三田上水・三田用水」の紹介New!

三田用水の物語

-丘の上を流れたもう一つの川-

Story of
the Mita Irrigation Water

     
      






三田用水が流れていた鎗ヶ崎の高架鉄樋
(出典:目黒区ホームページ・無断転載禁)

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三田用水は、玉川上水の下北沢村(北沢5丁目)から始まり白金猿町(高輪台)を経て目黒川に注いだ人工の水路です。その歴史は寛文4年(1664)に開削された「三田上水」にまでさかのぼります。三田上水の時代は、主に三田・芝・金杉の武家や町人の飲用水や庭園用水に使われました。その後幕府の命でいったん廃止されましたが、流域の農民の請願によって享保9年(1724)に払い下げられ、名前も「三田用水」と改称し農民が管理する灌漑用水に生まれ変わりました。そして後には製粉・精米のための水車用水としても利用されるなど、地域の暮らしの向上に役立ちました。明治以降になると三田用水は流路がヒューム管(コンクリートと鉄の管)に変えられるなど技術的に改良が加えられ、ビールや火薬製造などの工業用水や研究機関の実験用水として用いられ、近代産業の発展に大きく貢献しました。そして昭和49年のサッポロビールの三田用水使用停止と昭和50年の防衛庁の水路使用の契約終了を以って、三田用水は311年の歴史を閉じました。

三田用水の水路の両側には渋谷川と目黒川が流れていましたが、低いところを通る自然の川と高い丘の稜線を人工的に開削された用水には、同じような川であっても大きな違いがあります。そしてこの自然の川と人工の川が渋谷・目黒などでつながることによって川の機能を互いに高めていたことが興味深く感じられます。この度、「玉川上水・分水網の保全活用プロジェクト」が日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産2016」へ登録されたのを機会に、豊かな歴史を持つ三田用水が人々の生活に与えた影響を改めて調べてみたいと思い、このサイトを設けました。「あるく渋谷川入門」のホームページと並んでご覧下さい。



2017.4.1


以下は2019121日に、表参道の東京ユニオンチャーチ(TUC)「おにぎりフェロウシップランチョン」で行った講演「三田上水と三田用水」に加筆したものです。当日は終了後も来場者と川の話で盛り上がりました。企画と運営をして下さったTUCの樋口様に厚くお礼申し上げます。


東京ユニオンチャーチ礼拝堂にて
(2017.1.21)

<目次>

玉川上水の話/ 三田上水と三田用水の誕生/ 江戸絵図に描かれた三田用水-北沢5丁目から鎗ヶ崎まで-
/ 明治の近代化と三田用水-恵比寿から目黒まで-/ 三田用水の遺構の保存-白金台から高輪台まで-
/ 三田用水の流末-西應寺ルートと小関畑ルート―/ おわりに


玉川上水の話

三田上水は今から350年以上前、江戸時代の寛文4年(1664)に作られた長さ約12㎞の人工の川で、有名な玉川上水の分水です。三田上水は後に三田用水と名を改め、恵比寿や目黒、白金の人々の暮らしや産業を長く支えてきました。その存在を抜きにしてこの地域の歴史を語ることができないほどです。実際にどのような川だったのでしょうか。


「正徳の上水図」(『東京市史稿 上水篇』附図)

上の図は江戸時代に描かれた「正徳の上水図」(1711-1714)です。多摩川から江戸城まで流れる玉川上水と分水網を記しています。多くの流れを見やすく配列するため川の方向や長さを適当に変えており、地図としては正確ではありません。しかし江戸時代の上水がどうなっていたかを一目で見るにはとても便利です。図の上を流れている太い線が多摩川で、その真ん中から江戸城に向かって真下(東)に流れているのが玉川上水です。
玉川上水の右(北)と左(南)には何本もの分水が延びていますが、図の中ほどから左斜め下(東南)に向かっている薄い色の長く伸びた線が細川上水と三田上水です。2本線になっています。細川上水は三田上水に先立つ7年前の明暦3年(1657)に開かれた上水です。細川上水と三田上水は享保7年(1722)に幕府の命で廃止されましたが、その2年後の享保9年(1724)に、流域にあった村々の請願によって三田上水が払い下げられ、名前も三田用水と改めて復活しました。この三田上水と三田用水が今日の話の中心で、昭和50年(1975)に廃止されるまで実に300年以上も流れていました。


多摩川と玉川上水の水路。東京都水道歴史館「玉川上水の現況(平成15年)より作成。


三田上水と三田用水の水源となった玉川上水について説明します。玉川上水は多摩川が流れている羽村から四谷大木戸まで全長43㎞に及ぶ水道です。江戸幕府が成立して約50年後の承応2年(1653)に開かれました。当時の江戸は飲み水に適した湧き水がほとんどなく、井戸を掘っても泥水や塩水ばかりだったようです。江戸の町が大きくなるにつれて、人々の暮らしを支える大量の水が必要になったため、幕府の命で開かれました。実は江戸城を始め、武家屋敷や寺社の庭園に池の水を引くことも大きな目的でした。玉川上水を開くときに玉川兄弟が様々な苦労をした話は昔の教科書などに載っていますので、ここでは省きます。



幕末の羽村取水堰「調布玉川叢書図」部分。「水と緑の回廊・玉川上水と分水網 多摩から江戸東京をつなぐ水循環の保全・再生」パネル展示より。


手前は玉川上水と上水に架かる橋。奥は多摩川と羽村取水堰。
東京都水道局、無断転載禁)

  

上の図と写真は多摩川の羽村取水堰の様子です。は幕末の絵図で、多摩川は向かって右から左に流れており、手前の左側に玉川上水が見えます。右は現代の写真です。多摩川は今でも水道原水の一つで、正面奥から流れてくる多摩川を堰止めて、手前右側の玉川上水に水を導いています。多摩川にかかる堰は丸太や木の枝でできていて、川の水が増えると堰をそのまま流せるようになっているため、大雨で多摩川の水嵩が増しても、濁流や土砂が玉川上水に流れ込むことはありません。素朴ですが実に巧みなやり方で、江戸時代も今も基本的には同じ方式を用いています。



玉川上水は羽村から四谷大木戸まで地上を流れた(写真は小平市の玉川上水)。


江戸の市中は木樋などを使って地下を流れていた。(無断転載禁、
東京都水
道歴史館HPより。)

玉川上水は取水口の羽村から終点の四谷大木戸まで地上を流れていました。大木戸の水番屋でゴミや汚れを取り除いた後に地中に入り、石樋や木樋を通って江戸城や武家屋敷、町屋に流れていました。初期の江戸の暮らしはこうして地下に張り巡らされた水道によって支えられていたのです。享保の頃になると井戸を掘る技術が発達し、江戸の地下の水質も良くなり、これが享保の時代に細川上水や三田上水を廃止した理由の一つであると言われています。玉川上水の話はこれぐらいにして、次に細川上水、三田上水、そして三田用水の話に入ります。

 

三田上水と三田用水の誕生


「貞享上水図」貞享年間の作。国立国会図書館所蔵(無断転載禁)。細川上水と三田上水は玉川上水・
下北沢村から並んで流れ出し、ほぼ並行して南下する。図中の文字は筆者。



上の絵図は国会図書館が所蔵する「貞享上水図」の部分図のコピーです。江戸の貞享年間1684-1687年)に描かれたもので、原図はカラーです。初めにご紹介した「正徳の上水図」の細川上水と三田上水がより詳しく描かれています。この二つの流れをこれほど正確に描写した絵図は他にないでしょう。コピーは白黒のみですが、しばらく前までは手書きで写すしか手立てがありませんでしたので、コピーが認められた時はちょっと興奮しました。図の左側の縦の黒い太い線が玉川上水で、その根元の下北沢村から細川上水と三田上水が斜め下(南の方角)に出ています。2本の上水は2カ所で交差しています。流れに沿って進むと、両岸に幾つかの大名屋敷がありますが、西側(図の下側)にある中川佐渡守と松平主殿頭の屋敷の庭が有名なので後でご説明します。下目黒村の辺りで東に大きく曲がり(現在の目黒駅付近)、再び南に曲がって進むと白金猿町(今の高輪台)に着きます。白金猿町には大名屋敷や辻番屋(交番)、町屋などがたくさんあって賑やかでした。この町を過ぎてから北(図の上側)に直角に曲がって道なりに東に進むと伊皿子の細川越中守の中屋敷に至ります。細川上水はここまでです。その後は三田上水だけが地下を流れ、三田や芝の武家屋敷、寺社、町屋に給水しながら西應寺の門前町である西應寺町に行き、そこから渋谷川(新堀川)傍流の入間川(いりあいがわ)に注いでいました。


細川上水を開いた熊本藩主細川綱利。絵はウイキペディアより。



ところで細川上水を開いたのは熊本54万石藩主の細川越中守綱利です。現在の港区高輪の伊皿子に大きな屋敷を構えていました。何かと噂になる人だったようです。なぜ彼は自前で上水を引いたのでしょうか。水が美味しい熊本で育った綱利は江戸の水が泥臭くて飲めなかったようで、玉川上水からわざわざ水を引いたというのがその理由です。もう一つの理由は彼は贅沢な殿様で屋敷に豪勢な庭が欲しかったからです。上水が完成するとさっそく池を掘って大きな滝をこしらえました。屋敷の場所は目黒と違って崖が無いので、滝の工事にはさぞお金がかかったでしょう。ところで、これを聞きつけた熊本の国家老がすぐさま江戸に飛んできて、家中や百姓が困窮の折に「かく奢侈超過とあっては公儀への聞こえ宜しからず」と綱利を諌め、せっかく作った滝はもちろん立石泉水までも取り壊し、関係者を皆処分して国にサッサッと帰ったそうです。この話は三田村鳶魚『江戸の実話』にあるものですが、我儘な綱利と彼を心の底で思いやる国家老の立ち合いが想像されてお芝居みたいで面白いですね。当時の大名は飲み水が足りなくても庭園や池は立派に作ったそうで、大名同士の見栄もあったのでしょう。

次に作られたのが三田上水で、幕府の命を受けた請負人が開削しました。上水図にあるように細川上水と場所もルートもそっくりです。細川上水がうまくいったのを見て、厄介な測量などの仕事を省いて近くに水路を作ったという見方があるようですが、細川氏から何らかの協力を得て作ったと見る方が自然な感じもします。いずれにしてもこの2本の上水が地域の水道の大元になり、周辺の土地に庭園の文化や衛生的な生活環境をもたらしました。さらに上水の余り水が農民の灌漑用水に使われることによって米の生産を促しました。こうした状況があったからこそ、三田上水が廃止された時に農民が払下げを請願し、三田用水が誕生したのです。三田上水は幕府の請負人が管理していましたが、三田用水になると流域14ヵ村の地主が水利組合を作って管理するようになり、この仕組みは昭和の戦後まで続きました。


江戸絵図に描かれた三田用水-北沢5丁目から鎗ヶ崎まで-




三田上水・三田用水の流路。「渋谷1880」及び「渋谷・品川1880‐1881」『東京都市地図3東京南部』柏書房、「東京府荏原郡目黒村」明治44年、東京逓信管理局等から作成。


これまでは三田上水や三田用水が誕生するまでの経緯を「正徳の上水図」や「貞享上水図」を通して見てきました。次に、これらの川が流れていた水路に沿って順にエピソードを紹介したいと思います。上の図は三田上水と三田用水の水路をグーグルマップに書き入れたものです。三田上水も三田用水も現在の北沢5丁目の取水口から始まって南に向かい、三角橋、駒場、東大裏、青葉台、代官山、恵比寿などを通って目黒へと流れていきました。そして現在のJR目黒駅で東にほぼ直角に曲がり、教育植物園の南側の高台を東に進み、白金台を右に大きく回って高輪台に至りました。自然の川は低い方に向かって流れますが、三田上水や三田用水は渋谷川と目黒川に挟まれた高台の尾根を通り、精巧に設計された勾配を保ちながら長い道のりを高輪台まで流れていました。高輪台からのルートは三田上水と後の三田用水では全く異なります。三田上水は高輪台を過ぎると地中を北に進み、三田の聖坂を下って芝・金杉の平らな土地に流れました。三田用水はその逆に南に向かい、北品川を一気に下って目黒川の小関橋、森永橋近くに流れました。なお三田上水と三田用水は北沢5丁目から高輪台までルートが同じなので、この間の流れを説明する際には、歴史が長かった三田用水で代表することにします。



地図で見る三田用水の取水口付近(北沢5丁目)。出所は「渋谷」「中野」『東京都市地図3 東京南部』柏書房。彩色は筆者。

この地図は三田用水が流れ出した地域の様子です。地図の一番上を横切る道は甲州街道、その下の大きく曲がって流れている川が玉川上水です。取水口の北沢5丁目は京王線の笹塚駅のすぐ近くで、玉川上水の羽村取水口からは約36㎞の地点にあります。


三田用水の取水口 (昭和30年)(北沢小学校・無断転載禁)。

現在の取水口。撮影は筆者。

左の写真は昭和30年、右は現在の三田用水の出発点の様子です。玉川上水は手前から奥に流れていました。昭和30年の写真では流れの先に大小の二つの水門が見えます。左側の大きい方が本流の玉川上水で、右側が三田用水の取水口です。現在の写真を見ると、玉川上水には緑の草が一面に生えており、右奥の階段のような所が三田用水の取水口です。三田用水はここから北品川の目黒川まで約12㎞を流れていました。



北沢5丁目から駒場4丁目に抜ける三田用
水暗渠。

東大駒場裏のバス停前の嵩上げされた三田用水の流路。


取水口から始まった三田用水は、北沢5丁目商店街の傍を通って駒場4丁目に抜けていました。上の左の写真は今も残る暗渠の道で、幅は1間ほどです。右は駒場東大裏の塀際にある嵩上げした水路です。この辺りの地形は窪んでいるため、サイフォンの原理を用いて水の流れを良くしたのでしょう。昭和の初めになると取水口から恵比寿の日本麦酒まで水路が木製からヒューム管(鉄筋コンクリート製)に替わり、地下に埋設されました。



「目黒筋御場絵図」部分。文化2(1805)。「国立公文書
館デジタルアーカイブ」より。駒場原の北側は代々木村。駒場
原の南を横切る道(渋谷道)は道玄坂に至る。

 


広重「駒場野」『江戸名勝図会』。「国立国会図書館
デジタルコレクション」より。


この東大キャンパスの辺りは「駒場原」と呼ばれる御鷹場で、8代将軍吉宗は盛大に鷹狩を催したと伝えらます。上は「目黒筋御場絵図」の部分図で、将軍の御鷹場があった駒場原の周りの様子です。三田上水が駒場原の北側をカーブを描きながら流れているのが分かります。右は広重の「駒場野」で、この御鷹場で狩りをする勇猛な鷹をモチーフにしています。鷹匠の手に停まっている鷹の姿も見事ですが、気になるのは羽の下から垣間見える水色の川で、三田用水でしょうか、地元の小川でしょうか。ところで渋谷区教育委員会が発行した『渋谷の湧水地』には、「渋谷の田子免池で白鳥を飼うことになり御用地になった」という『野崎家史料』が引用されています。田子免池は現在の東2丁目にあった池で、幕府の『上水記』によると三田上水を「御用水」に使っていました。白鳥は観賞用に飼われていたと思いたいのですが、当時は将軍の狩りの獲物として白鳥、鶴、カモなどが使われたようで、ここで飼育されていたのでしょう。




明治42(1909)西郷従道邸周辺の地形図。『日本帝国陸地測量部仮製版』(目黒区菅刈公園展示室の説明版より作成)。


三田用水を用いた庭園。高度差を利用して滝の景観を作った。


左は目黒区の青葉台付近の地形図です。ここには三田上水の時代から中川佐渡守の屋敷があり、庭園には上水(後に用水)を使った池と滝がありました。明治になると西郷従道が兄の隆盛のためにこの屋敷を購入しましたが、西南の役で敗れた隆盛が住むことはありませんでした。屋敷の周りの地形を見ると、旧山手通りを流れる三田用水の高度は36m位、西郷邸の庭の高度は15m位で、その差は20mもあります。自然の崖を巧みに用いた滝はさぞ素晴らしかったでしょう。目黒区がこの庭園を復活して下さって菅刈公園として開園しています。旧山手通りから階段をひたすら降りていくと公園の池に着きます。名物の滝はありませんが、池の周りの斜面に目をやって当時の滝がどこに落ちていたのかと想像するのも楽しいです。



駒沢通り・鎗ヶ崎の水路橋。写真は渡部一二氏(無断転載禁)。


三田用水は旧山手通りに沿って南に流れ、恵比寿から来る駒沢通りと鎗ヶ崎で交わっていました。上の写真はその交差点に架かっていた水路橋です。歩道橋ではありません。駒沢通りは昭和の初めに崖を切り崩して作られましたが、その崖の上を三田用水が流れていたため水路橋を建設したのです。当時は日本麦酒や海軍技術研究所が三田用水を大量に使っており、このような工事を行って大切な水源を確保したのでしょう。



歌川國長「鑓崎富士山眺望之図」。東京大学史料編纂所所蔵(重要文化財・無断転載禁)。中目黒の田んぼに注ぐ三田用水の滝。

富士塚の左部分の拡大図。奥は現在の中目黒2丁目にあった「大池」。小屋は社のようだ。


時代はさかのぼりますが、江戸時代に鎗ヶ崎から中目黒村の一帯を眺めた絵図があります。江戸末期に描かれた歌川國長「鑓崎富士山眺望之図」です。これについては目黒区めぐろ歴史資料館学芸員の横山先生から色々と教えていただきました。「鑓崎富士山眺望之図」の左側の丘にある茶色い山は文政2年(1819)に築造された「目黒新富士」です。江戸時代は富士講が盛んでしたが、富士山に登るにはお金も体力も必要で、しかも女性は許されていませんでした。そこで年寄りや女性、子供など富士山に行けない人のために富士塚が作られ、ここをお参りすると実際に行ったのと同じぐらい御利益があるとされていました。「目黒新富士」は、当時の富士講の一つである山正廣講が景色が良いこの土地を選んで作ったもので、択捉(えとろふ)探検で有名な近藤重蔵の別邸内に建てることで幕府の許可を得ました。富士塚は一般的に富士山から黒ボクの溶岩を持ってきて作られましたが、この「目黒新富士」は形がすべらかで赤土の色をしています。1991年の新富士遺跡の発掘調査で、御神体や祠などを含む地下式の胎内洞穴が発見され、「新富士」はそこから掘り上げた関東ローム層の赤土を盛土にして作られたと考えられます。全国でも例がない胎内洞穴の遺構は型取り保存され、現在は目黒区めぐろ歴史資料館に再生展示されています。

ところで、本ホームページでは当初、新富士の奥に三田用水が流れていると述べましたが、その後に横山先生から「これは新富士の奥にあった大池(おおいけ)と思われます」とのご指摘がありましたので訂正します。三田用水は新富士の手前の崖の上を流れていますが、林に隠れて見えません。しかしその林から三田用水の分水が滝となって流れ出て、真下の田んぼに勢いよく落ちています。鎗ヶ崎の目の前に見える分水といえば別所坂の「別所上分水」でしょう。当時の絵は感じたままに描くところがあり、分水の流れというよりは大きな滝ですね。三田用水が村々の灌漑用水として使われていたことがこの絵図からもよく分かります。余談ですが、図の右奥に見える白い小さな山が富士山です。横山先生は「この場所に見える筈がないんですが」とおっしゃっていました。現代地図で富士山の場所を確かめたところ、この絵から右にかなりはみ出したところにありました。





「目黒新富士」脇の高台を流れた三田用水。広重『名所江戸百景』江戸東京博物館デジタルミュージアムより。現在の目黒区中目黒2丁目・別所坂上付近。


先の歌川國長は北から南に向かって風景を描いていますが、上の歌川広重は東から西に向かって「目黒新富士」という絵を描いています。この絵のテーマも左に描かれた大きな富士塚です。今度は深い緑色で、山腹や山頂に人がいますね。この絵では富士塚の麓の桜と三田用水の流れも重要なモチーフになっています。流れの岸辺を見ると手前が崖のような斜面になっています。奥に僅かに見える川の岸辺の先も崖になっており、木立の先には田んぼや民家が遠く霞んで見えます。三田用水が、田畑を見降ろすような高い尾根を伝って流れていることが分かります。右奥に本物の富士山が堂々と描かれていますが、先生によればこれは正しい位置だそうです。山の上に人がいることについては、「富士山も富士塚も山開きは6月1日だが、桜のシーズンに「新富士」だけ特別に上ることができたのか、それとも広重の脚色なのか分からない」とのお話でした。「鑓崎富士山眺望之図」と「目黒新富士」は共に絵師のイメージで描かれていますが、三田用水の地形的な特色はしっかり押さえられていますね。横山先生にはたくさんの貴重なお話をありがとうございました。




明治の近代化と三田用水-恵比寿から目黒まで-



渋谷の鍋島松濤公園に再現された水車小屋。三田用水の神山口分水を利用した水車がこの付近にあり、精米・製粉に使われていた。

江戸の後期になると三田用水は灌漑用水の他にも精米・製粉を行う水車の動力として使われるようになり、手作業による精米は姿を消していきました。上の写真は渋谷の鍋島松濤公園に復元された水車小屋です。三田用水には17の分水があり(明治は19)、渋谷川と目黒川に向かって勢いよく流れ込んでいました。土地の傾斜を巧みに使った水車が次々と生まれ、最盛期には49軒という記録が残っています。大正時代になると電力が普及して急速になくなりました。ところで、明治時代になると綿工業や製薬などの近代産業が次々と起こり、製造に使う工業用水が求められるようになりました。とくに三田用水を必要としたのが明治13年(1880)に設立された目黒火薬製造所(後の海軍技術研究所)と、明治21年(1888)に創業した日本麦酒(現在のサッポロビール)です。




図中の三田用水の分水路は、目黒火薬製造所については小坂克信「近代化を支えた多摩川の水」p96、日本麦酒については「日本麦酒目黒工場構内及付近略図」を参考にした。


目黒火薬製造所の歴史は、江戸幕府が目黒三田村に設立した火薬製造所にさかのぼります。この工場は4万坪の敷地を持ち、三田用水を使った水車を用いて火薬を作りました。当時は浦賀にペリーの黒船が来航し、幕府は大砲や鉄砲に使う火薬を大量に作ることを迫られていました。この地に危険な火薬工場が設けられた理由は、人口が少なかったことに加えて、三田用水が流れる高台から目黒川に下る広い急な傾斜地が水車による火薬製造に適していたからです。工場は幕末にいったん閉鎖されましたが、新政府によって再び始められ、海軍が玉川上水から独自に取水し、三田用水の道城口(火薬庫口)と田道口から水を引いて火薬の製造を始めました。火薬を作るのに適した鉄製の頑丈な水車でした。その後海軍は勝手に分水口を改造したり水路を変えたりしたため、地元の農民との間で紛争が起きて、解決まで時間がかかりました。昭和になって火薬製造所が移転すると、その跡に海軍技術研究所が入り、巨大な実験用貯水池を作って艦船の航海実験を始めました。戦艦大和の実験も行われたそうです。三田用水の用途はどんどん広がり、求められる水量も増えました。




現在のガーデンプレイス敷地内。三田用水を用いた日本麦酒の池。昭和44年。目黒区めぐろ歴史資料館所蔵(無断転載禁)。


現在のガーデンプレイス。巨大な貯水池があった三越付近。

次に日本麦酒ですが、明治21年(1888)恵比寿に創業した日本麦酒は、三田用水の田道口と銭瓶口の分水から供給を受けてビール生産を始めました。工場内には二つの貯水池がありましたが、今の恵比寿三越の辺りに造られた第二貯水池は1辺が100m、深さが最大9mもありました。よくこんなに大きな池を一杯にできたものです(詳しくは本HPバックナンバー1「9月10日 真っ青な貯水池のミニチュアが」を参照)。日本麦酒も地元の農民と水争いになりましたが、最終的に契約を交わし、日本麦酒が三田用水をヒューム管にするなど改良し、管理を主に行うようになりました。

昭和になると三田用水の周りは田畑から住宅や工場に変わり、農業用水の需要はほとんどなくなりました。その後、敗戦により海軍技術研究所は占領軍に接収され、返還後は防衛庁技術研究所になりました。時代は流れ、昭和27年に水路を管理していた三田用水普通組合の法的な解散が決まりました。その後、水路の権利を巡って組合と国・都の間で長い係争になりましたが、法律的な問題ですので説明は省きます。昭和49年(1974)には恵比寿のサッポロビールが、昭和50年(1975)には防衛庁技術研究所が用水を水道に切り替え、三田用水は三田上水の開削以来311年の歴史を終えました。技術研究所のプールは防衛省艦艇装備研究所に引き継がれて今日に至っています。


現在の防衛省艦艇装備研究所(真ん中の細長い緑の建物が実験用貯水池)。20169月筆者撮影。



さて上の写真はガーデンプレイスのタワービル39階から写した防衛省艦艇装備研究所の全景です。真ん中に細長い緑の屋根の建物があり、その中に長さ250mの巨大な実験用貯水池があると伝えられています。防衛省の周りの道を歩いている時は横に長い建物があるなということぐらいしか分かりませんでした。高層階から眼下に広がる景色を眺めていた時に、この建物があったので写真を撮りました。後に玉川上水の展示会(本HPの「三田上水と三田用水・展示パネルの紹介」参照)でこの写真を掲載したところが、写真のプロの方から「このアングルをいただきます」と褒められましたが、偶然の賜物です。

ところで防衛省構内の三田用水の跡がどうなっているかは、入口近くにある図書室(現在は市谷に移転)以外は立ち入ることができないため、全く分かりませんでした。しかし昨年1217日、NHK『ブラタモリ』が三田用水を取り上げ、敷地内の三田用水の遺構や巨大貯水池の様子を放映しました。もう私たち三田用水に関心がある者にとってはびっくり仰天です。録画した番組の画面を何回も何回も止めて敷地内の様子を観察しました。以前に『ブラタモリ』が港区麻布のマンション敷地内にある「ガマ池」を放映した時も驚きましたが、今回は歴史的な価値が違います。関心のある方はNHKオンデマンドでご覧ください。



構内にはこんな場所が橋の痕跡。NHKブラタモリ「#57 東京・目黒」(2016.12.17放映)。以下同じ。

橋の痕跡から構内の水路橋を再現。CG映像:橋の上に三田用水が流れていた!

先ず左の写真ですが、タモリ一行が敷地内をぶらぶら歩いていて見つけた三田用水の水路橋の残骸です。そして右の写真はNHKが十八番のCGを用いて水路橋を復元させたものです。残された橋の一部が道の反対側にまで伸びて堂々とした水路橋になりました。三田用水は、敷地内の低い所を流れる時にこうやって高さを保っていたのですね。その後、研究所の案内の方が「三田用水の水がまだ残っているので、これからそこに案内します」と言いました。タモリは信じていない様子です。昭和50年に使わなくなった三田用水の水が、どうして今も残っているのでしょう。



防衛省艦艇装備研究所の実験用貯水池。長さ250m。

艦船試験の様子。実験条件を常に一定にしている。

艦艇装備研究所の建物に入ると遥か先の方まで延びている細長いプールがありました。あの緑の屋根の建物の中はこうなっていたのです。プールが収容する1.8万トンの水のうち、約4割が昔の三田用水の水であるという説明がありました。研究所の方によると、艦船実験の条件を一定にするために水をなるべく入れ替えず、藻や汚れが発生しないように光を遮断して今日まで来たそうです。要するに昔の水が新しい水とブレンドされて残っていたという訳です。納得!


『東京時層地図』の中の目黒火薬製造所周辺の部分図。「明治のおわり」。図の中心部を三田用水が流れている。橋は地図の赤丸部分。

『ブラタモリ』で紹介された水路橋の場所。



今回の『ブラタモリ』には感動しましたが、それだけで終わらないのが三田用水のファンというものです。ここで『東京時層地図』を引っ張り出してこの辺りの昔の地形を調べてみました。左は「明治のおわり(明治39-42)」の地図なのですが、構内を横に走る実線が三田用水の水路です。その真ん中あたりを道路(二本の点線)が横切っており、道の両側が高台になっています。そして道路と交わる所の水路が白い長方形のマークになっています。右は『ブラタモリ』で紹介された水路橋の場所ですが、左の『東京時層地図』の場所と一致しています。この白い長方形のマークが構内にもう一カ所ありました。「明治のおわり」の地図の左上ですが、高台の谷間を通る水路にこのマークが付いています(地図の赤丸部分)。これは新しい発見ですね。大正以降の地図を見るとマークは消えています。水路が鉄管になり、道や低地を跨ぐ橋は要らなくなったとも考えられます。




新茶屋坂に架かる三田用水の水路橋。平成11年当時の写真。

新茶屋坂の水路橋の上の三田用水。平成13年。(目黒区提供・無断転載禁



防衛省の構内の話はこれぐらいにします。さて敷地から出た三田用水は茶屋坂の上を通り、さらに南へ流れてJR目黒駅の方に向かいました。上の左の写真は『ブラタモリ』でも紹介された新茶屋坂の水路橋です。鎗ヶ崎の水路橋と同じように、この場所の崖を切り崩して都道が作られた時に隧道になりました。隧道の上部の様子を示したのが目黒区からお借りした右のカラー写真です。真ん中を三田用水が流れており、水路はコンクリートの蓋で覆われています。両側は水色に塗られています。平成15年(2003)には都道が拡張され隧道が撤去されました。下の左の写真は昔の茶屋坂の近くに建てられた
「三田用水跡と茶屋坂隧道跡」の記念碑です。



茶屋坂脇の記念碑。


「三田用水跡」日の丸自動車前の標識。



三田用水は茶屋坂を過ぎて恵比寿ガーデンプレイスの西側にある日の丸自動車の土地に流れ込みました。日の丸自動車ビルの側面に張り付いている巨大な赤い半球体をご存知の方もおられると思います。地元の方のお話では、この辺りには三田用水の流れの跡が残っていて保存運動も起きましたが、当時は開発が優先されたそうです。右の写真は練習所のフェンスの脇に建てられた記念碑で、下にある丸い石は三田用水の
木樋(木の管)を支えていた礎石です。




三田用水を用いた「目黒千代が池」。歌川広重『名所江戸百景』Online Collection of Brooklyn Museumより。松平主殿頭(とのものかみ)の屋敷の池と滝。


再び江戸時代の有名な絵図を紹介します。日の丸自動車から目黒駅にかけての広大な斜面の土地に松平主殿頭(とのものかみ)の屋敷がありました。庭園には三田用水から水を引いた池と滝があり、景色のあまりの美しさから「絶景観」と呼ばれていました。歌川広重の「目黒千代が池」にはこの土地の自然の崖を巧みに用いた五段の滝が描かれています。明治以降は元勲の三條実美の屋敷などになりましたが、残念ながら千代が池は残っていません。今では目黒川に下る斜面にホテルプリンセス・ガーデンを始めたくさんのマンションが建ち並んでいます。三田上水が農民に払い下げられて三田用水となった後も、大名たちは用水を庭に引いて池や滝を楽しみました。しかし用水は池に貯まっただけではなく、その余水が近隣の農村に流れて灌漑や生活用水に使われました。当時の人は水を大切にしており、地域に循環させることで最後まで使い切ったのです。


三田用水の遺構の保存-白金台から高輪台まで-



三田用水はJR目黒駅の先で東に直角に曲がり、目黒通りと並行して進み、尾根を流れて高輪台に達し、目黒川・小関橋近くに注いだ。 


JR目黒駅の西側に流れてきた三田用水は、ここで東に直角に曲がりました。そして首都高目黒線を越えてから尾根伝いに右に大きく回り、白金台を通って高輪台(当時の白金猿町)に至りました。この辺りの水路跡を歩いていると流れの右側が深い谷になっていて、三田用水が白金台の稜線を辿りながら徐々に高度を下げていったことが分かります。



白金台の導堤遺構。嵩上げのために造られた堤とコンクリート製の用水路の断面が保存されている。



遺構の前にある港区教育委員会の看板。

三田用水の流れに沿って白金台の小道を南に歩いて来ると、突然突然土地の高度が変わり、それまで緩やかに降りてきた道が階段に変わります。階段の脇には「導堤遺構」と港区教育委員会の看板があります。この場所で水路を崖に沿って下げると高輪台まで流れの勾配が保てなくなるため、人工の堤を築いて水路を嵩上げしたのです。三田用水の導堤はこの辺りが住宅地になる時に取り壊されましたが、港区関係者のご尽力によって水路の断面が保存され、この場所に展示されました。今では三田用水を愛する人の聖地になっています。


今里橋欄干。写真の手前下にある構造物。奥は用水路跡地の上に立つ民家。

三田用水の傍らにあった今里地蔵(元禄年間造立)。


ところで三田用水は都心を流れていたため、それが廃止された後は水路の跡地が住宅やビルとなってしまい、遺構のようなものはこの白金台と東大裏ぐらいにしか残っていません。その白金台に4年後に新しい道路(環状4号線)が建設されることが発表されました。工事が進むと白金台3丁目の「導堤遺構」も取り壊されてしまうかもしれません。近くには三田用水に架かっていた今里橋の欄干(左上の写真)、水路の傍らに昔から祀られていた今里地蔵堂(右の写真)があり、三田用水の水路が埋まっていると思われる古い道路や宅地もあります。こうした歴史的な遺産を後世に伝えることが大切な課題になっています。

初めに申し上げたように三田用水は玉川上水の分水の一つですが、いま玉川上水とその分水網を保全し活用していこうという動きがあります。市民団体の玉川上水ネットが進めている「玉川上水・分水網の保全活用プロジェクト」です。その目的は玉川上水に水を流して都心の外堀を浄化し、災害時にはその水を防災用水として使うと共に、分水網をきちんと保存して水と緑、そして歴史を後世に伝えていく取り組みです。昨年1221日、この取り組みが日本ユネスコ協会の「プロジェクト未来遺産2016」に登録されました。この活動の一環として三田用水の遺構の保存をいま港区にお願いしています。大事な三田用水の遺構ですからぜひ実現したいですね。



三田用水の流末-西應寺ルートと小関畑ルート―


三田上水と三田用水の流路の勾配図

(©kajiyama)

三田用水の流末に話を進めますが、その前に流れの全体の様子をまとめておきます。上の図は国土地理院の『地理院地図(電子国土Web)』 を用いて三田用水が流れていた地形の勾配を調べたものです。縦軸が標高、横軸が距離で、三田用水の流れた土地を1㎞おきに区切って勾配を示しています。取水口の北沢5丁目の標高は約40m、中継点である8.5㎞先の高輪台の標高は約28mですから、その差は12mで、勾配は100mにつき約13.5㎝です。玉川上水の羽村取水口から終点の四谷大木戸までの勾配は100mにつき21.4㎝ですから、三田用水の勾配はかなり緩やかですね。傾斜の少ない地形に水を滞らせずに流すためには、あちこちで土木工事を施す必要がありました。図中のB東大裏では土地の窪みを補正するために水路を嵩上げしましたが、サイフォン効果を利用したのでしょう。D鎗ヶ崎とG茶屋坂の隧道では切通しの道路の上に水路橋をかけて傾斜を保ちました。I目黒駅も高台を削って敷設した鉄道の上に水路を作りました。J白金台の導堤は、B東大裏と同じく自然の窪みを嵩上げしました。先の『ブラタモリ』で防衛省の構内にも水路橋があることが分かりましたので、『東京時層地図』の記録も加えて書き入れてみました。茶屋坂の手前(西)約200mと400mの所です。三田用水は高度な土木技術を用いて開削され、さらに土地の開発に適応するような改良を加えられて長く使われたのです。

ここで流末となる高輪台より先の勾配を見ると、三田上水も三田用水も急傾斜です。三田上水は高輪台から地中に入り、二本榎通りを通って三田・芝から金杉や西應寺に向かいました。地中を流れていたことを示すために高輪台から先の線を茶色にしました。高輪台から西應寺までの勾配は100mにつき70.8㎝と急で、とくに聖坂がある三田3丁目から芝3丁目までは100mにつき200㎝とかなりの傾斜です。聖坂の下に住む人たちは地下から噴き出すような水を使っていたのでしょうか。



高輪台小学校(高輪2丁目)で発見された木樋の継手(37㎝×25cm×12㎝)。三田用水普通水利組合『江戸の上水と三田用水』より。



芝の西應寺町を巡って入間川に

左の写真は高輪台小学校で発掘された木樋の継手で、三田上水の支流の木樋をつなげた道具のようです。右の写真は芝の西應寺の門前です。三田上水はこの寺町を流れて入間川に落ちていました。境内を巡っていたという話もあります。私も西應寺の境内を歩いて流れの跡を探しましたが、よく分かりませんでした。辺りは幕末に名をはせた薩摩屋敷などの武家屋敷が並んでおり、これらの堀に水を注いでいたという話もあります。




三田用水の流末が消えた小関畑付近(小関橋交差点)


目黒川小関橋より下流を眺める。

次に三田用水の流末ですが、その水路は「文政十一年品川図」(1828)に細かく描かれています。幕府が編纂した地誌『御府内備考』(文政12年)によると、目黒から高輪台まで地表を流れてきた三田用水は、白金猿町でいったん地下に入り、町の下を39間(70m)ほど斜めに横切ってから再び地表に出ました。そして北品川宿の急斜面を下って平らな土地に入り、目黒川近くの小関畑で消えていました。今の小関橋交差点の少し南です。流末の水量が多い時は川に流れ込んでいたのでしょう。勾配を調べると100mにつき200㎝ぐらいあり、音を立てて勢いよく流れていたようです。このルートを歩いてみたのですが、前半は急な斜面の中腹を道場谷の谷底を避けるように折れ曲がりながら進み、池下と呼ばれた土地になるとなだらかに弧を描いて川岸まで流れていました。北品川宿や上大崎村の人々は、水が田畑に行き渡るように水路を工夫したのでしょう。



清泉女子大のつつじ(東五反田の丘)


三田用水が流れる左の高台には中津藩主奥平家の屋敷があり、右の脇には仙台藩主伊達家の屋敷がありました。伊達屋敷の辺りは明治以降は島津侯爵邸となって島津山と呼ばれ、ツツジやモミジの名所として知られていました。季節には花びらや紅葉がはらはらと落ちて三田用水の流末を飾ったことでしょう。戦後は清泉女子大学のキャンパスになり、美しいツツジを今に伝えています。三田用水の流末は思いのほかイメージの膨らむ所です。(終)

(参考文献)
三田用水普通水利組合『江戸の上水と三田用水』岩波ブックセンター信山社、昭和59年/堀越正雄『日本の上水』新人物往来社、昭和45年/渡部一二『武蔵野の水路-玉川上水とその分水路の造形を明かす』東海大学出版会2004年/小坂克信「近代化を支えた多摩川の水」、とうきゅう環境財団、2012年/蘆田伊人編集校訂『御府内備考』第4巻、大日本地誌体系4、雄山閣、昭和45年/間宮士信他編『新編武蔵風土記稿・東京都区部編』第3巻、春秋社、昭和57年/『東京市史稿』上水篇第1・第2、東京市役所、大正8年、12年/『新修渋谷区史』上・中・下巻、東京都渋谷区、昭和41年/『目黒区史』『目黒区史資料編』東京都目黒区、昭和36年/『品川町史』上・中・下巻、品川町役場、昭和7年/目黒区ホームページhttp://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/ konnamachi/michi/rekishi/tobu/kayaku.html他。

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2017.2.4

<はじめに>
201610月8日~10日、玉川上水・分水網の保全・再生をテーマにした展示会・講演会主催:玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会)が東京都庁・都政ギャラリー/都民ホールで開催され、関東5大学と玉川上水ネット(17の市民団体・10月8日現在)が参加しました。その内容は「江戸東京の発展を支えてきた玉川上水と分水網を再生して水循環都市東京を作り、また玉川上水と分水網を保全していく」ことです。私たち「渋谷川・水と緑の会」も玉川上水ネットの一員として参加させていただき、その分水である「三田上水と三田用水」の300年余の歴史と展望についてパネル(A1・4枚)を作成し、会場に展示しました。その際には玉川上水ネットの事務局の皆様に大変お世話になり、ありがとうございました。以下では私たちのパネルの内容と会場の様子をご紹介します。

なお、20161221日に「玉川上水・分水網の保全活用プロジェクト」がめでたく日本ユネスコ協会の「プロジェクト未来遺産2016」として登録され、玉川上水及びその分水を広く世界にアピールする道筋ができたことを併せてご報告します。


Ⅰ.  展示パネル「三田上水と三田用水」の概要


会場の展示パネル



展示パネル①
三田上水と三田用水


1.三田上水の開削    
三田上水は、三田、芝、金杉などの武士、町人、寺社に飲み水や庭園用水を供給するために、寛文4年(1664)に幕府により開削された。請負人は中村八郎右衛門と磯野助六で、完成後は使用者から水銀・水銭を徴収した。水路は玉川上水の下北沢村(北沢5丁目)から代々木村、中渋谷村、三田村、上目黒村、白金村、大崎村、猿町(高輪台)を通って芝の西応寺町(芝2丁目)までである。下北沢村と猿町の間は主に堀割(開渠)で尾根を通り、西応寺町までは木樋で地中を流れた。なお三田上水に先立つ明暦3年(1657)に細川越中守が伊皿子の私邸用に細川上水を開いたが、三田上水はこれに隣接してほぼ並行に作られた。

 

2.三田用水の復活  三田上水は享保7年(1722)に幕府の命で廃止されたが、享保9年(1724)に流域14か村の嘆願により無償で払い下げられ、三田用水と改称して復活した。下北沢村から猿町までの流れは同じであるが、その後は北品川宿を下って目黒川に入った。三田用水には17の分水口が設けられ、渋谷川と目黒川に挟まれた村々に灌漑用水を流していた。水路の管理は流域の地主が水利組合を結成して行った。

3.灌漑用水から工業用水へ  明治時代に入ると三田用水は目黒火薬庫製造所、日本麦酒などの大工場に給水を始めた。明治23年の「水利組合条例」によって水利組合は公法人「三田用水普通水利組合」となり、水路を管理する制度が整備された。明治半ばには水車が増え、薬、金属、綿布などの工業用水に使われた。昭和になると水路が木樋からヒューム管に変わり、地中に埋設された。流域の宅地化が進み、三田用水の灌漑用水としての役割はほとんどなくなった。


歌川広重「目黒千代が池」『名所江戸百景』Online Collection of Brooklyn Museumより。「千代が池」は千代ケ崎(現在の目黒1丁目)にあった松平主殿頭(とのものかみ)下屋敷の池。松平主殿頭の庭園は、目黒の崖から富士山を眺める絶好の場所で、庭には三田用水が作る「三段の滝」があり、長く「絶景観」と呼ばれていた。(パネル③地図中J)

4.水利組合の解散と三田用水の廃止  戦後の「土地改良法」の制定を受けて、昭和27年に三田用水普通水利組合の法的解散が決まった。その後、水路の権利を巡って水利組合と国・東京都が長い係争となった。そして昭和44年の最高裁の上告棄却により、組合に水利権はないが土地所有権はあるとの判決が確定し、昭和59年に水利組合の清算事務が結了した。昭和49年(1974)に取水口が閉鎖され、昭和50年に防衛庁技術研究所の使用も停止となり、ここに三田用水は311年の歴史を終えた。


5三田上水・三田用水の流れの概要  三田上水の取水口は3尺四方、川幅は約1間、長さは下北沢村と猿町の間が地上2里余(8.5㎞)、芝西応寺町までが地中3.6㎞の合計12.1㎞だった。三田用水の長さは猿町までは同じだが、目黒川までが地上1.5㎞で、合計10.0㎞と推定される。三田上水の勾配を試算すると、標高は下北沢40.5m、猿町29.1m、西応寺3.1mとして、下北沢村-猿町が平均13.4cm/100m、猿町-西応寺町が平均72.2cm/100mである。川は自然落下なので、地上はサラサラと流れ、地中は噴き出すぐらいの勢いがあった。三田用水の流末である猿町-目黒川の勾配は、目黒川小関橋周辺の標高が2.7mなので176.0cm/100mとなり、小さな滝のようなところもあっただろう。(67はパネル4枚目)


日本麦酒目黒工場の第2貯水池(現在のガーデンプレイス敷地内)。目黒区めぐろ歴史資料館所蔵・無断転載禁。明治20年に設立された日本麦酒醸造株式会社は、田道乙、銭噛窪口等から三田用水を貯水池に引き、ビール製造のための用水とした。三田用水は昭和49年まで使用。写真は昭和44年。(パネル③地図中H)


展示パネル②
江戸図に見る三田上水と三田用水

細川上水と三田上水

「貞享上水図」部分貞享年間(1684-1687年)。国立国会図書館所蔵・無断転載禁。原図はカラーであるが複製は白黒のみ。三田上水と細川上水は並行して玉川上水・下北沢村から流れ出し、ほぼ並んで南下する。流域の中川佐渡守や松平主殿頭などの庭園や飲み水に使われた。残水は灌漑にも用いられた。流れは権之助坂上(現在の目黒駅)で東に曲がり、白金猿町(現在の高輪台)まで地上を流れた後に地中に入った。「細川上水」は伊皿子の細川越中守の屋敷で終わったが、「三田上水」は芝の西應寺町まで流れ、渋谷川の傍流入間川に入った。図中の地名等は筆者。

御場絵図の三田用水

「目黒筋御場絵図」部分、文化2(1805)。「国立公文書館デジタルアーカイブ」より。馬込・世田谷・麻布・品川一帯は「目黒筋」と呼ばれ、将軍の鷹場が設けられていた。街道・寺社・大名屋敷と共に三田用水、渋谷川、目黒川が描かれている。下北沢村から分水された三田用水は代々木村の南にある駒場原の脇を流れ、馬込領、麻布領の境界をたどる。以下白金猿町までの流れは三田上水と同じ。猿町から目黒川に至る流れはこの図に描かれていない。なお流路には17の分水口があったが、この図では麻布御殿に給水した白金分水(銭嚙窪口)など4つの分水が描かれている。図中の文字は筆者。


三田用水の分水口

「品川用水絵図 安政五年四月」の三田用水の部分(後掲『品川町史』中巻)。渋谷川(北側)に向かう6分水口と目黒川(南側)に向かう11分水口
の合計
17分水口が、給水する村や代官所、橋などと共に描かれている。この絵図(1858)の分水口と寛政9年(1797)の分水口(『品川町史』中巻)を比べると、口数は17と同じで、その位置や給水先の村々もほぼ対応している。



展示パネル③
三田上水・三田用水の流れの記憶
1.パネル③の全体図


2.パネル中央の地図(三田上水・三田用水の流れと分水口及び写真の場所) 
 

3.上図に対応する流路の勾配
縦軸は標高(m)。横軸は下北沢取水口からの1km間隔の道のり(地図中赤の数字と対応)。地名の数字は丁目。アルファベットは上図の場所と写真を示す。©Kajiyama




4.地図の周囲の写真(下北沢・取水口から高輪台を経由して西應寺と小関橋までを紹介)

A.三田用水は玉川上水の下北沢村
(北沢
5丁目)で取水された。

A.右側は三田用水取水口、左は玉川上水(昭
和30年)(北沢小学校・無断転載禁)。

A.三田用水と火薬製造所の取水口が並
立していた。左図は渡部一二氏(後掲・無
断転載禁
)。


B.高度を調整するためにかさ上げされた流路。東
大駒場裏のバス停前。

C.旧西郷侯爵邸庭園の三田用水の滝。菅刈公園展示
室のパネルより。



D.駒沢通り・鎗ヶ崎の水路橋。写真は渡部一二氏(後掲・
無断転載禁)。

D.新道坂上の三田用水。(昭和386月)目黒区
めぐろ歴史資料館所蔵・無断転載禁。ヒューム管
の三田用水が鎗ヶ崎の水路橋に続く。



E.歌川國長「鑓崎富士山眺望之図」。東京大学史料編纂所所蔵(重要文化財・無断転載禁)。新富士の奥には大池と社(右上の部分図)、下に別所坂、滝となった別所上分水が描かれ、滝の真下には中目黒村の田んぼに入る激しい流れが見える。



F.防衛省艦艇装備研究所の実験用貯水池
(緑の長い建物)。旧火薬製造所、海軍技術
研究所。

G.茶屋坂隧道の上にあった三田用水
のコンクリートの水路。目黒区提供
無断転載禁

G.三田用水が流れていた
茶屋坂隧道の看板。



I.日の丸自動車前の「三田用
水跡」碑。下は用水の木樋を
支えた礎石。

K.国鉄目黒駅、山手線を渡る三田用水(手前の黒く写っ
たヒューム管)。昭和
36年。目黒区めぐろ歴史資料館所
・無断転載禁
右は目蒲線駅舎。



L.今里橋欄干(手前)と水路跡に建つ
民家。

L.流れの脇の今里地蔵(元禄年間造立)



L.導堤遺構、水路の断面の展示。白金台と高輪台の間の低地に堤を築き
用水路の高度を保っていた。



M.高輪台小学校で発見された木樋の継手。後掲
『江戸の上水と三田用水』より。堀越正雄氏による
と木樋は地下
13.5mに埋められた。

N.西應寺。三田上水は高輪台(白金猿町)から地中を
芝の西應寺町まで流れて、渋谷川傍流の入間川に入
った。




O.三田用水(流末)の終点、目黒川・小関橋付近(北品川5)。「文政十一年品川図」『品川町史(上巻)』を参考。




展示パネル④
(パネル①の続き
6三田用水の未来-新道路計画と遺構の保存   三田用水は水路敷の多くが民有地として売られたため、水路や施設がほとんど残っていない。現在、環状4号線の新道路が白金台と高輪台間で計画されており、「導堤遺構」などの遺跡の保存が心配される。地域の歴史を語る三田用水の足跡を都市開発と折り合う形で残していきたい。


「東京都市計画道路幹線街路、環状第4号線及びその延伸部(後略)」より作成。

三田上水・三田用水関連年表
承応2 1653 玉川上水(多摩川羽村-四谷大木戸)が完成。
明暦3 1657 細川上水(下北沢村-伊皿子)が細川越中守私邸の庭園・飲用水として開削。
寛文4 1664 三田上水(下北沢村-三田・芝・金杉)が細川上水の隣接地にほぼ並行して開削。
元禄11 1698 白金の麻布御殿(将軍綱吉別邸)造営のため三田村から分水。
享保4 1719 道城池、田子免池の御用水を下渋谷村から分水。
享保7 1722 「享保の改革」の最中、三田上水など江戸四上水が廃止、細川上水も閉止。
享保9 1724 村民の請願で三田上水が灌漑用水として払下げられる。三田用水と改称。
享保9 1724 三田用水(下北沢村-北品川宿)の管理のため十四カ村が水利組合を結成。
享保17
1732 この頃から分水を用いた水車業が現れ人力の作業に代わり精米・製粉を行う。
天明6 1786 天明の旱魃により水利組合から奉行に配水の増量嘆願がたびたび出される。
安政4 1875 幕府が目黒の三田村に火薬庫と火薬製造水車を建造して田用水を用いる。
明治3 1870 玉川上水の分水口が改正され、分水口の統合と元樋口の基準化が図られる。
明治6 1873 水利組合が水路保全と水量確保のため水車の増設を抑制する議定書を作る。
明治11 1878 三田用水の各村の分水口が改正され、水路管理や経費賦課等が決まる。
明治13 1880 目黒火薬製造所が設置され18年から操業。道城口、田道口から取水する。
明治13 1880 目黒火薬製造所が玉川上水に独自の取水口を作り三田用水に合流させる。
明治16 1883 三田用水の実態調査『三田用水取調表』が出る。歳入の7割を水車が占める。
明治21 1888 日本麦酒醸造が田道口から取水して製造開始。33年に銭噛窪口とも契約。
明治23 1890 目黒火薬製造所が田道口の分水口を改造したため水利組合と紛議になる。
明治23 1890 「水利組合条例」が施行され水利組合が公法人の三田用水普通水利組合に。
明治25 1892 東京市水道改良計画(玉川上水新水路建設)に対して水利組合が抗議する。
明治35 1902 日本麦酒が7万石の第1貯水池を竣工。また42年に30万石の第2貯水池完成。
明治40 1907 水車の設置数が49か所とピークに。大正時代になると電力化で水車数が急減。
明治41 1908 「水利組合法」が制定され水利組合の管理体制や財政基盤が強化される。
大正13 1924 関東大震災の水路修繕のため、水利組合が東京府から資金を起債で借入れ。
昭和2 1927 笹塚取水口が鉄製の枠組・扉に改修され、三田用水と火薬庫分水口が並立に。
昭和4 1929 日本麦酒が笹塚取水口と目黒間にヒューム管を敷設。完成は昭和12~13年。
昭和5 1930 目黒火薬製造所跡に海軍技術研究所が創設。巨大な実験用貯水池を建設。
昭和5 1930 都道19号線新茶屋坂開設により、三田用水の水路橋が建設される。
昭和21 1946 海軍技術研究所の敷地が占領軍に接収される。返還後は防衛庁技術研究所。
昭和27 1952 「土地改良法」制定(24年)に基づき三田用水普通水利組合が法的解散へ。
昭和44 1969 水利権・土地所有権を巡る水利組合と国・東京都の係争で最高裁が上告棄却。
昭和49 1974 東京都水道局が三田用水の元樋口を閉鎖して通水を停止する。
昭和50 1975 防衛庁技術研究所が三田用水を水道局に切り替える。
昭和57 1982 今里口の近く(港区白金台3丁目)に「導堤遺構」が保存される。
昭和59 1984 三田用水普通水利組合が土地売却などの清算事務を結了して消滅。
平成8 1996 銭噛窪分水口の近く(目黒区三田1丁目)に「三田用水跡」の碑が設置される。
平成15 2003 都道19号線新茶屋坂の道路拡張により、三田用水の水路橋が撤去される。
平成27 2015 港区白金台3丁目-港南1丁目の新道路計画で「導堤遺構」等の保存が課題に。
平成28 2016 「玉川上水・分水網の保全活用プロジェクト」が日本ユネスコの未来遺産2016に登録。

<参考文献・資料>
三田用水普通水利組合『江戸の上水と三田用水』岩波ブックセンター信山社 昭和59年、伊東好一『江戸上水道の歴史』吉川弘文館 平成8年、堀越正雄『日本の上水』新人物往来社 昭和45年、渡部一二『武蔵野の水路-玉川上水とその分水路の造形を明かす』東海大学出版会 2004年、小坂克信「近代化を支えた多摩川の水(2012.4.7)」 インターネット、「土地所有権確認等請求上告事件最高裁判決 昭和441218日」 LLI/DB『判決秘書』、『東京市史稿』上水篇第1・第2 東京市役所 大正812年、『品川町史』上・中・下巻 品川町役場 昭和7年、『新修渋谷区史』上・中・下巻 東京都渋谷区 昭和41年、『目黒区史』『同資料編』東京都目黒区 昭和36年、「貞享上水図」国立国会図書館所蔵、「文政十一年品川図」前掲『品川町史』上巻、『一万分の一地形図 東京近傍 明治42年測図 大正5年修正』 陸地測量部、近藤源一『東京市近傍部町村番地界入-明治44年』 東京逓信管理局 人文社版 昭和61年、近藤源一『東京市十五区番地界入地図-明治40年』人文社版 昭和61年、『東京都市地図23』柏書房 1996年、『東京五千分一実測図 明治20年測図』内務省地理局 大日本測量、他。

                                (渋谷川・水と緑の会)               



Ⅱ. 会場の風景


展示会場の設営の様子。左側は5大学、右側は玉川上水ネット。

パネルを見る来訪者


大学の講演会(会場は満杯)

パネルディスカッション

<おわりに>

展示と講演会が開かれた3日間、新宿・都庁の会場にはたくさんの方々が訪れて盛況でした。展示・講演の両方を併せて3日間でおよそ1000人の参加者がありました。私たち渋谷川・水と緑の会の「三田上水・三田用水」パネルは見学ルートの最後の所でしたが、多くの方々が見に来て下さいました。その中で長く目黒に住んでいらした方から面白い話を伺ったのでご紹介します。目黒駅に山手線を引いたときのことです。目黒駅では恵比寿や五反田と線路の高さを揃えるため、山を削って線路を通さなければいけませんでした。工事の結果、目黒の丘を通っていた三田用水が鉄道をまたぐ高架になったのです。その方の元治元年(1864)生まれのおじいさんは、現場で出た土をトロッコで運ぶ仕事をしていたそうです。おじいさんは親方から渡された木切れに1回運ぶごとに一筋の傷をつけてもらって、その数で給金をもらっていたとか。目黒駅の場所で三田用水が高架になった時代の様子がよみがえってきますね。他にも三田用水に詳しい方がパネルの前に来られ、いろいろと教えていただき勉強になりました。こうした機会がまたあると良いですね。(終)



(参考資料:事務局よりご提供)

水と緑の回廊・玉川上水と分水網

多摩から江戸・東京をつなぐ水循環の保全・再生

~東京オリンピック・パラリンピックを契機として~

展示の記録

日時:平成28108日~10日 於:東京都議会議事堂1階都政ギャラリー

主催:玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会

第1部「玉川上水・分水網と江戸東京の水循環」

    展示:玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会・事務局

    ご挨拶

①玉川上水・分水網と地形
②玉川上水・分水網の形成過程
③羽村堰と小金井桜
④江戸の水道と玉川上水
⑤玉川上水・分水網と文化財
⑥明治中期の玉川上水・分水網
水循環
2部「玉川上水・分水網と水循環都市東京」
    展示:水循環都市東京シンポジウム実行委員会 
①玉川上水の機能を活かして水都東京をつくる(山田正 中央大学理工学部教授)
②水都東京をつくる外濠の新たなイメージ(陣内秀信他 法政大学デザイン工学部教授)

③自然と歴史を活かし,災害に強い美しい世界一の水都東京を造る(天野光一 日本大学理工学部教授)

④水都東京に向けてーまち・かわ・ほり(宇野 求 東京理科大学工学部教授 )
⑤オリンピックと水~東京から世界へ~(沖 大幹 東京大学生産技術研究所教授)

第3部「台地に刻まれた水と緑の回廊“玉川上水と分水網”」

   展示:玉川上水ネット
   武蔵野台地と水路網
①今も残る集落のかたち~田村分水・熊川分水~(玉川上水遊歩道を考える会)
②武蔵野台地の先駆者~砂川用水・柴崎分水~(玉川上水の自然保護を考え会)
③小平用水路網50㎞は生きている(学び舎江戸東京ユネスコクラブ,小平ユネスコクラブ,ちい
  さな虫や草やいきものたちを支える会)
④市民がつくる水と緑のネットワーク~千川上水と仙川~(玉川上水を守り育てる武蔵野市民の
  会,武蔵野ユネスコクラブ,武蔵野の森を育てる会)
⑤武蔵野台地に息を吹き込んだ砂川・品川・牟礼分水(三鷹環境市民連)
⑥玉川上水の歴史と新宿(NPO法人新宿環境活動ネット)
⑦品川用水に残る『面影』と出会うマップ(品川用水復活研究会)
  江戸の知恵「玉川上水網」保存・整備・再生支援(東京南ロータリークラブ)
⑧三田上水と三田用水(渋谷川・水と緑の会)
⑨玉川上水・いきものたちの通り道(ちいさな虫や草やいきものたちを支える会)






2016年 10月15日


<はじめに>
三田用水は江戸時代の享保9年(1724)に設けられた灌漑用水です。その流れは玉川上水の下北沢村(現在の北沢5丁目)に始まり、代々木村、中渋谷村、三田村、上目黒村、白金村、大崎村を通って猿町(高輪台)に至り、その後は北品川宿を下って目黒川に注いでいました。その前身は幕府が寛文4年(1664)に開削した「三田上水」です(注1)。ところでそのルートですが、下北沢から猿町までは幕府の記録や遺構などにより明らかですが、流末の猿町から目黒川にかけてははっきりしていません。このたび玉川上水に関するイベントで「三田上水と三田用水」を報告(パネル展示)するのを機会に(注2)、渋谷川と深い関わりがある三田用水の猿町から目黒川までの流れを確かめることにしました(注3)。


「文政十一年品川図」部分


道案内となるのは「文政十一年品川図」(注4)です。この図が作られた文政11年(1828)は幕府の「地誌調所」が江戸府内を調べていた年です。地図には大名屋敷、寺社、町屋、辻番屋、田畑の面積(町・反・畝)、入会地などが細かく記されいるので、おそらく町や村の名主が町奉行に出した書類なのでしょう。三田用水も地図の右上の猿町から左下の目黒川にかけてしっかり描かれています。ただ図の縮尺や方角が大雑把なため、他にも色々な古地図を参考にして流れのルートを推定しました(注5)。地図の中の活字は筆者が入れたものです。



現代地図で見た三田用水の流末

この図は「文政十一年品川図」に描かれた三田用水のルートをグーグルマップに書き入れたもので(水色の線)、そこに今回歩いた道(茶色の点線)も加えました。都道317号(環状6号線)より北の地域(東五反田3丁目など)には文政のルートを探る手掛かりが色々とありましたが、目黒川に近づくにつれて都市開発が進み(北品川5丁目など)、流れの痕跡を見つけることはできませんでした。ここからは「文政十一年品川図」を3つのパートに分けて流れを見ていきます。


(1)猿町の三田用水の流れ


三田用水は町の地中を流れて目黒川に向かった


猿町周辺の流れを図に従って説明します。目黒から流れてきた三田用水は、今里村や白金村の境(図の右上)を通る道に沿って大きなカーブを描いて白金猿町に入ります。水路は道の脇に二重線で描かれ、「用水敷地」の所は三本線です。流れ着いた所の右手に小倉藩主細川家の御屋敷の門が、左手に「辻番所」(見張り番所)があります。流れはここから地中に入り、町の下を木樋(木の管)で斜めに通って町の南側に出て、「品川台町」との境にある道に沿って目黒川へ下ります。今里村境、白金村境の北側(図の右上)には久留米藩主有馬家の下屋敷がありました。



流れは白洋舎の所で白金猿町に入った


この日は朝9時ごろにJR目黒駅を出発しました。三田用水の流れに沿って白金3丁目(今里村)の高台を歩き、「導堤遺構」や今里地蔵がある一車線の道を通って白洋舎の店の横に出ました。ここは高輪台交差点で、昔の白金猿町の入り口です。「三田上水」の時代は地上の流れが猿町で終わり、その先は地中の木樋を使って三田、芝、金杉へ向かいました(注6)。三田用水の時代になると三田・芝への地中のルートが無くなり、猿町まで来た水は全て灌漑用水として北品川宿や下大崎村に流されました。本日の出発点はこの白洋舎の店があるビルです。




高輪台信号の辺りには町屋が並んでいた

桜田通りの高輪台交差点はいつも賑やかですが、猿町の時代も同じだったようです。幕府が町の名主に提出させた「地誌御調書上帳」(注7)によると、猿町には89軒の町屋などが道の両側に軒を連ねていたそうで、時代劇のセットを思い出しますね。猿町という名前は風変わりですが、一説には白金台町から分かれてできた町という意味で“去り町”と呼んでいたのが、自然に猿の字に置き換わったそうです。



(高輪3-11
桜田通りを左(南)に曲がって目黒川に向かう


「地誌御調書上帳」には「猿町に有馬玄蕃頭様の屋敷の西南から道を斜めに横切る長さ39間(70m)、巾1尺(30cm)ほどの埋め樋(地中の水路が一か所あり、三田用水と呼ぶ。流れは町の南側の中ほどから家の前の下水に出て、町内の境(品川台町)の横丁から大崎村に落ちた」とあり、「もっともこれは三田用水と関わる村々が取りはからい町内は拘わらない」と結んでいます(現代訳筆者)。町の中を流れていても管理は下流の村がしていたことが分かります(注8)。写真は高輪台の信号から西に150mぐらい歩いたアークタワー高輪の曲がり角で、三田用水はこの辺りで道に沿って大崎村(南)に流れ出していました。




猿町からの流れはかなり速かった

桜田通りからまっすぐに降り始めた坂道は、右に緩やかカーブして交差路に向かいます。明治9~19年『東京時層地図』によると、この坂道のすぐ左側(東)に正三角形をした池がありました。貯水池に使われていたのかもしれません。この場所の道は今でも三角形のままです。大正11年『帝都地形図』で標高を調べると、当時の表通りが95尺(約28m)、交差路が72尺(約22m)、表通りと交差路の間が150m、勾配は400㎝/100mで、現在の国土地理院の地図を見てもほぼ同じです。三田用水の下北沢村と猿町間の勾配は平均13.4㎝/100mですから、かなりの傾斜です。



風車のような形をした交差路


この交差路は崖の地形が作りだす風車のような形をしていて、東のグランドプリンス新高輪(石榴坂の北側)から来る太い坂道と合流しています。「文政十一年品川図」(1828)にこの交差点は描かれていませんが、安永8年(1779)の地図「品川芝筋白銀麻布」(『近代沿革図集』別冊I収録)にはありますから、図の作者が何かの事情で省いたのでしょう。三田用水は坂道の左脇を流れていましたが、小さな滝のように速かったはずです。


(東五反田3-4
崖下の低地に向かう脇道

桜田通りから坂道を下り始めた時は道の両側が同じぐらいの高さでしたが、この交差に近づくにつれて右側(西)だけがぐっと低くなりました。坂道より34m下がっており、その先(西)に本立寺の崖がそびえています。明治44年『番地界入地図』を見ると、坂道を下ってきた三田用水は交差の少し手前で右(西)に曲がってこの低地に流れ込み、再び左(南)に曲がって太い坂道と本立寺の崖の間を流れていました。



空き地の下は水路だった


そこで少し寄り道をして、崖下に向かう脇道に入って明治の流れを追うことにしました。脇道の行き止まりでうろうろしていると、家の前を掃除していた奥様が声をかけて下さいました。「三田用水が流れていた跡を探してるんですが」と言うと、びっくりするようなお答えが。「お隣の家の脇にコンクリートの空き地があるでしょう。昔はそこに細い用水の溝があって家を建てられなかったと聞いています。ここに越してきた50年前の話ですが」。三田用水はその家の後ろの方(北)から流れてきて、坂道と並行して南に向かっていたようです。奥様、貴重なお話をありがとうございました。いきなり大きな収穫を得て、気分爽快で元の道に戻りました。


(2)「道場谷」から「池下」への流れ


 三田用水は斜面を何回も曲がって流れていた

交差を超えた三田用水は、中津藩主奥平家の御屋敷を左手に見て坂道を下り、「道成谷(道場谷とも書く)」の手前で右(西)に曲がります。少し進んで左(南)に曲がり、仙台藩主伊達家の御屋敷の前を通り、その半ばで左(東)に曲がって元の坂道に戻ります。「道成谷」の谷間に出た三田用水は、「池下」と呼ばれた田んぼと東海寺少林院抱屋敷の間を通り、道なりにブーツの先のような形で回って西に向かいます。そして、少し進んだところにある「橋」のマーク(道の上の三本線)の場所をまた左(南)に曲がって、後は平らな土地を目黒川まで流れます。「道成谷」という地名は、この辺りに本立寺など多くのお寺の道場があったからで、たしかに坂を下る道は両側から崖が迫る感じでした。その先を「池下」と呼ぶのは近くに池があったからだそうです。この辺りには「溜井」と記した所が2か所ありました。




奥平家御屋敷の崖下を流れていた


さて風車の形をした交差からゲレンデのような長い坂道を下り始めました。坂の右手(西側)は道より低いのですが、左手(東側)は小高い丘のようになってきました。その上に先ほどの奥平家の御屋敷があるのですが、高い所はたいてい大名か旗本、寺社の土地ですね。明治44年『番地界入地図』を見ると、坂道の左脇を流れていた三田用水が右側(西)に数十メートル平行に移動しています。道の拡張か農地の事情でルートを変えたのでしょう。




「道成谷」に入る前にカルチャーセンターが


交差から200mほど歩くと右側に高輪台カルチャーセンターが現れました。道なりに弧を描いていてきれいです。この辺りまで来ると、右手の土地が上がってきて坂道と同じ高さになりました。ここは「道成谷」の入り口です。坂道をさらに進めば左も右も高くなって谷間に入ります。


(東五反田3-5
川が上り坂を流れるはずはないが


三田用水はこのカルチャーセンターの辺りで右(西)直角に曲がり、その後はクランクのように何回も方向を変えます。このように流れが谷底に行かず、高度を保ちながら人工的に何回も曲がっているのは、斜面の田畑に水を行き渡らせるためでしょう。ところで実際に現地に行ってみて困惑しました。西側の土地が坂道よりも高くなっており、脇道が上り坂だったからです。これはどういうことでしょうか。下り坂か、少なくとも平らでなければ流れは曲がれません。



明治44年『番地界入地図』の経路と大正11年『帝都地形図』の標高


明治44年『番地界入地図』を見ると、流れは「文政十一年品川図」と同じくカルチャーセンターの所で右(西)に曲がっていました。明治20年『東京五千分一実測図』も同じでした。大正11年『帝都地形図』でこの土地の高度を調べると、カルチャーセンターの角から西の崖にかけて54尺(約16m)とほぼ平らな土地で、そこから南に向かってだんだん下がっていました。この地形ならば右(西)に曲がって流れても不思議ではありません。なおこの角の現在の高さは約14mで、当時より2mぐらい下がっています。元は谷に落ち込んでいたような急な坂道で、それが緩やかな坂に均されたのでしょう。




住宅の境の奥に古い大谷石の擁壁が


カルチャーセンターの角を右(西)に曲がり、上り坂の脇道を少し歩きました。40メートルほど歩いた右側に、カルチャーセンター裏の窪んだ細長い空き地がありました。脇道を隔てた向かい側は住宅の境界で、家と家との隙間が南に向かって長く延びており、遠くの方に古い大谷石の擁壁が見えました。脇道はこの先から急坂になるので、三田用水がさらに上の土地を流れていたとは思えません。明治20年『東京五千分一実測図』には、崖の手前を南北に走る水路が描かれていますので、この辺りで左(南)に向きを変えたのでしょう。


(東五反田3-11
突然現れた長い階段の道


坂道に再び戻って少し下ると、右側(西)に崖の上まで登るレンガ色の階段が現れました。神社のような長い長い階段で、次のブロックの普通の坂道を上がろうかためらいます。



階段の途中にあった古い大谷石の擁壁


階段を上ることにしました。その途中で、先ほど見た古い大谷石の擁壁が北から南へと続いているのを見つけました。三田用水はやはりこの辺りの下を南に流れていたのでしょう。



清泉女子大の敷地は仙台藩伊達家の御屋敷


階段を上がり切ると広い道路の曲がり角に出ました。ここは仙台藩主伊達家御屋敷の東南の角で、かつて袖ヶ崎と呼ばれていました。ツツジの名所でもあったそうで、近くには品川浦の漁村がありました。明治以降はこの土地が島津侯爵邸となり(この辺りは島津山と呼ばれた)、今は清泉女子大学のキャンパスです。学生さんはいい場所で学んで幸せですね。「文政十一年品川図」でも御屋敷に沿って南北に走る道が描かれていますが、今の道路の場所ではなく、もっと左(東側)の斜面の中ほどだったと思われます。




相変わらず続く大谷石の擁壁


清泉女子大の前の道路をまっすぐ南に下っていくと、左側の「道成谷」に下る脇道が何本かありました。流れの跡がないかと思って脇道に入ると、一つの脇道にやはり南北に走る大谷石の擁壁がありました。このような高目の場所に水路を設けていたということは、この辺りの斜面一帯が田畑だったのでしょう。




この道の右側に「水車」があった (東五反田3-13)

『東京時層地図』

三田用水は伊達家下屋敷の前をしばらく流れ、再び左(東)に曲がって元の坂道に向かいました。大正5-10年『東京時層地図』によると、この道の右側(旧大崎町458番地付近)に「水車」のマークがあります。この土地はすでに畑ではなく建物ですから、工場の発電に使っていたのでしょうか。



(東五反田3-14
流れは右の脇道から出てきて左の道を進む


元の坂道に戻る所は「道成谷」の底に当たり、これも奇妙な形の交差です。方向に迷っていると買い物袋を持ったおばあちゃまに声をかけられました。「この辺りに三田用水が流れていたので探していたんですが」と言うと、「ここには以前大きな土管がありましてね、雨が降ると水が漏れてそこら中に溢れていました。でも今はそういうことも無くなりましたよ」と。最近はニュースで「不明水」によるトラブルが話題になっていますが、斜面の崖の中に昔の流れが「水のみち」で残っていて、雨が降るとここに集まって溢れ出したのではないでしょうか。それにしても晴れた土曜の午前中は良い出会いがあります。以前に学芸員の方に「僕が道でうろうろしていたら怪しまれちゃうよ」と笑われました。おばあちゃまに感謝です。



「池下」を進むと右に細い緑地が

50メートルぐらい坂道を下ると右手に高輪ミューズビルがありました。この辺りが「池下」と呼ばれていた土地で、坂の傾斜は緩やかです。「文政十一年品川図」では、坂道の左側を流れていた水路がミューズビルの辺りで右側に移っています。ビルの前が40mぐらい細長い緑地だったので、これこそ水路敷の跡ではないかと勇んで調べたのですが、ビルの方も区役所の方も分からないとのご返事でした。



湧き水と思ったのですが

石の遺物

緑地の傍に石の水槽があり金魚が泳いでいましたが、湧き水ではないとのこと。水槽の隣に長さが2mほどの石の遺物が置かれていました。穴が5つ彫られ、石の真ん中に大きなひびが入っています。区役所のお話では古いものではないそうですが、何に使ったのでしょう。



(東五反田3-21
ブーツの先のような形をした道


坂をほぼ降り切った三田用水は、ブーツの先の形のように300度ぐらい大きく回わり、今の都道317に入って西に流れます。昔の農道に沿った流れですが、この道は今でもブーツの形をしていました。明治以降の区画整理を何回も乗り越えて生き残ったのでしょう。曲線の道は昔の景色を感じさせますね。




「橋」があった小道が今は都道317

「文政十一年品川図」では西に3040mぐらい進んだところに「橋」があり、流れはそこを左(南)に曲がって目黒川に向かいます。しかし現在はそのルートの上にビルや商店がびっしり並んでいます。そこで都道317100mほど先まで歩き、一つ目の信号を左に渡ってから目黒川(南)に向かうことにしました。ここに「橋」が架かっていたということは、流れと交わる道は畦道ではなく、荷車や馬車が通れるような小道だったのでしょう。それが今日の都道にまで発展したとは。とても暑い日だったので、信号を渡った角のセブンイレブンに飛び込んでクーラーで涼みました。



(3)目黒川近くの「小関畑」までの流れ


流れは「小関畑」の南端で消えていた

最後に目黒川までのルートを辿ります。三田用水は、「橋」の下を通って平らな土地に入った後、緩やかなカーブを描いて入会地や田畑を300mぐらい流れます。やがて左(東)に曲がり、「北品川小関畑」とある土地の南端を100mぐらい進んだ所で消えます。それまで二本線で描かれていた三田用水は、左に曲がってから徐々に一本線になって消えていきます。ここから目黒川までの土地は「河原耕地」とあり、周りの田畑に水を注ぎながら流れを終えたのでしょう。この「小関」という土地は『新編武蔵風土記稿』(注9)によると昔の街道の関所跡で、天正7年(1579)のお寺の記録にあるそうで、かなり古い地名です。なお「文政十一年品川図」の三田用水は農道に沿って流れていますから、この道を明治の精度が高い地図の中で位置づければ正確な場所が分かると考えられます。しかし明治になると地図の道がどんどん変わり、昔の道を探す作業はジグソーパズルのようです。



東五反田2-21
碁盤の目のようなオフィス街

この地域の歴史は江戸、明治から現在まで大きく変わりました。江戸時代は目黒川沿いの平らな土地に田畑が開け、猿町からの流れの他にも、久留島上など幾つかの分水の支流が自然の小川のように長閑なカーブを描いて流れていました。しかし明治になると近代的な農業が始まり、農道も用水路も並行した直線の形に整備されました。大正時代になると地域は日本を代表する工業地帯になり、三田用水も灌漑用から工業用へ、 特に水車の動力へと変わりました。そして昭和の初めに電力が普及すると、三田用水はほとんど使われなくなりました。最近は都市再開発によって最先端のオフィスビルが並び、昔の道や流れの跡は全くなくなりました。この土地にビルや工場を建てた時に工事現場から昔の木樋や水門などが出土していたのかもしれません




水路の跡のように見えるが

それでも何か手掛かりはないものかと思い、セブンイレブンの角の道を南に向かいました。三田用水が流れていた土地が左側(東)のブロックなので、脇道を左に入って少し歩くと、南北に走る幅1メートル強の細長い私道を見つけました。大きなビルと駐車場の間にある真っ直ぐの砂利道で、草が生えて湿った感じがして、下に「水のみち」があるようにも思えます。「文政十一年品川図」の道は緩やかなカーブでしたから、水路であったとしても古くはないでしょう。しかし、いつの時代でも流れは気になります。五感を覚ましながら歩いてみました。


(東五反田2-22
元は水路だった住宅の生垣

別の脇道に入って歩いていると、ご主人と植木の手入れをしていた奥様が声をかけて下さいました。三田用水の水路のことをお話しすると、すぐにご返事がありました。「15年前にここに引っ越してきたんですが、不動産屋さんがそこの生垣の所が元は水路だったと言ってましたよ。ほら少し窪んでいるでしょう」。生垣をよく見ると、隙間のような細長い土地が北の方から長く延びており、確かに窪んでいます。不動産屋さんが水路だと言ったのですから間違いありません。しかも生垣は先ほどの細長い砂利道のちょうど南側で、そこから繋がっていたのかもしれません。とにかくここに水が流れていたと思うだけで元気が出ました。生垣の写真を撮らせていただいて、お礼を申し上げてお別れしました。




流れは小関橋交差点辺りで消える

「文政十一年品川図」に描かれた水路は、今の大崎ブライトコアの下で左(東南)に曲がって小関橋の信号の方に向かい、そして信号の辺りで消えていました。目黒川に架かる小関橋まで約100m。ここまできた三田用水は、「小関畑」や「河原耕地」に水を注いで下北沢からの旅を終えたのでしょう。当時の目黒川は今と違ってかなり蛇行していましたから、三田用水の流末と川が接したこともあったでしょう。



小関橋から目黒川を眺めて 

写真は小関橋の上から目黒川の大きな流れを眺めたものです。猿町から目黒川までは長さが約1.5㎞、高低差が約25mに過ぎませんが、「文政十一年品川図」には実に多くの情報が書き込んであり(くずし字を読むのが少し上手くなりました)、面白い話がたくさんありました。この土地が豊かな歴史を育んできたせいでしょう。三田用水が何回も流れの向きを変えたのを見て、昔の人が水を大切に扱っていたことを改めて感じました。流れが短いので報告ももっと短いつもりでしたが。最後までお読みいただき、ありがとうございました。


(注1)「三田上水」は寛文4年(1664)に、三田・芝・金杉に給水する上水道(飲み水等)として幕府の命により開削された。ルートは玉川上水の下北沢村(北沢5丁目)から猿町(高輪台)を通って北の西應寺町(芝2丁目)まで。下北沢村から猿町までは堀割(開渠)で、猿町から西應寺町までは(木樋で)地中を流れた。「三田上水」は享保7年(1722)に幕府の命で廃止されたが、2年後の享保9年(1724)に流域14か村の嘆願によって農民に払い下げられ、名前も三田用水と改められた。その目的は田畑の灌漑用水に変わり、官と組合の村々が管理した。ルートは下北沢村から猿町までは「三田上水」と同じだが、その後は北品川宿を通って目黒川に注いだ。(『東京市史稿』水道篇第1、東京市役所、大正8年、218-221頁)。三田用水には寛政9年(1797)に17の分水口があったが、明治11年(1878)には19になった(『品川町史』中・下巻、品川役場、昭和7年参照)。組合は明治23年に公法人の三田用水普通水利組合となって活動を続け、昭和27年(1952)に解散したが、その後水利や敷地の権利を巡って国・都と係争になり、昭和59年(1984)に清算を終えた。また三田用水は昭和50年(1975)に廃止された。
(注2)『多摩から江戸・東京をつなぐ水循環の保全・再生~東京オリンピック・パラリンピックを契機として~』、主催:玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会主催、内容:展示と講演会、開催日時・場所:平成28108日~10日、東京都議会議事堂1階都政ギャラリー・都民ホール。
(注3)三田用水は明治時代半ばまで以下の6分水口から灌漑用水として渋谷、白金等の地域に供給され、渋谷川に流入していた。すなわち神山口(松濤2丁目)、鉢山口(鉢山町)、猿楽塚口(猿楽町)、道城池口(恵比寿南2丁目)と通称「白金分水」と呼ばれた銭噛窪口(三田1丁目)、今里村口(白金台3丁目)(最後の2つは渋谷川下流・古川へ流入)。「三田上水」時代には飲み水として西應寺町まで達した後、流末は渋谷川の傍流である入間川に流入していた。

注4)「文政十一年品川図」『品川町史』上巻の付図、品川役場、昭和7年。

注5)「芝区全図」『東京市15区番地界入地図-明治四十年調査』東京逓信管理局、人文社、昭和61年。「東京府荏原郡品川町 大崎町全図」『東京市近傍郡部町村番地界入地図-明治四十四年調査』 東京逓信管理局、人文社、昭和61年。『東京五千分一実測図』明治20年作図、内務省地理局、大日本測量資料調査部複製。井口悦男編『帝都地形図6』之潮、2005年。『東京都港区近代沿革図集 高輪・白金・港南』東京都港区立三田図書館、36-37頁、昭和47年。「品川芝筋白銀麻布」前掲『東京都港区近代沿革図集』別冊1安永・昭和対象図、昭和50年。明治919年『東京時層地図』日本地図センター、平成22年など。
(注6)猿町まできた「三田上水」はどこから地中に入り三田や芝へ送られたのか、また余水はどのように処理されたのか興味深い。玉川上水は四谷大木戸の水番屋で水量の調整(渋谷川への吐水)や芥留め(ゴミさらい)をして、その後地中の石樋・木樋を通して江戸の町に配られたが、「三田上水」も猿町で同じような作業をしていたと考えられる。場所は猿町の北側にあった有馬屋敷の近くであろう。猿町に入る手前の水路に「用水敷地」という場所があるが、ここは何に使われたのだろうか。余水の処理については、三田用水の時代の『江戸町方書上』(後掲)に記録が残っている。それによると、有馬屋敷の角から地中の木樋を通して町の反対側に送って大崎に流していた。このシステムはすでに「三田上水」の時代にあり、三田用水はこれを受け継いだのかもしれない。
(注7)長谷川正次監修『江戸町方書上』(二)芝編下巻、東京都港区立みなと図書館、平成6年、395-401頁。 
(注8)「三田上水」の時代は、猿町から目黒川に向かう流れは“余水、残水”の扱いであったが、三田用水になってからは流域の村々が管理し、経費も村費で賄った。猿町からの流末は、給水を受けていた北品川宿と上・下大崎村が管理したのであろう。明治11年の水利組合の書類に新たに「品川口」が現れる(前掲『品川町史』下巻889-894頁)。この分水口が作られた時代や場所は分からないが、給水先が北品川宿・下大崎村とあることから、猿町からの流末を指すのかもしれない。

(注9)間宮士信他編『新編武蔵風土記稿・東京都区部編』第3巻、千秋社、昭和57年、425頁。
(終)     
                                             

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