鬼徹邸で朝を迎えた一行に朝食が振る舞われた。シャンクスは庭に出ると、大掛かりに組み上げられた
焚き火を前にグラスが鬼徹の門下生たちにあれこれ指示をしている。
船長が好奇心に溢れた目で覗き込む。後ろには副船長も付いている。
「お?何だ?キャンプファイアーか?」
「そんな楽しいもんじゃありませんて、お頭。これは供養」
「グラス殿、供養はこれで終わりですか?」
「いいッスよ、これで終い。以後も似たようなモンが集まっちまったら、この手順で供養してやってお
くんなさい。件の指輪みたいな桁違いな代物でなきゃ、充分始末出来ますんで。一つ一つは大した事無く
ても、積もって固まっちまうと怖いことになるんで、ある程度溜まったら片付けるように」
「またぞろお世話になりまして、かたじけない」
鬼徹が深々と頭を下げた。
「いや、ま、そんな御礼されるほど大したことじゃ」
「グラス殿、これをお受け取り下され」
水干姿の青年が大太刀と小太刀の二振りを袖の上に捧げ持っている。
「これは…鬼徹?」
「この刀を作ったこれはまだ年若くはありますが、優れた出来栄え故に鬼徹の銘を許した次第。自信を
持ってお渡しします。さあ、どうぞ、御遠慮無う御手に」
「いや、結構ですって、オレも剣を振るう身なんでね。名のある刀匠さん家にああいったモンがうじゃ
うじゃ居んのは忍びなかっただけで」
「鬼徹の名は伊達ではござらん。見鬼の貴殿にこれ以上相応しい剣は四海、偉大なる航路にもあります
まい。先ずはお手に取って下され。それでも気に入らなければこちらも諦めましょう」見鬼=霊が見える人
「鬼徹さんの心意気だ、受け取ってやれよ」
「んじゃ、遠慮なく」
手に取った途端、涼やかな鈴の様な音色が細かく静かに刀身から鳴り響いてきた。柄を握るグラスの腕
に力がみなぎる。
「やはり、呼応しましたか。鬼徹は持ち主を選びますからな」
青年が満足そうな笑みを見せてから深々と頭を下げた。
結局指輪を外す方法が見つけられないまま赤髪たちはリューマを連れて艦を出すことになった。
甲板上では指輪を外す為の知恵袋披露大会が開かれつつある。船員たちが大真面目なだけに副船長は断わ
れず、輪の中で囲まれてしまっていた。船員の輪を離れた場所で見ていた二人が口を開いた。
「拙者には故在って指輪が女将を選んだような気がしてならんのですが、赤髪殿には心当たりがありま
せぬか?」
「考えたかねぇけどさ、その理由ってのに心当たりがないわけじゃない…多分」
シャンクスの表情が静かに曇るのを見てリューマはその先を問わなかった。
その夜、シャンクスは副船長の部屋を訪れて椅子に座った。副船長が提案する。
「いっそ薬指を切り落としてまた繋いでもらうとか、どうだ?うちの船医ならできるぞ、多分」
「そんなん絶対に駄目だーっ!!」
「自分は腕一本無くしといて、俺には指一本にさえケチつけるのかよ…」
「うるさい!お前は頭のてっぺんから爪先までオレのモンだ。勝手は許さん!」
怒号に混じったとんでもない愛情表現に副船長は当惑した。
「それによ、指なんか切ろうモンなら、またあの雷みたいなモンで邪魔されると思うぜ」
シャンクスが言葉の最後を溜息で締めくくった。
「確かにそれは有りえるな…」
ベッドに仰向けになったベンは左手を翳して指輪を見つめた。
「やっぱり、オレたちきっちり式を挙げよう」
「あんたまで呆けるな!」
早く解決して欲しいが、シャンクスは今の状態のベンをミホークに会わせたくない。
そんな時に限って神出鬼没なあの男は拍子抜けするくらい簡単に見つかった。
海の上で船同士を繋げ、鷹の目が本艦にやってきた。
「おお、リューマ殿もいらしたか」
「お久しゅうござる、ミホーク殿」
「それで、例の指輪はどこに?」
「それが…」
「すまん、ここにある」
副船長がそう言って左手を差し出した。
「実在していたとは…」
「ミホーク殿、どうぞお手に取って下され」
ミホークは副船長の左手を手に取り薬指の指輪を摘む。彼らの隣でシャンクスは面白くなさそうな顔で
その様子を見ていた。
「む?」
ミホークの反応に船員たち全員が最悪の事態を予想して顔色を悪くした。
「抜けぬな…」
ミホークを除いてその場にいた全員が頭を垂れて大きな溜め息をついた。
猛禽の如き琥珀の瞳が真正面の鳩羽色の双眸を捉える。真っ直ぐすぎる視線をまともに見た副船長はそ
のまま動けなくなってしまった。
「…もしや、指輪がお前を撰んだか?」
シャンクスが慌てて手を振りながら二人の間に割り込んだ。
「いや!違うんだ!ちょっとばかり体調悪くて浮腫みかなんかで取れねぇだけなんだ。必ず外して返す
からさ、数日待ってくれ」
「赤髪、そんな出任せじみた言い訳が己に通じると本気で思っているのか?」
ミホークは横にいた侍を見つめた。
「リューマ殿?」
リューマは気まずそうに俯いたが、ミホークの視線がそれを許さなかった。顔を上げ、口ごもりながら
彼は答える。
「拙者にも詳しい事は分かりませぬが、恐らくは…」
ミホークは怒る風でもなく静かに指輪が嵌められたベックマンの左手を両手で優しく包んで胸の前に引
き寄せた。
「…そうか。ならば、しかるべき婚礼を挙げて正式に我が妻に娶らねばるまいな」
鷹の目の言葉に副船長の意識が一瞬遠のいた。周囲にいた何人かの船員はその場で倒れてしまった。
「却下ー!」
シャンクスの叫び声に正気を取り戻した副船長が切り返す。
「あんたが気味の悪い冗談を言うから、ウチの船員が倒れたじゃないか!」
ミホークは心底ムっとした表情を浮かべた。
「失敬な。式の支度金も用意出来ないような甲斐性無しと思われているのなら心外だ」
冗談じゃなかったのかよ!さしもの副船長も顔から血の気が引いた。
「こいつはそういう奴なんだよ」
押し殺した声でシャンクスがツッコんだ。
「答えの論点が微妙にずれてんのが鷹サンらしいっちゃ、らしいヨネ」
鷹の眼とは図らずも長い付き合いのルウがぼやいた。
「いつまで手ぇ握ってんだ!離せよ!」
シャンクスが副船長の手を取り返そうと乱暴に引っ張った途端、例の雷撃が彼の手を弾いた。
「痛ってーっ!」
シャンクスは右手首をぶんぶん振っている。ミホークはその様子を見て考え込んでから口を開いた。
「彼が悪戯に指輪を嵌めることも在りえなければ、鬼徹殿が安易に指輪を嵌める事を許すなどとは到底
考えられん。彼の手に指輪を嵌めたは貴様の仕業では?」
図星を指されシャンクスの顔が驚きの表情のまま固まった。
「ピンポーン♪流石は鷹サン。鋭いご名答♪」
「お前は黙ってろって!」
囃し立てるルウにヤソップが間髪入れずに拳骨で制止した。でなければ、機嫌の悪いシャンクスに本気
の拳骨がお見舞いされたに違いない。
周囲の目にはシャンクス、副船長、鷹の目の三者の頭上に黒い積乱雲が発生しているかのように映った。
「えー、お取り込み中の所、ゴメンなすって」
この修羅場に平然と割り込んで来たのは操帆長のグラスだった。彼はさり気なく副船長の手からミホーク
の手を解き、彼らを説得にかかった。
「この状況を何とかする為の策がオレにちょっとばかしあるんすよ。そんで、つきましてはお頭、艦の人
足全員使う権限を頂戴出来やせんかね?」
「許可する!許可するからこの状況を何とかしてくれ!」
シャンクスがグラスの肩を掴んで揺さぶった。グラスはシャンクスの手を宥めて自分の肩から剥がし、鼻
梁からずり落ちた眼鏡を直しながらミホークと向き合った。
「ってな訳で俺が小細工をする間、副ちょを嫁取りすんのはちょ〜っと待って貰えやせんかね。大剣豪」
ミホークはしばし考えて返事を出す。
「うむ…良かろう。ならば、己はその間に腕の良い仕立て屋を探すとしよう」
「は?仕立て屋?」
間抜けた顔で口を揃えて数人が答えた。返事の後半は誰にとっても意味不明だ、答えた本人を除いて。
ミホークは副船長の全身をまじまじと見詰め、言葉を足した。
「花嫁には婚礼衣装が必要であろう?他の諸々の準備も己が都合しておく故、心配は無用ぞ。心置きなく
体一つで己の船に来るが良い」
彼の口調はあくまでも真面目で、しかも常にはない優しさを含んでいた。
シャンクスは顔を引きつらせ、副船長の顔は青ざめた。ミホークの言葉はカルバリン砲以上の衝撃で猛者
揃いの船員たちを再度卒倒させていく。
「死んだって着ねぇぞ!そんなもん!」
副船長は断固として抵抗の叫びを上げると、後ろで倒れた者の気配を察して振り返り叱咤した。
「馬鹿!真に受けて想像するな!思考を止めろ!」
「ドレスが嫌ならタキシードを作らせるから、心配するな」
鷹の目が優しく諭す。
「違うんだ、鷹の目…。そういう問題じゃない…」
ベンが力無く否定する。
今にも暴れ出してミホークに飛び掛りそうなシャンクスは周囲にいた船員たちに押さえ込まれながらその場
を去るミホークに向かって大声で罵声を浴びせた。
「ベンは誰にもやらん!特にお前には絶対にやらーん!お前はとっとと海軍附属動物園に帰れーっ!」
ヤソップがルウにこそこそと耳打ちする。
「あの厳しい不動の表情からは想像もつかないんだが…。鷹の眼サン、この状況を楽しんでないか?」
「ウン、表情からは分かり辛いけど楽しんでるヨ、絶対に。今までお頭が鷹サンをからかうことはあっても、
鷹サンがお頭をからかった事は少なかったもんネ」
内緒話にリューマが会話のトーンで割り込んできた。
「海軍が動物園を経営していたとは拙者初耳でござる。で、その動物園は何処にあるかご両人はご存知か?」
「いや、そうじゃないのヨ。海軍附属動物園ってのはお頭がつけた王下七武界の徒名。ホラ、七武界は名前
や二つ名が皆動物でショ?熊とか鰐や鳥に魚、だから海軍附属動物園」
「おお、なるほど!面白い事を仰る。納得いたした」
「今回、ボケの人数が多すぎてツッコミの人数が足りないよネ」
「ルウ、俺たちゃいつ海賊からコメディアン集団になったよ…」
ヤソップが頭を抱えて大きな溜め息を吐いた。
すぐにグラスの指示で船舶の移動が始まった。人気のない群島に向かい、本艦を一旦待機させると、渦中の
人物だけを小舟に乗せて無人の島に渡った。
グラスは海図を睨み、測量器で周囲を測ると片足で跳ねたり飛んだり、拳法のようにも見える奇妙な動きで
島を周り始めた。剣豪三人が浜辺の岩に並んで彼を見ていた。
「何やってんだろ?グラスの奴」
シャンクスが小瓶の酒を煽りながら言った。
「恐らくは禹歩の類でござろう」
リューマが答えた。
「ウホ?」
「特殊な形や陣を踏み歩く事でその場を清める術というか儀式のようなものでござる。拙者の故郷やその隣
の大国にはその技を含んだ武術もござる」
「ほう…」
鷹の目がもう一度グラスを見てから、リューマに訊ねる。
「所でベックマンは何処に?」
「女将ならグラス殿の指示で禊
ぎをしに滝に行ったと聞いておりますが」
「ミソギって?」
「おそらく水浴びで身を清めるのでござろう」
「のぞきに行くなよ」
シャンクスが鷹の目を横目で睨む。ミホークが鼻で笑ってから返す。
「直に手に入るのだ。焦りはせん」
「てめっ!」
「落ち着かれよ、赤髪殿」
シャンクスの上がりかけた腕をリューマが掴んだ。
グラスの言う準備は半日ほどの時間を要した。島中に縄と呪符を張り巡らせた後、彼は準備が整ったと岩山へ
四人を連れていった。副船長だけが白い小袖と白い袴に草履と、普段と違う出で立ちをしている。
「さてとお立会い」
グラスが手を叩くように両手を手の前で合わせた。
「正直言ってその指輪にかかってる霊力ってのはオレの小手先の術なんぞじゃ手におえる代物じゃあねぇんス」
真っ先にシャンクスが動揺した。
「ちょっと待て、お前何とかするって言ったろ?」
「ええ。だから、ここにその指輪を作った御本人においで頂こうと思いましてね」
「御本人って…女神サマ?」
シャンクスの口がぽかんと開いた。
「如何にしてそのような御方をお招きするのでござるか?」
「ま、そこントコご説明いたしやスよ。いいッスか?棲み分けってのは皆サンご存知で?」
「生物の種はそれぞれ異なる環境に棲むことで雑種化や食物の取り合いを避けて種とその特性を保存するとかいう、
あの棲み分けか?」
副船長が模範解答を示した。
「そっ!ご名答。人が俗に霊と呼ぶ類の者はその棲み分けが徹底してるモンなんス。一つの世界の中にもそれこそ
レベルはピンキリなんすけど、棲んでる世界そのものがずれながらもらせん状に積み重なり合ってんですョ。俗に巷
の占い師が言ってる守護霊って方々はオレらの棲む世界よりもその上の層のいずれかにいらっしゃるンス。霊を見る
初心者さんは霊の影を見てすぐ近くにいるように思い込まれる方が多いんスけど、実際は遠い所から干渉している存
在を遠方透視 で見ているのを勘違いしてるだけでしてね」
「サイコな雌鳥?」
シャンクスが首を傾げた。
「賽碁面取 りなら意味が通じると思うが?」
鷹の目が言った。
「え?最期看取れ?!縁起でもないことを仰る」
リューマが狼狽する。
大剣豪たちが次々にかます呆けを副船長が一喝する
「専門用語は無視して話を聞け!続けてくれ、グラス」
「あいよ。本題に戻ってぇ、つまりッスね、霊力の力量っつーか格が違いすぎる存在が同一の場に存在するっての
は極めて難しいコトなんですわ。中にはとんでもないモノがこの世界に現われる事もありやすが、そういったモノは
違う世界を行き来する能力や、この世界に留まる為の術や仕掛けがあってこその話でしてね。そんでもって、指輪の
作り主はここよりもかなり離れた層にいらっしゃる上に容易にこっちに来れるタイプの御方ではないとお見受けしや
した」
「それじゃ、どうするんだよ?」
シャンクスが口を尖らせた。
「こちら側の仕掛けを以ってここにお招きするんスよ。そして、その後は皆サマが指輪の作り主に直接交渉して解
決して頂く、と。オレがやってきた作業は神サマとの直談判する場所作り、そこに神サマをお招きした際に起きる空
間の歪を最小限に食い止める為の結界を用意しただけ」
「じゃあ、本艦を離れた島に待機させたり、小船を洞窟にしまったのはそれに巻き込まれないようにする為か?」
「流石は副ちょ、ご名答。この島周辺は嵐になっちまいますからねェ」
「お待ちくだされ、グラス殿。これからしようとする事はそんなに危険なのでござるか?」
グラスは人差し指で黄色いレンズの縁を軽く持ち上げ、にたりと不穏な笑みを浮かべた。
「危険が及ぶのは周囲だけじゃないんスよ。そういった事に免疫のない人間が高次の力にアテられると、ぶっ倒れ
たり、耳から血ィ出たり、終いにゃ正気が保てなくなる事だってありまさぁ。そのまま戻れなくなっちまったら…
ハタから見れば恍惚の人ですぜ。とは言っても、ここに並ぶ皆さんはいずれ劣らず人間規格外の逞しさをお持ちだ。
まず、再起不能は避けられるでしょうよ」
「まあ、赤髪は図太いからいいものの、ベックマンとリューマ殿に何かあっては困るな」
「オレのモン掻っ攫おうってずうずうしいお前に言われたくねーや。その鉄面皮ならどんな衝撃にだって耐えられ
るだろうさ」
二人の会話は子どもっぽい口喧嘩ながらもお互いの強さを認め合うのろけのようでもあり、周囲を苦笑させた。
「それじゃ、早速直談判といこうぜ。グラス、頼むわ」
シャンクスはやる気になったようだ。
「いえいえ、最後の仕上げがまだなんで」
「仕上げ?」
「これも俺の術だけでは力不足でしてね。指輪の作り主がいらっしゃるその次元の壁を斬って切り開いて頂かねぇと」
「次元…?己は今までそんなものを斬った試しがないのだが」
「拙者にはその次元とか層とか言うものが見えませぬが、如何に?」
「そこは心配ご無用。コイツを御覧じろ」
グラスはポケットから一枚の札を取り出すとそれを折りたたみ掌に載せ、息をフッとかけた。札は蝶に姿を変えて
彼らの周囲をひらひらと一回り舞うと彼の掌に止まって蝶の姿のまま休んだ。
「この蝶の羽の色が次元の層の在り処を示してくれますんで、コイツから目を離さないでおくんなさいよ」
「そんなモンが切れるのか?」
「切れるよう、出来るだけの事はしましたぜ。後は腕次第ですよ、大剣豪の御三方」
「俺は?何をすれば?」
副船長が当惑していた。
「そのまま其処にいて下されば結構。副ちょは女神様の憑代ってぇ大事な役目ですから」
「この三人はともかく、俺はそんな代物と遭遇して大丈夫なのか?」
グラスは堪らず吹き出して笑いながら答えた。
「その指輪を嵌めてなお、正気を保ってられるんですから大丈夫、大丈夫。普通なら嵌めた時点で意識乗っ取られて、
とっくに鷹の目サンと駆け落ちしてますよ。ホントに大した精神力ですぜ、副ちょも」
そんなに危険な代物だったのか!シャンクスは今更ながら青ざめた。
「自分のした事が分かったろ?以後慎めよ」
相棒の言葉をシャンクスは素直に聞いて頷いた。
グラスがさらに人の悪そうな笑みを浮かべる。
「あー、そうそう。お頭、知ってやすか?結婚式をしたくても神父がいない場合、そこが船上なら船長が結婚式の司
会を務めても良いって話。失敗したらお二人の式をお頭が挙げなくちゃならんのですぜ」
「斬るっっ!!!」
シャンクスが気炎を吹き上げて剣を鞘から抜いた。
「主に斬れて己に斬れぬものがあろうか」
鷹の目も黒刀を背から抜き、構える。
「及ばずながら拙者も助太刀仕る」
リューマは柄に手をかけて構えた。
「気合入った所で行きますよ。この蝶の羽が金色になったら、この蝶ごと斬っておくんなさい」
蝶が彼の手から離れた。蝶は紫、青、緑と羽の色を変えながら螺旋を描きながら舞い上がる。羽が光った瞬間グラスが
声を上げた。
「御三方!」
三人の剣豪が一斉に斬撃を放ち、空気が割れて飛び散った。光の破片が舞い散る中、鎧に身を包んだ長い黒髪の女が現
れた。革サンダルを履いた白い素足が地面についていない。黒髪の美女は兜越しに怜悧な目でその場にいる人間たちを眺
めた。
「これが…黒刀を作ったという女神か?」
ミホークが静かに息を飲む。
「あれ?副はどこだよ?」
シャンクスが慌てた。
倒れていたグラスが体を起こし、苦しそうに話す。
「言ったでしょ、副ちょは憑代だって。あの女神様は副ちょの体を借りてるんですよ。見た目が違って見えるのは女神
様の力がそんだけでかいってこと」
リューマが立つのもやっとなグラスに肩を貸してやる。
隣の島で待機する船員たちは遠くから様子を伺っていた。彼らの頭目がいる島の上には暗雲が立ちこめ、暴風が波を荒
立て始めた。間もなく島には雨と雷が降り出した。
「何が起こってんだ?」
船員が望遠鏡をのぞき込む仲間に尋ねた。
「いや、見えねぇし、わからねぇ」
「どうなっちまうんだ?」
船員たちはなす術もなくただ見守ることしか出来なかった。
女神は口を開いた。鈴の音のような声がこぼれる。
「汝は誰ぞ?」
「今、黒刀の所有を許されている者だ」
「そうか…やはりあの人ではないのだな…」
女神の頬に一筋の涙が伝う。
「折り入って頼みがあるんだけどさ」
シャンクスが話しかけるのを鷹の目が遮った。
「貴女が体を借りているその者を解放願いたいのだ。その指輪からも」
「何故に?」
「彼が自ら望んで己の元に来るのならば歓迎しよう。だが、この縁は指輪によって強制的に成されたもの。己は心のない
繋がりなど与えられても受け取りはせぬ」
「言わせておけば、てめぇ!」
「赤髪殿!今は二人の交渉を優先なされ!」
シャンクスが逆上しかけるのをリューマが諫める。
「出来ぬ」
「何故だ?黒刀と指輪を作り出したのは貴女の筈」
「だからこそ出来ぬ。この黒刀と指輪は私の心に呼応する。指輪は私の悲しみとこの者が心の底に秘めたる悲しみで強く
結びついている」
「では、どうすれば?」
「その刀を抜くのだ。吾は武神、闘いを捧げよ。さすれば道が開けるやもしれぬ」
「承知した。女神とはいえ武神ならば相手にとって不足はない」
ミホークが黒刀を抜いた。女神は黒刀を細く真っ直ぐにしたような剣二本を両の手に構える。
女神の一手を制止したのはシャンクスのカトラスだった。
「ちょっと待て!これはベンの体なんだぞ?勝手に傷つけてもらっちゃ困る」
「では、汝も闘うが良い。二人同時でも吾は何ら構わぬゆえ」
「退け、赤髪。これは己たちの決着だ」
「退けねぇって!」
三者は一度散ってからまた斬り合いに戻る
リューマとグラスが三者を見つめる。
「これは…いきなり交渉決裂でござるか?」
「初代の剣士でなきゃ話になんないか?死霊召還の準備もしときゃ良かったかな…」
グラスのバンダナが吹き出す汗で濡れていた。
「グラス殿、お顔の色が悪いが如何なされた?」
「霊圧と霊力密度が半端ねぇ。一介の拝み屋にはきっつい現場だぜ…」
閃光が舞い、斬り裂くような風が踊る。人とは思えぬレベルの剣技が次々に繰り出される。ミホークとシャンクスは無言
のまま覇気で互いの意を伝え合いながら闘っていた。
"赤髪、右下へ”
"何!?”
シャンクスが言われるまま体を屈めると女神の剣がその上を通過する。剣を辛くも受け止めて滑らせると金属を削る音と
火花が散った。切っ先に僅かに触れた赤い髪が粉のように散った。
"何で分かるんだよ?鷹の目。オレでも読めねぇのに”
"分からぬ、こんなことは初めてだ。黒刀がまるで己を導くかのように動くのだ”
「今の所はお二方が僅かに優勢と見えるが、どう思われる?」
「だが、お二人さんがいくら強いと言ったって、所詮人間だ。長期戦になりゃ、疲れることのない女神様の方が強いに
決まってる。二人が消耗しちまう前に何とかせにゃぁならんが…」
グラスは耳を澄ました。
"何か俺たちの他に気配を感じる。だが、この霊圧下じゃあ、俺の眼も利きゃしねぇ。ホントにどうしたもんか。”
グラスが無意識に動かした指先に鬼徹の柄が触れた。刀身が鳴り響き、グラスに何かを伝えようとしているよう様だ。
"鬼徹の小太刀は鏡…、そうか!”
グラスは小太刀を抜き三者に背を向けて刀身を見つめた。
"そこか!”
「リューマさん、剣抜いてくれ!頼む!」
「あい、分かった」
リューマが剣を抜いた。グラスがその横で印を組んでから刀身に手を翳すと光る呪字が刃に映し出された。
「黒刀の鍔から伸びるあの銀色のトコを狙って撃ってくれ!」
「承知!」
振り下ろされた剣から斬撃が飛び黒刀の中心部に当たった。割れたかのように見えた光の中から鎧姿の青年が浮かび上
がった。女神の剣を振るう手が止まる。黒刀もミホークの手を離れて青年の後ろに浮いた。
青年は整った顔に優しい笑顔を浮かべる。
「やっと逢えた、愛しい女神」ひと
「あなたなの?…」
女神の頬に幾粒の涙がこぼれ落ちた。
「人の身では死んですぐに貴女の下にはたどり着けなかった。だから黒刀に宿り、代々の剣士を守護しながら貴女と同
じ神の位を目指しながら時を待っていた」
「ああ…」
女神は青年にすがりついた。青年は優しく抱き止める。
女神の体からすり抜けるように副船長の体が現れて前のめりに倒れかけるのをミホークが支えた。
「後代の剣士よ、礼を言う。これからは二人で黒刀とその所持者を守ろう」
女神と青年の姿が消え、副船長の手から指輪が離れて黒刀の前に浮かんだ。指輪から黒く細い帯が幾つも現れて、黒刀
の刀身を包んでいった。黒い帯が編み込まれ終わると指輪は既に無く、黒刀は黒鉄の糸で織られた見事な鞘に収まってい
た。ミホークは副船長を片手で支えながらも、黒刀を手に取り背中のベルトに仕込んだ。
「初代剣士よ、こちらこそ礼を言う」
「済んだか?さあ、返してもらうぜ、オレの相棒を」
シャンクスが二人に歩み寄る。彼が相棒にやっと手が触れられる距離まで来た瞬間、グラスがたまりかねて叫んだ。
「御三方、結界を解いて空間を元に戻しますぜ。飛ばされないよう踏ん張っておくんなさいよ!」
グラスがベルトバッグから数枚の呪符を投げる。呪符は八方に散り、中空高くに八角形の陣を描いた。同時に彼は印を組む。
「縛!」
空の八角形の中に雷光が走った。グラスは鬼徹の太刀を抜いて、足下の呪符を地面ごと貫いた。
「散!」
周囲に張り巡らされていた縄と呪符が次々に裂け、烈風が彼らに吹き付け足元を掬う。彼らは各々の剣を地面に突き立てて、
飛ばされぬようこらえた。
風が止み、島上空の暗雲も消えた。彼らは剣を鞘に戻す。
「おい、グラス、リューマ、無事か?」
シャンクスは振り返ってリューマに肩を借りているグラスを確認した。首を戻した彼の目に許しがたい光景が飛び込んでき
た。ミホークが副船長を抱きかかえたまま、首筋に手を当て鼻先同士を間近に寄せていたのだ。まるで接吻でもするかの様に。
「何してやがる!!こんのハゲ鷹ーっ!!」
シャンクスの飛び蹴りをひらりとかわしながら、ミホークは気を失った副船長を両腕に抱えて立ち上がる。俗に「お姫様抱
っこ」と呼ばれる姿勢だ。
「彼の脈と呼吸を確かめていたのだ。咎められる道理はないと思うがな」
「だったら顔ですんな、手でやれ!つか、いつまで抱えてんだ!返せよ!」
「隻腕のお前がどうやって彼を抱えてこの山を降りるのだ?人の親切は素直に受けろ」
気を失って据わらない副船長の首がゆらと揺れてミホークの胸に顔を預ける形になった。シャンクスの頭に血が上る。
「親切ぅ?下心の間違いだろ?副はオレが担ぐ!だから返せ!」
「任せられるわけがなかろう」
ミホークは副船長の長躯を抱いたまま軽々と岩場をおり始めた。シャンクスが後を追って跳ねる。
「なんで、あいつらあの霊圧を受けながら闘ってそれでもピンピンしてやがるんだ…」
「そう仰られると拙者も立場がありませぬが…」
リューマが恥ずかしそうに笑った。
船員たちは頭目たちの帰還を喜ぼうとしたが、異装の副船長を抱き抱える鷹の目と、その後を恨めしげな顔でついていく
シャンクスを見て思わず口を噤んだ。
船医の診察を経て、副船長は自室の寝台に運ばれた。その後の看護はお頭の希望でシャンクスに任された。
シャンクスは副船長の左手の薬指に指輪が無いのを確認すると、彼の寝顔に見入る。やがて、むずむずと一つのアイデア
が浮ぶ。
やっぱり、お姫様を起こすのは王子様のキスと決まってるよな。
シャンクスは眠り続ける彼にそろそろと顔を近づけていく。そのままいけば、唇が唇に辿り着く筈だった。
ゴン!
「がっ!」
シャンクスの顔にぶつかったのはベンの額。彼は突然跳ねる様に上体を起こしたのだ。痛む額を押さえて目を瞑りながら
訴える。
「降ろしてくれ!鷹の目!自分で歩けるっか‥ら…?」
目を開けた副船長の前には見慣れた自室の壁。
「あ…?…俺は鷹の目に抱えられてたんじゃ…」
「遅ーっ!!」
後に仰け反って倒れたシャンクスは鼻血を出していた。副船長はシャンクスの様子に気付き驚いた。
「お頭!どうした?」
「お前がいきなり起きたからこうなったの!」
副船長は机の引き出しにある携帯用の応急処置セットから脱脂綿を取り出して手渡した。シャンクスはそれを受け取り自
分の鼻に詰める。
鼻に栓を詰めた顔を間近に、副船長は噴出してしまった。こみ上げてくる笑いを堪えながら彼は尋ねた。
「くく…それで、グラスやリューマは?」
「グラスなら疲弊しきって爆睡中、残りはぴんぴんしてらぁ」
「あんただってそうだろ」
副船長は苦笑した。
シャンクスはいきなりベンの口を唇で塞いだ。一頻り貪ってから離れた顔は歓喜に満ちていた。
「へっへー」
シャンクスは愛しい相棒を抱き寄せた。
「…ただいま、シャンクス」
「おかえり」
シャンクスが小袖の衿に手をかけた。
「これ、どうやって脱がせたら良いんだ?」
「鼻血が止まってからにしろよ」
シャンクスが鼻息で綿栓を飛ばした。
「もう、止まった。さあさあ」
「ちょっと待ってくれ、一服させてくれないか?グラスに言われて禊ぎからずっと吸ってないんだ」
「オレだってあれから一発もしてないんだぞ」
シャンクスは一発という単語を特に強く発音した。
「あんたの場合は自業自得ってもんだ…」
「うるさい、こっちが先だったら先!オレたちも元の鞘に収まるんだ!」
シャンクスが袴の帯紐を見つけ引っ張る。
「そう言や、この衣装どうしたんだ?」
ベンはもう抵抗しない。呆れ気味に答える。
「グラスが鬼徹邸でもらってきたそうだ」
「ふふっ、何か興奮するなぁ、こういうの」
「ったく、あんたって男は…」
シャンクスは念願の「一発」が済むとすぐに瞼が重くなってきた。
「あんたも眠れよ。無理すんな」
察したベンが諭す。
「いや、まだまだ…」
そう言いながら頭が枕に落ちていった。
ベンは煙草に手を伸ばした。
煙がいやに目に沁みる。あの指輪が呼び起こした少年の日の痛みが胸の底にに疼いている。憧れ、求め、半身になりたい
と願った男を目の前で失った遠い記憶。
「…あんたは俺の最後の男でいてくれ」
そう呟かずにはいられなかった。
リューマと鷹の目はグラスと女将…もとい副船長の無事を確認してから赤髪の船を離れた。事の次第を鬼徹に報告すると
言う。 船員たちは船上から二人の剣豪を見送った。シャンクスも船縁で彼らが遠ざかるのを見守る。
「何も言わねぇのか?散々な騒ぎの挙げ句に鷹の目だけが得をしたような形で終わったってのに」
副船長が煙草をくわえたまま訊く。
「ま、終わったことに愚痴言ったって無駄さ」
シャンクスの妙に機嫌が良さそうな表情を相棒は訝しげに見る。
「何か良いことでも?」
「ん〜、まあな」
副船長はその理由が分からぬまま職務に戻った。
シャンクスは騒ぎ直後の情事を思い出していた。事が終わり、シャンクスが眠ってしまったと思った恋人が呟いたあの
一言を。
「…あんたは俺の最後の男でいてくれ」
あんな告白、今回の騒ぎが無けりゃ、この先ずっとあいつの口から聞けなかったかもしれないもんな。
シャンクスの上機嫌はその後も数日間ほど続いたらしい。