「こんばんはー。マキノー、晩ご飯」
「あらエース、いらっしゃい。今日は美味しい鱸が揚がったのよ。包み焼きと塩蒸
し、どっちにする?」
宵の口の酒場には似つかわしくない、高く澄んだボーイアルトをにっこりと出迎え
て、女主のマキノは朗らかに年若な−−−ちと若すぎる−−−常連客に手振りで空い
た席を勧めた。声変わりも迎えていない、酒場に出入りするにはいくら何でもいとけ
ない客だが、村全体で世話をしている幼い兄弟がここを食堂がわりにしているのは周
知の事実だ。今更とがめる筋合いではない。大体、年端もいかない子供に自炊させて
栄養失調や火事や食中毒の心配をするぐらいなら、マキノの配慮の行き届いた料理を
食べさせておいた方が余程安心できる。
体全体のバランスから言うといかにも大きすぎ、殊更に彼のシルエットを子供っぽ
く見せている頭がこき、と傾げられた。数瞬考え込んで、
「包み焼きがいいなあ、そんで香草たっぷり、レモンも!」
「はいはい。ちょっとこれつまんで待っててね」
香ばしくカリカリに焼けた細長いガーリック・トーストに豆と野菜のディップを添
えた、それだけでも十分軽食ぐらいになりそうな皿がカウンター越しに差し出される。
そばかすの浮いた頬を嬉しそうにほくほくさせながら受け取って、少年はカウンター
の端、壁際に陣取った先客の隣に小走りで歩み寄った。墨と古い紙の幽かな匂いが鼻
腔をくすぐる。そして煙草のかおりも。
背の高いスツールをよじ登り、古書を肴に晩酌をたしなんでいる縦横のみならず奥
行きも自分の倍以上はありそうな長身に向き直って、
「こんばんは、久しぶり、副船長」
「ああ、こんばんはエース。ちょっと背が伸びたか?」
さりげない動きで煙草を捻り消した長身の海賊に、ポートガス・D・エースは満面
の笑顔を向けた。
「…大した食欲だ」
「育ち盛り!一杯食って副船長より大きくなってやるからな」
「それはまた、遠大な野望だな」
めいっぱい仰け反って胸を張り、エースは箸をちちちと振って見せた。格好を付け
て見せたつもりなのだろうが、鼻の頭に食べこぼしくっつけていることに気付いてい
ないあたり何とも可愛らしい。
失笑を堪えて、副船長、と呼ばれた黒髪の大男はストレートの強い蒸留酒をすすっ
た。身の丈およそ6フィート7インチ、やたらに長い手足とのバランス上細身にさえ
見えて、その実ウエイトも200ポンドを超える彼よりでかくなりたいとは、確かに
野望ではある。
「船乗り、特にピースメインになりたいなら、シャンクスかヤソップぐらいの方が
何かと便利だぞ?」
「ぬー、でもさあ、あんな風ってのはなんかヤだ、オレ」
衣服も簡単には手に入らないし、馴染みのない建物の中では何時頭をぶつけるかと
冷や冷やし通し、何より人混みに紛れようにも肩から上が飛び出す有様で、普段はど
うこう思いもしないが追っ手の足音をうなじに聞く折などほとほと辟易する。たまに
はリーチの長さで得をすることもあるが総体的に見ればデメリットの方に天秤が傾く
などと、表情に乏しい顔の奥で巡らされている考えなど思いもつかない少年は、肩越
しに振り返って眉間に皺を寄せた。
つられて振り向くと、眩いばかりに豪奢な緋色の髪を戴いた端正な顔をした男が、
縮れた黒髪の男の膝に抱き上げられたエースの弟をからかっているところだった。形
容するなら酔っぱらいオヤジの一語で済む、へべれけ紙一重の酔態は、確かに少年の
潔癖なロマンチシズムを昂揚させる光景とは言い難い。隙だらけに見えて、もし打ち
かかったとしてもどうやってかは兎も角絶対に手痛い反撃が待っていることは確実な、
身に染みついた付け入りがたさに戦慄するにはもう少し荒事のキャリアを積む必要が
ある。
「そう嫌な顔をするな。備蓄の残量を計算せずに飲み食い出来る機会なんてそうそ
うないんだ、あれで普通だよ」
「副船長が酔っぱらって騒ぐところなんて見たこと無いぞ」
「タガの外し方は人それぞれ、さ。これでも諸方緩めてはいる」
しゃらっと涼しげに流してみせるポーカーフェイスから、珍無類にしてはた迷惑か
つ恥ずかしい酒癖を気に病むあまりに酔えなくなった男の裏事情を勘ぐるほど、エー
スは汚れてはいなかった。何と言っても、副船長は彼の英雄だ。にゃあごろごろと懐
きつつ大暴れをかます、非常に論評に困る姿を咄嗟に妄想できる方がおかしい。
「なあ、副船長、一つ訊いてもいい?」
しばらく納得できない顔で取り残した魚の身をほじくっては口に運んでいたエース
が、不意にぽつりともらした。顔を上げもしない。話をするときには相手の目を見て、
を至って真面目に実践している少年にしては珍しい態度だった。
「なんだ?砲術の秘訣を教えろってんなら却下だ、ありゃあ業務上の秘密って奴だ
からな」
「いや、そんなんじゃなくて。 …あんたの母ちゃんって、どんな人だった?」
「母親?俺の?」
声音に意外の念が滲んだ。今まで、エースが副船長の来し方について尋ねたことは
なかった。何を今更、それもいきなり、と眉間に皺が寄る。と、背後から懐かしむよ
うな、いとしむような、何とも言えない暖かさと苦みを孕んだヤソップの述懐が音で
なく言葉として意識に上ってきた。
「俺の倅もさあ、この位重くなってんのかなあ…」
つまりこれか。
エースとルフィの兄弟には、副船長が知る限り、血縁者の影が見えない。幼いなり
に達観したような顔をして見せていても、思いを巡らすところがないわけでもないの
だろう。父親については尋ねないことに葛藤と幼いプライドが透けて見えた。
「俺の母親、か」
「あ、悪い、ごめん、何か言い辛いこときいちゃた?ほんとごめん、俺ただ言って
みただけだから気にしないで!」
「別に気まずい仲だったってわけじゃない。ただまあ、最後に逢ったのが百何十年
も前の話だからな。咄嗟に顔が思い出せなかっただけだ」
「ひゃ、ひゃくっ!?」
「冗談だ」
普段通りの淡々節で前言が撤回された。エースの上半身が斜め45度に傾いた。続
いて背後からも派手な騒音が響く。椅子ごとコケた奴が複数人数いたようだ。
「これでも20代だ。…本気にしたのか?」
「…副船長なら何でもありなような気もしてさ…」
冗談なら冗談っぽい顔で言うもんじゃないのかよ、と零すエースの主張の方がこの
際正しい。
「まあ、それは置いといて」
「今度は本当だよね」
また与太だったら怒る、と雄弁に語る幼い視線を頬で受け止めながら、どこまで本
気か測りがたい海賊はちょっと困ったようにこめかみを掻いた。
「母親、なあ…実は、木の股から生まれたそうなんだ。だから、強いて言うならあ
の樹が母親と言うことになるのか?ちょっと自信がないが」
「木の股、って、つまり枝の付け根?」
「ああ。俺も生まれてすぐのことまで覚えているわけじゃないからな、あくまで聞
いた話だが」
信じがたい、途方もなく嘘臭いが、大体副船長の語る言葉には、内容の如何に関わ
らず妙な迫真性があった。こいつが言うのならそう言うこともあるのかもしれんとい
う気にさせられる。
からりとグラスの氷を鳴らして、周囲の狼狽と驚愕と声にもならない爆笑を後目に、
副船長はあくまでも大真面目だ。
「嵐の日に、ああ風と雷ばかりで雨は降っていなかったんだそうだが、そんな夜に、
町はずれの林の、御神木ってことになってる樹に雷が落ちたんだと。火事になったら
大変だろう?」
「そうだね」
「町の人もそう思ったんだ。それで、燃え移らないようにって火消し道具持って行
ってみたら、雷で幹から枝が折れて垂れ下がって、その裂け目からこう、このぐらい
の俺が、ずるずると這い出してきて」
こんくらいな、と大きな手が、はいはいか捕まり立ちするぐらいに育った乳児ほど
の背丈を示してみせた。
「副船長…」
背後の気配がまたしても緊迫した。擬音を付けるならわくわくとでも言うか。爆発
を待ちこがれるような沈黙が充満する。
「そ、それじゃ副船長、大きくなったら樹になるのか?」
もう一度椅子ごと転倒する騒音。今度は大分数が多かった。しかもタイミングが揃
っていた。案外街劇場の喜劇にコケ役として参加しても、結構な人気を博する事が出
来るかも知れない。
名にし負う赤髪海賊団の面々を揃って撃墜する偉業を期せずして達成した少年は、
しと副船長の二の腕を掴んだ。必死すぎて周囲の状況など気にとめる余裕もなかった。
「これ以上大きくなったら大変だな」
とぼけた口調がいっそ憎かった。焦りで思考が空転する。必死になってエースはそ
ぐう言葉を捜した。
「あ、その、そうじゃなくて!大人になったらって事だよ!」
「いい大人のつもりでいたんだが…」
「そ、その、そうでもなくて、ああもう!」
「怒るな。つまり、もっと時間が経ったらと言いたいのか?」
「そう、それ!」
わかっててすっとぼけるなんて意地悪だ、と一頻り難詰するエースに済まんと素直
に頭を下げる様は、生意気盛りの息子と余裕のある父親のような構図だった。両者と
も顔立ちの系列こそ違え、似たような癖のある黒髪を戴いているから、本当に近い血
縁者のように見えなくもない。
「おいルフィ、寝るなら家に帰ってからにしろって!…ったくよー、お前全くエー
スの弟だよな」
「ありゃ、うわもうこんな時間!
副船長ごめん、話の途中だけどさ、俺ルフィ連れて帰んなきゃ」
「送ろうか?」
「良いって、俺に構ってて副船長全然飲み食いしてないじゃん」
すっかり寝入ってしまった弟をおんぶしてひょこんと頭を下げた少年のために、副
船長はドアをあけて店外に一歩踏み出した。客人を送り出す躾の良い給仕を真似た仕
草で恭しく長身を折り曲げ、
「またのお越しをお待ちしております、ポートガス様」
「なーにやってんだかさァ副船長、止めてよ何か似合わないって!
それじゃお休み、また明日…あ、そうだ」
「何だ?」
「もし、この先さ、副船長、葉っぱとか生えてきたら、すぐ俺に教えてよ。樹が植
えられるような船仕立てて迎えに行くから、遠慮は無し、グランドラインでもどこに
いてもすぐにいくからさ!」
「それは頼もしいな」
「シャンクスじゃおたおたするばっかりで何にも出来そうに無いだろー、任せてよ、
根っこが生えて自分で動けなくなっても俺が一生面倒見るから。当てがあると思えば
安心だろ?」
その気さえ出せば不世出の博打打ちとして歴史に名が残ると断言された、対峙する
ものを尻の落ち着きの悪い気分に突き落とす、凪いだ海面めいて底を見せない気配が
一瞬だが確かに綻びた。余程察しのいい、且つつきあいの長い奴なら、その時彼が爆
笑したかったのだと知れるような揺らぎだった。
無邪気に寝息を立てる弟を背負って、小さなお兄ちゃんは家路についた。素っ気な
いと感じさせないほどの間をおいて、ドアを静かに閉じる。
振り向いた副船長を、爆笑と拍手と甲高い指笛が迎えた。
「よう男殺し!」
三本の傷が縦に縫う目を半月型にしならせて笑う彼の船長にきつい一瞥をくれてや
って、黒髪の賢者はやれやれと肩をすくめた。
「阿呆」
素っ気ない口調、ただそれを吐いた口角が僅かに緩んで笑みに似た形を作った。
「何だ、お前さんも結構ホラぐらい言えるんだなー、真面目一方かとばっかり思っ
てたぜ」
そう言いながら、縮れた黒髪の狙撃手が椅子を引いて酒杯を勧めてきた。目元が親
近感を滲ませてほころんでいる。どこまで真実が混ざっているのか知れたものではな
い与太話を好む船乗りの中でも、ヤソップのホラ話好きは群を抜いている。自分が語
るだけでなく、他人が広げる大風呂敷を聞くのも楽しみの一つであるらしい。
「事実の方は到底子供に聞かせられたものじゃ無いんでな。ちょっとあんたの真似
をしてみたんだ、ヤソップ」
軽く顎を引くだけの礼をして腰を下ろしながら、副船長は思いだしたように眉間に
皺を寄せた。
「しかし、大丈夫なんだろうか、あんなに信じやすくて」
「なーにを今更。
大したことにはならねえよ、俺の経験上。しばらくすれば、はぐらかされたって気
が付いて、そのうち子供んときのの他愛ない笑い話になるさ」
「そう言うものかな。ならいいが…」
少しばかり不安を残した様子で、それでも副船長は納得顔で頷いた。曲がりなりに
も妻帯者にして子持ち、しかも街全体が緊密な連携を持つ船乗りのコミュニティで育
った、つまりはさんざっぱら大人にからかわれ年少の子供達のガキ大将をやってきた
ヤソップの発言には、十分な経験に裏打ちされた一般論のみが持ちうる説得力があっ
た。
「ま、せいぜい、騙したなってとっちめられる時に備えて言い訳でも練っておきな。
ところで、訊いても良いか?改めてどうこうって程の事でもないんだがよ、気になっ
てしょうがねえ」
「何を」
「いんや、お前さんのお母ちゃんのほんとのとこ。よけりゃ聞かせてもらえねえか
なあ、ここだけの話って事でさ」
伺うような目で見上げた先で、ランプのオレンジ色の光の下では黒ずんで見える目
が軽い逡巡の色を帯びて伏せられる。ヤソップは慌てて手を振った。
「悪い!いけねえな、余計なこと言っちまったぃ。酔っぱらいの戯言だと思って忘
れてくれ」
困りながら笑って、飄々と副船長はヤソップの謝罪を遮った。眉間のあたりだけが、
本人も意識していないのだろうが僅かに固く、いかにも気楽な口調を裏切っていた。
「エースにも言ったが、別に折り合いが悪かったわけじゃあないんだ。顔を見たの
も二回っきりだからな、どうこう思う程のつきあいじゃなかった。どういう人だった
のか実はよく知らん」
「あー…まあ飲めや」
さらりと述べた過去形に、既に故人となって久しいだろう事を理解して、ヤソップ
は自分の失態に頭を抱えた。場を繋ごうと空いてもいないグラスに更に蒸留酒を注ぐ。
地雷を踏むのは半ば趣味、すれすれでかわしてその場限りの笑い話で落着させる自信
があればこそスリルを楽しんでもみるのだが、今回は些か調子に乗りすぎたようだ。
滅多にない本物の反省がかりかりと胃の腑を噛んだ。
言いぐさから判断するに、別に物心もつかない年頃で死別したというわけでもない
のだろう。それで実母と顔を合わせた回数が片手で余る幼少期を想像して胸が悪くな
った。自分でそれなりに整理をつけてしまった過去の瘡蓋なのだろうとも察したが、
ばつの悪さがそれで減ずるわけではない。瘡蓋ってのは傷跡ではないのだ、あくまで
も。治りきったわけじゃない。迂闊に爪を立てれば再び血を吹く。軽い気持ちで表面
に引き戻してしまった自分の不明を恥じた。
ヤソップ自身、親と縁が深かったとは到底言えない、母親は手の感触をぼんやりお
ぼえている程度、父親など彼がおぎゃあとこの世で第一声を発する前に海の藻屑にな
り果てた境遇ではあるが、船乗りばかりの彼の郷里では珍しい話ではなく、そんな身
の上の子供を、町の大人達は暗黙の了解のうちに自分の身内として甘やかし駄々を聞
き叱りとばし抱きしめ、物の道理を言葉と背中と時には拳骨で教えるのが常だった。
町全体が一つの大家族だったようなものだ。肉親との縁の薄さなど、埋め合わせてお
釣りが来る。後ろめたくて堪らなかった。
ヤソップの煩悶を知らんぷりして−−−気付かれていないわけでは無いことだけは
確かだった。我が身の世話と対人関係だけが異常にぶきっちょな男の、精一杯の思い
やりにかえって身が縮んだ。余計なこと言いやがって、慰めるの大変なんだぞとねじ
込んでくるシャンクスの視線が痛い−−−、何とも思っちゃいないよと軽く笑い声さ
え交えて副船長は問わず語りに言葉を続けた。
「二回目に見たときは、真夏の死後三日ってところだったか。あれは、ちょっと、
食卓の話題にするにはいくら何でも不適切だな」
「一回目はどうだったんだよ…」
やけくそと妙な義務感を等分にこね上げて責任をとる覚悟を固め、ヤソップは溜息
まじりに合いの手を入れた。毒を喰らわば皿まで舐めろ、いっそ食卓を囓り倒せ。そ
んな戯れ言がふと頭を過ぎった。それぐらいしか筋の通しようがない事もある。
「5歳ぐらいの時だったかな、書庫で遊んでいたら、偶然隠し通路を見つけたんだ。
探検してみるだろう?」
「おう、そりゃ俺だって隅々まで調べるさ。男の子なら当たり前だ」
何の関係があるのかは置いといて、取りあえず子供らしく微笑ましいエピソードに
少しほっとした。やんちゃとその末の失敗談を混ぜっ返す方が、さりげなく薄ら寒い
話を聞かされるよりは百倍もマシだ。
「満遍なく埃が積もっていて、あれは随分と使われていなかったんだろうが…行き
止まりにドアがあって、開けてみたら」
「見たら?」
「寝室で」
「お母ちゃんが寝てたか」
「いや。…ああまあ、寝ていたと言って言えなくもないのか。その…」
間を取るようにグラスを唇に沿わせて、副船長はらしくもなく落ち着かない視線を
宙にさまよわせた。
ややあって、思い切ったようにきっぱりと、しかし小さな声で、副船長は言葉を続
けた。目が泳いでいた。
「弟か妹を作らされているところだった」
婉曲な表現の意味するところを理解するまで一呼吸の時間が必要だった。食堂ごと
炸裂弾でぶっ飛ばされた気分で、ヤソップは今度こそテーブルに轟沈した。
「お前さんの良識に乾杯…良い判断だよ、そいつぁ子供に聞かせちゃいけねえ」
手つきだけでボトルごとお代わりを頼んだ。悪酔い間違い無しとわかっていても、
呑まなきゃやっていられない夜もある、こんな阿呆な理由でも。平和なもんだ、と呟
くシャンクスの声が刃の冷たさで首を撫でて、ヤソップは痙攣するように肩をすくめ
た。
「すんませーん、ちょっと行って来ます!」
「どこへ行く気だ、エース」
彼専用の小船を担いで、弾けるような笑顔で会釈しながら通り過ぎていく戦闘隊長
の肩をひっつかみ、白髭と二つ名を取る大海賊は腰を曲げて眉間を顰めた顔をぐいと
突きだした。怯えるふうもなく、そばかすの浮いた愛嬌のある顔が嬉しそうにほころ
ぶ。
「あっちの島に雷が落ちたのが見えたもんで、ちょっと様子見に。樹に落ちたみた
いだし、子供が出てきてたら面倒見てやらなくちゃァ」
「何だそりゃあ?」
「なァにとぼけて。樹の裂け目から生まれてくる奴っての、たまにいるじゃないで
すか。あれ無人島っしょ?拾う奴もいないところに赤ん坊だけぽつーんとほっとくん
じゃ可哀想だし」
「…誰に教えて貰ったんだ」
「赤髪の副船長!あァいまは副長でしたっけ。あの人も実は木の股から生まれたん
だって、こっそり聞かせてくれたんですよ。
だーいじょうぶ、子供の世話は慣れてますから弟で!ああいうのが出てきたら凄い
戦力になると思うんですよ、ちょっと育てりゃァ」
おまえそりゃあ騙されたんだ、と言おうとして、ふと白髭は遠い昔に母親の膝で聞
いた昔語りを思い出した。折れた巨木が産み落とした木霊の話だった。頑健な長身で、
無愛想な変わり者だが万象に通じ知に長け問われれば静かに語り、しかも闘いとなれ
ば精強無比。一生に一度だけ誰かに信を預けるという樫の木の化身を、利き腕とトレ
ードマークの麦わら帽子は人にやってしまったのだと笑って告げた、緋色の髪の海賊
の傍らに影のように佇んでいた男、豪腕以上に頭の中身の桁の外れ加減で名を知られ
た−−−この偉大なる航路、あらゆる船乗りの経験と知識を嘲笑い君臨する魔の海を、
純粋な計器航法のみで思うがままに押し渡るという噂が、真実からさほど遠くないこ
とを白髭は知っていた。赤髪海賊団、殊に大頭とその懐刀が乗る旗艦は、たまに、し
かし偶然と僥倖のみではあり得ないほどの頻度で、ログポースに頼る限り不可能な航
路を辿って移動することがあった−−−異色の海賊の横顔と重ね合わせてみる。
いや、まさかそんな、しかしもしかして。
もし、あの神出鬼没を支える男の同類が手に入るなら、それは確かに大した戦力増
強に繋がるだろうが、いやまていくら何でも。
見る見る小さくなる、自分のエンブレムを刻み込んだ裸の背を見送りながら、今度
あの男に会うことがあったら酒ではなく美味い水を出してやるべきなんだろうかと、
グランドライン最強の名を恣にする老海賊は頭を捻った。
大切なところでは絶対に間違わないくせに、妙なことを信じ込んで疑わない上周囲
を巻き込むのが、Dの一族の血統である。