|
和毛を揺らす風すら到来せぬ甲板に、甘いテノールが流れている。メインマストの陰、胸元に抱え込める3本弦の楽器を爪弾き、歌っているのは甲板員のブランソンだ。
巷間に膾炙する赤髪のシャンクス。彼の男が率いる海賊団の船には、専門の楽士はいない。
だが、酒が入って興が乗れば、エールのように歌が飛び交い、なにくれの楽器もかつぎ出された。ブランソンの演奏の腕前と歌声は、中でも折り紙付きだ。
今も、5日続きの凪にげんなりしているはずの海賊たちが、思い思いの場所でおとなしく曲に聞き入っている。
「ランクルの歌か、珍しいな」
プープデッキへの階段に腰掛けるシャンクスの耳朶に、或る意味、歌より快い呟きが触れた。見れば、船室内で計測値の整理に勤しんでいた副船長が、海図を小脇にドアを開けたところ。
「何だ? ランクルの歌って?」
ブランソンの歌は惜しかったが、好奇心押さえ難く、シャンクスは聞いた。
ただし、興味を覚えたのは〔ランクルの歌〕そのものにでは無い。その名を口にしたときの副船長の声に、微かながら苦い色が混じっていたのに気を引かれたのだ。
「……そこにいたのか、お頭」
一旦視線を上げた副船長は、銜えた煙草に火を点ける仕草で頭を下げた。
「あ〜、そうか、ランクルの歌だったな、こりゃ。さっきから、どうもどっかで聞いたことがある気はしてたんだが、思いだせんかったわ」
その呼吸の間に声を上げたのは、階段下に寝そべったフォーだ。
本当なら、とっくに陸で大人しくなっていていい歳なのだが、「俺を引退させようなんぞとした日にゃ、酒樽の栓、全部引っこ抜いて、酒の海で溺れ死んでやるぞ」と豪語する兵である。勿論、船乗りとしても海賊としても、口だけの仕事は果たしている。
「場所が場所だし、副船長なんぞは良い獲物だわなあ」
「? どう言う意味だ?」
ラムの酒精で、目が半分閉じているフォーの言葉に、シャンクスは質問を重ねる。
「ランクル最後の女王の恋人は、黒髪に黒い瞳だったてえからな」
「──ランクルってのは、昔この辺りにあったとされる島の名前だ」
フォーに任せておいても話が進みそうに無いとみてか、副船長が口を入れた。
「島には呪いに長けた女たちがいて、風を封じた結び目を船乗り達に売っていた。今日みたいな凪の日に、結び目をほどけば望みの風が吹くって奴だ。今でも、一部の地方には、風習として残っているようだが」
シャンクスも海は長い。その手の話は、幾度か耳にしたことがあった。ただし、実効性のあるものには、一度としてお目にかかったことが無い。
「女王ってのは、そうした女達の中でも、最も強い力を持つ女に奉られた称号のようなものだ。女王は、同時に巫女でもあり、その運命は島の命運と分かち難く結び付いているとされていた。伝説では……」
貴方の不実を責めはすまい
けれど貴方の裏切りは 妾の心を砕いた
この国の礎の 要石たる我が心を
しばし、ブランソンの歌に耳を傾けて後、副船長は改めて口を開いた。
「伝説では、最後の女王の想い人が、島の神殿から神宝を盗んで逃げたことになっている。神宝は、拳ほどもある黒真珠で、かつて海の神より、国を加護する契約の印としてランクルに贈られたものなんだそうだ。男は、最初からその神宝目当てで女王に近づいたのだとも、島から出て一緒に暮らすことを断られた腹いせをしたのだとも言うが、この辺の詳細は〔神威に戒慎して語らず〕──とされることが多いようだな」
「その男が、黒い髪に黒い目だって?」
「まあ、そうだ」
「で、その男どうなった?」
「死んださ」
「──悲嘆にくれて、自分の力が制御出来なくなった女王のせいで、未曾有の嵐が吹き荒れた。男の乗った船だけじゃあ無く、多くの船が沈んだ。ついでに、海神の加護を失ったランクルも大津波に襲われて、島ごと沈んだ」
てっきり眠り込んだと思っていたフォーが、簡潔な副船長の言葉を補足した。
「ランクルの歌は、今も海の底に眠るってえランクルの女王に、風を請う歌だ。随分と古い風習だがなあ」
だったら、フォーならともかくも、お前がどうしてそれを知っている──と言う質問は、赤髪海賊団の副船長には、するだけ無駄だ。
だから間違いなく、続けられたフォーの話も知っていたはずである。
「ただし、歌と同時に、黒髪・黒瞳の男を海に捧げる。女王は恋人が帰って来たかと目を覚まし、喜びで祝福の風を贈ると信じられてたのさ。ついでに、男を捧げず歌だけを贈れば、自ら取り立てに来るんだとよ」
殆ど空になったカップからラムをあおり、フォーは皮肉に口の端を歪めた。
「最近の若いモンは、そんなことなぞ、もう知らんのだろうがなぁ」
その韜晦の口調を、埒も無い──と切り捨てることは、シャンクスには出来なかった。
船乗りは迷信深いと、陸の人間は気軽に言ってくれる。そうならざるを得ない現実を、どれほど見て来ているかは知らずに。
妾は眠る 海の底の牢獄に
波間に漂う貴方の魂が
いつかこの深淵に沈んで来る日まで
青の夢を抱えて 妾は眠る
切ない調べはただ美しく、鏡の海へ流れて行った。
夢を見た。
ゆらゆらと、青い闇へ落ちて行く夢を。
ギリギリと躰を縛り上げる鎖が彼の自由を奪い、光及ばぬ世界へ落ち行く重しとなる。その鎖が、多くの人々の怨嗟と涙で鍛え上げられたものであることを、彼は知っていた。
彼は落ちて行く。音が死に絶え、未だかつて光が君臨した試しの無い世界を、どこまでも…………
身を包むのは、圧倒的な静寂と闇。それらは、何とたやすく、人を狂気に誘うことか。
心得て、彼は自ら意識を手放した。
次に目覚めたのは、港町の雑踏の中だった。目覚めた──と言うのも妙かも知れない。彼には、自分が夢を見ている自覚があった。己の躰は別の場所、船のベッドの上に在って眠っているのだと。
『呼ばれなすったね。兄さん』
路傍の簡易なテントから、50絡みの女が声をかけて来た。テントの中のテーブルには、色とりどりの布がおかれている。どの布にも、複雑な形の結び目が1つずつ。
「……ランクルの風の魔女、か」
『赤は南風、黒は北風。他にも色々取り揃えてる。さて、兄さんはどんな風をお望みだい?』
「呪い事には興味が無い」
素っ気ない答えに、女はクツクツと喉を鳴らした。
『賢いねえ。けど、此処から抜け出せるほどに賢いかしらん?』
「帰るさ」
『何処へ?』
「此処じゃねえことは確かだ」
『言うじゃないか』
おおげさに両手を広げた後、女は或る方向を指し示した。
『じゃあ、お行き。女王は、あっちだ』
「──女王の名は?」
返しかけた踵を戻し、男は聞く。〔名〕が、〔そのもの〕の本質と密接に結び付いていると言うのは、ランクルの俗信。知っていて損は無いと踏んだ。
問われた女は表情を引き締め、男を差し招いた。
おとなしく近づいた男の手を取って、その甲に1つの名を綴る。見届けて、男はうなずいた。ほっ…と女の肩が落ちる。
『全くねえ。こんな中途半端な状態には、もううんざりだよ。死ぬんなら、きっちり死にたいもんだ』
「この街の連中、全部か?」
『幸か不孝か、妾らだけさ。あんたになら、すぐに見分けがつくだろう。けど、女王以外に拘わっちゃいけない』
「死にたくない奴も、いる?」
『そう言うことだね』
「承知した」
空の唇を、物寂しい思いで撫でながら、男は今度こそ雑踏へ紛れ込んだ。
女から離れたとたん、街の様子は現実感を無くした。人がざわつく気配はある。海月よりも頼り無い影が行き交い、幾つかは男にぶつかっても来たが、風ほどの感触も無かった。
それでも、男が自分が向かうべき方向を見失う事はなかった。
ただ、所々に、浮き島のように存在する明瞭な風景は、慎重に避けて進んだ。或る意味、此処は敵地だ。回避出来るトラブルは回避するに越したことはない──そう思う脳裡に、1人の男の面差しが鮮やかに浮かぶ。
〈あんたなら、別の意見を唱えるんだろうがな〉
俺は俺のやり方で行かせてもらうよ、と歩を運ぶ。
突如、とぷり……と大気が揺れた。周囲の何もかもが、一瞬にして青に染まる。
手足が重い。酷く呼吸が難しい。まるで海の中にいるように。
〈水球……?〉
苦労して辺りを見渡し、男は自分が巨大な水の球の中に居ることを確かめた。
〈こいつが、牢獄、か?〉
「──貴方?」
鈴振る女の声が、呼ぶ。
水球の中心。膝を抱えて眠り込んでいた女が、静かに顔を上げている。
美貌は蕾。若い──と言うより、未だ幼いと見えるほど。元の髪の色も、瞳の色も判らぬほど青一色に染まったランクル最後の女王は、瞬きせぬ眼で、じっと男を見つめた。
「帰って来た、の? 貴方」
「道を返して貰いに来ただけだ」
口を開けば、気管に流れ込む水にむせ返る感覚に襲われたが、男はきれいに無視してのけた。
「道を渡せ、ヴィラーディア」
名を呼ばれ、茫漠としていた女王の瞳に正気の光が瞬いた。細い躰がすっくりと立ち上がる。胸の前に合わせた両手の間から、繊手に余る真円の宝玉が覗く。
「──貴方が、妾の罪を裁いて下さるの? ランクルの民を……救って下さるの?」
「何を聞いていた? 道を返して貰いに来たと言ったろう」
「知らないわ、道なんて。此処は、時すら封じる閉じられた街だもの。その封じを解いて、ランクルを世の流れの内へ戻さない限り、誰にも道など見つけられないわ。貴方が、自分自身を救うためにも、ランクルの民を救ってくださらなくてはならないのよ」
「探そうとしねえ奴に、見つかるものが無いのは道理だろうが」
男は、女王の言葉を鼻で笑って退けた。
「てめえの行く先はてめえで案じな。俺の知ったこっちゃねえ。俺が必要なのは、俺の道だけだ」
「身勝手なことを言うのね。民の苦しみを、捨て置くの?」
「身勝手が聞いて呆れる。断りも無く人を呼び付けにしやがったのは、そっちじゃねえか」
「呼べと、私に歌いかけたのは貴男方だわ。その責任は、とってもらわなくてはならない」
「俺は、代価に風を求めない。元々俺のものだった道を要求しているに過ぎない以上、契約は成らない」
平静に、あくまでも拒否の姿勢を貫く男に、女王の眉がキリリと吊り上がった。保護欲をそそる頼りなげな表情が、一転、居丈高なものとなる。
「では、貴方も貴方の道は自分でお探しになるが良い。貴方の道のことなど、妾の預かり知らぬこと」
「……尤もだ」
女王の反駁に軽く肩をすくめ、男はサッシュから愛用の長銃を抜き取った。今の今まで、携帯していた覚えはなかったが、そこに在ることを疑いもしなかった。
手に馴染む重みを、洗練された一連の動作で構え、呼ぶ。
指標となる、たった一つの名を。
「──シャンクスッ!!」
声は、ビンッ!と空間を弾いた。
呼応して、女王の手の中の宝玉が、本来の色を取り戻す。ぬめる黎、深海の闇を光沢として湛えた黒真珠。
引き金にかかった男の指に力が入り、発射装置のバネが弾ける刹那──銃口がずれた。
撃ち通すべきは、黒真珠そのものではなく、そこに映し込まれたキィなのだと、すんでの処で気づいたのは、キィが放った光ゆえ。紅玉より輝かしく、夕日より燃え立ち、血よりも鮮やかに生の躍動を示すその赤を、男が見逃すはずもない。
球体面に男が認めたのは、隅から隅までを知り尽くした彼らの船であった。その影から、本体の在るべき場所を瞬時に割り出し、鉛弾を撃ち込んだ先は青の虚空──銃弾を受け止めるなにものも存在しない場所。
けれど男は、的中を確信していた。身を返し、鉛弾が消えた空間に、今度は銃把による一撃を御見舞いする。
強かな手応えが返り、青い壁に、銃弾に匹敵する穴がポツンと生まれた。壁は、その穴を中心に見る間にひび割れ、崩れ落ち、すぐさま男1人が通るに十分な道を開けた。
『お見事!』
軽やかな笑い声と共に、男の傍らを女が過ぎ行く。彼にヴィラーディアの名を告げた風の魔女だ。
『忠告の代金に、便乗させてもらうよ。この娘らの分は、風で払おう』
『雨を恵む南風が、貴方に吹くように』
『実りをもたらす西風が、貴方に吹くように』
『夢を降らす北風が、貴方に吹くように』
『東風が、貴方に運を運ぶように』
佇む男の手に結び目を押し付けて、幾たりかの女が走って行く。
その背総てを見送ってから、男は静かに歩み出した。一度も、後ろは振り返らなかった。自ら動こうとせぬものには、如何なる到来者も無力だ。女王は再び眠るだろう。自らの想いだけを抱き締めて。その夢が破れる日が、いつか訪れるのか否か。気に止める義理は、良くも悪くも彼には無い。
客人を吐き出し、再び、道は閉じられた……。
「……何、やってんだ? あんた」
双眸を開いたとたん、視界を占拠した男の顔に、ベックマンは正直、ひるんだ。
「いやあ? お前があんまり目を覚まさねえから、喰らわすのをキスにしようか、拳骨にしようか、バケツにしようか考えてたトコだ」
ケラケラと笑い、ベックマンに覆いかぶさっていたシャンクスが身を引いた。そうして視界が開けてみれば、背後には船医とヤソップまで控えている。
「おそようさん」
ヤソップがニヤニヤと声をかけ、船医は一応、鹿爪らしく脈を取りにかかる。
「何の騒ぎだ、これは?」
「あんたが2日もベッドと愛を語らってなきゃ、俺らも騒ぎはせんよ」
「2日?」
「ブランソンは、俺のせいだとか何だとか、訳の判らんこと言って落ち込んどるし……。奴は、あんたに何かやったのか?」
「やれたんなら、逆に褒めてやるぜ、俺は」
俺の相棒を見くびってんじゃねえよ──とうそぶいて、シャンクスは片眉を上げた。
「それにしても、えらく熟睡してたな。よっぽど良い夢でも見てたのか?」
「夢……?」
ベックマンは、額に縦じわを刻みつつ半身を起こした。支えに使った左手に違和感を覚えて眼をやれば、酷くきつく握り込んで硬直してしまっている。右手で揉みほぐすようにして開いても、爪に傷つけられた掌があるばかりだ。
そこに滲む血を見つめるベックマンの口角が、ゆるやかに吊り上がった。
「風を買いに行く……夢を見ていたな」
「あ〜、買えるモンなら、次の稼ぎをはたいてでも買いたいねえ」
ヤソップが、ガリガリと首筋を掻きながらぼやく。全くだ、と同意を示したシャンクスだが、引いた顎を上げるより早く破顔して、窓外へ視線を投げた。
他の3人も、すぐに船体に伝わる振動に気づく。微かなものだが、船乗りならば紛いようもなかった。
「風だっ! 風が出たぞぉ〜っ!!」
甲板から声が響き、ベックマンを診ていた船医までもが立ち上がる。
「お前の夢に乾杯だっ!」
シャンクスが満面の笑みでベックマンの肩を叩き、ドアへ向かう。ヤソップはとっくに部屋の外である。
「──おい、お前も早く来いよ」
退室前に、振り返って念を押したシャンクスに、診察も終わっとらんのに──と船医がこぼす。それでも、起き出すベックマンを止めようとはしなかった。無駄も無用も承知しているのだ。
にわかに喧噪を高めた甲板を吹き過ぎる風は、心地良かった。
身支度を整え、愛用の煙草を口に部屋を出たベックマンの眼は、生き生きと指示を飛ばすシャンクスに、自然、吸い付けられる。
〈──俺が俺の道を進むのに、知識も海図も要りゃあしねえさ……〉
必要なのは、ただ一つの指針と意志だけだ。
その事実を噛み締めながら、ベックマンは彼の船長の元へと歩み寄った。
|