗がつかず、ヒッタイトの息子とラムセスの娘の結婚で講和条約を交した。これは文献に残る世界最初の講和条約。
この周辺はバビロニア王が南シリアやパレスチナを支配するための本拠地だった。カッティーナ湖(オロンテス川から流れる)の古代名は、カーディッシュ。
クラーク・デ・シバリエ
騎士の城。戦略上重要な地域であったことから、海岸線に平行してたくさんの十字軍の要塞が造られた。その中で最大かつ最も保存状態が良いのがクラーク・デ・シバリエ。標高650mの山頂にある。1031、ホムスの君主が砦を築いてクルド人を定住させた。1099、聖地エルサレムを奪回するために遠征した十字軍が、シリアの地中海への出口を押さえる位置にあるここを占領。砦を2重構造に改築し、最新技術で強固な城砦にした。そして4000人の守備兵が駐屯できる規模に拡大した。城は13の塔を持つ外壁と、一部を堀で守られた内城に分けられる。堀は敵に包囲されて水を絶たれた時、貯水池の役目も果たした。
1271、スルタンのバイバルスが外壁に穴を開け、籠城するホスピタル騎士団を追いつめ、十字軍を降伏させ、エジプトのマムルーク朝の手に落ちた。そのためキリスト教徒の部分と、アラブの部分がある。1934、フランスの遺跡管理機関が住民を移動させ、彼らは今はこの城の近くに住居を構えている。
タルトゥース
タルトゥースシルクロードの中継地点、地中海へ出るための港町。古代には、フェニキア人のシリア本土における港町として栄えた。4C、聖母信仰が広まり、聖母マリアに捧げる礼拝堂が建てられた。中世にはテンプル騎士団に守られ、十字軍の主要な補給港として軍事的に重要な場所だった。1123、聖母マリア大聖堂が建てられた。
1970年代半ば、タルトゥースの近くに旧東ドイツによって中東で最大級の大型セメンと工場が建設されたが、これは環境問題を引き起こした。地中海沿岸地域が汚染され、何千本ものオリーブが枯れた。
ラタキア
この地域は地中海に接し、土壌が豊かで国内最大の穀倉地帯としてシリアの経済の大きな役割を担っている。ラタキアはシリア最大の港を抱え、地中海貿易の重要な港町。BC3000頃から開かれ、BC2000にはウガリットと共にフェニキア市を形成していた。アレキサンダー大王がこの地を征服した後、セレウコス1世はその母に因んでラタキアと名付けた。そしてアンタキア、アパメアと並ぶセレウコス朝の3大都市として栄えた。ローマ時代にも発展し、一時はシリアの首都となった。
その後十字軍とアラブ軍が争奪する場所になると、戦乱に巻き込まれ、安定した時代は長くは続かなかった。ラタキアは廃虚となり、20C初めには小さな漁村に過ぎなかった。フランスの委任統治時代、アラウィ派国家の首都となり復活。アラウィ派のアサド大統領が育った場所でもある。
ラタキア博物館:1986。もともとアラウィ派国家の総督邸だった。ウガリット出土の土器・近郊のイブン・ハーンから発掘された鉄器の展示、現代アラブ人画家の絵画展等。庭の像は豊穣の神バール。
サラディーン城:山頂に5haに広がる。アラブを十字軍の襲撃から守った城。BC1000からフェニキア人が要塞化した。その後十字軍が巨大な城砦を築いたが、1187サラディーンがこの城砦を包囲、巨大な投石機で城壁に穴を開け、2日で攻め落とした。サラディーン城の名は、これを記念して20Cになってから付けられた。
ウガリット
現在のラス・シャムラ(茴香の丘の意味)。世界最古の町の1つで、BC6000頃から人が住み始めた。東はメソポタミア、西はエーゲ海諸島、南はエジプト、北は小アジアと、全ての地方への通商の拠点となっていたため、貿易が栄え、町を繁栄に導いた。ウガリットの名は、エジプトのアマルナ書簡、マリ文書、エジプトの碑文などに早くから登場した。
ウガリットが王国として栄えたのはBC2000頃から。BC15〜14Cに最も繁栄した都市国家で、メソポタミア、エーゲ海諸島、エジプト、小アジアとの貿易で栄えた海運国家だった。世界最古の町の1つに数えられる。シリア有数のビーチリゾート。アルファベットの原形とされるウガリット文字が発見されたことで有名。1928、農夫が自分の畑を耕していた時に出土した粘土板には、豊穣の神エルと息子のバアルを中心にした叙事詩、商業取引の記録、カナンの宗教に関する記録が刻まれていた。文字は楔形で、牛や家などを絵にして簡素化されたらしい。
マリ文書によるとBC18C、ウガリットはマリと貿易を行っていた。商品は地中海特産品として当時中東で珍重された紫の染料、象牙などの高価なもの。そしてこの一帯に成育する杉も輸出品目にあげられた。繁栄は特にBC1400頃のニクマド王の時代に頂点に達した。ところがBC14C中頃の地震によって壊滅的な被害を受け、その後ヒッタイト、続いてエジプトのラメセス2世の手で再興されたが、BC1200頃、地中海沿岸を嵐のように襲った謎の民族によってヒッタイトは滅亡し、エジプトでさえ大被害を被った。彼らは海の民と呼ばれ、詳細は知られていない。この大事件によってウガリット王国も完全に破壊され、廃虚と化した。
1929、フランス人シェフェルによって発掘が行われ、古代イスラエルの社会に大きな影響を及ぼしたカナン野市大都市の姿が明らかになった。その結果、カナンの宗教に関する豊富な資料が得られ、また地中海世界との深い文化交流も明らかになった。アクロポリスではバアル神殿・ダガン神殿・神官長の邸宅などが発見された。特にバアル神はウガリットの神話で最も良く知られる豊穣の神で、後世フェニキアの諸都市でも長く信仰の対象となった。神官長の邸宅には文書庫が設けられていて、大量の粘土板が出土した。その中にはシュメール語・バビロニア語・ウガリット語の3カ国語対訳の辞典が含まれていた。当時のウガリット王国が、国際的商業国家であったことがわかる。
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