Out of flypan, in to the fire :一難去ってまた一難。
その諺にまさしく相応しい船ゴーイングメリー号が珍しく平穏な航海をしていた。
 厨房内ではサンジが冒険の後片付けに鍋や皿を並べなおしていた。予想外の激
しい航行で食器棚の滑り止めを飛び越して割れてしまったものが幾つかあった。
サンジが破片を集めながらサンジが呟いた。
 「まさか、船が空を飛ぶとは思ってもみなかったからな…。全部金属製の食器
に替えたい気もすっけど、金属製の皿は料理から熱を奪っちまうし…」
 料理の美味さを損ねないように食器の温度まで管理する気配りはゼフに叩き込
まれた料理人としての大事な心得の一つだった。
 無事な皿を食器棚に返して並べていると、片隅に小さな箱が倒れているのを見
付けた。色も褪せてしまったような古い紙箱に、昔は赤い色をしていたであろう
黄ばんだ細いサテンリボンがかけてある。見覚えのあるリボンを解き、箱を掌の
上でひっくり返す。中から転がり出たのは小さな白い陶器。眠る天使を象った白
磁は青い釉薬で目や髪や翼が細かく丁寧に描き込まれている。
 「こんな所にあったのか…」
 彼は口元を優しげに緩めた。


 海上レストラン「バラティエ」がオープンした当時、俺は全くの見習いで下っ端
扱いだった。ジジィはオレに野菜や果物の皮むきや皿や鍋を洗うことぐらいしかや
らせてくれなかった。
 クソ忙しいレストランの厨房では料理を後輩や新入りに教えている暇はない。だ
から、料理人は料理長や先輩の下働きや手伝いをしながらその技術や味を盗むよう
に習得しなくちゃならない。バラティエが始まる以前に何度か食べたジジィの料理
は悔しい事にどれも絶品だった。あらくれコックどもだってジジィの料理の美味さ
の秘訣を学ぼうと真剣だったし、コックの中には自分の店を閉めてジジィに料理を
習いに来た有名レストランの元料理長もいたぐらいだ。
 ジジィが手ずから作った料理の鍋や皿に残ったソースやスープを料理人たちは我
先にと指先で掬って舐めては味を研究していた。俺たち下っ端が洗う前に鍋や皿は
雫一つさえ残っていない状態で、秘訣を盗む所の騒ぎではなかった。

 そんな日が続く中で迎えた新年はクソ忙しかった。1月の半ばにやっと来た定休日
にジジィが調理道具街へとオレを連れ出した。
 道具屋の店先に箱が並び、その中には小さな陶器製の玩具が種類別に詰まっていた。
 「何だ?コレ」
 「知らねぇのか、チビナス。こいつはガレット・デ・ロワに入れる陶器玩具(フェ−ヴ)だ」
 「ガレット・デ・ロワ?」
 「2月の伝統行事に焼く菓子だ。ガレットには空豆か陶器玩具(フェ−ヴ)を入れて焼く。切
り分けられたピースに当たりが入ってた奴がその日の王様になる。王様はその日だけ
我儘が許されるってルールだ」
 「子供だましだな〜」
 「お前だってガキだろうが」
 「これも袋に入れてくれ」
 ゼフは店の親爺を呼び寄せた。
 「お幾つで?」
 人の良さそうな親爺は穏やかな声で言った。
 「そうだな、三十個もらおう」
 店員が紙袋に入れたそれはオレが気に入ったものと同じだった。

 厨房に帰るなりジジィは言った。
 「おいサンジ、手伝え。これから出す新しいメニューの試作だ」
 いつもなら「一人で出来ねぇのか」と反発する所だが、珍しく名前で呼ばれたオレはつ
いつい素直に従ってしまった。
 「小麦粉と砂糖、卵にバターそれとアーモンドプードルを出しとけ。ボウルと泡立て器
にスケッパーもだ」
 「へいへい」
 オレが材料を揃える間に爺は薪を一束石窯に入れて火をくべていた。
 「牛乳にブランデーもだぞ」
 「人使いが荒いぞ」
 爺は粉の上に乗せたバターをスケッパーでザクザク切り込んで卵と牛乳を足し、あっと
いう間にタルト生地を作り上げてしまう。素早く鮮やかな爺の手つきにオレは見入ってし
まっていた。
 「冷蔵庫で寝かせとけ」
 ゼフが布巾で包んだ生地をサンジに手渡した。
 「おう」
 オレは急いで冷蔵庫に入れて爺の次の手順を見に戻った。
 爺は無造作に見えるほどカップで砂糖やアーモンドパウダーなどの粉類を迷うことなく
手だけで量っていた。ボウルでバターを練りながら言う。
 「卵を2個割ってほぐしとけ」
 「う‥うん」
 砂糖やアーモンドプードルを足しながら練り合わせる。
 「卵溶いたぞ」
 オレが渡した卵液を細く少量ずつ足しながら泡立て器でスルスル混ぜ合わせ、ボウルの
中身はきれいなクリーム状になっていった。ブランデーを小匙で垂らして混ぜ仕上げた。
 「生地をよこせ」
 「おう」
 爺は生地を半分弱とって丸く薄く伸ばすとパイ皿に乗せてクリームをこんもりと中央に
盛った。そこにミニチュアの天使をよく布巾で拭いてから落とした。ヘラを使って丸い帽
子のような形に整え、また生地を薄く伸ばしてその上に乗せる。周囲をフォークで軽く抑
えて、パイ皿を回しながら中央の山にペティナイフで菊花の様な切込みを付けていく。
 ボウルの底に残っていた卵液をブランデーで薄めると、刷毛でそれを掬うようにとって
パイの表面に塗っていく。
 何も考えずに作っていたように見えたのに、生地もクリームも艶出しの卵さえ全く余ら
なかったのは驚きだった。目算だけでここまで完璧にこなしてしまう料理人をオレは他に
見たことがなかった。
 「もう一回冷蔵庫だ」
 サンジは出来上がったパイを慎重に運ぶ。生地の滑らかさと均等な厚み、美しく切り込
み、焼く前から素晴らしい出来栄えを想像させる。
 「道具、洗っとけよ」
 「ん」
 ゼフは石窯の蓋を開け、火掻き棒で中の薪を隅に寄せた。石窯の中のどこを睨んでいる
のかじっと動かない。サンジは後ろからその様子を伺う。
 「焼くぞ。冷蔵庫からパイを取って来い」
 「おう」
 爺はパイを石窯用のヘラにのせて窯に入れた。
 調理器具を洗いながら待っていると、焼き菓子独特の甘い匂いが厨房にも流れてきた。
 「もういいだろう」
 ゼフが窯からヘラでパイを取り出した。
 鼈甲色の焦げ目も鮮やかなパイからは甘く香ばしい匂いが噴き出して来る。
 粗熱が取れるのを待って、ゼフがパイに切り込みを入れた。二枚の皿に一切れづつ切り
分ける。
 「これが2月から店で出すガレット・デ・ロワだ。食ってみろ」
 まだ湯気が立つパイにフォークを入れるとザクリと小気味良い音が聞こえた。口に頬張
ると生地のサクサクした口当たりとアーモンドの温かく香ばしい甘さが口にも鼻にも広が
った。
 「…う!うめえ!」
 「当たり前だ。俺が不味いもんを店に出すか」
 ゼフはそれを手掴みで頬張った。
 フォークにカツンと何かが当たった。探ると陶器の天使が皿の上に踊り出た。
 「あ、入ってた」
 「それはくれてやる。ガレットが美味く作れるようになったら使え。と、言ったってお
前が俺と同じ味を出せるようになるのは何十年先か分からんな」
 「うるせえ!クソジジィ!すぐに作れるようになってみせらあ!」
 「ガレットは残さず始末しとけ。俺は休む」
 爺はそう言って部屋に戻って行った。
 この味を出せるようになってやると心に誓いながら、オレは極上のパイを噛み締めるうち
に全て平らげてしまった。

 それからと言うもの、オレはこっそり閉店後に爺の手順を思い出しながら何度もガレット
・デ・ロワを焼いた。すぐにあの味に辿り着けるわけもなく、試行錯誤を繰り返した。何度
も焼いて何度も食うので嫌気が刺したが、後で食おうと棚に仕舞っておくといつの間にか誰
かが朝食代わりに食べたのか幾つか減っていた。上達して爺の味に近づいてきた頃には、夜
作っておくと朝起きた時には全部食べられてしまうようになった。そのつまみ食いにオレは
腹を立てるどころか喜んでいた。
 そして自信作が出来た日。
 「オレが作ったんだ、味見しろ!」
 爺が口に運ぶのをオレは固唾を飲んで見守った。
 「ふむ…」
 食べ終えた爺は貶すでもなく褒めるでもなく黙っていた。爺が出した答えは驚くほど意外
なものだった。
 「同じ物を焼いて客に出してみろ」
 「お…おう!」
 オレはガレットを無我夢中で作った。焼きあがった時、ギャルソンが厨房に入ってきて叫
んだ。
 「5番テーブルに大人二人、子ども一人。ラムの香草焼きのランチコースでデザートはガ
レットをご注文!」
 心臓が飛び跳ねるかと思うほど驚いたのを今でも覚えている。
 ギャルソンがガレットを運ぼうと手を伸ばした時、オレはそれを止めた。
 「俺が運ぶ!」
 オレは緊張で強張る足を精一杯上げて皿を運んだ。
 テーブルで待っていたのは品の良さそうな夫婦と栗色のふわふわした巻き毛が可愛らしい
小鳥の様な女の子だった。彼女はガレットを運ぶオレを見つけて濃い青色の瞳を輝かせた。
 「あら、可愛いギャルソンさんね」
 女の子をそのまま大人にしたような美しいマダムがオレに声をかけてきた。
 「ちっ…違います!コックです。オレがこれを焼きました!」
 緊張の余り上ずった声で余計な事まで口走っちまった。
 テーブルに置くと、いつの間にか後ろに付いて来ていたギャルソンがテーブルの前に出て
きてそれをナイフで切り分けて差し出した。
 オレはギャルソンの後ろに隠れて客が口に運ぶまで見守った。
 女の子が嬉しそうにガレットをフォークで口に運ぶ。
 「美味しい!」
 満面の笑みを女の子が浮かべてくれた。
 「本当に美味しいわね」
 マダムが言った。
 オレは体中が震えるほど嬉しくなって、浮き足立ったまま厨房に帰っていった。

 「サンジ!受付でお客様が御呼びだぜ」
 受付では爺がすでにあの客たちと話していた。女の子の父親の顔は前に見たことがあった
のをその時になって思い出した。銀行で会ったバラティエの資金の出資者だった。
 女の子がオレの前に出てオレの手をとった。
 「今日は私の誕生日だったの。ガレットとっても美味しかったわ、ありがとう」
 可愛い女の子からほっぺにキスのチップを貰ってオレは顔が緩んでしまった。
 「驚きました。うちの娘と年の変わらない子があんなに美味しいガレットを焼いたなんて」
 マダムが上品な笑顔で言ってくれた。
 「当たり前だ。こんなチビでもコイツはウチの副料理長なんだから」
 「オレが…副料理長?」
 「これだけ美味くて繁盛している店に出資した事を誇りに思いますよ。2号店や3号店を
出す時はまた協力させて下さい」
 「ふん、そいつはどれだけ先の話になることやら。俺と同じ味が出せる奴が居なきゃ無理
な話だ」
 爺は協力者にさえ愛想が無い。出資者の家族はそんな爺を怖がる風も無く、笑顔で帰って
行った。
 オレは爺を見上げた。
 「なあ、さっき言ってたのホントか?オレが副料理長だって」
 「なんだガキの内から耄碌(もうろく)か?」
 「モーロクはそっちだろ!先言ったことも覚えてねーのかよ!もう一回言ってくれ!」
 「バカ言ってねえで持ち場に戻りやがれ!」
 二人の喧嘩を横目に働くコックが呟く。
 「いっつも思うんだが、あれだけそっくりな二人に血の繋がりが全くねぇってのが不思議
でしょうがないよ」
 「おれも同感だね」
 隣にいたコックが頷いた。


 考えてみりゃ、あのガレット・デ・ロワがジジィから習った最初の料理だったんだな…。
 気が付くと、サンジはガレットの仕込みをしていた。アーモンドクリームの上で天使を握っ
た彼の手が止まる。
 レディたちに天使が当たるならともかく、野郎どもにゃ当たらせたくねぇし、ルフィなんざ
気付かずに飲み込んじまう可能性大だしな…。
 サンジは王冠を箱に戻すとスーツのポケットに入れた。
 オレがオールブルーを見つけたら、あんたをディナーに招待してやる。そん時ゃ、デザート
に「王様の焼き菓子(ガレット・デ・ロワ)」を焼いてやるよ、コレを入れてな。

 オーブンから漂う甘い香りが言葉で呼ぶよりも先に仲間を食堂に呼び寄せた。




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