波止場で長身で銀髪の男が積み荷と複数の厳つい男たちに囲まれている。銀髪に左こめかみに十字傷のあ
る彼こそが赤髪大海賊団を束ねる副船長ベン・ベックマンだ。彼らは出航向けて備品、必需品の積み込み入
念にチェックをしていた。陸から彼らに向かって走ってくる者がいた。彼もまた仲間の一人だ。年は三十代
前半で中肉中背。金髪を短く刈り込んでいる。彼は真っ直ぐ副船長の前にやってきた。額が汗ばみ、息が少
しだけ弾んでいる。
「どうした、クライン。何を慌ててる?」
「副船長、ちょっと良いですか?」
「なんだ?」
「あの、私事に巻き込むようで申し訳ないんですがね、賭場の戦艦将棋でうちの船員たちがすっからかん
に巻き上げられちまいましてね。どうしても副船長の手をお借りしたいんです!お願いします!この通り!」
クラインが顔の前で両手を合わせて副船長を拝む。副船長は銀髪を鉛筆で掻きながら素っ気なく答えた。
「小遣いがなくなったくらいじゃ、俺は面倒を見ないぞ?それにお頭がカジノ通いこそ禁止はしたが、小
規模な臨時の賭博場については許されてるじゃないか。特に問題はないさ」
クラインの少ない眉毛が不自然につり上がる。
「それが…頭に血が上った連中が自分の得物まで賭けて取り上げられちまったんですよ」得物=得意とする武器
「取られたのは何人だ?」
「おれを入れて八人ほど」
「得物か、それはまずいな…」
副船長の顔が曇った。武器ならば買えば良いと思われるが、そういう訳にもいかない。改造銃が外部に流
れると独自の技術を盗まれ量産されたり、取り上げた武器を利用して赤髪海賊団を名乗る偽物や偽装工作さ
れたりすれば問題になりかねない。側で話を聞いていた中堅幹部のジャスパーが申し出る。
「副船長、残りの仕事はやっときますから、行って下さい」
「分かった。行こう」
副船長はジャスパーに積み荷のリストを手渡した。
「クライン、そこまで案内を頼む」
「はい!」
副船長はつれないフリこそしているが、実は船員たちの賭博が制限された事については負い目を感じていた。
船長が船員たちにカジノ禁止令を出したのは自分が水面下でしでかしたある過失が原因だったからだ。
倉庫街のガレージのシャッターが一件だけ半開きになっていた。長身を屈めて入ると見慣れた面々が情けな
い顔で座り込んでいた。彼らの顔は副船長を見つけた途端明るくなった。
「副船長!」
「やった!これで取り返せる!」
「うちの最強航海士のお出ましだ!」
船員は口々に希望を叫んだ。
「半分は航海士班じゃないか、ビクトル…お前も負けたのか?」
ビクトルは航海士班の中でも将来有望な幹部候補で、シーチェスの腕前もかなりのものだった。実戦でも何
度か大きな船団の指揮を任された経験もある。
「誰に負けたんだ?」
「そこの奴です…」
船員が指さした先には、ぼろ靴を履いた両足を机に乗せた男の姿があった。くたびれたグレーのスーツ、白地
にブルーストライプシャツの襟は開いたままでネクタイは無い。少し巻き毛気味の焦げ茶の髪と口の上下を覆う
濃い髭。
目は濃い緑のレイバンで目の色や年齢までは判別しかねた。
「全員が一人に負けたのか?」
「へい…」
副船長の問いに船員たちは力無く答えた。
「賽子に細工を感じたか?」
「いいえ」
「おれなんかあいつの二倍の隻数の船で挑んだんですよ、なのにあっさり負けちまって、面目ねぇ…」
船員たちは首を横に振る。
シーチェスは陸の棋碁の類とは異なり、駒つまり船の数を賽子で決めるため、試合の都度戦力が不均等になる。
「常に自分の戦力と相手の戦力が対等とは限らない」という実戦を強く意識した独特のルール故に、多くの強者を
惹き付けてやまない。シーチェスは大航海時代に模型を使った作戦会議から生み出された究極の頭脳戦なのだ。
偶然に大きく左右されるシーチェスで八人に勝ち続けるのは至難の業の筈。相手がかなりの実力者であることは
明白だ。
最初は乗り気では無かったベックマンだったが、それを聞いて俄然闘志が湧いた。
「対局を申し込みたいんだが、いいか?」
「…あいよ」
男はしゃがれた老け声で面倒くさそうに答えた。
「対局料は?」
「五万ベリー」
副船長はポケットから一万ベリー札を五枚出して机に置いた。相手もしわくちゃの札を机に投げ出す。審判役の
男が進み出て対局料を回収する。副船長は粗末な木製の丸椅子に座った。
先まで萎れていた船員たちがにわかに活気づいた。
「おれは副船長が勝つに賭ける」
「オイラも!」
「オレも!」
副船長が調子に乗る船員たちの顔をちらりと見てから相手に申し出る。
「この対局は傍観者参加賭け枠を拒否したいんだが、構わないか?」
「ええ〜!」
船員たちは要望を却下されて不満顔を並べた。副船長の額に青筋が浮く。
「賭ける金なんかないだろうが!お前等の得物を取り返す為にここに座ってんだ。反省しながら黙って見てろ」
「はぁ〜い」
船員たちは叱られた子供のようにうなだれた。
シーチェスの公式・非公式戦では対戦者のどちらが勝つかに賭ける傍観者参加賭け枠が存在する。そこで集まっ
た掛け金は対局勝者にもその何割かが支払われるので、シーチェス・ハスラーには良い収入源となる。しかし、こ
の枠を設けるか否かは対局者たちに権限があり、対局者が傍観者参加賭け枠を拒否した場合はその勝負に賭けるこ
とは出来ない。
「いいじゃろう、ワシも賛同しようじゃないか」
「俺が勝ったら、あいつらの金を返せとは言わない。ただ、あいつらの得物だけは返してやって欲しい」
「むう、そんじゃ、こっちが勝ったらあんたのその長銃をいただくが、よろしいか?」
ベックマンはサッシュに挟まれた長い付き合いの相棒を見遣った。
「…いいだろう」
審判役が二十面体、正八面体、六面体の賽子、それにアルファベットの六面体賽子を並べた。
「では海図は私が」
審判が賽子を降り、出た目の数の番号の海図を取り出した。海図は実在海域の海図をランダムに使用する。
これが将棋の基盤となるのだ。帆船の勝負を左右する風向きは対局の日の季節の平均的風向きとなる。つまりは
海図が決まった時点で風向きも自動的に決まる。
二人は八面体の賽子を交互に降った。賽子の目で船の数が決まる。賽子は三回、一回目は小型船、二回目は中
型船、三回目は大型船。船には種類が複数有り、小型はヨット、カッター、ラガー。中型はスクーナー、シャッ
セマリー、ケッチ。大型はバーク、ハーマフラダイトブリッグ、バーケンチン、ブリガンティンの中から選べる。
次に二人はアルファベットの賽子と一般的な四角の賽子を振った。これは最初の布陣枠を決める。
審判役がメモを読み上げながら船を配置する。
「ベン・ベックマン側、カッター三艘、ケッチ五隻、バーケンチン二隻。モート側、ラガー五艘、シャッセマ
リー七隻、ハーマフラダイトブリッグ一隻。始点はベン・ベックマンE5枠、モートB3枠」
戦力不均衡のせめてものハンデとして合計の船数が少ない方が先攻、後攻を自由に選べる。この場合はベック
マンが先後を決めることになる。
「後攻で」
「では対局を始めます」
船員たちはひそひそ話し始めた。
「副船長、不利かな?」
「いや、数だけなら向こうが多いけど、キングやクイーンに当たる大型船が一隻だけで沈められたら負けじゃ
ないか、二隻ある副船長の方が有利だって」
「そっか」
審判兼進行役が静かに右手を挙げた。
「ベックマン対モート、開戦。先攻、モート」
「ラガー5艘をE4に向けて一斉帆走」
進行役が指示通りに駒を動かす。
「ケッチ2隻をE3に向けて On a beam reach(90度)帆走」
「シャッセマリー1隻をE2に向けて回頭」
ベックマンが船を動かすと、相手はその手の先を読んでぴったりと張り付くように船を回してくる。相手の洞察
力の深さを心地良いと感じるのは、勝負のスリルに生きてきた強者の証だ。
”荷物の引継で渡す船を待つ合間にこうしてよく賭将棋に興じたもんだ。こんな薄暗い倉庫で。J・Jたちは必
ず俺に賭けた。懐かしいな…”
とある事件以来、ベックマンはそれとなく戦艦将棋を避けてきた。だが、戦艦将棋は元々彼の最も得意とする競
技であることに変わりはなかった。彼は久しぶりの名勝負の予感に胸を高鳴らせつつあった。
「あいつ、しょっちゅう首に手ぇ持ってくよな。挑発のつもりなんかな?」
ベックマンの耳が仲間の話を取り込む。彼は目の前の男がする首の前で何かを摘むような仕草を記憶で巻き戻す。
”いや…、あれは挑発というよりも、まるで…。それにあの傷んでない指先は船乗りじゃない…?”
互いの船同士が接近して戦いは佳境を迎え、船数が次第に減り始めた。
ベックマンは海図盤を見据えながらも相手の表情にも目を配る。焦っているのか、何かを狙って待っているのか、
それを表情から読む為に。だが、男もまたレイバン越しにこちらを見ている。その視線がこちらの様子を伺ってい
るのとは少々違うように彼は感じた。
「ラガー船3号を直進」
相手の指示通りに駒を動かすとベックマンのケッチ船の船尾に激突した。
「ベックマン側ケッチ船1航行不能」
接戦に焦りを見せたか、対局相手が船同士をぶつける手荒い攻撃に転向してきた。
”痛み分けに持ち込むつもりか?”
シーチェスにもチェスと同じように引き分けが存在する。それは負けそうになった場合に、自分の船を相手の船
にぶつけるなどして、相手を航行不可能にする作戦を指す。勝てなくとも、向こうにも勝たせもしない痛み分け、
それがシーチェスのスチールメイトだ。
”だが、引き分けじゃ意味がないんだ。陸の上であろうと俺は海賊なんだから”
「バーケンチン二号をDown wind running(風向きそのままに順走)」
「シャッセマリー六号七号の二隻でベックマンのバーケンチン二号を追尾」
周囲がどよめいた。勝負が決まるかもしれない急展開に息を呑む。
「バーケンチン一号をClose-hauled(風向きから30度ずらして逆走)」
ベックマンの意図を読んだ男が顔色を変える。
「ハーマフラダイトブリッグ艦を回頭90度」
審判が鈴を鳴らした。
「風向きが変わりました。モートの指示は無効です」
ベックマン側の応援席が喜色ばむ。
「バーケンチン一号をハーマフラダイトブリッグ艦に右舷に横付け及び一斉砲撃」
「モート側主艦撃沈、勝者はベン・ベックマン!」
ベックマンの部下が歓声を上げる。
「いやったぜ!副船長!」
「惚れちまうぜ!」
「かっくぉいぃぃぃ!」
呆然とする対戦相手を前にベックマンは冷静に審判に指示する。
「じゃあ、こいつらに得物を返して遣ってくれ」
喜び勇んで得物を取り返してぺこぺこ頭を下げる部下たちにベックマンは顔色一つ変えない。
「悪いが、この男と二人だけで話したい。人払いを願いたいんだがいいか?」
「アイアイ!」
モートは審判に目配せする。審判役は数少ない傍観者たちを引き連れて倉庫の外に出てシャッターを閉めた。
ベックマンは額に青筋を浮かべた。
「…いい加減にしろよ、正体を現したらどうなんだ?」
「はて?」
「分かってるんだよ、シド・マーヴェリック!」
ベンに厳しく問いつめられて、男は吹き出すように笑った。
「おやおや、ばれてましたか」
男はレイバンを外し、顎髭を引っ張って剥がした。剥がされた顎髭の裏側には小さな貝が仕込まれていた。焦げ
茶に染めた髪を彼はかきあげる。彼は愉快そうに笑った。
「いつ、何を根拠に私だと分かったんです?古着屋で一式を揃えて、付け髭に仕込んだ音声調整貝 で声まで変え
ていたのに」
「服装や髪型、声や言葉も悪くなかったさ。だが、手入れされた爪と手にくたびれた服は違和感の素だ。忠告さ
せてもらうなら、手は顔以上にメイクを施すべきだ。手は生活を如実に物語るからな」
シドは自分の爪の先まで隙無く整えられた両手を見つめた。
「…なるほど」
「それに、あんた、首に無意識に手をやっていたぜ。うちの船員は挑発と勘違いしてたようだが、それは毎日の
ようにネクタイやボウタイをしてる人間の癖だ。うちの航海士班まで負かす実力を持ち合わせている富裕層の人間
なんて、あんたぐらいしか浮かばない」
「ふふ、貴方は私の想像以上に聡明でいらっしゃる」
男は優雅に洗練された答え方をした。
「大体、子供が菓子でも見るような目つきで俺を見る人間なんて限られてるしな」
ベックマンは吐き捨てるように返した。だが、男はその言葉を聞いて晴れ晴れとした笑みを浮かべる。
「その限られた人間として覚えられているなら、光栄ですよ」
副船長の精一杯の嫌みもこの男には通じなかった。彼は机を乱暴に掌で叩いた。
「いい加減にしてくれないか。頭、金、見た目と三拍子揃ったあんたなら愛人立候補者なんて何人でも現れるだ
ろ?なんで俺なんだよ」
「特別な人なんですよ、貴方は。何しろ私の初恋の相手なんですから」
常から冷静なベックマンのポーカーフェイスが怪訝そうに歪む。
「初恋?あの年で?」
「いえ、あのカジノよりずっと昔に私たちは会っているんですよ。覚えていませんか?」
「…いいや?」
「貴方が箱船の鳩の前身である海鳩屋で少年傭兵として働いている時にね…。私は父の運営する大型貨物船に乗
って貴方に出会ったんです。貴方は私を脅しましたよね。海賊に狙われる船にお坊っちゃんが乗ってると誘拐され
たり、色子宿に売られるぞ、と」
ベックマンはその言葉だけで昔の記憶を一瞬で引きずり出した。
「…あの時の?」
「当時は父の姓を名乗っていましたが、あの少年が私だったのですよ」
呆気に取られるベンの前でシドは語り出す。
「貴方が私よりも年少でありながら、銃の腕一つで海賊を退ける勇姿を見た時、私の人生は変わりました。自分
の技量だけで周囲の大人たちを圧倒し認めさせる、貴方のように生きてみたいと…」
ベックマンは煙草を取り出して火を点けた。だが、目線は目の前の男に注がれている。
「以来、私は自分が愛人の子と嘆くのを止め、猛勉強して独立しました。遂には兄たちの会社を買い取り、会社
の看板であった父の名を取り上げて母の名に変えました。ですが、真の目標を果たせずに虚しさを抱え始めた頃に、
貴方が目の前に現れた。心から感激しましたとも」
「それで、あんな勝負を持ちかけてきたのか…」
ベックマンが細く長く煙を吐いた。
シドは陶酔しているかのように雄弁に語り続ける。
「私の本当の目標は父でもなく兄たちでもなく、大人になった貴方と対等に渡り合う事でした。ですから、あの
カジノでの貴方と対局することになった時、私のすべての努力が報われた瞬間だったと言っても過言ではない。正
に天にも昇る心地だったんですよ。勿論、貴方に触れた夜もそうでしたが…」
触れられたくない記憶を蒸し返されてベックマンは思わず咳きこんだ。
「そろそろ煙草を減らす努力をされるべきでは?」
シドが想い人を心配そうに見守る。
「煙草のせいじゃない、余計なお世話だ…」
ベックマンはポケットから携帯灰皿を取り出して煙草を消した。
「で?今回の勝負の結果には満足したか?」
「ええ、もう思い残すことはありません」
シドは満面の笑みを見せると席を立つ。ベックマンも席を立つと倉庫のシャッターに向かって歩き始めた。並ん
で歩く二人に身長差は殆どない。
「忘れ物だ、受け取れ」
ベックマンはするりと手をシドの首にかけて引き寄せ、唇を重ねた。
最初は驚いて固まったシドだったが、やがてベックマンの腰に手が伸びた。その手を軽く払いのけながらベックマ
ンは彼から体を離した。ベックマンはにやりと笑う。
「誤解するなよ、これは以前に海図売却の保証人になってもらった時の借りを返しただけ。これでチャラにはなら
ないか?」
「ええ、充分ですとも」
シドも微笑み返す。
「あんたがどれだけ真剣でも本気でも、俺はあの男から離れられやしない。だから、これで引き分けといこうぜ」
「引き分け…ですか。満願ですよ」
ベックマンはシャッターを開けて倉庫を出ていった。シドは彼を見送ったが、その背中は決して振り返らなかった。
シドもまた倉庫街を離れようとすると、
「よう、色男。珍しくふられたか?」
声が彼の頭上から降ってきた。見上げたコンテナの上には赤い髪の男が座って彼をのぞき込んでいた。
「ええ、貴方の恋人にふられましたよ。きっぱりとね」
シドは優雅に微笑んではみせたが、その表情には微かに寂しさが滲む。今や四皇と呼ばれる大海賊を目の前にしても
彼は怯まない。彼もまた名だたる海運業会社のトップなのだ。
「もし、来世というチャンスがあるならば、その時は負けません」
「おう、いつでも受けてたってやる。言っとくが、負けてやんねぇぞ?」
シャンクスが口を横に広げて少年のように笑った。
「望むところです」
海運王と新世界の皇帝は反対の方角へ歩き出した。