「遅ぇな。遅刻たぁ、あいつにしちゃ珍しい」
「あの部隊、まともにデスクワークやるの彼ぐらいだもの。こき使われてるんでしょ、また」
「つくづく要領良いんだか悪ぃんだかわかんねえ奴だな」
ふーっと紫煙を吹き上げて、スモーカーはうざったそうな仕草でごきごきと首をならした。見て
いる方は気付かれていないつもりなのだろうが、生憎、彼の職場は海軍の、それも前線に展開する、
本物の実戦部隊だ。危険の兆候に鈍感なようでは到底つとまらない。勢い、視線に過剰反応する傾
向が出る。うなじがちりちりと痛痒くて、どうにもうっとううしくて堪らなかった。
しかし、つい見てしまう方にも言い分があった。とかくこの二人、目立つ。
スモーカーの方は、もてはやされるほど整った容姿でもなければ、醜男と貶されるほど人並みか
ら劣るわけでもない、まあ並より少し上と言うほどのレベルではあるが、自足した獣の品格と剽悍
な熱気を同居させるその佇まいで補って余りあった。生来の癇性が眉間のあたりにぴりぴりと漂う、
どこもかしこも無骨一点張りの強面、そのくせふと頬を緩めればどきりとするような求心力がある。
粗にして野だが卑ではない、と言うところだろうか。タンクトップ一枚の上半身は鉄片を打ち込ん
だような筋肉で見事に鎧われて、いっそ半裸に剥いて彫刻がわりに飾っておきたいぐらいだ。
その対面で、所在なげにウォーターグラスを玩んでいる女性は、これはもう掛け値無しに美人と
評して差し支えなかった。年頃はスモーカーと同じく二十代前半。色味のないグロスで唇に艶を乗
せ、目元と眉に僅かに筆を入れただけの薄化粧が、計算したように素肌のきめ細やかさを引き立て
ている。手入れの良いハニーブロンドを自然に背に流し、卵なりの小作りな頬は弛みなく張りつめ
て、若さの盛りが匂うようだ。洗練された骨格の、しなるような長身は魅力的な曲線を備えていて、
そのくせ印象としては実用的に研ぎ上げられた強靱な小太刀の機能美が先に立つ。小気味よく伸び
た背筋に、海軍の第三種士官服−−−ちなみに、第一種が典礼用、第二種が海上通常勤務。第三種
は陸上勤務時に着用する−−−がよく似合っていた。剥がすか割るかしたことがあるらしい、僅か
に歪んだ何枚かの爪と、手首から肘にかけてうっすらと残る、ロープでひどく擦り剥いた傷跡から
判断するに、デスクワーク専業ではなく、キャリアの一環として事務方の経験を積まされている士
官学校出の幹部候補生なのだろう。肩飾りに付けられた階級章は中尉のものだ。まあ順当な栄達ぶ
りといえた。
こんな二人が、気の張らない酒場で人待ち顔を見合わせているのだ。視線を引き寄せられてしま
うのも無理はなかった。
「要領?悪いわよ、あれは、はっきり。手際は良いけど馬鹿正直すぎるわ」
「仕事は早いんだがなあ、何でああ、おかしなところでぶきっちょなんだか」
会話は勢いづいて妙な方向に次々と宙返りをはじめた。どうやら口にも慣性の法則は適用可能な
ようだ。話題の焦点になっている待ち人は、二人の士官学校時代の友人だった。スモーカーに至っ
ては寮でも同室で、僅か二年のつきあいだったとはいえ奇癖愚行その他諸々、笑えるエピソードに
は事欠かない。
ついつい熱中して、本格的に話し込みに入っていた二人の旋毛に、聞き慣れた声が急降下爆撃を
かました。
「…随分と言ってくれるじゃないか」
心臓が口からはみ出たかと思った、と後にスモーカーは述懐している。狼狽も露わに背後に向き
直ろうと体を捻り、最近二つ名が囁かれ始めた悪魔の実の能力者は強烈な違和感に眉間の縦皺を深
めた。
聞き慣れた声、馴染んだ口調。ただ、それを放った大本の高さが、記憶からは大幅にずれている。
顔のあったはずの位置には、ぶかぶかのシャツの下で泳いでいる貧相に薄い胸板。視線を合わせる
為には、かなりの長身のはずのスモーカーさえ思いきりのけぞらなければならなかった。
「遅れて済まない。久しぶりだな、お互い無事でなによりだ。 …どうした、スモーカー、ヒナ」
久闊を叙することも忘れて、ぽかんと目と口を開いたまま無言の旧友二人を見おろして、ベン・
べックマン少佐は困ったように僅かに目尻を下げた。
「お前、気配消して人の後ろに立つのは止めろって」
「そ、そうそう。お互いの健康と安全の為よ。でもまあ、しょうがないか、意図してやってるわ
けじゃ無いんだし。…それは兎も角、お久しぶり、ベックマン君。随分背が伸びたわね、びっくり
したわ。ヒナ驚愕」
些かの気まずさを引きずった早口の挨拶を苦笑一つで受け止めて、ベンは静かに椅子を引き腰を
下ろした。海軍を始め、血の気も多ければ技量も達者な連中が好んで通う場所柄だからだろう、無
垢の白木で組まれたごつく頑丈で重い椅子と手入れの悪い床板に軋り一つ生じさせない無音の身ご
なしは、戦陣に身を置く立場を考慮すれば称賛に値するには違いない。日常生活で対峙するなら単
にやたらと精神衛生によろしくない悪癖だが。あまりの気配の希薄さに辟易したスモーカーが、せ
めて体に匂いぐらいは付けろと半ば強引に教え込んだ喫煙習慣も、こうやってみると本来の目的に
はあまり役に立っていないようだ。
まだばくばく五月蠅い鼓動を続ける心臓をなだめつつ、スモーカーは卒業以来3年半ぶり−−−
正確には3年と8ヶ月弱−−−に再会した友人の姿をとっくりと上から下まで眺め回した。
目測で6フィート半ほど。ということは、一別以来1フィート近くも伸びた勘定になる。卒業当
時で彼は14歳だったわけで、それからの三年半といったら大抵の男なら成長期、それもピーク中
のピークに当たる。そのくらい伸びても別に驚くには当たらないと理性ではわかっていても、こう
やって自分より頭一つも大きくなってしまいやがった姿を突然見せつけられては、軽い失調感さえ
感じた。スモーカーが知っていたベックマンは、体格が劣るのも周囲より格段に幼い年齢のせいで
あって、フィジカルな闘いでもどうしてどうして手強く物騒でさえあったけれど、それでも見た目
は、手荒に扱うことが躊躇われる、うっかり肩でも叩いたら骨が折れるんじゃないかと周囲を悩ま
せていた華奢な子供だったのだ。咄嗟にイメージを整合させきれない。
それに大分男っぽくなった。秀でた額から尖った鼻梁に至るラインが格段に鋭角を増し、肩は身
長に十分釣り合うだけの幅がある。惜しむらくは、肉付きが病的に薄すぎた。この暑いのに喉元ま
できっちりと釦がかかった長袖のシャツは、張り感のある生地であるにも関わらず肩の骨に直接ぶ
ら下がってでもいるようにだらんとして、薄地のTシャツでも着た日には目も当てられまい。血色
の悪い、不健康に乾いた肌、頬も削いだように痩け、旧懐の情に和らいだダークレッドの眼光がな
ければ陰惨でさえあったろう。
「ああヒナ、昇進おめでとう。今度の任地は?」
「サウスブルー。第3艦隊で、砲術士官だって。
…ああ、お姉さん、こちら注文お願いして良いかしら。
エールを大ジョッキと、シングルモルトをワンフィンガー、水割りでね、氷は抜きでお願い。ベ
ックマン君は何にする?まずは乾杯でしょ」
「コーヒー。ブラックで 前線勤務か、気を付けてな」
「やっと海に出られるんだから、そのくらいは覚悟の上よ。コーヒー?呑まないの?」
品書き片手に、ヒナは整った弓形の眉をひそめた。一応未成年には違いないが、12の頃から一
丁前に飲み助ぶりを発揮していた男が今更遠慮するとも考えにくい。噂に聞くはた迷惑極まりない
酒癖が一瞬脳裏を過ぎった。もしや何か、面倒ごとでも起こして自粛しているのだろうか、と思い、
すぐに否定する。それなら自分の耳に入らないわけがない。ヒナが現在身を置いているのは、参謀
府直下の人事部だ。その手の話は知る気が無くても知ってしまう立場である。
面映ゆそうに頬を掻いて、ベックマンはさらりと数少ない女友達の疑問に答を出した。
「水曜だったか、腹を撃たれた。腹膜手前で止まったから大したことはないんだが、まだ抜糸が
済んでいないんだ。これで酒なんか飲んだのがばれたら、今度こそ医務室に監禁される」
この前の水曜。つまり三日前。腹に弾傷。
「…お姉さん、コーヒーは取り消し。野菜ジュース下さいな」
「寝てろこの莫迦!」
罵声と共に拳が唸った。固いものがぶつかる快音が響く。伝票を抱え込んだウエイトレスは、ち
ょっと目を丸くして、すぐににこりと笑った。荒事が茶飯事の職場だ。それなりに見る目も養われ
る。手加減したからこそ、いい音になる。あれでは殴った拳の方が余程痛かろう。
「あら、それなら一杯食べて血を増やさなきゃ。おつまみは何にされます?」
「臓物と豆の煮込みと、河鰻の串焼き、あとレバーと玉葱の芥子揚げ三人前づつ」
「山芋と韮の鉄板焼きと、ササミと青野菜の和え物もね。それから、…そうね、何が良いかしら」
「大蒜の爆弾揚げなんかいかがでしょう。匂いも気になるほどじゃありませんし、精が付きます。
疲れたときには覿面ですよ」
実は私もお世話になってるんです、仕事が立て込んだ時なんかには。
身をかがめ、わざとらしいぐらい秘密めかして、ひそひそと。茶目っ気のある目の表情につられ
て、スモーカーも口尻を吊り上げた。
「おー、そりゃ確かに利きそうだ。それも頼む」
「そうね、まずはこれくらいで。後は足りなくなったら追々注文するから」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
客商売の鑑と賞賛すべき愛嬌を振りまいて、伝票片手にウエイトレス嬢が厨房へ歩み去る。
テーブルに激突した額と、拳骨を喰らった後頭部を両手で押さえて、ベックマンは漸く突っ伏し
た上半身を持ち上げた。急な姿勢変更が腹の傷に響いたのか、口元が僅かに歪んでいる。
「…痛いぞ」
「神経が隅々まで通ってる証拠だな」
「そんなもん証明せんでいい」
にべもないスモーカーの台詞に反抗するベックマンの口調に、芝居がかったものを感じ取れたの
は、ヒナとくってかかられている当人だけだったろう。
「兎も角たくさん食って、ちったあ肉つけろ。ったく、案山子みてぇに痩せっこけやがって」
「ご明察。どうも水夫連中の内緒話じゃあ、案山子少佐で通ってるらしいぞ、俺。そんなに、ひ
どいか?」
「病気でもしたのかしらなんて思うぐらいにはね。ごめんなさい、呼びつけて。悪いことしちゃ
ったわね」
「いや、どうせ外食だから、丁度良いと思ったんだ」
「自炊してないの?」
意外だった。前線部隊勤務で佐官ともなれば、航海手当や危険手当なども含めると結構な高給を
手にしているには違いないが、幼少期の極貧生活が尾を引いて、基本的にベックマンは締まり屋だ。
高く付く店屋物頼りはどうもらしくない。
「あのなあ、家と言っても、年に二週間もいないんだぞ、あそこには。馬鹿馬鹿しくて、鍋釜買
いそろえる気にもなれん。そんな暇もないが」
「二週間!?おい、いくら何でももうちょっとあるだろ、帰港期間」
「大体は事務局の仮眠室に泊まってる。書類仕事がなにしろ山積みで」
「分担しろ!」
「他の奴等にやらせたところで、再提出喰らって結局俺が書き直す羽目になるんでな。二度手間
は好かん。全く、あれじゃ、官舎なんか宛われたところで、経費の無駄だろう」
憤然としみったれたことを言いきって、不意にベックマンは人の悪そうな顔で目を眇めて見せた。
「それに、見たいのか?お前ら。俺が自分でこしらえた飯食ってるとこなんか」
「するな。やめろ」
「そうね。私が悪かったわ、ごめん。ヒナ反省」
「…そこまで平謝りされるとそれはそれで腹が立つんだが」
「うるせえ。お前の手料理は金輪際食わん」
スモーカーの眉間の縦皺がひときわ深まった。左手が無意識に胃のあたりをさすっている。
士官学校には、サバイバル実習なる授業がある。スリーマンセルで、救難信号用の発煙筒一つと
地形図、後は着の身着のままの装備で樹海や密林に放り込まれ、規定期間内に踏破出来れば合格、
というなかなか過酷な代物で、完遂出来るチームは例年せいぜい一組か二組しかいない。ちなみに、
スモーカーは、ヒナ・ベックマンと組んで、稀にみる好タイムでゴールしている。煙草が切れると
同時に自制心までブっちぎってしまったスモーカーが、何か悪いものに取り憑かれたような正確さ
で目的地めがけて驀進したせいだと知っているのは、ここにいる三人だけだ。公言するにはちょっ
と恥ずかしすぎる。
ベックマンがあのとき披露した、食用に適する動植物の見極め・捕獲能力は大したものだった。
一日平均50キロからの距離を徒歩で移動しながら、片手間で3人前の食い扶持を確保し続けたの
だから、見上げたものだとは今でも認める。大した隠し芸だった。
しかし、てきぱきと下ごしらえする手際の良さに騙されて、ベックマンに夕食の支度を任せ、ビ
バークの用意を調えた二人を待っていた代物は…思い出すな俺。食欲が失せる。何だかんだ言って
も根は上品なプチ・ブルジョア育ちのヒナが、思わず漏らした台詞は今でも耳の底に残っていた。
曰く、
「羊のゲロの煮込み…?」
10台前半から甲板走りとして軍艦に乗っていたスモーカーは、齢に似合わず切りつめた航海経
験が豊富だ。補給が滞り、仕方なく穀象虫の湧いた乾麺麭だの、蛆のたかったチーズだの、相当に
キてる食材に頼って飢えを凌いだことは何度もあった。神経も胃袋も鍛えに鍛えたつもりだったが、
全くまだまだ、世の中上には上がある…下には下、か。
あれと大同小異、天上天下どこに出しても立派な下手物ナンバーワンな代物を、一人もそもそと
口にするベックマンの姿は容易に想像できた。いくら何でも、当人はまるで気にしていないとして
も、許し難いと思った。何というか、あれは許しちゃ駄目だろう、人間として。
「…レシピ買って来なさい、一人暮らし一年生向けとか銘打ってある、その通りに作ればまとも
なご飯になるようなやつ。どうせベックマン君、今度の人事移動で参謀府に転任のはずだから。良
い機会よ、お金の使い方とかも、もうちょっとおぼえたら?折角高給取りなのに、家具も備え付け
だけで済ませてるんじゃないの、その調子じゃあ」
「ベッドから足がはみ出るから、吊床は持ち込んだ」
「くの大馬鹿」
はああ、と額を押さえてヒナが溜息をつく。言い様のない徒労感が全身からにじみ出していた。
たまの上陸、稀にしか戻ってこない自宅で、何が悲しくてハンモックで睡眠をとっているのだ、こ
の馬鹿ったれは。
慌ててベックマンもフォローする。
「一応、買い物してないわけじゃないぞ。この間も、カタールの出物があってな、ウーツ鋼の。良
い刃紋なんだ」
どう聞いても墓穴を深めているだけなのが何ともはや。
「違う!もうちょっと私生活に金をかけてもバチはあたらねぇって言ってンだよ、ヒナも俺も!
その記憶力で、どうして人並みの常識って奴だけが憶えられねぇんだ」
「…嫌な時代になったもんだ、お前に常識を云々されるたぁ」
「あぁ?何だって?」
「成体のアナコンダ相手に締め技勝負仕掛けて、さくっと勝っちまいやがるような人三化七の分
際で人並みを説くか貴様。片腹痛いぞ」
「しっかり食っといて言うな!」
サバイバル実習10日目。ヤニ切れ絶好調、既に見敵必殺モードに突入していたスモーカーに襲い
かかったのが、思えばあのアナコンダの蛇生最後の不運であったろう。白蔓・但し未完成
で見事脊椎粉砕骨折、そのまま三人の胃袋を潤す末路を辿った。
「ってぇか、六分儀も見ねぇで艦位測定する真バケが人のことを誹るか阿呆。あのくらいの余録
がねぇんなら、金槌のリスク背負った甲斐がねえ」
ぎしぎしと、視線の圧力がスモーカーとベックマンの間でせめぎ合う。大人げないことに、二人
とも三割方本気だ。流石にジト目でヒナが突っ込む。
「五十歩百歩って言葉知ってる?二人とも」
微分積分代数幾何確率統計全て暗算で済ませて計算を間違えた試しがないベックマンだって、立
派に“普通”のカテゴリーからは逸脱している。尤も、ヒナにしたところで、士官学校対抗競技会、
白兵戦技部門無差別級で、並みいる大男共をなぎ倒して見事V3を達成した伝説のクイーン・オブ
・ジ・アイアンフィストだ。他人のことを言えた義理じゃあない。類は友を呼ぶとはよく言ったも
のだ。
「お待たせしました、すぐ出来るものから先にお持ちしましたけど…あら、お取り込み中でしたか?」
職人芸の域に入るバランスで大量の皿を抱えたウエイトレス嬢の、愛想のいい声が、一時休戦を
促した。軽快に油が弾ける芳香につられて、スモーカーとベックマンの腹がぐぅと鳴った。
所詮17歳と22歳。食欲には勝てないお年ごろである。
「ところでヒナ」
「何?」
しばし無言、早飯も芸の内の軍隊キャリアが滲む手品のようなスピードで最初の注文を平らげ、三
人殆ど同時に人心地付いた顔で椅子に背を預け直した頃。
煮込みの深鉢の底をパンでさらいながら、思い出したようにベックマンが視線を皿から上げた。
「さっき、俺の人事異動がどうとか言っていなかったか?」
「ああ、あれね。
まだ内々の話だから、そのつもりで聞いて欲しいんだけど、君、参謀府内の情報局に知り合いの人
がいるでしょ?眼鏡かけて、ちょっと小太りで、昼行灯な感じの」
「ああ、あのおっさんか」
「情報局なんかとどこで面識作ったんだよ、お前」
「士官学校に入る前に、日銭稼ぎに出入りしてた鉄火場で偶然会ったんだ。賭碁が趣味らしい。そこ
で、なんだかやたらと気に入られて。大体なあ、俺、あのころ戸籍も無かったんだぞ。推薦状抜きじ
ゃ、受験申請も無理に決まってるだろ」
「ほー」
それはそうだ、とスモーカーは頷いた。士官学校の受験資格はかなりの多岐に渡る。身元が胡乱な
者に、迂闊に海軍将校の道を開いてしまっては大変な事態に繋がらないとも限らないし、基礎学力と
身体能力の両方が揃わない体力馬鹿、若しくは頭でっかちの青白い秀才なんぞ、入ったところでたち
まちリタイヤの末路が見え透いている。経済効率を考えても、事前審査は厳しくせざるを得ない。受
験資格年齢に6年も残す、学歴どころか出所も不明の浮浪児では、何らかの働きかけ抜きではそもそ
もスタートラインに臨むことさえ不可能だ。
「その方がね、漸くベックマン君獲得できそうだって、舞い上がってそこら中で言いふらしていら
っしゃったの。第七艦隊なんかに飛ばされちゃったから、手を回すのも大変だったけど、どうにか目
処が立ったそうよ」
「随分見込まれたもんだな、すげえ手間だったろうによ」
スモーカーの厳つい顔が破顔一笑した。背を叩こうとして、怪我人相手だと思い出して寸止めする。
第七艦隊所属、と名乗った瞬間、大抵の真っ当な海兵は蔑みと恐怖の混ざった複雑な視線を向けて
くる。暴力亡者の吹き溜まり、法の守りをかさに着た自覚ある快楽殺人者ども、愚連隊同然、そんな
風聞が流布している。その実態はと言えば、手に余る、しかし何らかの理由で手放すことも出来ない
から余計に厄介な連中を飼い殺す受け皿だ。あながち的はずれな評価ではない。扱いは捨て駒同然、
前線をたらい回しにされるから武勲を立てる機会には事欠かないが、ここに配属されたが最後、艦隊
内部以外での昇進はまず無い。参謀府への栄転など、設立以来ではないだろうか。
「スタージェス一家殲滅は流石に効いたみたいね。あの報告書見せたら、流石に頭の固いお偉いさ
ん方もぐうの音も出なかったんですって」
「あれか!お前、具体的にはどうやったんだ?」
職業的関心と純粋な好奇心が七三の割合でミックスされた厳つい顔をぐいと突きだされて、ベック
マンはやや当惑気味に腰を引いた。
「どうって、当たり前に」
「当たり前でカタつけらんねえから頭痛の種だったんだろうがよ連中は!だからどうやったんだ、
簡単で良いから教えろ」
どん、とテーブルを叩いて更に詰め寄られ、ベックマンは困り果ててくしゃりとひとつ髪をかき回
した。何をどう考え決断し行動プランを立てたのか、他人に判るようにかみ砕く作業がどうも下手だ
と言うことは自覚していた。諦めてくれないかな、とちらと見遣った目がスモーカーのぎらぎらと真
剣な眼差しにぶち当たる。溜息が出た。こうなったら、梃子でも退かないことは経験上よくわかって
いる。ぐじぐじと後頭部をこね回し、束ね髪が収拾がつかないほど乱れたことに突然気付いて、慌て
て結い紐を解く。手櫛で梳き直しながら、取りあえずの筋道を纏め、おもむろにベックマンは口を開
いた。
「まずは、連絡網をどうにかするのが第一だと思ったんだ」
「それで、それから?」
「新航路開拓を上申した」
「あー、と…」
どう繋がるんだ、と問い返しそうになって、すんでの所でスモーカーは自制した。逐一解説を要求
したのではまるで素人だ。平水夫として数年、士官学校で2年、更に実戦で士官として4年近く訓練
され闘ってきたプロフェッショナルの意地が赦さなかった。代わりに頭をフル回転させる。ベックマ
ンの思考の軌跡は恐ろしく瞬間的で唐突で発端から結論までの経緯が短絡していて、閃光を目で追う
ほどに捕らえにくいが、よくよく考えてみればロジックが破綻していたことは一度もなかった。論理
的整合性を羅針盤がわりにごりごり押していけば、必ず理に適うラインが見えてくる…はず、だ。
たっぷり一分ほども沈思黙考し、嫌な可能性に思い当たって、おそるおそるスモーカーは口を開い
た。
「…まさか、手前の船を囮にしやがったのか?」
スタージェス一家。ウェストブルーでも異色の悪名で鳴らしたモーガニアだ。1本マスト級の小型
帆船や一段式のガレー船ばかりで船団を組織し、群島が連なる海域に籠もって決して遠征はせず、追
われれば蜘蛛の子散らしたように逃げ去るばかりで大規模な会戦に応じることがない、小賢しさだけ
が取り柄のようでいて、しかし小物故の厄介さが一際目立つ存在だった。勝ち逃げ上手と言うのだろ
うか、大して強くもないが、徹底して叩くことがどうしてもできない。鼠の大群を駆逐する難しさと
似た構図だった。己の非力を熟知した結束の固いゲリラは、なまじの軍勢より余程対処に困る。
あれが一家を維持していくほどの稼ぎを上げ続けられたのは、偏に彼らのホームグラウンドである
エリアが、そこそこ栄えた島の間を結ぶ一帯で、貨物船の往来が頻繁だったからだ。緊急避難場所や
水の補給の都合上迂回することも難しく、襲撃に怯えながらも、交易業者は奴等のなわばりを通過せ
ざるを得なかった。
その前提条件が崩れるかも知れないとなれば、探りを入れてくる頻度が格段に上がる。商船組合か
らも、随分厳しい突き上げが来ていたはずだ。申請しさえすれば、許可は確実に、公式に下りる。さ
ぞかし説得力が増したことだろう。傍証として申し分ない。こいつのことだ、フェイクのためだとし
ても、実際に使用に耐えるルートを割り出せるだけの観測は行ったに違いない。現実的に実行可能な
策だからこそ、脅しとしても有効に機能する。
スタージェス一家のしぶとさの一端が、充実した情報網にあることは以前から推察されていた。活
動が活発化すれば、どんなに秘匿性を高めたとしてもなにがしかの痕跡が残る。繰り返している内に
伝達ルートが見えてくる。ソースの割れた情報網なんぞ、小細工を仕掛けられるためにあるようなも
のだ。
焦らせて正常な判断力を削ぐと共に、情報を寸断し操作し選択肢を恣意的に削り取る。確かに常套
手段だ、極めて真っ当だ。正攻法中の正攻法、王道と言っても良い。普通に、とベックマンが評する
のも間違ってはいない。
恐るべきは、それをたかだか17歳の駆け出し士官が、自分の頭一つで膨大なファクターを把握し
吟味し、刻々と変化する状況全て掌の上で転がしてのけた点だ。参謀府の現役将校、確たる理論を裏
付けに実績を積み上げてきたベテラン達でも、一人で同じことをやれと言われて頷く奴が何人いるか。
「わざと小規模な集団で動いたからな、案の定、邪魔が入りまくった。まあ好都合だったな、こち
らにしてみれば」
更にうそ寒い感想を一言付け加えて、ベックマンは軽く咳払いした。一端言葉を切って、整え直し
た髪をひっつめる。
「あとは、小競り合いしながら少しだけ逃がしたり、平行して解釈の偏りそうな情報をちょっと流
してみたり」
「あれが、ちょっと?」
額を押さえて、ヒナは投げやりに突っ込んだ。報告書を読んだときには、さしもの彼女も脂汗が出
た。小競り合いの第一陣と第二陣は僅かな痕跡を残して徹底的に壊滅、不安を煽るタイミングで後続
を数人、故意に逃がしてアジトまで泳がせて、同時進行で、ほんの少し有利に運べる程度に解釈を偏
らせた情報を段階を追って流し続けたシークエンスのえげつなさ的確さ、あれをちょっとと称されて
は、本職の参謀官や情報部員は立つ瀬がない。敵の歯車ががたがたに狂っていく様が目に見えるよう
だった。
「出所がばれるような派手な操作はしてないんだ、ちょっとだろ」
大威張りで胸を張られて、ヒナは痛みだしたこめかみにさりげなく指先を添えた。スモーカーも明
後日の方を向いて口パクで悪罵を吐き散らしている。何と言うか、こう、天然で評価基準が間違って
いる確信はあったが、どこがどう間違っているのか、ベックマンに理解できるように言い含めるプラ
ンも思いつかない。
恐慌状態で総力戦を挑んできた一家を一方的な砲撃戦で殲滅するまでの過程を−−−自主的に選択
したつもりだったろう決戦海域さえ、実際にはベックマンの誘導から一海里も外れてはいなかった。
どれだけ数をそろえても所詮は小船の集団、どこで、どこから出てくるのか読み切られていては、外
洋向け砲列艦相手に勝ち目は皆無だった。あの手の構成は、奇襲戦法で先手々々と相手を振り回して
こそ脅威になりうるのであって、正面攻撃なんぞ試みたところでただの射撃練習の的だ。射程距離が
圧倒的に違うのである−−−、大胆な省略を交えて淡々と解説する顔を魂が抜けそうな顔で見上げな
がら、ヒナはベックマンを海軍に引き入れた情報部員の慧眼を心から褒め称えた。
全く、こんな奴を野放しにした日には、おちおち海にも出られない。
軋む音が聞こえそうなぎこちなさで無理矢理頭を持ち上げ、スモーカーはどさりと椅子の背もたれ
に体を投げ出した。士官学校時代からの化け物ぶりが、更にスケールアップしているのだけはよくわ
かった。参謀府が招聘するわけだ。
「あー…有り難うよ、今後の参考に役立てさしてもらわ。と、これからどうする?俺は河岸変えて
もうちっと呑むつもりなんだが」
「あたしも付き合う。明日は非番だし。
ベックマン君は?」
「済まんが、明日から出航前整備の立ち会いだ。これで失礼させてくれ」
「慌ただしいな」
「もう?怪我が治るまで待機じゃないの?」
「船の上で治すさ。大した怪我じゃないって、言ったろう」
「無茶すんなよ」
二人の心配顔を、ベックマンは大げさだなあと笑い飛ばした。
「大丈夫だって、結構いい腕なんだぞ、うちの船医」
くつくつと喉の奥でなおも笑いながら、心配しすぎだと二人の肩を交互に叩く。
笑っていた。だが、よく見れば判っていたはずだ。
疲れていた。傷を負い、本当なら歩くだけでも負担になるほどに擦り切れていた。我が身の苦痛に
無頓着な性癖に騙された。
慢性的な過労で土気色の顔で、がさがさに乾いて関節が張り出した、骨と皮ばかりの手で。
それでも、笑っていた。大丈夫だと。
それが、友人としてまみえた最後の姿だったことを、二人は後々苦く思い返すことになる。