Last Update : Jun 30,2000

Ryuichi Sakamoto

Yukihiro Takahashi

Haruomi Hosono

本名

坂本龍一

高橋幸宏

細野晴臣

担当楽器

キーボード、ボーカル

ドラムス、ボーカル

ベース、ボーカル

生年月日

1952年1月17日

1952年6月6日

1947年7月9日

出身地

東京都

東京都

東京都


個人史

幼少時代

小学校時代

中学校時代

高校時代

学時代

幼少時代  幼稚園時代から譜面やピアノなどの音楽教育を受けて、早くも作曲を行っている。  5人兄弟の末っ子だった彼は身体が弱く、療養のために東京を離れることもあった。釣りはこのころから好きだったらしい。  自宅にあったレコードを聴きまくるために蓄音機の操作を覚える。このころからブギウギなどのリズムによく反応する子供だった。

小学校時代

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この時代、ピアノは習い続けるがごく普通の子供だった。

 5年生の時から芸大教授、松本民之助につき本格的に作曲の勉強を始める。

 受験校に通っていたが、5年生の時にビートルズを聴かされてから、本格的に自分でポップスを聴くようになる。そして、6年生の時にドラムセットを買ってもらい、音楽にのめり込んでいった。

 何時間聴いても飽きないほど音楽に傾倒していく。ハリウッドの映画音楽に惹かれる。また、高学年になると、ラジオの深夜放送を聞き始めプレスリーなどの最新ポップスに親しむようになる。

 一方で、漫才やマンガが大好きで人を笑わせることも大好きだった。

中学校時代

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 バスケ部に入部。しばらくはスポーツ少年のため、ピアノはお休み。

 その後、ベートーベン「ピアノ協奏曲3番」に感動し本格的に作曲に取り組むようになる。もっぱらクラシック理論にのっとった作曲だったが、一方でビートルズをはじめとするリバプールサウンドなども聴いていた。

 サルトルやデカルトなどの哲学書をよく読んでおり高校時代の学生運動につながっていく。

 2年生の時、小学校時代からの友人である東郷昌和らとブッダズ・ナルシィーシィーを結成。当時流行していたサイケデリック・サウンドを演奏していた。ブッダズ・ナルシィーシィーはパーティなどを中心に活動していた。

 ちなみに兄の高橋信之はギタリストとしてフィンガーズというグループに参加しており、プロデビューしていた。

 中学入学祝いでギターをもらい、3人組バンドを結成。テープレコーダーに吹き込んだりして遊んでいた。空き缶で作ったドラムを使うなどかわいいものだったが本人は真剣そのもの。ビーチボーイズやベンチャーズなどをコピーしていた。

高校時代

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 新宿高校に入学すると、学生運動にのめり込んでいった。高校をバリケード封鎖するなど、過激な活動を行っているが、高校1年の時、既に東京芸術大学に入れるだけの実力を認められていた。

 立教高校2年の夏、ブッダズ・ナルシィーシィーは軽井沢のパーティに出演し、バーンズという慶応大学の学生を中心としたバンドと競演する。

 バーンズのベーシストだった細野晴臣とであった彼は、その後も松本隆、鈴木茂、小原礼、竹田和夫、ヒロ柳田などとセッションを行い、ミュージシャン達との交流を深めた。

 また、このころからミュージシャン仲間の間では、ひときわファッショナブルな存在だった

 立教高校へ進学し音楽部へ入部したものの自分のやりたいものと方向性が違い、キングストン・トリオ・スタイルの3人組フォークグループを結成。

 このあたりから、徐々に才能を発揮し始めることになる。このフォークグループと並行して中学時代からのエレキ・バンドでも活動。さらに一人でボブ・ディラン・スタイルを追求するなど多彩な活動を行う。

大学時代

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 東京芸術大学音楽部作曲科に進学。アルバイト的にポップスを弾き始め、ライブハウスなどにも出るようになっていたが、飲み屋で知り合ったファークシンガー友部正人のアルバム「誰も僕の絵を描かないだろう」で1曲ピアノを弾き、これが彼にとっての初レコーディングとなった。

 同じ頃、大瀧詠一、山下達郎、伊藤銀次によるアルバム「ナイアガラ・トライアングル」に参加。ここで初めて細野晴臣と出会っている。

 この後、山下達郎と親しくなり、山下のりりぃのバックバンド、バイバイ・セッション・バンドをはじめとするいくつものセッションに参加。りりぃのアルバム「オーロイラ」ではアレンジを手がけ、アレンジャーとしても高い評価を受けている。

 山下達郎のバックバンドとして、日比谷野外音楽堂に出演した時、サディスティクスのドラマーとして参加していた高橋幸宏と初めて出会っているが、この時は両者ともあまり印象には残らなかったようだ。

 武蔵野美術大学に進学したが、父親の仕事上のトラブルのため、兄弟を中心としてファッションメーカーを家業として始める。彼自身もメンズ部門のデザインを手がけることになった。

 前後して兄の高橋信之はフィンガーズをやめ、作曲家としての活動を始めていた。ブッダズ・ナルシィーシィーのヴォーカル東郷昌和と小出博志を組ませて、バズというフォークデュオをプロデュースしている。ちなみにバズの大ヒット曲「ケンとメリー」は高橋信之の作品である。幸宏もバズに作品を提供している。

 さらに、おなじ武蔵野美大に進んだ小原礼とともにガロのバックバンドに参加した。

 その後、加藤和彦が結成したサディスティック・ミカ・バンドにこれまた小原礼とともに参加。ガロの方は、「学生街の喫茶店」の大ヒットとともに歌謡曲的サウンドになっていくことになり、幸宏と小原礼は離れていった。

 サディスティック・ミカ・バンドは、当時のロンドン・ポップ、グラム・ロックのセンスを取り入れた非常にポップなバンドだった。メンバーは、幸宏、小原礼の他、加藤和彦、ミカ、高中正義、今井裕。

 立教大学に進むといよいよ本格的な音楽活動が始まる。同級生がやっていたビートルズのコピーバンドに臨時ベーシストとして参加。これがベーシストとしてのスタートとなった。また、その後の音楽活動と密接に関わる重要な人物との出会いが始まる。

 あちこちのバンドにセッション的に参加していた。その中の高校生グループにいた鈴木茂、林立夫、小原礼らと出会う。

 その後、慶応大学のバーンズというバンドにベーシストとして参加。バーンズのドラマーが松本隆である。バーンズはシャドウズのコピーバンドだったが、細野が参加した時には、サイケデリックサウンドの影響を受け、クリーム、ジミ・ヘンドリクスなどのコピーをしていた。

 バーンズで参加した夏休みの軽井沢でのパーティで運命の出会いを果たすことになる。ブッダズ・ナルシィーシィーというというバンドでドラムをやっていた高橋幸宏である。

 もうひとり大きな出会いがあった。そのころツルんでいた中田喜彦の友達で、マッシュルームカットの不思議な男、大瀧詠一である。この3人でランプポストというハーモニーを主体としたグループを結成する。

 その後、ヒロ柳田、小坂忠が参加していたフローラルというプロのバンドから声がかかり、松本隆とともに参加。フローラルはエイプリルフールと名をかえ、ディスコを中心に活動していた。エイプリルフールはローリング・ストーンズ誌に初めて紹介された日本のロックグループである。









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