「敵船発見!」
「切り込み隊整列!ガンデッキ、牽制程度にしておけ。今回は証人確保が最優先だ、沈めるな」
「沈めるなっつーのも、珍しい指示ですよねぇ」
のほほんと軽口一つ、比較的小柄な操舵手が軽々と舵輪を回す。眠り猫の渾名の元になった、う
たた寝しているんだか起きているんだか判然としない切れ上がり気味の糸目が緊迫して然るべき状
況にひどくそぐわない。
「まあいつもがいつもだしな」
背には長銃、両腰に短銃二丁と手斧、シューティングエッジを刺した皮ベルトを胸にぶっちがい
にかけて、手にはソードブレイカー、満艦飾に武装した切り込み隊の一番手が、舷側へ駆け足で向
かいながらすれ違いざまに混ぜっ返す。無駄なまでの重装備は威嚇効果を考慮した選択なのだろう
が、足取りが微妙に浮かれて、気合いを入れるあまり頓珍漢なコーディネートで愛しい彼女の元に
駆けつける間抜けな男のようにも見えてかなり可笑しい。無闇に砲撃戦に長けた艦長を戴いている
おかげで、普段白兵専業の奴等は出番が少ない。待ちに待った腕の見せ所だ、気分が高揚するのも
無理はないか。
「やれやれ、久しぶりすぎてどうも勝手が違うなあ」
「おいおい、衝角から突っ込むのは無しだぞ」
「ありゃりゃ、これは失礼」
漫才さながら、ぴしゃりと自分の頭を一つはたいて微調整を当てる操舵士の後頭部を苦笑混じり
に見おろして、ベックマンはきりりと舷側に向き直った。進路はどんぴしゃ、接舷ルートに乗った。
帆の数と種類の差の分、こちらの方が船足が速い。後は速度を合わせ、鉤縄を掛けてなぐり込み。
いつもの必勝パターン、死角から射程距離に踏み込んで一方的に滅多撃ちとは大分勝手が違うが、
普段と違うことを要求されたぐらいでおたつくほどキャリアの浅い乗組員は一人も居ない。手順は
今のところこちらのプラン通りに進んでいる。
(不安材料は指揮官だけ、かよ…全く、嗤えんな)
声を張ろうとするだけで腹が疼く。首筋に溜まり額を重くする熱は、夏の日差しのせいばかりで
はない。下手くそな担当医の手で、不格好に切り開かれた摘出痕は赤く腫れて膿を持ちかけていた。
あまりよくない兆候だったが、そちらは殆ど気にしてはいなかった。痛みそのものとそれに伴う消
耗は、今の体力なら、短時間に限っては無視できる。ベックマンは元来、五感の機能とは別の次元
で−−−その意味なら、むしろ並よりかなり鋭敏なぐらいだ−−−快不快の感覚に疎かった。
だが、筋肉が一部損傷して機能を果たさないとなると、痛い苦しいは意識的に棚上げできても、
物理的に動作が制限される。体が意志に従わなくなる。こちらは流石にどうしようもない。正直、
これで白兵戦に参加すると部下が主張したなら、馬鹿かお前はと拳骨の一つもくれてやって医者の
監視下に置いただろう。
「艦長、そのですね」
「何か?」
「くどいようですけど…カチコミ、止めといた方がいいんじゃあ?」
「仕事だ」
「仕事ったって、ご自分の顔色見てから言って…」
語尾を轟音が掻き消した。ガンデッキからもうもうと黒色火薬の発火煙が立ち上る。点々と散ら
ばる、人が住むには小さすぎる島々を背景に、敵艦から僅かに逸れて派手な水柱が上がった。測距
目的の一発だ、これははなから当てるつもりが無い。
水柱を目安にサイトを微調整したにしては驚異的に短い、100秒足らずのタイムラグを置いて
更に二発、三発。どれも微妙に標的を外しているが、見るものが見れば思わず唸ったに違いない。
沈めるのではなく、相手の行き足を止め、進路を操作するための発砲としては完璧に近い出来だ。
金持ちが道楽で持つ快速船に偽装した敵艦は、遠距離の武装に乏しい。わざわざガンデッキにぶち
込んで、誘爆撃沈の危険を冒す必要など現状では全くない。今回の作戦目的は、証拠、及び証人の
確保だ。沈めては元も子もない。
「後は任せた。 …心配りには、感謝する。見極め役だ、無理はしない」
さえない顔で見送る操舵手に背を向けて、ベックマンは舷側へと踏み出した。肩に羽織った士官
服が風に煽られて大きく翻った。
やり取りの間に、敵船の後ろ姿が大分大きくなっていた。不安を振り捨てるようにごきりと肩を
回し、操舵手は細心の注意と共に梶を切った。併走状態から鉤縄を投げ、手際よく渡し板がかかる。
切り込み隊が、乗り移って5分後。操舵手の胸騒ぎは現実のものとなって現れた。
明後日の方角から放たれた煙幕弾。混乱する甲板、僅かに聞こえる怒号と剣戟の音と。
数分と経たず、海風に煙は噴き千切られて消え。
ホワイトアウトを脱した敵艦上に、一際長身の、黒髪をひっつめた姿だけが足りなかった。
作戦目的完遂。当方の損害、軽傷者2名、重傷者無し。行方不明者1名。詳細は別紙を参照あり
たし。
特記:人的物的とも損害軽微なれど、指揮系統に甚大な障碍発生。帰投許可を賜りたし。
艦長代行記す…。
第七艦隊第三遊撃部隊報告書、と背表紙に印字されたファイルを閉じて、海軍参謀府総参謀長は
何となく自分の皺深く節の目立つ手を見おろした。老いたな、とふと思う。
この部隊の報告書は、ここ3年ほどの彼女の密かな楽しみだった。形式を一歩も出ない、緻密さ
だけが取り柄の、木で鼻を括ったような愛想に乏しい論述を追う度に、闘争と画策と交渉に半世紀
を埋め尽くした古狸の血が沸き立った。どんなミステリーの傑作よりもスリリングだった。未熟な、
しかし本物の天才の煌めきがそこにあった。
それももう終わりだ。新たな一編が届く日は永久に来ない。
(全く、年寄りに苦労を押しつけて逝くんじゃないよ)
風に乗って、清く乾いた鐘の音が窓越しに幽かに耳を叩く。一つ、二つ…十七。
呆気なく終わってしまった弔鐘が、葬られる誰かの年齢を告げる。彼女から見れば孫ほどの生涯
だったと。
誰かを見送ることには慣れていた。まして、直接顔を合わせた回数など片手の指でも余るほどの
つきあいでしかなかったけれど。
痩せて尖った肩をした、人慣れない野良猫のようだった子供が、今は見上げるような長身だと聞
いて、再会を少しばかり楽しみにしていた。自分の手元で鍛えてみたいとも思っていた。相応しい
土壌を与えたとしたら、どれほどの大樹に成長するのか、期待感に胸が騒いだ。あれが一人前にな
れば、何時か来るリタイアの日も少しは心安らかに迎えることが出来ただろうに。
(人の苦労も少しはお考え)
不意に、胸に迫るものを覚えて、つるは喉を震わせた。
「…若い子が、逝き急いで…」
還ってこなかった報告書の執筆者のために、つるは数分の黙祷を捧げる甘さを自分に許した。
小さすぎる、と不意に、しかし強烈にスモーカーは思った。
この棺では小さすぎる。あいつの背丈じゃあ、膝から下がはみ出るじゃないか。
敵でも見るような目で見おろした簡素な白木の長方形の箱は、彼の憤りにも関わらず、殆ど空も
同然だった。収まっているのは、黒いサテンのリボンで束ねられた黒髪が一房だけ。標準サイズの
棺ではむしろ余る。
空白を、参列者が誰に言われるでもなく持参してきた雑多な品物が埋めていく。手擦れのした数
冊の古書、酒瓶、煙草をワンカートン、鴎のエンブレムが打刻された下賜品のオイルライター、士
官服、携帯用のチェスセット、花、花、花。
おおよそ埋まったところで、墓守が蓋をかぶせた。古びたハンマーが、無慈悲な正確さで釘を打
ち込んでゆく。
がん、がん、がん。
うるせえ、と怒鳴りそうになって、それが釘を打つ音ではなく、耳のなかで脈打つ心臓の悲鳴だ
と気付いた。
がん、がん、がん。
六人立ての肩輿で担ぎ上げた棺は、一人でも十分なぐらい軽くて、スモーカーは泣きたくなった。
遺体の欠けた葬儀は、海軍に限らず、海に生きる職業全てに共通してごく当たり前のことだ。海
上で消息を絶った者の遺体など、余程の−−−海神の慈悲か嫌悪を思うほどの−−−偶然が働かな
い限り回収できない。誰もが、状況証拠の積み重ねで誰かの死を受け入れることに否応なく馴らさ
れる。このだだっ広い軍人墓地中を捜しても、その下に主の遺体が眠っている墓石がいくつあるこ
とか。
一ヶ月に渡った捜索活動全てが、彼の生存を否定した。故買屋に流れていた、いなくなった男の
所持品とおぼしき使い込まれた長銃やライターの鑑定にも立ち会った。リボンの代わりに遺髪を束
ねていた士官服の断片に染みついた茶褐色の汚れが、その持ち主の血痕であることも確認されてい
る。
それでも耐え難かった。培ってきた諦念も男の意地も、ひたすらに無意味で無力だった。ただた
だ腹立たしく、納得できなかった。
遺髪と共に送りつけられてきたカードの嫌みったらしい文面が、耳元で読み上げられるように甦
ってきて、スモーカーは激情を奥歯ですりつぶした。大事な証拠物件だと自分に言い聞かせても、
粉々に引き裂き踏みにじりたい衝動をこらえるには、自制心を絞り尽くすほどの努力が必要だった。
更に腹立たしかったのは、渾身の忍耐にも関わらず、証拠としての価値が何ら無かったという事実。
彼が消えた海域なら、どこの商会にも数台はある普及品のタイプライターで印字された文面には、
特記に値する特徴のひとかけらもなかった。かわいげがないことこの上ない。
4フィートほどの深さに掘られた穴に棺を安置し、祈りの言葉と共にひと掬いずつ土がかぶせら
れていく。
かみ殺すような眼光で、事務的な作業を見おろしているスモーカーに、参列者の一人がそっと声
をかけた。
「艦長の、お身内の方ですか?」
「学校の同期だ、寮で同室だった」
「そう、ですか…この度は、何と言っていいか…」
糸のように細い目の縁を真っ赤に腫らして、第七艦隊の徽章をつけた男は歔欷に肩を震わせた。
すん、と鼻をすすって、
「俺が、あのとき、後を追っていりゃあ…」
「過ぎたことだ、あまり気にしていると死神に袖を引っ張られるぞ」
慰めが、酷く空々しく響いた。糸目の男は、聞こえているのかいないのか、思い詰めた顔で懺悔
を続けた。
「逃げていく小船が一隻、ちらっと見えたんです…見えて、いたんですよ…俺が、後を任されて
いたんですから、もうちょっと気を利かせていりゃあ…」
青ざめた、泥眼の不吉な静けさに顔を強張らせたヒナが、彼女にしても驚異的な優しさで悔恨に
身を焼く男の肩に手を置く。
「あなただけの責任ではないわ。…怪我を知っていて、海に出してしまった私たちも同じく責め
られるべきよ」
「いっそ罵って下さいよ…」
泣き笑いの顔を上げて、糸目の男は深く息を吐き出した。がちんと背を張り、せめてもの意地を
総動員して肩をそらし、
「弔い合戦の話があるんです。まだウラとってる最中ですが。…噛んでみますか?」
「その話、私も一口乗らせてくれたまえ」
小柄な体躯に、肉体労働から縁を切って久しいと判る柔らかな肉を纏いつけた、小春日和のベン
チで老猫でもあやす風情が似合いだろう初老の男が歩み寄ってきていた。憔悴の滲む目ばかりが昏
い光を宿して、不穏な世界に馴染んだ素性を物語る。
「その段階なら、私にも出来ることがありそうだ」
「…そりゃ、特尉が力を貸して下さるなら、願ってもないことですが…立ち入った事とは思いま
すが、艦長とお知り合いでいらっしゃる?」
糸目の操舵手が戸惑い混じりに念を押す。初老の男の胸元には、有翼の蛇が巻き付いた杖のエン
ブレムが飾られている。情報部、特務大尉。情報部現場サイドの元締めと、士官学校を首席で卒業
しながら第七艦隊なんて場末に飛ばされた問題児がどう繋がるのか、咄嗟に関係がつかめなかった。
「彼を海軍に引き込んだのは私なんだ。…名前もね、私が付けたよ、その時に。関わりと言うに
は十分ではないかね? こんなところで終わっていい子じゃあ無かった。それなりの報いがあって
しかるべきだろう。このままでは、済ませない」
皆、異存はなかった。
数週間後。モーガニア崩れの破落戸共が寄り集まった新興組織壊滅の知らせが、海軍広報誌の三
面を飾った。
関係者には、それぞれ三日から一週間の謹慎処分が申し渡された。
「よーっす、精が出るなあ」
けたたましい音を立てて、建て付けの悪いドアが蹴り開けられた。腕一杯に抱え込んだ雑多な荷
物越しに、ジェイドグリーンの瞳が悪戯っぽく笑っている。
「何だ、もう帰ったのか」
「用は済んだよ。ほれ、今日の新聞と海軍広報」
質の悪いざら紙が、真新しい長銃を抱え床に胡座をかいた膝元に投げ出された。受け取りもせず、
ベックマンは顔を伏せて作業を再開した。船腹越しの波音に紛れて、ざりざりと鑢の音が耳に痛い。
体に沿わないパーツや、鍛造ラインそのままの角を少しずつ丸めて持ち主の体に合わせていく作業
は、うんざりするほど地道だが、これをさぼるような間抜けは一人前の銃手とは言えない。咄嗟の
抜き打ちや精密射撃に差し障る。
肩付けに構えて、リーチに合わせて後付けしたバレルカバーの具合を確かめ、ふと視線が床に散
らばる紙面に落ちた。海軍広報誌の5面。戦没者名簿が下半分を埋めている。
「…その、まあ、そう言うこった。もう表に出ても大丈夫だぜ、副ちゃん」
「その呼び方は止めろ」
「だってよー、癖つけとかねえと、うっかり人前で本名呼んじゃったら大変だろ」
「…ふん」
それっきり、沈黙の天使が一列縦隊で飛んでいく…気まずい。
頭を掻こうとして両手が塞がっていることに今更気付き、笑顔をひきつらせたままシャンクスは
整頓されたデスクの上にひとまず土産を放り出した。
ふい、と腰を伸ばして踵を返し、おもむろに何時にもまして愛想を放り捨てた少年−−−一応、
そう呼んで差し支えない年頃ではある−−−−の傍らにしゃがみ込む。
「メディヴはなんて言ってた?今朝検診してなかったっけか」
「全快」
またぶつりと会話が切れた。真っ白な沈黙を、潮騒と鑢の擦過音がひたすらに埋め続ける。
まるで一月前に逆戻りしたみたいだ、とシャンクスは声に出さずにぼやいた。ヤマアラシのごと
く全身を覆う刺々しい無言に気圧されて、腰が引けそうになるのを根性と愛情で堪える。ここ半月
は、ぶっきらぼうなりにそこはかとない諧謔を聞かせてくれることもあって小躍りするほど嬉しか
ったが、今日はとことん虫の居所がよろしくないらしい。
負けてなるかと無駄な闘志をかき立てて、シャンクスはつい一月前、拉致同然の強引さでかっさ
らってきた愛しい愛しい副船長の腕を引っ張って立たせた。
「暇なら、スパーリング付き合ってくれよ。体がなまりそうだ、お前歯ごたえあるし」
無言で腕が振り払われる。あやや、と落胆寸前の顔をするシャンクスには一顧だにくれず、肉付
きの薄い足が大股でドアに歩を進めた。
相好を崩して、シャンクスは早足で甲板に向かう細長い後ろ姿を追った。満面の笑みを浮かべて
いることが自分でも判った。
甲板の空きスペースで足を止め、ベックマンが振り向いた。軽く体を解しながら、不機嫌そうな
仏頂面で、
「で?」
「…ん、ああ。素手」
滑らかな動きで、驚異的に長い手足が構えを作る。会話のテンポが心地よくて、シャンクスは思
わずくちじりを吊り上げた。端から聞けば会話が成立しているのかと頭を捻りたくなるだろうやり
取りで、こいつ相手だけは事足りる。言外の濃密さをこいつなら汲んでくれるだろうと、そんな甘
えを許される快楽が堪らなかった。ルゥでさえ、お互い得物を持ったら船にとばっちりがいくじゃ
んか、その程度の補足は必要だろうに。
足を前後に開いて踏ん張って、挨拶がわりに互いの前に出した右手の甲を触れ合わせる。シッ、
と鋭く僅かに息を吐いて、緩く握った裏拳がしなりを帯びた軌跡で顎先を掠めてきた。スウェーバ
ックですかそうとして、リーチ以上に伸びてきた手首を危うく裏拳で弾いて避ける。強引に慣性を
ねじ伏せて軌道を切り替え、更に踏み込んで放たれたストレートが捻った頬を掠めた。鳥肌が立っ
た。血が下がり、頭の芯は冷え切って、手足だけが急速に熱を帯びる。現実がスローモーションで
動く錯覚に身震いした。
突き込んだ分前に出た右肩を捕らえて背負い投げに持ち込もうとした脇腹に、窮屈な間合いで左
掌が突き込まれた。あばらが軋む。咄嗟に息を詰め筋肉を締めて堪えたが、流石に苦痛の息が漏れ
た。肋骨は、前面からの打撃には強いが側面から加えられる力には脆い。急所をよく心得た攻撃だ。
ただ、惜しむらくは肝心の力が弱い。負傷とそれに続いた療養生活で落ちた下半身の筋力を、業
がカバーしきれない。尖って固いが、シャンクスの防御を突き破るには少しだけ軽すぎる。骨は悲
鳴を上げつつも折れてはいない。
腕を掴んだ手を離し、振り向きざまの膝蹴りが肘の骨で綺麗に撃墜された。間合いを取ろうと長身
が大股にステップバックする。そうは問屋が卸すかと、シャンクスは身を低くして追いすがった。身
長差プラス拳一つ分もリーチが違う。離れては一方的に刻まれる。逆に、密着すればこちらが有利だ。
手足が長いと、どうしても懐が甘くなる。
立て続けに肉を撲つ鈍い音が響いた。短く鋭く、体の内側にダメージを蓄積するシャンクスの拳と、
長い腕を器用に折り畳んで、体の表面を壊していくスナップの利いたベックマンの拳。どちらも譲ら
ない。
顎を狙ったシャンクスの左拳と、ベックマンの打ち下ろしの右が美しい十字を描いた。相討ち。
ぶは、と詰めていた息を吐きながら、どちらともなく弾かれたように飛びすさる。
「やるねえ!」
右の親指で片方の鼻孔を押さえ、呼吸を阻害する鼻血を吹き飛ばし、シャンクスは腫れ上がりかけ
た顔で闊達に笑った。陽性な獰猛、そうとでもしか形容し様の無い、求心と反発を同時に強烈に誘発
するジェイドグリーンの眼光をひたと向けられて、ベックマンは思わずくちじりを歪めた。切れた口
腔に溜まった血を吐き捨て、
「病み上がり掴まえて、嫌味のつもりか?」
「こんだけ息が続きゃあ上等!」
「…は!」
呼気とも嘲りともつかない音を喉から絞り出して、ベックマンが一直線のダッシュで突っかかった。
正面から、と見せかけて、駒落としの唐突さで右にステップ、こめかみ狙いのロングフックが風を切
り裂く。
いきなり大砲たぁ余裕が無くなってきたか、と苦笑しかけたシャンクスの頬が強張った。のけぞっ
てかわした腕が、勢いのまま喉元を横合いから抑える形で真っ直ぐに伸びてくる。避けられることは
先刻承知、とばかりに上体を仰向けに潰しに来る肘、足下に寒気に似た予感。
思考より早く体が反応した。ブロックに突きだした手をベックマンの腕に添え、逆上がりの要領で
後方宙返りを打つ。すんでの所で甲板を離れた足下を、ローキックが風を巻いて空振りした。
(引き出しの多い奴!)
敢えて拳技のみに頼り懐に隙を見せた先の攻防もこれの布石だったのだろう。唐突なスタイルチェ
ンジは、その気になれば大剣豪の座も夢では無いはずのシャンクスに対してさえ有効だった。対処が
僅かだが後手に回ってしまう。
回転軸近くに残ったシャンクスの片手をとって変形の肩固めを狙ってきた頭に牽制の頭突きを一発、
ほんの少し稼いだ間合いを見逃さず、伸び上がる勢いのまま膝をかち上げる。
鳩尾に突き込まれかけた膝を柔らかく両手の平で受け止められ、直後シャンクスは目を見張った。
消えた!
どうしてああいうふうに体が動いたのか、シャンクスは後になっても思い出せずにいる。兎も角、
総毛立つような戦慄を感じた瞬間には、上体を横倒しに、殆ど真上に向かって回し蹴りを放っていた。
奇跡的なまでの体の反射だった。
憶えているのは、足刀が捕らえた膝裏の感触。
脚力にブロックした膝の勢いまで加えて、ベックマンの体は板発条が弾ける勢いで腰から宙に跳ね
上がっていた。腰を曲げて前方宙返り、落下速度と遠心力全てを踵に預けた浴びせ蹴りを、回転を加
速する形でシャンクスの回し蹴りが撃墜したのだと知ったのは後の話である。
受け身もとれずに肩から甲板に落下、そのままごろごろと転がって俯せにへたり込んだ細い長身に、
慌ててシャンクスは駆け寄った。
「済まん、大丈夫…がっ!」
無防備な腹に、馬のような裏蹴りがめり込んだ。思い切り吹っ飛ばされた背がマストに激突、ずる
ずると滑り落ちる。
肺の空気を纏めて叩き出され、一頻りむせ返って、シャンクスは大の字に横たわった。そこらじゅ
うが痛い。内出血で腫れ上がった瞼が目を塞いで、視界も常態の半分以下だ。骨や靱帯が無事なだけ
ましか、あれだけ気合い入れてやり合ったのなら。
試しに腹に力を入れてみて、ずきりと痛んだがまあ悲鳴を上げて跳び上がるとかゲロ吐くとか言う
ほど深刻なわけでもない。
と、そこまで体の状態を確認して、シャンクスはどっこいしょと上半身を持ち上げた。数歩ほど離
れたところで、ベックマンもようよう立ち上がろうとしているところだった…いや、こけた。膝が泳
いで平衡を保てない様子だ。
「大丈夫か、副ちゃん」
「ばてた…情けねえ」
ぜいぜいと肩で息をしながら、すぐに直立するのは諦めてべたりと座り込む。秀でた額に汗の珠が
光っていた。口元は血で真っ赤、頬骨や顎のあたりが腫れ始めて、見るも無惨な有様だ。
「ひっでえ顔。厨房行こうぜ、冷やさねえと」
「人のことが言えたツラか」
シャンクスはシャンクスで、柔らかく整った面差しが原形をとどめていない。
「だーっはっは!お互い様ってか…って痛ェ!」
「…何やってんだ」
横目で投げつけられた、呆れたと言うには温度が低すぎる視線、しかしそこから憑き物が落ちたよ
うに焦燥の影が消えているのを見て取って、シャンクスは痛む頬をものともせずにんまりと笑った。
またばたんと大の字になって空を見上げる。いい天気だ。
いい、気分だ。
しばらくぼんやりと流れる雲を見上げていると、不意に独り言のようにベックマンが呟く。
「…酷いことを、した」
「ン?」
敢えて起きあがり顔を見ることは避けて、視線を空に預けたまま、シャンクスは合いの手を入れた。
何を言っているのかは解っていた。
海軍広報、戦没者一覧。その中に、ベックマンの名前もあった。
「…友達が、居たんだ」
「ん」
「随分世話をしてもらったよ」
「そっか」
「名前も貰った。
…人のなかで、生きていくやり方を教えてくれた」
「そっ、か」
「あんたが知っている奴等も居るよ」
「ヘビースモーカーのアンちゃんと美人な姉さん?」
「ああ。 …酷い、事を、した…」
俯く気配。
ベックマンと始めて逢ったその時。同じ船に乗っていた、一際印象的だった二人の顔がふと浮かん
だ。出来はいいがどこか危なっかしい、目を離せない弟を見るようにかわいがっていた。相容れない
稼業を除けば、全く気分のいい奴等だった。
それを、偽りで哀しませていることを思うと、流石に気が塞いだ。だが、ベックマンの現状を放置
しておくことも出来なかった。彼を片羽と思い入れるシャンクスの心情を抜きにしても。
ルゥが纏めた報告書に目を通した時点で、シャンクスは強い危惧を抱いていた。明らかなオーバー
ワーク、潰れるなら潰れてしまえと言わんばかりの続けざまの転戦。途轍もない戦果はその結果だ。
大体あの傷で戦場に送り込むか?!
特製の煙幕瓶に紛れて戦闘に割り込み、あまりにも聞き分けなく我を張る−−−シャンクス視点な
らそういうことになる−−−ベックマンに焦れて、ひとまず抵抗力を奪うつもりで腹に突き込んだサ
ーベルの柄の一撃で昏倒したときにも、おかしいと思った。大体動きにキレが無さすぎた。
尻に帆かけて遁走、大慌てで小島の影に隠れていた本船の医務室にかつぎ込んで、士官服を脱がせ
てみれば、シャツが赤黒く濡れていた。故意では無いとは言え思い切り傷を開かせてしまったシャン
クスは、メディヴの火を噴くような説教に晒されたが、それよりも診断結果の方が余程堪えた。傷そ
のもの以上に、重度の疲労による回復・免疫力の低下が深刻だった。下手をすると敗血症でも起こし
かねない容態だった。
大組織に所属したことは無いが、それでも何となく解る。本物の異能は、そう言った場所では排斥
の対象にしかならない。使いこなしようがない。
圧倒的な嫉視と悪意と、僅かな好意、友誼。雁字搦めに縛られて、あのままにしておけば力つきる
日は遠くなかっただろう。
断じて、そのままにはしておけなかった。あんなところ、あんな境遇に甘んじさせるのはどうして
も嫌だった。
たとえそれが、生まれて初めて得た絆を引きちぎる痛みを伴ったとしても。
「副ちゃん…ベック」
「何だ」
「いろんなとこへ行こう。一緒に。面白いぜ、きっと」
「ああ」
「んで、うっかり、逢っちゃった時には、さ」
「一緒に謝りでもしてくれるって?」
「いんや」
がばっとヘッドスプリングで飛び起きて、シャンクスは大きく、悪戯っぽく笑ってベックマンの顔
を覗き込んだ。
「手に手をとって逃げまくろ」
ぽかんと見上げてきた顔が、泣き笑いに歪んだ。
「苦楽を共にしようぜ、副船長!」
「…ったく、あんたって人は…」
肩からがくりと力が抜ける。
差し出された手を、嫌そうな顔をしながらも、ベックマンははねつけはしなかった。
「ところで腹は本当に大丈夫なのか?ちょっと見せて」
「は…って、止めろ、脱がすな!」
「ただいまー。 あれ、お頭?」
「おう、ルゥ、お疲れさん!」
「ああウン、それはいいんだけどね、お頭。初っぱなからギャラリー付きでアオカンは止めた方が
いいんじゃない?おすすめできないナぁ」
「いい加減にしろどいつもこいつも!お頭!手を放せ!乗るな!」
「だーっはっはっは!」
天高く、雲は流れ。
赤髪海賊団の伝説は始まった。