波の荒い海域に入ったようだ。突き上げるローリングに三半規管をかき回さ れて、船になれない子供たちが瀕死の顔色で蹲る。吐こうにも、丸一日近くな にも摂取していない胃袋は空っぽだ。 痙攣するように空えずきを繰り返す背をさすってやっていたシャンクスは、 不意に波の揺れとは異質な振動が側壁を伝わるのを感じ取って頭を上げた。 よちよち歩きの頃から砲列艦の甲板を遊び場にしていた彼にはおなじみの感 覚だ。間違えようもない。 弾着、それも振動の残り具合からして直撃。口径は7インチ前後。 鉄片をサッシュの端に刺し込み、シャンクスは切れ目の入った鎖をねじ切り にかかった。音が漏れないようにと包み込んだ掌をささくれた断面が容赦なく 裂く。構わず力を込めた。 「な、何をする気じゃ」 「逃げるんだよ。こんなチャンス、二度と来ない!」 ささやきに叱咤の強さを込めて、シャンクスは二つ隣に繋がれている白髪頭 の会計士に鋭利な視線を突き立てた。早口で現状の推察を告げる。 何者かがこの船に攻撃を仕掛けてきている。目的地や自分が囚われてからの 時間、今の季節の風向きなどから計算して現在地がミルコレメオ群島付近であ ることは間違いない。 「商船っつーか密輸船間の情報網で聞いたんだがな、今年はヘイエルダール 海流−−−今この船が乗ってる流れだよ−−−はかなり蛇行して、海軍の演習 海域に入り込んでる。俺らは丁度その辺に差し掛かってる。そんなところを通 りかかる武装船の可能性なんか一つしか無いだろ!大砲の弾が届く距離に海軍 がいるんだ。 あんたが諦めるってんなら勝手にしろ、俺は逃げる。このまま値札付けられ て競り売り何ざまっぴらごめんだ」 馬鹿なことは止めろ。正気か。巻き込むな。 ぐるぐると渦を巻く言葉の固まりに喉を塞がれたまま、会計士は激情に任せ て頭を跳ね上げた。 正気の沙汰ではないのだ、本当に。この、修羅場に慣れた様子の青年一人は 確かにどうにかして逃げ延びるかも知れない。少なくとも、この暗い臭い船倉 からは。 だが他のものはどうするのだ。一人が騒ぎを起こせば、全員が暴行の対象に なる。子供たちを見ろ。残飯以下、汚水だかスープだかわからないような代物 を、命を繋ぐぎりぎりの量しか与えられてこなかった衰弱した体を考えてみろ。 打擲一つにさえ耐えられまい。儂らを殺す気か。第一今攻めてきているのが海 軍だと何故言い切れる。情報が伝わっていなかったモーガニアではないと断言 する根拠がお前にあるのか。 久しぶりに、全く生まれて初めてではないかと言うぐらい久しぶりに、歳月 以上に年老いた会計士は、飽和して言葉にもならない何かを叩きつけようとし た。自分の半分も生きていないだろう赤毛の少年に目を合わせ、絶句した。 金属色の焦熱を孕んだ翡翠の視線が、あきらめの理屈をこね回すことにばか り長けた脳内を灼いていく。意識が空白になる。 「…儂は、どうすればいい?」 勝手に口から滑り出た言葉に驚愕した。しかし翻すいいわけは一向に出てこ ない。 「騒ぎ立ててくれ、見張りがうるさいって怒鳴り込んでくるぐらい。仮病で も何でもいい、やり方は任せる。後は俺がどうにかする。みんなで逃げよう。 頼りにしてるぜ、じーさん」 にやり。 やられた。 痺れたような意識の隅で、高く響く破砕音を彼は聞いた。意志などあるとも 思われず、只能力だけを金で売り買いされる長い年月が築き上げていたはずの、 諦念という名の自衛が崩壊する音。どこか産声に似ていた。 「まだ47だ、爺さん呼ばわりは止めろ。儂にはエイブラムという名前があ る」 反射的に言い返して、会計士は自分も笑っていることに気付いた。慣れない が、悪い気はしなかった。 不運ばかりの40年。ここら辺で、溜まりに溜まった幸運が出てくる方に一 点掛けしてもいいかも知れない。この若造なら、移り気なフォルトウナの天秤 を無理矢理傾けるぐらいの真似はやりそうだ。 自分で思っていたほど枯れきってはいなかったらしい胸の内をくすぐったく 感じながら、エイブラムは悪臭が染み込んだ病んだ空気を思い切り吸い込んだ。 ぐ、と腹に力を込め、 「誰か、誰か来てくれ、せめてこの子らに水をやってくれ!このままでは死 んでしまうぞ、儲けが減っていいのか!頼む、後生だ、恩に着る!薬とは言わ ん、せめて水を!」 思いつくままにわめき散らした。大声を出すのは快感だと初めて知った。哀 願と恫喝を交互に叫ぶ会計士の絶叫に、子供たちのうめきが唱和した。お願い、 水を頂戴、飲ませてくれなくてもいいの、口をすすぐだけでいいから、一口だ け水を! 執拗な、壁を割らんばかりの喧噪に耐えかねた人相の悪い水夫が、苛立ちを あらわに戸を開いて銅鑼声を張り上げた。 「うるせえお前ら、黙れ!鞭が欲しいのか!」 知性の欠片も無い獰猛な悪相に向けて、シャンクスは挨拶がわりにねじ切っ た鎖の破片を手指のスナップだけではじき飛ばした。対応の隙を与えず左足裏 に体重を乗せ、腰をかち上げる。 跳躍は地を這うほどに低く、全ての力を前進に振り向ける。軸足と左肩が鋭 角の一直線を描いた。 砲弾の速度をもった肩で膝を打ち抜かれた体が顔面から床に倒れ込むより早 く、前に出した右の踵を床にたたきつけハーフターン。サッシュを引き抜き、 回転の勢いを乗せて見張りの首に叩きつける。 慣性に従って、鉄片を刺し込まれた飾り帯の先端は、首を支点に一回転して 手元に戻ってきた。肩胛骨の間に足裏を乗せると同時にサッシュの端をホール ド、腕をクロスさせて、背筋と体重の力を持って一気にのけぞりつつ膝を伸ば す。ごき、と嫌な手応えがあった。頸椎が外れる感触。 断末魔の痙攣に踊る見張りの腰から鍵束を抜き取ってエイブラムに放り投げ、 シャンクスは人一人殺した直後には似つかわしくなく闊達に口尻をつり上げた。 目ばかりに闘争の余韻を残し、 「な?何とかなるだろ。子供たちの足枷外してやってくれ。えーと、ランス だっけ?」 「なに…」 囚われた子供たちの内では年かさのうちにはいる、故郷では騎士の従卒だっ たと言っていた少年は、眼前の凶行におびえを隠せない表情でシャンクスを見 上げた。 「頼みがある。この中で、ともかく戦いを知ってるのはお前さんと俺だけだ。 他の子たちが横から出てきた連中に捕まらないように、何とか守ってくれ。出 来るよな?」 船に酔って土気色を呈していた柔らかい幼い頬に血の色が注した。 「逃げられるの!」 「外に海軍がいる。跳びだしゃ拾ってもらえるさ」 振り返りもせず、シャンクスは高さ1フィートほどの覗き窓の鉄格子に手を 掛けた。左足を高く揚げて戸板に押し当て、こじり引く。物悲しい破砕音と共 に鉄棒は枠から引き剥がされた。 獲物がわりに鉄棒を投げ渡そうとして、シャンクスは微笑んだ。ランスは、 鍵を外してやりながら、今まで彼らの足を拘束していた鎖を武器として利用す る術を他の子供達に説いている。 「いいかい、足か、膝のあたりを狙って横に振り回すんだ。捕まりそうなく らい近くだったら鼻でもいい。ぶんぶん振り回せば、絶対びびって離れるから、 そしたら足下か、股の間でもいいから滑り抜けて走る。絶対足を止めるな」 「ランス!これ使え」 「あんたはどうするんだ?」 「こいつがある」 鍵と一緒に拝借した蛮刀を翳して見せた。切ると言うより叩きつぶす方が似 合いのなまくらだが、ともかく剣だ。 「準備はいいか?」 つい数分前とは別人のように若返った会計士と、ランスを初めとする5人の 子供達は胆を決めた表情でこっくりと頷いた。 「とにかく甲板に向けて移動するぞ。その間に、どっか穴が空いてるところ があったら、外を確認して、軍船が見えたら合図。海流の具合見て、そっちに 流れてるみたいだったら海に飛び込む」 軋むドアを開けて、足音を殺し先頭に立つ。6人が無言で続いた。息も憚ら んばかりに気配を消した。発見されるのは遅ければ遅いほどいい。 それも、数分の努力だった。船倉の浸水を掻い出そうと駆けてきた連中にぶ ちあたり、後は済し崩しに泥沼をこね回すような激戦になった。 シャンクスは意図して派手に戦った。吶喊を上げ、壁と天井を跳弾のように 跳ね回りながら当たるを幸いなぎ倒す。圧倒的な人数の差、しかもシャンクス は殆ど戦う術を持たない仲間を6人も護っている。体調だって万全にはほど遠 い。敵に冷静さを取り戻す暇を与えたら終りだ。遮二無二突っ込み、吼え、挑 発した。ここだ、お前達の敵は俺だ。倒さなければお前達が死ぬぞ、かかって こい、俺を倒しに来い! 剣を受けたカトラスごと相手の頭蓋を叩き割って、シャンクスは不意に背に 寒気が走るのを感じた。背後に首を捻って叫ぶ。 「伏せろ!」 言葉尻に、華々しい破壊音が被さった。 押し合いながら進むうちに、彼らは側板一枚で外界と隔てられているあたり までたどり着いていた。瀝青と松皮で隙間を埋められた椋板をぶち破って、砲 弾が飛び込んできた。砕けた側板の破片が散弾となって飛来してくる。 シャンクスは一瞬逡巡した。飛散範囲は狭い。飛び退けば完全に回避できる。 だがそれでは背に庇った子供に破片が当たる! 咄嗟にブリッジの姿勢でのけぞった。膝を支点にぎりぎりまで後ろに倒れ込 む顔を、鋭角の木片が掠め過ぎる。頬骨から額にかけて三本の熱痛が走った。 血が流れ込んだ左の視界が白くぼやけた。 (炸裂弾じゃなかったらしいな) それだけでもラッキーだ。目玉もやられちゃいない。そう自分に言いきかせ て、シャンクスは嗤った。昂揚が痛みを一時的に制している。自分でも信じら れないほど頭は醒めていた。腹筋と絶妙のバランス感覚で体勢を立て直し、残 された右目で素早く破口の外に視線を飛ばす。鴎のマークを誇らしげに掲げた スクーナーが、逆風をものともしない絶妙の切り上がりで接近してきていた。 船腹に黒色火薬独特の煙がまとわりついている。近い。これなら泳いでたどり 着ける。 帆の動きから素早く潮流の方向を読みとって、シャンクスは吼えた。 「飛び込め!浮かんでりゃ勝手にあっちにたどり着く!」 エイブラムに急き立てられて次々に飛び降りていく子供達の中、淡い茜色の 髪をしたひときわ小柄な少女が躊躇するように立ち止まるのを見て、シャンク スはかがみ込んだ。 「泳げないのか?」 うん、と頭が縦に振られた。この幼い少女が、虐待の果てに言葉を失ってい ることを思い出し、シャンクスは汚れ縺れた髪をそっと撫でた。肘から滴り落 ちるほどに浴びていた返り血が朝焼け色の髪に筋を付ける。しまった、とたじ ろいだが、見返してくる目は動揺も怯えもなく只強い。戦うことを決めた顔だ。 いい子だ、と大きく笑い、シャンクスは酷く軽い体を右手一本で抱き上げた。 「じゃあお兄ちゃんがだっこしてってやる。しっかり捕まってな。 大丈夫 だよ、お兄ちゃんイルカみたいに泳げるんだぜ?お前さん一人くらい荷物にも ならないよ」 首に回された骨と皮ばかりの腕に込められた必死の力を感じながら、シャン クスは思い切り破口を蹴った。一瞬の浮遊、足から着水。勢いで背丈ほども沈 み込んだ。目を開けたまま水を蹴って水面に頭を出す。 胸に抱きかかえた少女の顔が沈まないようにと気を配りながら、シャンクス は力強く水を掻いた。 ベルメールは舌を巻いていた。あまりにも確かな操船だ。風と潮に逆行してい るハンデを微塵も感じさせない。さっきからのこちらの砲撃は殆ど全弾命中して いる。砲撃チームの技量以上に、舵を取る痩せた少年の指示と操舵の成せるわざ だ。指定されたタイミングと角度で撃てば馬鹿でも当たるように位置関係をもっ て行っているからだ。 (こりゃあたしの出る幕じゃないね) 数瞬前まで甲板のあった位置を、敵が放った砲弾が虚しく通り過ぎ盛大な水柱 を跳ね上げた。命中弾は皆無だ。相手の行動の起こり際を完全に読んでいる。全 く、この候補生の頭の中身はどういう作りになっているのか。 頭を切り換えて、ベルメールは双眼鏡を目に当て相手の観察に専念した。たと え部下の方が圧倒的に優秀であろうと、最終的に方針を決断するのが今の自分の 役目だ。 と、視界の片隅を何か紅いものが過ぎった。慌てて船腹の一部に焦点を合わせる。 「子供が!」 被弾した船腹に空いた破壊口から、次々に小さな人影が飛び降りていく。続いて 初老と思しい男、やや遅れて、子供を抱きかかえた少年。ベルメールの目を掠めた のは、壁際に陣取って子供達の脱出を助けていた彼の頭髪だった。 煮染めたように汚れた衣服と、少年の足首に絡みついた拘束具の残骸が彼らの立 場を明確に示していた。捕虜、あるいは商品としての人間。モーガニアが奴隷流通 に関わることなど珍しくもない。 「民間人ですか」 言外に舌打ちのニュアンスを匂わせるまだ幼い候補生の、質問の形を取った確認 がベルメールに火を着けた。 「早急に保護に向かいたい。出来るか、ベックマン候補生」 「迂回ルートからは完全に外れますね」 「構ってる場合か!」 叱咤に怒気がこもった。民間人保護を最優先の存在理由とする海軍のお題目はお いておくとしても、必死に脱出を計る子供を見捨てて逃げる行為は彼女の気質が許 さない。 「全ての行為を許可する。全力を尽くして彼らを救出、その上で離脱!いいね!」 「…ヤヴォール」 一拍をおいて、ベックマンは承諾を宣言した。帆桁を飛び回ってロープを操って いる悪魔の実の能力者に視線を移す。 「スモーカー!敵船から脱出してきた民間人を保護する!鼻先を掠めて転進する からすれ違いざまにかっさらえ!」 「無茶言うな!」 「なんのためのモクモクの実だ! 人数は7人、内5名は子供!」 「だーっ!しょうがねえ、了解!」 俄に慌ただしくなった操帆チームの動きにはもはや一顧だにくれず、ベックマン は修正ルートを脳裏に描きなおした。彼も、別に現状での民間人保護に異論はない。 彼の舌打ちは、自分自身に向けられたものだった。 敵船の航路を辿った行き先の候補地には、人身売買を公然の秘密として生業の一 つとしている港がある。そんなところを通りかかるモーガニアが、商品の一部に人 間を積んでいる可能性に事前に気付けなかった己の迂闊さが腹立たしかった。そう とわかっていれば、もう少しやりようがあっただろうものを! 繰り言を並べていても始まらない。ベックマンは、ガンデッキへ繋がる伝声管に 向けて指示の変更を伝えた。 「ヒナ、左舷全砲門に焼玉を装填。Tターンと同時に水平掃射、タイミングはこ ちらから指示する」 「焼玉!?そりゃ数は揃うけど、いいの?左舷、砲身の冷却が済むまで使い物に ならなくなるわよ」 焼玉とは、真っ赤になるまで炉で熱した砲弾を指したものだ。船なんて可燃物の 固まりがこれを喰らったが最後、確実に火災を起こす。火薬を大量に積んだ武装船 にとってなにより怖い攻撃だが、準備に手間がかかる上砲身の過熱を招きやすく、 そう何発もは撃てない。それに砲数に対して船幅が狭く、復元性の悪いこのスクー ナーで片舷斉射を敢行するとなると、転覆までは行かずとも船がコントロールを失 う危険性があった。 「民間人が敵船から脱出してきた。保護の上離脱する」 伝声管越しにくぐもった声が、一瞬緊張を帯びた。 「了解。ってことで急いで!転覆?そんなポカやるような間抜け相手に雁首揃え て連敗記録更新してたとでも言うのあたしたちは?」 開けっ放しの伝声管から漏れ聞こえる容赦ない言いぐさに苦笑を一つ、ベックマ ンは舵を修正ルートに乗せてぐいと切った。滑り止めに巻かれた荒縄に柔な掌がこ すられてすりむけるように痛んだ。 舳先をすれ違わせるコースで、ぐんぐん不吉な旗印が近付いてくる。胸の内で乱 れないカウントを刻みながら、若すぎるクォータ・マスターは思いきり声を張った。 「ジブスルマイナス45度に切れ!振り落とされるな!」 常識では考えられない角度と勢いで船尾が振られる。敵船に完全に横っ腹を見せ る体勢になった。 敵への投影面積を極力小さくするため、舳先を敵に正対させるのが砲列艦戦闘の 常識である。しかし常道があれば奇策もあるのが世の常と言うもので、Tターンと は、船腹を相手に向けて、被弾確率が飛躍的に上がる危険と引き替えに自らの火力 を最大限に引き出す戦法だ。だが、船の重心を軸に船首と艫で反対方向のベクトル が生じることになるは、風向きの把握はデリケートになるはで通常の回頭に比べて もやたらに考慮に入れなければならない要素が増える。要求される練度は非常に高 い。間違っても、舵取りの経験は正味半年ちょっとの舵手とルーキー揃いの水夫で 敢行するような操船ではない。 しかし、あまたの悪条件を踏みにじり、船体はコントロールを保った挙動で横滑 りしていく。まともな船乗りが目にしたら卒倒しそうな悪夢の光景だった。既にベ ルメールはなにも考えまいと思考を停止している。 舵輪を握る少年の脳裏を覗き込むものがもしもあったら、更に驚倒すべき光景を 目にしたことだろう。そこには数瞬先の現実があった。サンプリング・エミュレー ション。予測演算。 理論上、船や砲弾の軌道を数学的処理で予測することは可能だ。どちらも厳密に 物理法則に縛られるからだ。しかし、あくまでもそれは理屈だけの話だ。実行は不 可能と考えられていた。処理せねばならないファクターが膨大すぎる。それだけの 高密度な計算を、実戦で役に立つほどの速度で展開し続ける手段が存在しない。 経験値の差を埋める武器として、ベックマンはこの机上の空論を利用していた。 彼には、常人なら一瞬で入力オーバーによるパニックオフを引き起こすだろう膨大 な情報の奔流を受け入れ、捌き、現実を先回りして最善の判断を弾き出すだけの演 算能力に裏打ちされた空間把握能力があった。集中力が続く限り、数秒のスパンに 限ればほぼ100パーセントの精度で彼我の未来位置を推定できる。全ての慣例を 破棄してまで海軍に確保を決断させた希有な才能を、ベックマンは士官学校に入学 以来始めて全開で稼働させていた。 スモーカーが下半身を煙と化してマストから飛び降りた。彼が喰った悪魔の実、 モクモクの実は、肉体を質量を持った半固体・半気体へ変換する能力をもたらす。 どれほど高所から落下しようとダメージを受けることはなく、又質量兵器は砲弾剣 技体術を問わず全く無効だ。片手を舷側の手すりに絡め、殆ど全身を煙に変えて水 面まで手を伸ばす。 船端に激突せんばかりに近付いた救助対象をホールドするタイミングを確認しよ うと僅かに捻られた首筋を、銃弾が掠め過ぎた。背の半ばに達する黒髪を束ねてい た細紐が衝撃波を受けて弾け散る。うねりのある艶やかな髪が数本ちぎれて風に舞 った。 既に両船は銃弾が届くほどの位置まで接近していた。敵船のマストの上、見張り 台で狙撃銃の再装填にかかっているモーガニアに向けて、反射的に長銃を抜いたベ ルメールを視線で制し、ベックマンは口尻をつり上げた。一瞬の死の恐怖が、天井 知らずの急激なカーブを描いてテンションを高めていく。極度の精神集中に目の表 情さえ失った顔の中で口元ばかりが半月の形を描いた。 吹き乱れる髪の陰で鮫のような嗤笑を浮かべ、ベックマンは静かにガンデッキに 斉射を命じた。砲門が傲然と火を噴く。全弾が船腹に穴を穿った。ワンテンポおい て、隠った爆発音と共に甲板が吹き飛ぶ。ガンデッキに置かれた火薬樽が誘爆した らしい。 反動さえ利用してトレーニング・バジルの船尾が弧を描き、風向に対して正確に 背を向ける。尻を蹴飛ばされたように加速した。 振り回されながら、救助した7人を遠心力を借りて海面から引き抜いたスモーカ ーが、伸びきったゴムが縮む勢いで甲板に戻った。海水の飛沫を浴びた部分から押 し寄せる言い様のない脱力感を押さえて、 「全員救出成功!」 「済んだら操帆に戻れ!鵺の顎を抜ける!」 「無茶言うな!」 「じゃあスキュラの猟犬とダンスしたいのか、お前は!」 「人使い荒ぇぞお前!」 ミルコレメオ群島のこちら側を取り巻く岩礁地帯に突っ込む方がいいのかと脅迫 されて、スモーカーはがっくりと首を垂れた。どうやらもうしばらくは休ませても らえないらしい。 彼らの背後で、フリント海賊団の誇る一番艦が、炎と黒煙に巻かれながらゆっく りと轟沈していった。