HOLIDAY


神々の休日



 ペンが紙の上を走り回る音だけが響く船室の夜更け。ペンの音が止まると同時に男は溜め息をもらした。
分厚いノートを片づけて、煙草に火を点ける。彼の背後から物音が聞こえた。チェストが回転して、壁の
空いた所から赤い髪の頭がぬっと現れた。
 「終わったのか?お疲れ、副ちゃん」
 チェスト裏の隠し扉から現れたのは名だたる海賊赤髪のシャンクスだ。部屋の主である彼の相棒ベン・
ベックマンの銀髪頭が力なく下がる。

 この隠し扉が作られた経緯は二年ほど前に遡る。ウォーターセブンの腕利き船大工の集まる1番ドック
に本艦の修理を依頼した時に、シャンクスは偶然、借金の取り立て屋に追われる一人の船大工を助けた。
大工は借金を肩代わりしてもらった恩を返したいと言うので、シャンクスはこの隠し通路を密かに作らせ
たと事後報告した。
 この隠し扉は実によく出来ていた。重厚で立派なチェストにはフェイクの金具で壁に固定されているか
に見える。だが、底には隠しキャスターがついていて、ロックを外せば、片手で簡単に開けられる。壁を
挟んで対称にしつらえてあるのでどちらの部屋から見てもその扉は見えないのだ。片方の部屋にいる副船
長でさえ、W7出航後にシャンクスがその扉から出てくるまで気がつかなかったほどだ。
 「あんた!一体何を作らせたんだ」
 「何って秘密通路。これで誰にも気づかれずにこっちに来られるんだぞ、いいだろ〜」
 シャンクスはこれ以上の幸せはないと言わんばかりに笑う。
 「良くない!すぐに閉じろ!」
 「なんだよ、俺はお前の為にこれを秘密で作らせたんだぞ。何があってもカミングアウトしたくないっ
て言うお前にとってこれ以上のメリットはないと思うぞ」
 「メリットっって…、あんたの口から聞くと嫌に空々しいのは何でだろうな」
 「これさえあれば、非常時にお互いの部屋から出られるぞ。そしたら『今の今まで乳くりあってました』
なんて悟られずに済むじゃんか」
 苦虫を噛みつぶしながらも反論出来ずにいる相棒にシャンクスは畳みかける。
 「俺は良いんだぜ。別にお前との仲がばれたって。船乗りには決して珍しいことじゃないからな。でも、
お前は嫌なんだろ?『ベッドの中まで女房役を勤めてます』なんて尻の穴が裂けたって言えないだろ?」
 「それを言うなら口が裂けてもだ!」
 副船長は小声で器用に叫んだ。
 「ったく、あんたって人は…。この通路については認可する。だからといって、頻度を今まで以上に増
やしたりするな。今まで通り事が終わったら自分の部屋に帰る。それが条件だ。いいな」
 「あいよ」
 シャンクスはこらえきれない嬉しさと笑いをかみ殺した。この通路を作った大工が、その目的が夜のド
ッキングだと知ったらこう叫んでいたに違いない。
 「なんて破廉恥な!」
 と…。
 
 話は現在に戻る。
 「なあ、今夜は帰ってくれないか。一刻も早く俺は眠りたいんだ」
 副船長は胸に滑り込むシャンクスの手を掴んで止める。
 「そう、面倒くさく考えるなよ。仕事終わりのマッサージだと思えばいいさ。お前は何もしなくて良い。
な?」
 シャンクスは恋人の目をのぞき込む。ベンは目を合わせたことを後悔した。獲物を狙う獣のような光を
帯びたシャンクスの目、この視線に絡められると体の芯に灯が点って拒めなくなる。その気配を悟ったか
のように視線は「お前だって本気で拒んでる訳じゃないだろう?」と勝ち誇ったように微笑う。二人はほ
ぼ同時にベッドに倒れ込んだ。
 「なるべく手短に頼む」
 組み敷かれたベンは目を瞑る。
 「それを言うなら『早くぅ』だろ?」
 「馬鹿…」
 彼はあまり認めたがらないのだが、確かにこうした事は緊張をほぐす効果がある。行為の波間に心地よ
い眠気が少しずつ押し寄せてくるのが分かる。
 いつの間にか全裸に剥かれ、長い脚は本のように左右に開かれた。シャンクスはのしかかり恋人の中心
を夢中で穿つ。
 荒い呼吸の波に甘い喘ぎ声がかすかに混じる。いつもは、快楽に飲み込まれぬよう理性を手放すまいと
耐える彼が今日はよほど眠いのか、素直に反応している。
 いつものも悪くないけど、今日は殊更にたまんねぇな。シャンクスは笑いながら恋人に挑み、口や顎に
唇を這わせて煽る。
 はっ…あぁっ…
 ベンの意識は闇に落ちていった。

 
 闇の中で青白く光る蛍達が無数の鬼火のように妖しく舞っていた。闇の奥には巨大な黒曜石を積み上げ
た神殿が蛍の光を映す。
 神殿内部は白い石が敷かれ、規則正しく並ぶ柱が燐光を放っていた。その奥では黒衣に身を包んだ背の
高い男一人立っていた。彼の黒衣に溶け込みそうな黒髪は腰まで垂れていた。面長な顔に長く高い鼻梁と
鋭い目は一見強面だが、深い知性を感じさせる。
 彼は井戸を覗いていた。井戸の中に広がるのは水ではなく銀砂をちりばめた宇宙。
 井戸の中の宇宙を見つめた後に男は自分の背丈ほどもある大きな石版に手を翳した。手の動きと同時に
幾つかの円、三角形、多角形などを重ねた図形と文字が音もなく刻み込まれていく。
 
 地上から黄泉に向かう一本の長い洞窟を鼻歌まじりで一人の男が歩いてくる。端正な顔立ちなのに無精
髭をそのままに放置しているあたりが彼のおおらかな性格を伺わせる。やや乱雑にとかれた短めの髪は夕
陽の輝きを放っていた。傷跡の多い肌は日焼けしているが、所々に鎧の後が白く残っている。
 洞窟の穴が大きくなった先に三つの頭を持つ黒い巨獣が座り込んでいた。冥府の番犬ケルベロスだ。ケ
ルベロスは本来冥府に入って来る者には無関心で静かだが、出ていく者は容赦なく捕食する。又、ケルベ
ロスは亡者たちを逃がさぬよう三つの頭を交代で眠らせている。起きている一つの顔が男と目を合わせた。
ケルベロスはくんくんと鼻を鳴らして甘えだした。
 「おう、良い子にしてるか?よしよし。前にも教えたと思うけど、オレ以外の男がハデスに夜這いかけ
ようとしたら噛みつくんだぞ」
 ケルベロスもこの男にとっては子犬扱いだ。
 二人の獄卒がケルベロスと戯れている男を見つけた。一人は三叉を手にして帽子を被り、背中の蝙蝠羽
で飛ぶ小男。もう一人は長鞭を手にした女性の獄卒だった。彼女は豊かな長い巻き毛の持ち主で、豊満な
胸と尻を僅かな布と革鎧で隠してはいるが、細い手足や腰は露わでなんとも悩ましい。
 赤い髪の男が獄卒たちに気づいた。
 「おう、サル!」
 「私はサルデスですよ、アレース様」
 「そうだったっけ。ハデスはいるか?」
 「ハーデス様は神殿奥で執務中にあらせられます」
 「ありがとよ」
 アレースと呼ばれた赤い髪の男はそのまま神殿に向かう。その背には金の大きな水差しを担いでいた。
 「あら、今のが噂の軍神アレース様?闘ってる本物の男の匂いがするわ。ん〜、ほれぼれしちゃうv」
 「ああ、そうだ。黄泉に来るのは死者を送るヘルメス様とあのひとぐらいなもんだ。他の神は黄
泉を嫌って近づこうともしないからな。天上神や海神よりもずっと勤勉なんだから、もっと評価されても
良いと思うんだがな。二人の神は結婚してからも女遊びしてるのに、ハーデス様だけまだ独身だし」
 「アレース様がここに来たって事は、地上で今大きな戦さがないってことよね?ん〜、残念」
 「ああ、そうだ。死者を待ってるだけ無駄だな。別の仕事をするか」
 「じゃあ、私はヘカトンケイルちゃんたちの調教にいこうかしら」
 「そっちは頼んだサディーちゃん」
 「ん〜、任せて。今日はどんな責め方にしようかしら。ん〜、ゾクゾクしちゃうわv」
 「オレはマゼラン神官を探すよ。あのヒトまたトイレかな」

 「よう、ハデス」
 「来てたのか、アレス」
 黒髪に黒衣の男は呼ばれても振り返らずに返事をした。アレースを縮めてアレスと呼ぶのは幼い頃から
彼を知っているが故の愛称だ。ハーデスをハデスと呼ぶのも同じ理由である。
 アレスは立ったままのハデスを後ろから両手を肩に回して抱いた。アレスは顔の下にある黒いつむじを見る。
 「何してたんだ?」
 「星の動きの観察記録をとっていた」
 ハデスがアレスの両腕を振り払う。
 「つれねぇよな、相変わらず。オレより大事なの?その星の動きってのが」
 「重要なんだよ、これが。少しばかり分かりにくいかも知れないがな」
 ハデスは井戸の中の星を指さして説明し始めた。
 「人間が住む星を含めたこの幾つかの星星は俺たちに似通った働きを人々にもたらす。アレス、お前はこの
赤い星、俺は火星と呼んでるが、この星が人間の住む星に接近したり何らかの角度を取ったときに戦争が起こ
りやすくなる。こっちの大きいのはゼウスに似て少々怠惰ではあるが富と幸運をもたらす」
 「へー、じゃあお前は?」
 「遠く小さいが重いこの星だ。この星たちの周期や運動があれば神族が不在でも、ある程度人間たちの棲む
世界を調整出来る。今はその作用を調べて書き記しているんだ」
 「は〜、お前はホントよく働くよな。ゼウスの兄貴とは思えないな」
 「神の自覚が薄い弟たちを持つと苦労するよ。だが、あんな奴でも一応俺たち兄弟姉妹の命の恩人だからな」
 「根を詰めすぎるのは良くないぜ。土産があるんだ、一服しないか?」
 アレスは金の水差しを掲げて見せた。
 「土産ってまた地上の食べ物を持ってきたのか?前にも失敗しただろう。黄泉に地上の食べ物は持ち込むだ
け無駄だ。何十倍にも重くなった挙げ句に炭化するのが落ちだ」
 「俺も何度も同じ失敗はしないさ。今度はちゃんと考えたって」
 アレスはハデスの記憶の中にある子どもの頃と全く同じ顔で笑う。
 彼はアレスの胸に新しい大きな刀傷があるのを見つけた。治してから来ればいいのに。そう思いつつ、彼は
小さなため息をついた。
 「また、戦してきたのか。お前が頻繁に戦に参加しては冥府に遊びに来るから、俺がお前に頼んで死者を出
してるように思われるじゃないか」
 「オレはオレを信じる奴らの信頼を裏切らないよう全力を尽くしてるだけさ。死者を増やしたい訳じゃない」
 言い訳ではなく信念を語っているのは目を見れば分かる。
 「そうだったな。まあいい、向こうの瓶の水で体を洗ってこい。洗うだけだぞ、口にするなよ。地上に戻れ
なくなるからな」
 「了解」
 アレスは金の水差しを机に降ろすと言われた通りに向こうに行った。体を洗ってきたアレスは腰布しかまと
っていなかった。
 「なあ、あの水どうしたんだ?」
 テーブルを挟んだ長椅子の片方に座っているハデスに彼は訊ねた。
 「忘却(レテ)河の水だ」
 「えー?でも、お前オレが水浴びしようとしたら止めたよな。神族(おれたち)でも記憶が半年分くらいは
飛ぶって」
 「中流、下流の水につかればの話だ。源流に近い上流の水には記憶を消す作用はない。ただ、触れた者の時
間を少々巻き戻す作用があるだけだ。それが黄泉の河底の水草、それを餌にする蜷、蜷を食らう蛍の幼虫の生
態系が忘却の水を生むんだ。お前の胸の傷も癒えてるだろう?」
 彼の胸の傷が跡形さえ無くなっていた。
 「本当だ、治ってる。話の後半はさっぱり分からなかったけど、まあ、そんな細かいことを調べたな」
 「こっちも忙しくて、亡者の中から見込みがありそうな奴を選んで冥府の役人にしてるんだが、レテ河の水
で教えたことを忘れたら苦労が水の泡だろ?俺も必死さ」
 「じゃあ、見た目がオレと変わらないほど若返ってるのは水の所以か。確か昔はゼウスやポセイドン達と同
じような年格好だったもんな。髪だって確か銀髪だったよな」
 「ああ、これ以上若返ると流石に威厳が無くなりそうで困ってる。俺だけなら、いざとなったら変身する方
法もあるけどな。新しく任命した神官がそういうことに詳しいから中和薬の研究をさせてるんだ」
 「そうだな、オレは幼児や少年趣味じゃないから、これ以上は若返らないでくれよ」
 「その手があったか」
 ハデスは意地悪く笑った。アレスが慌てる。
 「やめてくれって」
 「まあ、子どもの姿で獄卒たちを指揮するわけにもいかないしな」
 アレスがテーブルの金の水差に手を伸ばした。
 「大きめの杯か何かある?」
 ハデスが席を立ってすぐに戻ってきた。
 「これでいいか?」
 宝石のようにカットが施された透明な杯が出された。
 「水晶の器なんて豪華だな」
 「贅沢でしてるんじゃないさ、鉱物の他に資源がないんだ。特に材木や草木類はここでは乏しくてな」
 「女神どもが欲しがりそうだな」
 「ああ、ヘルメスが死者を送るついでに持って帰っては商売の種にしてるらしい。どこの産物かは秘密に
してな」
 「ちゃっかりしてらぁ」
 アレスは金の水差しの蓋を開けた。
 「何が出てくるかお楽しみだな」
 言葉とは裏腹にハデスはつまらなそうな顔をしている。
 「今度は重くなったりしなかったぜ」
 「え?」
 彼が壷のふたを開けて器に注いだ液体は金色に輝いていた。液体とともに瑞々しい李や葡萄に姫林檎が器
の中に次々転がった。
 「そうか、不死の酒ネクタルに浸けてきたのか。考えたな」
 「へっへーん、どうだ。頭いいだろ、もっと褒めて〜」
 「懐かしいな、地上の果実なんて百何十年ぶりか」
 「さあ、食べてみろよ」
 「ああ、遠慮なく頂こう」
 葡萄を房ごと手に取り一粒をかじり取る。皮ごと噛むと甘酸っぱい果汁と皮の渋みが口に広がった。
 「うまい…」
 果実の味が黄泉にくる前の古い記憶を呼び起こした。地上に注がれる太陽の光、木々の葉を潜ってくる風
の音、草の匂い。彼が地上にいたのは僅かな時間だったが、全てが懐かしく感じられた。
 「な!うまいだろ?この方法じゃ、肉とか持って来られなくってさ。たまには地上に遊びに来いよ。そし
たら、猪でも鹿でも、好きな肉を腹一杯食わせてやるよ」
 ハデスは作り笑いをしながら答える。
 「念の為聞いておくが、それで、肉を食べた後はどうするんだ?」
 アレスは驚いた表情で一度固まったかと思うと、一転ぐずぐずとにやけながら相好を崩していった。
 「ええ〜?そりゃ、オレたちは大人なんだからさ、その何だ…。肉食って精をつけた後だぜ?することな
んて決まってんじゃん。それを詳しく言うの?言葉で?それは…何て言うか、新手のプレイだな。案外好き
者なんだな、お前も」
 ハデスは眉間に皺を寄せて口を曲げた。
 「アレス、近親婚だらけの神族出身の俺たちが言うだけ説得力が無いの承知の上だが、実の伯父をそうい
う対象にするのは止せと何度も言ってるだろう」
 アレスがきょとんとした。
 「ハデス、知らなかったのか?オレはゼウスの息子じゃないぜ?」
 「ん?例えヘラが浮気して出来た子でも、お前は俺の甥だぞ。ヘラは俺の妹だからな」
 「確かにオレのお袋はヘラ一人だけど、オレは拾われっ子なんだよ。フローラが拾った北欧神の落とし子
らしき赤ん坊を、その時通りかかったヘラがオレを自分の息子にしてくれた。多分、弟のヘパイストスも似
たような事情なんだろうぜ。お袋はヤキモチ焼きだが、決して浮気はしない」
 ハデスはもう随分久しく見ていない親族たちの顔を思い浮かべた。確かにアレスは兄弟の中で一番長身の
自分よりも背が高く肌も白いし、赤い髪の持ち主も彼一人だけだ。一方、彼の弟は小柄で栗毛色の髪で顔も
全然似ていない。
 「道理で、お前たち兄弟だけ妙に毛色が違うとは思ったんだが」
 「じゃあ、これでお前がオレを拒む理由は無くなったんだな」
 アレスはハデスの横に座り顔を彼に近づけてきた。ハデスの片手がアレスの顔を止めた。
 「いや、まて。血がつながってませんでしたなんて急に言われたって、心の整理がつくもんか。甥だとず
っと思ってた相手と急に恋仲になるってのは…」
 彼の顔を押さえるハデスの手をはずして問いつめる。
 「他にも理由が何かあるのか?あのセクスィー獄卒姉ちゃんと出来てるのか?それとも、あの噂の通りな
のか?」
 「噂?」
 要領を得ないという顔でハデスは聞き返した。
 「デメテルの娘がここに嫁ぐって噂だよ。ホントなのか?それでオレのことを受け入れられないのか?」
 「ああ、それか…」
 ハデスは片手で頭を抱えた。
 「まさか、本当に?」
 アレスが真剣な顔で詰め寄る。ハデスは深くため息をついた。
 「俺はそんな事望んでない。寧ろ反対だ」
 「当の本人が望んでないのに、何でそんな話になってんだ?」
 今度はアレスが不思議そうな顔をした。
 「ヘラとエウリュアレーの共謀なんだ。デメテルは過去にゼウスとポセイドンの求婚を断ってる。彼女に
未練を残す自分たちの夫が、将来彼女そっくりに成長した娘に手を出すんじゃないか、と二人の妻は危惧し
てるんだ。それで、二人の兄である俺と婚約してしまえば、夫たちを諦めさせることが出来るとデメテルに
提案したのが始まりなんだ。デメテル自身も反対なんだろうが、二人が口約束をするだけでも虫避けの効果
があると親切を装って吹聴してるらしい」
 「はぁ〜、女の執念ってのは怖いね。でも、お前見てきたように言うね。ここから離れてないのに」
 「ヘルメス経由でデメテル本人から便りが届いたんだ。それで事の察しはついた。返事もしたさ。地上で
弟たち以外のいい相手を見つけてやれば済むことだ、とな」
 「じゃあ、お前には結婚する意志はないんだな?」
 「俺はこのまま独身でも構わないんだ。地上に生まれ育った娘が黄泉に嫁ぐのは無理だ。すぐ地上が恋し
くなるに決まってる。髪も瞳も闇に染まるしな。俺はその点、生まれてすぐに親父に飲み込まれて闇の中で
一番長く過ごした。元々慣れてる」
 諦め気味に吐き捨てるハデスをアレスは心配そうにのぞき込んだ。顔を曇らせるアレスにハデスは笑って
見せた。
 「地下(ここ)だって地上にはない面白いものが結構ある。それに寂しくはないさ。こうしてこんな遠い
黄泉までわざわざ顔を見に来てくれる友人もいることだしな」
 アレスはまじめな顔でハデスを見つめた。
 「友人じゃないぜ、恋人だ」
 テーブルに乗せた手に手を重ね、身を乗り出して蝶を捕まえるかのようにそっと唇を捕らえた。アレスが
唇を挟み舌をそっと差し入れても彼は動かない。目を開けてハデスに問いかける。
 「抗わないのか?」
 「きっと酒と地上の果実のせいだ」
 そういうハデスの目に酔っている気配は微塵もない。
 二人は再び唇を重ね、互いに舌を絡ませ求めあう。アレスがハデスの服に手を差し入れた。黒衣が滑り落
ちて大理石の彫像のような白い肌が露わになる。アレスは全裸のハデスを横にして両手で抱え上げ、寝台へ
と運んだ。
 横たえられた体は冷たく血の気もなく、本当に彩色されるまえの彫刻のようだった。 
 「闇と死に囲まれて忘れかけてるのか?思い出せよ。お前自身の体は生きてるんだぜ、ほら」
 アレスはハデスの胸に耳をあてた。静かだが力強い心音が聞こえる。
 首に優しく吸いつくアレスの頭をハデスは撫でた。草の匂いや土の匂い、地上の残り香を彼は懐かしんで
嗅いだ。アレスの日焼けの火照りが残る肌から太陽の温もりが伝わってきた。
 「お前は温かいな…」
 アレスはハデスの体に唇を這わせる。ハデスは体に小さな火が灯されるように感じた。やがて、早くなる
心音をハデス自身も感じ始めた。
 血色が戻ってきた肌をアレスは丹念に愛撫する。
 死を司る者として内に閉じこめていた生への渇望が彼の中で目覚めた。まるで蝉が羽化するように、熱情
は殻を破り、湿った透き通る羽をゆっくりと伸ばしていく。
 アレスは頭を逆さにしてハデスに跨り、彼の中心を夢中で吸っている。ハデスの顔の前にアレスのたぎっ
たクピドの矢がぶら下がる。ハデスも彼を真似てそれを口に含み舐りだした。
 「はっ…う…ぅん」
 アレスの指がするりと後ろに入ってきて、ハデスは思わず声を漏らして背を反らした。
 アレスが体の向きを変えてハデスの両腿を抱え上げ、クピドの矢をハデスの体につがえた。ハデスの表情
が微かな不安を含んで歪む。
 「観念しな、お前はもうオレのモンだ」
 乱暴な言葉とは裏腹に、上からのぞき込むアレスは優しく微笑んでいた。二人は体を繋げて強く抱き合った。


 アレスは水差しと杯を寝台に持ってきた。寝台ではまだハデスが放心状態で横たわっていた。
 「な、生きてるって感じたろ?」
 アレスが悪ガキのように笑った。
 「ああ、たまには悪くないかもな」
 「素直じゃねぇなぁ、もう。ま、そういうとこまで含めて好きなんだけどな」
 アレスが果物入りの杯を手前に差し出す。
 「口渇いたろ」
 「ああ」
 ハデスは上体を起こしてから杯を受け取る。
 果汁が馴染んだ酒は情事で渇いた喉に心地よく沁みていった。
 「そうそう、思い出した!一番大事な用事」
 「今頃思いだしたのか?」
 「ここっていろんな世界に繋がる面白い裂け目があるだろ?」
 「ああ、下手に踏み込むなよ。帰れる保証はないんだぞ」
 「その中でさ、面白そうな次元の裂け目を見つけたんだ。人間の世界なんだけどな、星のほとんどが海で、
頼りは船だけなんだよ。人間の一生なら一週間、長くても十日ぐらいだろ?休暇を取って船旅と洒落こもうぜ」
 アレスは楽しそうに杯を飲み干した。
 「どうやって行って帰ってくるんだ?手段の見当はついてるのか?」 
 アレスは余裕の表情だ。
 「今、弟に魂を乗せて移動する船と魂と体を繋ぐ糸を作らせてる。もうじき出来上がるぜ」
 「へパイストスが作るなら信頼出来そうだな」
 「オレのことは信用できないのかよ」
 アレスが口をとがらせた。
 「まあ、いいさ。そこで、同じ船に乗って繰り返される朝日夕日を見て過ごそう。船の上で愛し合うんだ」
 朝日という言葉がハデスを揺さぶった。当たり前のように太陽を見て過ごす。僅かな間でも、それがもう一
度許されるなら…。彼は心を決めた。
 「後もう少しで星の記録もとり終わるし、神官や獄卒も頭数が揃ってきたから行けるとは思うが…」
 「よっしゃ!新婚旅行(ハネムーン)決定!」
 アレスがハデスに抱きついた。
 「なぜそうなる…」
 ハデスはため息をついた後、ふっと湧いた疑問を口にした。 
 「人間に生まれ変わるってことは記憶は持っていけないんじゃないか?一緒に過ごせるとも限らないぜ」 
 「大丈夫、世界の両端に生まれたって必ず見つけてやるさ。他の誰にも渡さない。で、行くの行かねぇの?」
 「…行こう」
 「決まり!そうとなったら、朝が来るまで向こうの世界ではぐれないように魂の緒を結びつけようぜ、体と
心で」
 アレスはハデスの唇を塞いだ。ハデスがアレスの顎を指で軽く押した。
 「ここに朝は来ないんだぞ?アレス」
 「なおさら好都合だ」
 アレスはハデスを抱きしめた。二人は唇を重ね、再び互いを求めあった。


 朝?この世界に朝が来るはすがないのに…
 副船長は目を覚ました。確かに窓からは朝日が射している。両腕の他にもう一本腕が腹に乗っていた。しか
も暖かい。恐る恐る振り返るとそこにはシャンクスが目を覚ましかけていた。そして、自分が何も着ていない
ことにも驚いた。
 「あんた、一晩中そこにいたのか?」
 ベンは急いで服を身につけ始めた。
 「だって、お前ってば、昨夜イッたと思ったら即爆睡なんだもん。驚いたぜ、体がまだ繋がってんのに眠っ
ちまうなんて。いつもなら済んだ後は必ず服を着るのに、よっぽど疲れてたんだな」
 ベンは常から行為が終わるとさっさと服を着てしまう。それは海賊として何時起こるか分からない有事に備
える為なのだが、シャンクスは事の余韻も楽しみたいのに、と平素からそれを不満に思っていた。
 「だから俺は昨夜最初にそう言ったんだが…」
 言葉に静かな怒気が宿っていた。
 「このままじゃ、お前が寝冷えすると思って添い寝したたら朝になっただけだって」
 シャンクスは屈託無く笑う。
 ベンは器用に小声で叱責する。
 「事が終わったらすぐ自室、それがルールだって言ったろ!!今度やったら、この通路は塞ぐぞ!」
 「はぁ〜い」
 にたにた笑いながらシャンクスはチェストの裏に消えていった。
 …ったく、俺としたことが。
   ベンは煙草を吸いながら平静を取り戻す。
  何か久しぶりに長い夢を見たような気がする。何か大事なことを思い出せないような、この奇妙な感覚は何だ?
  ベンは夢の余韻を頭から消して職務に戻る。
  一方、シャンクスは一晩中恋人気分を満喫出来たことで一日中上機嫌だった。

 夜、シャンクスがチェスト裏を潜ると副船長の部屋に明かりはなかった。ベッドにもいない。シャンクスは彼
を探しに部屋の外へ出た。
 デッキ後尾に赤い蛍のような光を見つけた。近づいていくと、やはり副船長だった。
 「何してんだ?こんなとこで」
 「方角確認も兼ねて星空を見てた」
 相棒の視線を彼も追う。
 「今日はまた見事だな。光の筋まで見える」
 太古に女神の胸から溢れた乳と呼ばれた天河を二人は見上げた。
 「銀色って言えば、お前の銀髪頭をどっかで見たことあるような気がするんだけど、何でだろ?」
 「俺に訊かれたって分かる訳ないだろう」
 副船長は訝しげな顔で答えた。
 「あの先って何があるんだろうな」
 「フッ、あんたらしいな」
 「いつかはあの河を渡る船も出きるのかな?」
 「そうだな…俺たちが生きてる時代には無理でも、いつかはきっとな」
 「そんときゃ、お前も一緒に乗ろうな」
 「俺はまた苦労させられるわけ?」
 「断らないだろ?約束してくれよ」
 シャンクスの表情には子どものような熱情と大人の真摯さが混在していた。ベンは苦笑混じりに答える。
 「何の保証もない口約束で良いんならな、してやるよ」
 「えへへへ、よっしゃ!」
 シャンクスが照れ笑いを浮かべる。
 「自分で言っといて何照れてるんだよ。…ったく、この人は…」
 二人の眼は遠い銀河の先を見つめていた。

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