時は19年ほど遡る。場所はイースト・ブルー。 悪臭と不健康な湿度の籠もった重い空気をかき回す、ピッチングの度に軋む側板 の音に紛れて、シャンクスは足首を戒める鎖に掌に隠した鉄片をこすりつけ続けて いた。垂れ流しを強いられた排泄物でべとつく衣服の感触が堪らなく嫌悪感をそそ る。彼の脚力なら、その気になって、且つ周囲の被害を無視すればどうにかならな いこともない拘束だと解っているだけになおさら苛立ちが募った。格別の整備も無 く使われ続けてきたらしい鉄の足枷は相応に腐食がすすんでいるが、不用意に引き ちぎろうと藻掻けば、数珠繋ぎにされた同じ境遇の他の6人にダメージが及ぶ程度 の強度は保っていた。 彼が乗り組んでいた船が、モーガニアに襲われたのは半月ほど前のことだ。よく 応戦したが、数で押され、これ以上抵抗すれば関係もない囚われ人を殺すと脅迫さ れては為す術がなかった。 仲間たちの大半は慰みに殺された。ひときわ苛烈に戦ったシャンクスも渡し板へ 並ぶ列に一度は加わったが、皮肉にも、その技量と、そして目立って整った容姿が 彼の命を救った。年齢は18歳と、色町に売るには微妙な年齢とはいえ、これだけ 鮮やかな赤毛に翡翠の目の取り合わせは珍しいし、年より若く見えるから売れない こともあるまい。そっちの買い手がつかなくても、読み書きそろばん一通りいける のだから、見栄えのする護衛兼秘書役の奴隷を欲しがる商人あたりが良い値を付け るだろう。勝手な皮算用を声高に並べ立てながら、無遠慮に髪だの顎だのを掴んで くる手をはじき飛ばさないためには、渾身の自制を絞り出す必要があった。 今回は実入りが少なかったからな、俺たちの酒代のためだ、せいぜい気前の良い 買い手を掴まえてくれよとあざ笑う顔。ぶち殺してやりたかった。だが、まだだ。 まだ激発してはならない。犬死して堪るものか。時を測れ。今は全ての手を尽くし てチャンスを待つべき時だ。わかってはいる。わかっていても、待ちは苦痛だった。 空腹、不快感、瞋恚、屈辱。全てを腹の中でじりじりと圧縮していく。来ないか も知れない反撃の時のために、弓を引き絞るように力を溜める。 ジェイドグリーンの瞳が、囚われた狼の光を放った。 「げ…」 双眼鏡片手に水平線を監視していたスモーカー少尉候補生の口元から、火のついた 煙草がぽろりと落ちた。あわてて踏み消し、マストの下でのんびりと一服入れている 担当教官をこっそりと呼ぶ。 「何よいきなり」 モホークに刈り込んで、逆立てずに頭頂部とうなじで結わえた、個性的というか気 合いの入ったヘアスタイルの女将校が、風に吹き散らされる黒髪を払って見張り台へ 駆け昇ってきた。無言で双眼鏡を押しつけ、指先で海上の一点を示す。見る見る頬が 引きつった。 「フリント…!」 赤錆色のジョリー・ロジャーは、イースト・ブルー屈指の凶暴さで名高いモーガニ アのロングシップに間違いない。船影から判断して遊撃担当の一番艦。 フリント海賊団は、石火の名に相応しく足の速い船を揃えている。しかも海軍は出 会う端から皆殺しをモットーとする連中だ。座して見逃してくれる可能性は限りなく 低い。 「上の奴ら、本気で俺らを厄介払いしたいんじゃねえだろうな」 「馬鹿言ってる場合か!レッドシフトの奴らを叩き起こして来て。操船と見張りに 最低限の人数残して会議室に集合。3分以内。騒ぎにするんじゃないよ」 船内の仕事は2交代の24時間体制だ。ブルーシフトがポジションに着いて2時間、 レッドシフトの連中はベッドと懇ろになっている頃合いだが、そんな悠長なことは言 っていられない。 ベルメールは、苛立たしく両切り煙草を吹かしながら、足早に会議室へと向かった。 ひょんな事情で悪魔の実を喰らい、上級士官へのルートに半ば強制的に乗せられたか つての部下の馬鹿な台詞は、しかし否定しきれないリアリティをもっていた。 一ヶ月前、士官学校の卒業訓練航海の教導任務を命じられたとき、正直彼女は人事 部の正気を疑った。海賊王との決戦後、深刻な不足をきたした前線指揮に就く尉官の 補充目的で、通常4年、かなりの科目を履修免除される軍務経験者でも2年かかると ころを僅か半年の士官教育で少尉に任官された『即席将校』に回ってくる業務ではな い。どう考えてもお門違いな話だ。 一体何のつもりだと噛みついた上司にはぬらりくらりと逃げ切られ、釈然としない 思いと共に持ち帰った資料は、何故自分にお鉢が回ってきたのか勘ぐらせるには十分 な内容だった。使用するトレーニング・バジルは火力と小回りを両立させようとして 見事に失敗し、仕方なく教務部に下げ渡された曰く付きの代物だし、訓練海域はアウ トロウ共が横行するルートすれすれ、乗り組む面子の顔触れがまたすごい。兵卒時代 から上官侮辱罪や抗命罪で営巣入りの常連だったスモーカーを筆頭に、見るべきとこ ろのある成績を収めながらも教官受けの悪さが祟って総合評価を落としている奴らが 勢揃いだ。学校当局は、意地でもこいつらを成績優秀で卒業させたくなかったに違い ない。まともな教導などできっこない士官を敢えてあてがったのも、その辺の思惑が 絡んだ気配は濃厚だ。 冗談じゃない。ベルメールはぎりりと奥歯を噛んだ。一時とは言え可愛い教え子な どと口幅ったいことを言う気はないが、自分で考える頭を持った将校は貴重品だ。あ いつらには、そうなる素質がある。下らないプライドを満足させることに血道を上げ て恥じない馬鹿共にその芽を潰させたく無かった。自分だってこんな阿呆な事態に殉 じてやる気はさらさらない。 (恩給がつくまで勤め上げたら、退職金で故郷に果樹園付きの一軒家を買って悠々自 適の第2の人生って決めてるのよ、あたしは) 建て付けの悪い戸を乱暴に引き開け、壁のフックに掛けられた海図から必要なもの を選び出す。卓上に海図と机上演習用の小道具一式を放り出すと同時に、蝶番が悲鳴 を上げた。戦闘用のブルゾンの襟元に士官学生を示すコッパーゴールドの徽章を付け た連中が足早に会議室に入室してくる。 「スモーカー以下15名集合したぜ。見張りと操船に5人残してる」 「時間通りだね、結構」 本当なら上官相手にタメ口きく奴があるかと説教の一つもするところだが、時間が 惜しい。 ワ ッ チ 「全員着席。緊急事態だ、よく聞いて。先ほど見張りがフリントの一番艦を発見し た。位置関係はこの通りだ」 海図上に、演習艦と敵艦のフィギュアを配置する。 「先日広報部から発表があったから聞いてるとは思うけど、現在ヘイエルダール海流 は例年より蛇行が激しい。この海域のほぼ中心を通って東へ逃げている」 こんな感じだ、と鉛筆でぐりっと修正ラインを引いて、ベルメールは力を込めて頭 を上げた。これさえなければこんな馬鹿馬鹿しい遭遇戦が発生することも無かったの だろうが、自然現象相手に愚痴っても始まらない。 「見ての通り、この状況じゃ逃げるだけ無駄だ。よって本艦は直ちに戦闘態勢を取 る。質問は」 空気が音もなく揺れた。騒がないだけ上等だ。ベルメールは強いて不敵な笑みを作 った。 「無いようだね。配置を発表する。まず操帆はスモーカー候補生の班」 「アイ・サー」 「ガンデッキはヒナ嬢んとこで仕切って。ベックマンの坊やの班は、班長のみ操舵、 あとは半分に別れてスモーカーとヒナの班のアシスト。」 「任せて。ヒナ了解」 「ヤヴォール」 指名した連中は、今年度の全軍合同海戦技能競技会において、並みいる各艦隊のエ ースを相手に三人乗りガンボート競技部門を制したメンバーだ。旗門通過タイムと標 的射撃の総合得点で競われるガンボート競技は、操船技術と射撃技能、そしてメンバ ー間の迅速且つ緊密な意志疎通が勝敗を分ける。現状では妥当な配置だろう。スモー カーを除けば初陣、しかも揃って十代の最年少トリオ−−−スモーカーがもうじきは たち、ヒナ嬢は16で入学して一年スキップしたから19、ベックマンに至ってはま だ14にしかならない。ちなみに通常の士官学校卒業年齢は22歳である−−−がせ っぱ詰まった状況でどこまで実力を発揮できるか不安が無いではないが、こうなった ら出たとこ勝負だ。 「作戦はヒット・エンド・ラン。鼻面はたいて足止めすることを考えて。撃沈でき なくてもいい。 コースは大筋でこんな感じ、スキュラ岬を回り込んで、相手が追ってくるようなら ミルコレメオ群島に紛れて撒く。追撃戦になったら根性の勝負だからね、胆据えてか かりな…ベックマン候補生、何か。発言を許可する」 海図におおざっぱなルートを書き入れて、ベルメールは無言で挙手した黒髪の候補 生に視線を移した。 ベックマンは、受験資格年齢を大幅に下回る12歳で特例として入学許可を受け、 その後も飛び級に飛び級を重ねて足かけ2年で最終学年に進級したという派手なプロ フィールに似つかわしくなく、進んで自己を主張しない寡黙な少年だった。外見も、 せいぜい年相応に未成熟な骨組みと、静謐な、殆ど老成した挙措が微妙に違和感を感 じさせる程度で、およそ人目を引かない。 だが、おつむの出来が常人とは違うことだけは疑いようのない事実だ。馬鹿な意見 をわざわざ発言の機会を求めてまで提示することはないだろう。 「その配置で、現在の気象条件なら、鵺の顎を抜けることは可能です」 骨張った指先に挟まれた手巻き煙草の火口が、無造作に海図の右端、二つに別れた 岬の間を指す。 ベテランクォータ・マスターでも怖気を震う難所を通過可能だと淡々と断言した教 え子の、目元を薄いグレイのサングラスに隠した痩せた顔をまじまじと見返す。自分 の耳が信じられない。 「本気…みたいだね。敵さんが同じルートで追撃してくる可能性は?」 「向こうにも俺が乗っているなら」 いっそ凄まじいほどの壮語だ。普段の彼女なら自惚れるながきんちょと一笑に付した だろう。しかし揶揄の言葉はベルメールの喉の奥で凍り付いた。 大会の勝敗を決した、突然の横風が白日夢の鮮やかさで甦った。全ての参加艇が対処 に一拍の遅れを強いられる中、イースト・ブルー校代表だけが、突風さえ味方に付けて 鮮やかな航跡を描いていった、あの奇蹟のような一瞬。そして、スモーカーの、自嘲に 近い独白。ヒナも俺も、頭なんざ一つも使いやしなかったよ。ベンの指示をトレースし ただけだ。 並大抵のことでは素直に他人を賞賛することのない元部下の発言が、実戦経験だけは 豊富な少尉の腹を固めた。 「オーケイ。候補に入れよう。状況を見ながら判断する。 他提案は?無いなら直ちに解散」 「イエス・サー!」 一斉に椅子を蹴って、掌を額に向ける海軍式の敬礼で答を返し、士官候補生たちは足 早に持ち場へと向かった。 列の最後尾を歩いていたスモーカーの唇に、不意に吸い差しのシガリロが押しつけら れた。一口吸い込んで、 「相変わらずいいの吸ってやがんな…どういう風の吹き回しだ、ヒナ?」 濃い煙が喉をがつんと蹴りつけてくる。そのくせ、安煙草にありがちないがらっぽい 後味が残らない。自分の懐具合では決して手が出せない値段だけのことはある。指先に 溜まる軽いしびれがいっそ心地よかった。 「ガンデッキは禁煙じゃない。あげるわ」 「そりゃご愁傷様。どうせ海賊相手だ、遠慮なくストレスぶちこんでこい」 「スモーカー君こそ、調子に乗ってマストから落ちないでよ」 ふふんと肩をそびやかし、砲列甲板へ続く梯子を半ば滑り落ちる勢いで降りてゆく後 ろ姿を見送って、スモーカーは足を早めた。甘いココナッツの香りを裏切るきつい吸い 味が、豹に似て優美且つ獰猛、おとぎ話のタイトルをもじって美女で野獣と揶揄される 女のイメージに妙に被って、嗤いがこみ上げてくる。2年ぶりの実戦に、さしもの自分 も昂ぶっているのかと思うとなおさら可笑しい。 なにトロトロしてやがると無言の非難をねじ込んでくるベックマンの視線を片手を挙 げて受け流し、スモーカーは体躯に似合わぬ身軽さでメインマストを駆け登った。耳に は自信がある。このくらいの距離なら、指示を聞き逃すなどと言う失態を犯す気遣いは ない。瞬く間にトップシュラウズに取り付くと、思ったより接近していた敵艦が視界に 入る。 (…なんか笑ってなかったか?あいつ) 不穏な無機質を常態とする年下の同期のシルエットに、僅かな昂揚の欠片を見たよう な気がしてスモーカーは首を捻ったが、すぐに忘れた。どうでもいい思惟に頭を回して いる場合ではない。 さあ、やろうぜ海賊共。 ぎりぎりと口角をつり上げて、野犬と異名をとる青年の頬が、牙を剥く嗤みの形を刻 んだ。