俺の家では犬を飼っていた。種類はよく分からないが、レトリーバーに似ていた。
名前はアーサー。俺が生まれる前から居た古株で、犬の癖に兄貴みたいに振舞う所
もあったが、俺はアーサーが大好きだった。そんなアーサーが突然家から姿を消し
たのは俺が8歳の冬、クリスマスも差し迫った頃だ。
「じいちゃん!大変だよ!アーサーがいない」
「犬ってのは、死ぬときには家から離れるもんだ。アーサーも随分年寄りだから
な。そっとしておくんだ」
祖父ちゃんは寂しそうに言った。
「アーサーは雪の女王の所へ逝ったんだよ」
祖母ちゃんがそう言って俺の頭を撫でた。
「そんなんじゃない!きっとこの吹雪の中でどっかで迷子になっちゃったんだ!
俺が迎えに行く!」
「シャンクス!待つんじゃ!」
俺は祖父ちゃんが止めるのも聞かず、夢中で家の外へ飛び出した。
吹雪が強く顔に当たって痛い。真っ白で何も見えない。ふと足元を見ると動物の
足跡らしき窪みに雪が積もって消えそうになっている。俺は頭を屈めながら進み、
その足跡を追った。
雪の中に微かに見えた茶色の影。
「アーサー、おいで!一緒に帰ろう!」
振り返ったアーサーの頭を撫でる白い手。横に誰か居る?
あれは…!
白い人影は、長い銀髪をなびかせながらこちらを振り向いた。氷河の窪の様な青
い瞳。あれが雪の女王?
彼女アーサーを連れて行ってしまう。追いかけたいのに脚がすくんで歩けない。
「アーサー!アーサー!」
俺の叫びは風の音に掻き消される。
シャンクスの脚がビクリと動いた。
「…ん?」
涙に滲んだ重い瞼を開けると、そこは船内の食堂のテーブルの上だった。新年を
祝う酒宴の中、テーブルにもたれて座ったまま眠っていたようだ。テーブルには同
じように突っ伏して寝ている者も数人居て、床にも多くの仲間が酔いつぶれて転が
っていた。
あれは夢か…。
シャンクスは昔の思い出を反芻する。
あの時、親父に連れ戻されて拳骨くらって叱られた。アーサーは翌日、散歩で一
番好きだった湖畔で雪に埋もれて死んでいた。
この雪で思い出したかな…。
シャンクスたちが現在拠点にしているのは冬島、雪がどこかしこにも積もる豪雪
地帯。その風景は彼の故郷の冬を髣髴とさせるものだった。
あいつは俺と違って寒いのが苦手なんだよな。
シャンクスは副船長の部屋を訪れた。ノックをしたが、返事がない。部屋に入っ
てみると彼の姿もない。ベッドに手を当てる。シーツはひやりと冷たく、ここで寝
ていた様子もない。船室内の酔いどれたちの中にも彼の姿はなかった。
脳裏を過ぎる「雪の女王」の凍てつきそうな青い瞳。白銀の髪になった彼が彼女
の下へ向かって歩く姿が浮かんだ途端、シャンクスは艦を降りて陸へ飛び出した。
空は澄んだ湖の様に晴れ、雪を降らせていた雲はどこにもない。夜明けを控え、
外は薄紫に明るくなっていた。幸い足跡がくっきりと残っている。戦闘用のごつい
ブーツの靴底の模様、間違いなく副船長のものだ。シャンクスは靴底の向かう方向
へまっしぐらに走り出した。
さほど遠くない見晴らしの良い野原に副船長の姿を見つけた。シャンクスはその
まま速度を落とさず彼に走り寄り、胸の中に飛び込んだ。不意に勢いよく飛び込ま
れてぐらついたはものの、副船長はシャンクスをなんとか受け止めた。
「ベン…」
シャンクスは顔を上げて相棒の顔を見つめた。
「何なんだよ、いきなり…。しかも、あんた…そんな薄着で外に出て凍え死ぬつ
もりか?」
副船長は薄いシャツ一枚に包まれたシャンクスの肩を掴む。
「だって、お前が急に姿を消すから…」
拗ねた表情が中年男とは思えぬほど子どもっぽい。
副船長はいつもの口癖を呟きながらマフラーを解き、ダブルのダッフルコートの
ボタンを外し始めた。
「野外でか?大胆だな」
シャンクスが鼻息を荒くする。
「そうじゃない、コートの中に入れ。ダブルだからあんた一人ぐらいならなんと
か入れる」
「んじゃ、遠慮なく」
シャンクスが後ろ向きに開いたコートの中に入ると、副船長はコートのボタンを
外側にかけなおし、二人の首にマフラーを巻いた。全速力で走ってきたシャンクス
の体は副船長の体よりも温かかったが、それでもシャンクスは「温けぇー」と顔を
ほころばせた。
「こんな寒い時にこんなとこで何してたんだ?寒がりのお前がさぁ」
シャンクスは上を向いて、相棒の顔を逆さからのぞき込んだ。
「いや、大したことじゃないんだが、イベントがあったことを思い出してな」
シャンクスの目の前が副船長の吐息で曇る。
「イベント?」
「ああ、空のな」
二人の頭上に流れ星が光った。
「流れ星!イベントってあれか?」
「あー、あれは四分儀座流星群の残りかな。俺が待ってたのはそれじゃなくて、
南の空だ」
副船長はワルツのステップを踏むかのようにシャンクスの体をリードして向きを
変える。
「ほら、丁度始まった」
「あ…」
薄紫とも薄紅の朱鷺色ともつかない美しい暁を迎えた南の空。その美しい色彩の
中、孤独に浮かぶ細い下弦の三日月。その白く輝く弧の延長線上、細い月の向かい
に星が強く輝き始めた。
「すっげえ、綺麗!ベン!あれは何だ?」
「金星蝕、月の影に金星が入る現象だ。今は暁の明星だな」
星々が夜明けの薄明かりに埋もれる中、月に添う金星だけが煌々と輝く。二人は
この光景に見入った。
「指輪みたいだな…」
シャンクスが溜め息混じりに言った。
「ああ、あれを見て"曙の女神の指輪"だと言う女もいた…」
副船長がこの光景を見るのは二度目。彼は一度目に見た金星蝕を思い返す。
俺は娼館で娼婦を母に生まれ、父を知らずに娼婦たちに囲まれて育った。体は在
っても心はない。歓喜はあっても救いはない。そんな世界。彼女たちは虚しさを抱
えてか、時々夜明け近くに目を覚まして皆で空を見ていた。
あの日、俺は女たちと空を見ていた。
「およし、待っていたって何も変りゃしないんだ。起きているだけ無駄さ」
「女将さん…」
だが、女将さんにも分かっていたのだと思う。何かを待たずにはいられなかった
彼女たちたちの気持ちが。
「あ!あれを見て」
俺は空に浮かぶ月と星を見て声をあげた。
「イサドラ、あれは何?」
「"曙の女神の指輪"かしらね…。綺麗…」
小さくとも強い輝きは地上に生きる全てのものを励ますような、そんな光に見え
た。後に天文の本であの指輪が金星蝕と呼ばれる現象であることを知る。
あの頃の俺はロジャーを亡くし、夢を見ることに怯えながらも、心のどこかで何
かを待っていた。理由は違えど彼女たちと同じように、自分の無力さに膝を抱えて
うずくまって待っているだけだった日々。
だが、今はあの星以上に強い輝きがこの胸の中にある。金星の白い輝きよりも温
かい鮮やかな緋色の輝き。闇の中でも決して見失うことはない。
副船長は鼻先にある金の輝きを帯びた鮮やかな赤い髪を見つめ、腕を回してシャ
ンクスを抱きしめた。シャンクスはその腕に頬を擦り付けるように預ける。
夜明けの色は一面の雪を染める。美しい光と静寂が彼らをそっと包み続ける。
新年の最初の太陽が姿を現し、女神の指輪が空から消えても、彼らはそこに留まっ
ていた。